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マシン・マザー
作:kala


僕の朝は母さんの声から始まる。
(みなと)、起きなさい」
枕を抱えるようにして眠る僕の肩を、母さんは今でもあやすようにゆっくりとたたく。
「ん〜」
僕は寝返りを打つようにして、その手から逃れようとする。そうすると母さんは、いつも実力行使に出る。母さんが僕の肩をたたくのをやめると、程なくしてベッドが小刻みに揺れ始めた。
左のほうのベッドの端が持ち上がる。ぎぎっと不協和音を奏でながら、ベットが徐々に傾きを増してゆく。僕は枕に抱きついたまま、ベッドからどすんっと床に落とされた。
「いたた。母さん、ベッドから落とす以外に何か方法ないの?」
僕は慣れたもので、ひょいと体を起こした。痛いというのも、実はそうでもなくて、まあ、いわゆる僕と母さんのコミュニケーションの一種だ。
「だから、起きれば良いでしょう。ほら、顔を洗って、ご飯を食べて」
「はいはい」
僕は枕をベッドの上に放り投げると、そのまま洗面所へと向かった。
ぴかぴかに磨かれている鏡には曇りひとつなく、僕のくせっけの頭をこれ見よがしに見せつける。ばしゃばしゃと顔を洗って、横のタオルで顔を拭く。これも新品のように真っ白だ。
僕が食卓につくと、いつものように出来立てのご飯が顔を並べていた。
「いただきます」
ひとつ声を上げて、僕は箸を取る。
「はいどうぞ」
母さんが声をかける。今日の朝食はわかめの味噌汁に目玉焼き(僕の好きな半熟だ)、ご飯とお漬物。それに秋刀魚の味噌煮。これは昨日の残りだろうな。
「母さん、醤油とってくれない?」
ウイーンというかすかな音がして上のほうから銀色の触手が伸びてくる。その触手は台所に置いてある醤油入れを器用に持ち上げ、僕の前に静かに置いた。
「さんきゅ」
まだ湯気の立っている目玉焼きの上を醤油が滑っていく。傘から滑り落ちる雨みたいだ。
「お醤油かけすぎないでね」
「はいはい」
母さんは調味料をよくけちる。調味料だけは洗い流さなくてはいけないかららしい。他の残飯なんかは一度処理機にかけてからまた新しい食品に姿を変えられるんだけれど。
皿の上のものをぺろりと平らげ、僕は手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
僕の声と同時に、皿が乗っている部分がそこだけすっぽりと切られたかのように沈み、机の下へと消えていった。
その部分が再び上がってくると、歯ブラシとコップが上に乗っかっている。僕がそれで歯磨きを済ます間にベッドの上には制服が置かれている。制服はいつもアイロンを掛けてあってぴしりと音が出そうなほどだ。
僕が制服に着替えている間に、母さんは僕の机の上にかばんを用意してくれる。もちろん中には今日の授業の準備が万全にしてあって、おかげで僕は忘れ物にはトンと無縁だ。
髪を撫で付けて、もしも寝癖が残っていれば母さんが声をかけてくれる。かばんを持って玄関に行けばスニーカーがきちんと揃えて並べてあって、僕はそれを履くだけで良い。
 母さんはそうして、僕が家を出るまで、きちんと学校に行けるまでいつも見ていてくれる。僕は楽だけれど、それに息苦しさを感じないと言ったら嘘かもしれない。
「じゃあ、いってきます」
「いってらしゃい」
母さんが声で僕を送り出してくれる。気が向けばあの銀色の触手で手を振ってくれることもあるけれど。母さんは僕があの触手を苦手なことを知っているからあまりそれはしない。
僕と母さんの1日はこうやって始まる。

いつもときっかり同じ時間に学校に着くと、僕は窓際の後ろから二番目の席に座る。かばんから教科書を取り出して、空になったものを机の横にかける。
それから教室に並ぶ花々に水をあげた。今日は僕が花当番だ。窓の隅に追いやられている備え付けのじょうろで花々に水を振り掛ける。太陽の光を水の粒たちがきらきらと反射させる。途端に花々が生き生きしてきたように見えた。
「おはよう」
名前など知るわけもないから、いつも僕の中では、黄色の花、ピンクの花、小さい方のピンクの花、と言った感じの見分け方しかしない。花に話しかけても、もちろん返事が返って来たことはない。だから、いつも僕は花たちがちゃんと今日も生きているのか、不安になる。名前も知らない花たちは、いつもそこにいて、呼吸をしながら成長しているのに、僕はそれを今でも信じきれない。
