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オンマリシエソワカ
作:T・ミーナ



第十八話 九兵衛VSヒロ オリンピック対決


第十八部 九兵衛VSヒロ オリンピック対決

「ねえちゃん、オリンピックって、そんなにすごいの」
「すごいよ。世界で誰が一番かを決める大会だから」
「世界ってどこ、上方よりも大きい?」
 エリカと九兵衛、洗濯をしながらの井戸端会議が延々とつづいている。宿坊に泊まっている人たちの洗濯ものの量は半端じゃない。エリカと九兵衛が金だらいで洗ったものを、ヒロが絞り、それをわたしが受け取って物干しに干す。四人がかりのリレー形式でしても大変なのに、これをふだんは九兵衛ひとりでやっているらしい。
「よっしゃ、オレっち、ヒロにいちゃんに挑戦して、世界一になる」
 突如九兵衛が奮然と立ち上がった。
「無理無理」
 エリカが鼻でせせら笑った。九兵衛は鼻の穴を大きくふくらませて、ふんっと息を吐いた。
「やってみなきゃわかんないだろ」
 ヒロが最後の一枚を干し終えた。上半身だけで井戸端の九兵衛を振り返り、にやっと笑った。
 うおーっ。九兵衛は両腕曲げて吠えると、見ろといわんばかりに、力こぶでヒロを威嚇してみせた。

 洗濯、掃除、まきわり、草抜き、宿坊の仕事をひととおり終えると、午後みんなで泳ぎに出かけた。竹筒の水筒と、洗ったお弁当箱には、かたやきまんじゅうをたくさんつめた。
 ヒロは、お滝まいりのあと、スポーツクラブに泳ぎに行くつもりだったらしく、リュックには、水着、ゴーグル、バスタオル一式が入っていた。
 真剣勝負を挑んできたのは、あんたなんだからね。子どもだからって手を抜いたりしないわよ。それがスポーツマンシップってもんだから。
 岸辺で手足をぶらぶらさせながら、ヒロは九兵衛に言う。
 山岳修業を甘くみんなよ。九兵衛も負けてはいない。
 そこは、直径五十メートルはあろうかと思われる、たわらがたの池だった。ヒロいわく、競泳するにはちょうどいい。
「なんか賭ける?」
「いいよ」
「あたしが勝ったら、ばんごはんのおかず、あんたの分も全部もらうわよ」
「いいよ」
「で、あんたが勝ったら、何がほしい」
「オレっちが勝ったら」
 と言って、九兵衛は盛り上がった土手の木陰にすわり、ふたりの戦い心まちにしているわたしたちを振り返った。わたし、エリカ、花田、ハク。そんなのんきなことにつきあってられるかと、ハクは、いつものように午後の稽古をしたがっていたのだが、用心棒がわりについていけと能海坊老人に言われ、しぶしぶながらついてきたのだった。
 がんばって、とエリカが九兵衛に手を振った。
「オレっちが勝ったら」
「なによ、さっさと言いなさいよ、どうせそんなこと絶対ありえないんだから」
 ヒロが体操服のシャツを脱いだ。見事なまで逆三角形の背中。クォーターパンツを脱ぐと、今まで一度たりとも感情を顔に出すことのなかったハクが、ひどくあわててうつむいた。
 九兵衛は意を決したように、エリカに向かって叫んだ。
「もしオレっちが勝ったら、ねえちゃん、ずっとここにいてくれる」
 予想もしてなかった言葉が九兵衛の口から飛び出した。エリカも驚いたようで、大きく目を見ひらいている。なんとか気のきいたことを言って、九兵衛を傷つけることなく、この場の雰囲気をおさめたいが、ふさわしい言葉が何も思いつかなかった。
 そのとき、
「九ちゃんがうちにくればいい」
 エリカが言った。
「向こうの世界は戦もないし、子どもはちゃんと子どものままでいられるし、ママもパパも、やさしすぎるくらいやさしいから。あたし、ひとりっこだから、九ちゃんみたいな弟ができたら、すごくうれしい。ママもパパも大喜び。だからね、いっしょに行こう。ユニバーサル楽しいよ。九ちゃんみたいな子に、人殺しは似合わないよ。暗くなるまで公園で野球をしたり、宿題忘れて先生に叱られたり、跳び箱七段が飛べなくて悔し泣きしたり、そんな姿だよ。九ちゃんに似合うのは。負けても勝っても、九ちゃんは…」
 そこまで言うとエリカは顔を伏せた。言いたいことが痛いほど伝わってきて、自然と涙があふれた。
 黙って話を聞いていた九兵衛は、呆然とエリカを見つめていた。九兵衛もまたそんなことを言われるとは予想もしていなかったのだろう。
 しばらくぼうっとしていたが、不意に我に返ったようになって、「さっ、にいちゃん勝負だ」と前を向いた。そして、わたしたちには背中を向けたまま、「いまオレっちが言ったことは忘れてくれ」とおとなも顔まけの渋い口調で言った。
 九兵衛が無理していることは、十分わかっていた。だけどそれ以上に、もう二度と覆すことのできないであろう九兵衛の強い意志もそこに感じられて、誰もなにも言えなくなった。
 エリカが横で肩を震わせている。
「おら、てめえ、こんどにいちゃんっていってみろ、そのときは池の底に沈めてやるからな」
 ヒロが九兵衛の頭をぽかっとたたいた。ヒロらしい気づかいだと思った。重苦しい空気がふわっと軽くなった。

 エリカの「よーい」の合図で、ふたりは前かがみになった。ヒロは水泳の選手らしく、九兵衛は陸上の選手みたいに、水上を今にも駆け出しそうなポーズで。
 ドン! でふたりが飛び込んだ。
 ヒロは自由形。水しぶきをあげてぶっ飛んでいく。専門はバタフライだと聞いていたが、さすがに速い。自由形八百メートルの近畿大会大会記録保持者だというのもうなずける。
 一方九兵衛はというと、水面に浮かんでこない。潜りっぱなしで、五十メートル先の向こう岸まで泳ぎつづけるつもりだろうか。
 向こう岸にヒロが先にタッチ。
 そのすぐあと、九兵衛が顔を出した。潜水のままで向こう岸までたどりついた。拍手。拍手。すごいとしたいいようがない。いくら達者とはいえ、九兵衛はまだ、たったの七歳なのだ。
 向こう岸では、すでにヒロのレクチャーが始まっている。水中の腕の動き、手の抜き方