呼吸はしているけれど返事をしてくれない花と、返事はしてくれるけれど呼吸はしていない母さんは、じゃあどっちが「生きている」のだろう。
母さんは機械で。
そして、母さんが僕の母親代わりで。
そうやって、すんなりと受け入れられていた事実を、今では置き場のない植木鉢のようにもてあましている。
僕は残りの花たちの水やりを終えると、じょうろを元の位置に戻して、何事もなかったかのように机の上に小説を広げた。最近読み始めたばかりで、まだ数十ページの部分に栞が挟まってある。
窓から引き込んでくる風に、本のページがめくられる。窓を閉めに立ち上げると、僕の目に母さんのピカピカの青い屋根が映った。高台にある学校からは、町の様子がよく見渡せるものだ。僕は、母さんの屋根がこれ以上青くならないといいなと思った。母さんの屋根は、まるで泣いているように見えたから。

「湊もう帰んの?」
「うん。また明日ね」
学校が終わると僕はまっすぐ学校から帰る。気が向けば友達とサッカーをすることもあるけれど、部活にも入っていない僕と遊べる人は少ない。僕は駐輪場から空色の自転車を出して、勢いよく漕ぎ出した。
僕の家から高台にある僕の中学校までは自転車で十分ほど。それまでに滑り台のような長い坂を通る。この坂は結構な難所で、下りのときなんかはどんどんスピードが出るからよくよく注意しなくてはいけない。この坂を通りたくなければ、学校の裏側に横たわる川を回っていくしかない。これはこれで二十分以上かかるから、僕はもっぱら坂を通って学校に行く。
母さんは僕がこの坂を通ることに、いい顔をしない。銀の触手で腕を組むような真似をして、僕にくどくどとどんなにあの坂が危ないのかを力説する。でも、僕はこの坂で転げ落ちたことはないし(違うところで派手に自転車をひっくり返したことはあるけれど)、事故にあったこともない。慣れている道の方が安全だ、と母さんを説き伏せていた。
坂に差し掛かると、ざあっと風が僕に立ち向かってくる。この強い風に包まれる瞬間、僕はこの世界から飛び立てるんじゃないかとよく思う。自転車が風に乗って浮かび上がって、左手に見える新緑に彩られた桜の木の枝をかすめて、僕は空に浮かぶ雲を突き抜けるんだ。そういう想像をしてはくすくすと一人で笑う。僕だけの素敵な夢想の時間だ。
自転車は小気味良い歓声をあげながらスピードをあげ続けていた。朝顔が僕の起こした風を受けてふわっと浮き上がる。僕は心地よい浮遊感に身を任せたまま、自転車のハンドルを握っていた。
確かに、僕は上機嫌な天気にいつもより少し浮かれていたかもしれない。いつもの道に安心しきっていたかもしれない。僕がはじめに見たのは、紺色の影だった。細長い肌色の棒をあちこちにくっつけて、それは僕の前に現れた。
「うわーっ」
声をあげたのが僕だったのかそれともその小柄な物体だったのかはわからなかった。僕が唯一わかったのは、その物体にはちゃんと顔があって、顔には口と目と小さい鼻があって、それらのすべてが大きく開かれていたことくらいだ。
僕の世界が宙返りして、僕の空と地面とが逆さまになった。どんっ、と大きな衝撃を背中に受けて一瞬呼吸が出来なくなる。道路に手足を投げ出して、僕は口をぱくぱくさせながら空気をむさぼった。
真っ暗だった視界に少しずつ光が入る。僕は無意識に目をつむっていたようだった。視界に飛び込んできたのは、ゆったり浮かぶ雲の白とその後ろの薄い青色。それに、桜の木が左の端に緑を彩っている。中央には、さっきの紺色と肌色。そしてぎょろりと動く目が覗き込むように僕をじっとうかがっていた。
「だいじょうぶ?」
 さも自分が転んだかのように、その子は痛そうに眉をゆがめている。思ったより高い声で、今にも泣き出しそうだ。僕はむくりと頭を上げた。
「あ、まだ起きちゃだめだよ」
 そいつは僕の肩を壊れ物のように触ったけれども、僕はそれすら痛くてちょっと顔をしかめてしまった。
「あ、ごめん。痛いよね? ごめんね」
 おろおろするそいつは、上半身を起こした僕が少し見上げるくらいの身長だった。無意識に爪を噛んでいるのを見て、僕は怒る気をなくした。弱いものには優しくないといけない。母さんに何度も言われた。
 体を立たせようとすると、体のあちこちに痛みが走った。刺繍針でちょっと強めに刺されたくらいの痛みだ。僕は気にならないような顔を取り繕って、目の前の少年を見下ろした。
「このくらい平気だよ」
 ぽんぽん、と頭をたたいて僕は子供が怖がらないような笑顔を作る。男の子の様子をざっと見ると、その子もどこかで転んだのか、膝小僧を擦りむいたような傷があった。
「痛くない?」
 目線を合わせるようにしゃがんで、男の子の膝小僧を指さした。僕が顔を覗き込んでも目はコンクリートを見たままだったけれど、気丈にも大きく頷いた。
「そうか。強いね。君家は近く? 一人でも帰れるかな?」
 僕はその子と目が合うように覗き込んだまま、なるべくゆったりとした口調を心がけた。少し子ども扱いしすぎたかも知れない。男の子がちらっと僕を上目づかいに見る。
「わかんないの」
「え?」
 男の子は目にうっすらと涙をためながら、今度こそ僕と目を合わせた。
「おうち、わかんなくなっちゃった」
 
 男の子の名前は「たかさきかずき」というらしかった。僕は右手でかごのひしゃげた自転車を引っぱって、左手でかずきの手を握っていた。小指をちょっと握ってくるかずきの手は生暖かくて汗ばんでいたけれど、頼られているようで悪い気はしなかった。
「名前の中でわかる漢字ある?」
 僕の歩調に合わせようとせっせと足を動かしているかずきを見て、僕はちょっとスピードを緩めた。自転車の重さが余計に右手にかかったけれど、気にしないことにする。
「えっと、名前書く時はこう書くよ」
 そう言って空いている方の左手で空中に名前を書き出した。注意深く見ると、どうやら「たかさき一き」と書いているらしい。きっと、「たかさき」は「高崎」で、「かずき」は「一樹」と書いたりするんだろう。
「ねえ、おにいちゃん、どこでケガの手当てするの?」
 かずきがちょっと心配そうに僕の方をうかがった。その様子に思わず苦笑する。
「ごめん。傷の手当てしようって言っただけだったからね。母さんのところだよ。ちゃんとおうちに帰してあげるから心配しないで」
 僕の言葉に少し安心したのか、かずきはまだ小さな歯を口いっぱいに広げて笑った。僕はそれにちょっと微笑み返して、母さんの青い屋根を探す。もうそろそろ見えてきてもよさそうな頃だ。
「あれだよ。母さんに任せればおうちもすぐわかるからね」
 家々の間から見ても母さんの青い屋根は他のものから浮き出たような色をしていた。僕が屋根を指さすと、かずきは口を大きく開けながら見上げた。
母さんの前に自転車を止めて、僕は玄関の前に立つ。横にはもちろん手をつないだままのかずきが一緒だ。こげ茶色の扉はニスをぬったかのようにてかっていて、かずきがそっとドアノブを触った。それを合図にするかのように、ドアがゆっくりとこちらに向かって開かれてくる。母さんは玄関の斜め上についているカメラで僕を見て、いつもドアを開けてくれるのだ。
「すごーいい!! ドアが勝手に開いたよ!?」
 はしゃぐかずきの目がキラキラと輝いている。よほど珍しいのだろうか。ドアの表を見たり裏を覗いたり、もう一度ドアノブを回してみたりとかずきの動きはせわしない。母さん、困ってあまり口に出せないんだろうな。いつもだったら、おかえりと言ってくれるもの。母さんが困っているなんてそうそうないから、僕は想像して笑ってしまった。
「母さんは甘いから。ほら、かずき行くよ」
 かずきの手を引いて僕はリビングへと向かった。かずきは未だにきょろきょろと母さんの中を見回している。母さんはきれい好きだからゴミなんて一つも落ちていない。ガラスは新品のような透明感で家の中に光を入れてくれる。
「母さん、ただいま」
 僕がリビングに入ると、ぱっと部屋に電気が点いた。
「ねえ、お兄ちゃんのお母さんってどこにいるの?」
「え?」
僕は思わず笑いながら聞き返してしまった。あいうえおってなあに? と聞かれたようなものだ。かずきはまだわからないような顔をしている。母さんが僕にお説教をするときの口調をまねて、かずきにゆっくりと語りかけた。
「いいかい、かずき。君はもう母さんに会っているじゃないか」
「いつ? ぼく会ってないよ」
「そんな口を尖らして見せたって僕には効果ないよ。なんで知らないふりをするんだい?」
 僕はまだしらを切るかずきに思わずむっとした。僕に責められて、かずきは泣き出しそうに顔をゆがめながら、首を横に振った。僕は強い声でかずきに言いつのる。
「かずき、なんだってそんな嘘を――」
「湊」
 僕は思わず天井を見上げた。今まで黙っていたのに、母さん、なぜ僕を止めるんだ?
「天井がしゃべった!?」
 かずきが大声をあげた。天井を見上げたまま、あんぐりと口を開けている。僕はといえば、その様子を下手な芝居でも見るかのように覚めた目つきで見ていた。母さんがしゃべるのなんて当たり前じゃないか。
「初めまして。湊の母です」
 母さんのウィーンという息遣いのような音だけが部屋に響いた。かずきはもはや眼の色を困惑と恐怖とで染めていた。天井を見上げたままの体勢で足だけががくがくと震えている。
「あら、ケガをしているのね」
 天井の一部から銀色に光る触手が出てきた。天井は木のタイルが敷き詰まっていて、そのタイルの一部が横にずれるようになっている。母さんはそこから自由自在に触手を出す。母さんの手を見て、かずきはいよいよ恐怖の色を濃くした。一歩また一歩と後ずさりをし始める。
「かずき、大丈夫だよ。母さんはただ手当てをするだけだから」
 僕がそう言ってもかずきは首を振った。
「や、やだ。来ないで」
 半べその声に思わず母さんが手を止めた。その間もかずきは後ずさりをやめない。母さんの手を見据えたまま、母さんから逃げるようにそろそろと足を後退させた。
「危ない!」
 僕が叫んだ時にはかずきはもうすでにカーペットにつまずいた後だった。かずきがまるでスローモーションのように倒れていく。まるで、かずきが倒れているんじゃなくて、床がかずきに近づいているみたいだ。
 カーペットのすぐ近くには僕がご飯を食べる大きな机がある。かずきの頭がそこに近づいているのがわかっているのに、僕の足は僕の意思に反してなかなか動き出さなかった。戸惑いと驚きと恐怖に足がからめとられる。やっと動いた足を叱咤し、僕はかずきのもとへと走った。
 間に合わない、と思った僕の横を母さんの手がひゅんと横切った。かずきの頭がテーブルにぶつかる寸前で止まる。母さんの手がかずきの頭を支えながらゆっくりと床に座らせた。
 僕の心臓はどきんどきんと高く波打っていた。まるで、マラソンをし終えた後のようだ。かずきの泣き声が静まり返った部屋に響いている。
母さんの手があやすようにゆっくりとかずきの頭をなでた。僕の目には、母さんの銀色の触手がまるで本当の人間の手のように映った。5本の指で優しく髪をすきながら、掌で愛おしそうに頭をなでる、そんな母親の手に。僕の胸が途端にもやもやしだした。雨の日の海のように僕の心にさざ波が立つ。
「ごめんなさい。怖かったのよね」
 母さんが優しくかずきに声を掛ける。かずきはぐずる程度に落ち着きを取り戻していた。母さんの手が離れ、テーブルの後ろにある引き出しから救急箱を取り出すとかずきの前に置いた。
「少し我慢していてね」
 母さんは救急箱から脱脂綿を取り出し、そこに消毒液をたらした。それをかずきの膝小僧に当てる。大切なものを扱うように母さんの手は動く。まるでかずきが母さんの子供みたいだ。最後に大きめの絆創膏をはって、母さんはかずきの膝を軽くぽんぽんと叩いた。
「ほら、これで大丈夫」
 自分の膝小僧をじっと見つめて、かずきはおずおずと顔をあげた。
「ありがとう」
 小さなかすれ声だったけれど、かずきの精一杯だった。母さんの手がふわりとかずきの頭に触れる。まるで微笑んでいるかのような触れ方だった。
「いいこね」
 その言葉にかずきの頬がぽっと赤くなる。母さんの手がかずきをほめるように頭をなでた。そんな風に頭をなでてもらったのは一体いつの時だったろうか。僕の心はいよいよ嵐を迎えるかのように大きく波打った。僕にはわかっていた。これは羨ましいという感情だ。素直に気持ちを伝えられるかずきが堪らないほど羨ましくて、妬ましかった。
「湊、あなたのケガの手当てもしなくちゃね」
 母さんの手が僕に伸びてくる。思わず僕はその手を振り払った。母さんの手が電気に打たれたかのように止まった。そのことで母さんが戸惑っているのがわかったけれど、僕も母さんと同じくらい戸惑っていた。お腹の底から濁った水が後から後から溢れ出してくる。まるで洪水の時のマンホールのふたを押さえているみたいだ。僕は一生懸命に抑え込もうとしたけれど、僕の力では湧き出してくる水を堰き止められない。
「いいよ。それより、かずきの家を探してよ。こいつ迷子なんだ」
 ぶっきらぼうな声だとわかってはいても、どうしようもできなかった。僕の中の水が僕の口から飛び出してきたみたいだ。そんな風に言いたくないのに、口は勝手に動いている。 
 母さんはしばらくじっと動かなかったけれど、僕に愛想を尽かしたのか、ふいっとかずきの方に手を向けた。自分で仕向けたことなのに、僕はまるで母さんに見捨てられたかのような気分になった。
「お名前は?」
 母さんが触手を横に傾ける。それはよく僕たちがする、首を傾げる、といった動作によく似ていた。かずきが口を開くより前に僕は母さんの問いに答えた。
「たかさきかずき、だよ『かず』ってところは数字の『いち』って書くんだ」
 かずきは開きかけた口を慌てて噤んだ。まるでかずきの方まで僕の泥水が押し寄せて、それを飲み込まないようにしているみたいだ。
「……そう。ありがとうね、湊。かずき君って言うのね」
 母さんは割り込んだ僕をとがめることもなく、赤ん坊を毛布でくるむときのようにかずきの名を呼んだ。
「調べてみるわ。かずき君は何歳かな?」
「……八、さい」
 母さんの問いにかずきはそろそろと僕を伺いながら、小さな声でつぶやいた。僕はかずきが僕を気にしていることをわかりながら、目配せもしないで知らん振りを決め込んでいた。かずきがいくつかだなんて僕は今知ったのだ。
「湊と六歳も違うのね。誕生日はいつ?」
「五月九日」
「家の周りに何か目立つものある?」
「おっきい病院があるよ」
 母さんとかずきの会話がテンポよくやりとりされる。そこにもはや僕の入る場所はどこにもなかった。母さんとかずきが一緒になって僕を仲間はずれにしているんだ。僕は子供じみた感情を押し殺せず、むっとした表情を顔全体に貼り付けていた。
 それからもいくつか質問が続けて母さんは唐突に声をとぎらせた。ウィーンという母さんの音だけが部屋に響く。母さんには他のマシン・マザーと通じる膨大な情報網がある。そこにアクセスしているのだろう。
「わかったわ」
 重々しく母さんの声が部屋を震わした。
「薄々そうかなとは思っていたけれど……。かずき君、あなたのお母さんは『しょうこ』というお名前なのね」
「うん」
「え?」
 僕とかずきの声がかぶった。かずきの声が僕の声にかき消される。
「かずき、お前ホスト・マザーの子なのか?」
「ホスト・マザー?」
 そう首をかしげるかずきのしぐさで十分だった。ホスト・マザーとは僕たちマシン・マザーの子供たちが人間の母親に対して使う愛称だからだ。
 母さんは本名をMM-IK403という。決してしょうこだとかあいこだとか、そんな人間くさい名前がつけられることはない。強いて言うなら、「湊のお母さん」が母さんの名前だ。それでいつも十分なんだから。
「かずき君。あのね、かずき君みたいに生まれてからずっと同じお母さんに育ててもらえる子供は本当に幸せなのね。ホスト・マザーっていうのは、本当のお母さんのことなの。本当のお母さんに育ててもらえない子のために、お母さんの代わりをする女の人がいたり、私みたいな機械があったりするのよ。私は湊のお母さんの代わりなの」
 かずきはその小さな頭で一生懸命に考えているみたいだった。恐る恐る口を開く。
「じゃあ、お兄ちゃんの本当のお母さんじゃないの?」
「……ええ」
 かずきが思わずうつむく。
「ごめんなさい」
 子供ながらにいけないことを聞いたと思ったのだろうか。かずきのその言葉に母さんはかずきの頭をもう一度なでる。そして、誇らしげに言った。
「でも、湊は私の自慢の息子よ」
 僕のホスト・マザーは小さい頃、僕をひとり家においてどこかに行ってしまった。最後に見た「お母さん」の姿は玄関から出る後ろ姿だった。すぐ戻ってくるね、 と言っていた。僕の大好きなアイスを買ってきてあげるから、と。大きなかばんを抱えて。僕は。あまりにも小さくて。気づくこともなくて。ただ、待っていた。「お母さん」がただいま、と帰ってくるのを。ただただ、ずーっと。ずーっと待っていたのだ。
「私は、湊のお母さんになれて、よかったわ」
 母さんの言葉が僕をふわりと包み込む。ぎゅっと抱きしめられているようだ。湧き出していた僕の中の濁った水がすーっと引いていくのを感じた。僕の胸の中に暖かい風が吹く。
 その頃、政府は新しいプロジェクトを進行させていた。増加する捨て子に生きる場を。孤児院はもはや収容人数を大幅に上回り、一枚の布団に二人で寝るような生活を余儀なくされていた。そこで、1人の議員がある提案をした。それは、母親の代わりになる家をつくってみてはどうか、というものだった。もちろん、その議員は周りから失笑を買い、非現実的な夢物語は一部のマスコミに面白おかしく語られただけで、時と共に忘れ去られてしまった。
 しかし、その話を聞いたあるメーカーがそれをヒントに犬の世話をしてくれる犬小屋を開発した。そこから事態は急展開する。政府は活路を見出し、犬小屋が出来るならあるいは、と夢物語を現実のものにするために動きだした。犬小屋を拡張し、さらにそれを拡張し、何度も試行錯誤を繰り返して、とうとうマシン・マザーが完成した。
 僕は、実用試験の一種としてそこに住むことになった。僕の学校にはそういった子供たちが集められている。その中でも母さんと僕は政府の注目の的となっているらしい。
 僕と母さんが出会って、もうすぐ八年と半年になる。それまでの間に母さんには他のマシン・マザーにはないものがあるということがわかった。それは、考える力だ。通常、機械が考えるようにみえるのは、何通りものパターンから最適な答えを探しだすからだ。「経験」を積むと、そのパターンが多くなっていく。ところが母さんはそのパターンが圧倒的に少ないらしい。けれど、他のマシン・マザー以上に的確な、そして――ここが重要だが――人間的な考えができるというのだ。
 これは、政府の人がわざわざ来て僕に話してくれた。なんでも、母さんが僕を同席させないと話を聞かないと言い出したらしい。苦笑いしながら、いいお母さんだね、といってくれたおじさんを僕はいっぺんで好きになった。
 母さんが今の言葉をいったいどうやって割り出したかなんて僕にはわからない。こうあったらこういう、というパターンがあったかもしれない。でも、僕は、少なくとも僕だけは母さんを信じなくちゃいけない。僕だけは信じていたい。僕は、母さんの息子だから。
 かずきに服をくいとひっぱられて、ようやく僕は長い間天井を見上げていたことに気づいた。
「お兄ちゃん、ぼくおうちに帰りたいな。ママに会いたくなっちゃった」
 僕はかずきと目線が合うようにしゃがむと、頭をなでてやった。
「ママに会いに行こうか」
「うん!」
 かずきに笑い返して、僕は再び天井を仰いだ。
「母さん、道案内してくれる?」
「もちろんよ」
 僕は母さんにもにっこりと微笑み返してかずきの手を握った。
「さあ、かずき行こうか」
 玄関から出ると、外はもう夕闇に包まれていた。空が薄い藍色に光りだし、星たちがうっすらと瞬きを繰り返す。
 きょろきょろと辺りを見回すと、隣の家の玄関の明かりがぽっと灯った。明かりの方へ歩いていくと今度はその隣の家の明かりが灯る。前の家の明かりは消え、歩くごとにその先の家の明かりが暖かい光を放ってゆく。マシン・マザーたちが僕とかずきの横顔を優しく照らしてくれる。
「ありがとう」
 僕らはお礼を言いながら、明かりを頼りに進んでゆく。マシン・マザー達のいる区域から出ても明かりは途絶えることなく僕らを導いてくれた。二十分もそうして歩いただろうか。家だけでなく周りには畑や商店街が現れ、小さな公園のわき道を僕らは歩いていた。
「ぼく、ここ知ってる」
 かずきが辺りを見回し、僕の手をくいとひっぱりながら言った。かずやの声につられて僕も辺りを見回す。左手に「緑ヶ丘病院」と看板を掲げている大きな病院があった。
「かずき、あの病院――」
「ママ!」
 かずきが唐突に僕の手をふりほどいた。一目散に駆け出してゆく。その先には、サンダルをひかっけおざなりに髪を結んだ女性がエプロン姿のままおろおろとしていた。しょうこさんだ。かずきのホスト・マザー、そして母親である女性。
「かずき!」
 しょうこさんが振り返った。かずきはその勢いのままどんっと彼女にぶつかるように抱きついた。彼女も後ろにつんのめりそうになりながらひしとかずきを抱きとめる。
「どこ行ってたの!? 心配して探し回ってたのよ。こんなケガまでして。帰ってこられたからよかったものの」
 かずきを体から引き剥がすと、かずきの目線に合うようにしょうこさんじはしゃがんだ。かずきの肩に手を掛けながら、怖い顔をしている。でも、お母さんの顔だ。
「ごめんなさい。あのね、お兄ちゃんに連れてきてもらったの」
 かずきが僕のほうを振り返る。僕はといえば、親子の再会に水を差すのも野暮なので後ろで彼女たちの様子を見守っていた。かずきにつられて僕を見上げるしょうこさんに軽く会釈をする。かずきの言葉で気づいたのか、しょうこさんは僕を見ると慌てて立ち上がって会釈を返した。
「ありがとうございます。ケガの手当てまでしていただいて」
 かずきの膝小僧を見ながら、しょうこさんもう一度丁寧にお辞儀をした。
「いえ。僕はかずきを連れてきただけで、手当ては母さんがしてくれたんです」
「そうなんですか……」
 しょうこさんが目線を下げた。母さんに遅れをとらまいとするかのようにかずきの頭をなでた。
「お兄ちゃんのお母さんってすごいんだよ! あのね、おうちがお兄ちゃんのお母さんなの」
 かずきがしょうこさんの服をつかみながら、瞳を輝かせて言った。しょうこさんの肩がびくりとこわばるのがわかった。瞳にはかずきと一緒に怯えが映っているだろう。
「おうちがお母さん?」
「そうなの。あのね……」
 かずきはしょうこさんに無邪気に笑いかけながら、どんなに母さんがすごいのかを語り始めた。母さんがかずきを助けたことやここまで案内してくれたことも。
「そう……」
 しょうこさんはまだ瞳に恐怖を映していたものの肩の力は抜けていた。
「すっごいすてきな人だったんだよ! ね、お兄ちゃん」
 かずきはしょうこさんの服をつかんだまま僕を振り返った。僕はゆっくりと頷いてみせる。
「僕の母さんは、最高の母さんです」
 しょうこさんの目を見て僕は言った。まるで言葉に縫い付けられたかのように、しょうこさんはかずきを抱きしめたまま僕を見つめ返した。
 しょうこさんがゆっくりと瞬きする。
「お母さんに、よろしくお伝えください」
 しょうこさんは柔らかく微笑んだ。
「息子さんに好かれているあなたが、すごく、羨ましいとも」
 しょうこさんはかずきの頭をなでながら話し出す。彼女の手が動くたびにそこから愛しさが零れ落ちてくるようだった。
「かずきは私とけんかして迷子になったんです。でも、あなたとあなたのお母さんに会えて、けんかしてよかったのかも」
 かずきは気持ちよさそうに目を細めながら、しょうこさんのお腹に顔をぐりぐりとこすりつけた。その様子にしょうこさんはそっと微笑む。
「今度お会いしたいって伝えておいてください」
「もちろんです」
 僕は力強く頷いた。かずきがしょうこさんを見上げる瞳に安らぎのようなものを見て、僕は微笑んだ。それは母さんになでられているときでも、かずきの目にはなかったものだから。
「僕は、しょうこさんとかずきは本当に良い親子だと思います」
 ありきたりな一言に、それでもしょうこさんは嬉しそうに笑ってくれた。

しょうこさんとかずきに見送られて、僕はもと来た道を戻った。別れ際に二人を我が家に招待することをもう一度約束して。来た時と同じように、家の明かりを目印に歩く。
「困ったなあ」
 すっかり暗くなった道を進みながら、僕は星空を見上げた。周囲には外灯がほのかに辺りを照らすだけで何もない。どうやら、僕は家の明かりと母さんの目印の明かりを見間違えてしまったらしい。前後左右のすべての道が同じに見える。正しい道は自分だ、とそれぞれが主張しているようだ。
「迷子になっちゃったよ」
 声に出してみて、ちょっと後悔した。そこら中に落ちている闇が今にも僕に襲いかかってきそうだ。道を尋ねようにも周りには人っ子一人いない。どんどんと夜の色が濃くなってゆく。僕は焦りを感じ始めた。心臓が早鐘をうち、肌の毛穴から冷や汗が吹き出てくる。知らぬうちに早足になっていた。
「母さん」
 口から零れ落ちるように言葉が出た。音は地面を転がる前に闇に吸い込まれてゆく。僕は目の前に広がる見知らぬ道と周囲の闇を避けるようにうつむいた。そうして、ただ墨をぬったようなコンクリートを踏みしめてゆく。すると、地面にちかちかと瞬く光が影のように映った。闇の中でひときわ輝く光。僕は顔をあげた。
 道の周りにはいつの間にかシャッターの下りた店や家がちらほらと建っている。静まり返る暗い道を音階を踏むように光が飛び回る。手前の外灯が光ったと思えば、その先の店の看板が色鮮やかに光り出し、その向かい側の家の二階に一瞬明かりが灯る。まるで歌を奏でるように光たちは灯っては消え、また灯っては別の光を生み出してゆく。
 中からは故障しているように見えても、外から見れば光たちが遊び回っているようだ。僕はしばし見とれた。動き回る光たちに僕まで楽しくなる。
 僕は光たちに連れられて、きらきらと輝く夜の道を歩いた。十分も歩いただろうか。僕はいつもの坂道に出た。見知った道に僕は嬉しくなり、自然と足が坂を駆け降りる。
 光たちと同じ速度で僕は走った。外灯がちかちかと光って、桜の木の若葉が太陽の下とは違うあでやかな雰囲気を出す。もうすぐ家だよ、と光たちがはげましてくれているみたいだ。
 左の路地を曲がると、僕はもう迷うことなく道をまっすぐ駆ける。母さんの青い屋根が見え隠れしている。いつのまにか、周りの光は消えていた。
 母さんだけが僕を導くかのように絶えず光を放っていた。僕の部屋に明かりが灯る。光は隣の風呂場に移り、さらにその下のリビングを照らす。消えることのない光はまるで母さんそのものだった。いつでも僕を見守って導いてくれる光。僕が母さんの前に到着すると玄関の明かりがぱっと点いた。
 僕は荒い息を整え、ゆっくりと玄関に歩みよった。扉が自動的に開く。
「おかえりなさい。湊」
 僕は胸にこみ上げてくるものをぐっと飲み込んで天井を見上げた。
「ただいま。母さん」
 母さんの銀色の触手が伸びてきて、僕の体に優しく巻きついた。
「よかった。帰ってこられて」
「母さんのおかげだよ。ありがとう」
 僕は母さんの手をゆっくりとさすった。ざらざらする感触が今ではとても安心する。母さんの左手が僕の背中から離れて頭をゆっくりとなでた。
「さあ、中に入りましょう」
 母さんの手が天井に行く前に、僕はその手をつかまえた。母さんの手を握ったままぎゅっと目をつむる。
 母さんに伝わるように。パターンとか計算とかそんなの関係なしに母さんが嬉しくなるように、そう願いを込めて。ゆっくりと目を開けて、僕は言った。
「母さん、母さんは僕の自慢の母さんだよ」
 母さんの手がびくりと動いた。僕は手を離さないまま天井を見上げて微笑んだ。
「母さんの息子で、よかった」
 母さんの手が僕の手から離れて僕の頭をそっと抱え込んだ。
「湊。ありがとう」
 母さんの声が涙に濡れていたように感じたのは、僕の勘違いじゃないと思う。母さんは泣き笑いの顔をしながら僕を抱きしめてくれているのが、僕にはちゃんとわかった。母さんは機械なんかじゃない。僕の「お母さん」だ。

僕の朝は母さんの声から始まる。
「湊、起きなさい」
枕を抱えるようにして眠る僕の肩を、母さんは今でもあやすようにゆっくりとたたく。
「ん〜」
僕は寝返りを打つようにして、その手から逃れようとする。そうすると母さんは、いつも実力行使に出る。母さんが僕の肩をたたくのをやめると、程なくしてベッドが小刻みに揺れ始めた。
左のほうのベッドの端が持ち上がる。ぎぎっと不協和音を奏でながら、ベットが徐々に傾きを増してゆく。僕は枕に抱きついたまま、ベッドからどすんっと床に落とされた。
「いたた。母さん、ベッドから落とす以外に何か方法ないの?」
僕は慣れたもので、ひょいと体を起こした。痛いというのも、実はそうでも無くて、まあ、いわゆる僕と母さんのコミュニケーションの一種だ。
「ほら、今日はかずき君とお母さんがいらっしゃるって昨日から言ってたじゃない。早く仕度して手伝って」
 僕は寝ぼけ眼で目をこすりながら、タンスから服をひっぱり出す。近頃、母さんは何でもやってくれるではなく、様ざまなことを僕にやらせるようになった。
「母さん、きれいにしたいのよ。床ふいといてね」
 それと、僕に対して自分のことを「母さん」と言うようになった。僕は服を着替えて顔を洗った。タオルで顔を拭きながら天井を見上げた。
「わかったよ。母さん」
 僕は笑いを噛み殺して、リビングへと下りた。既に母さんの触手があちこちをぴかぴかに拭いている。ピンポーンとインターホンが鳴った。
「あら、もう来ちゃったわ」
 母さんの焦る声が部屋に響いた。僕は苦笑いをしながら玄関へと二人を迎えに行く。母さんがゆっくりと扉を開ける。僕と母さんの声が重なった。
「「いらっしゃい」」

僕と母さんの一日がまた始まる。
 

  







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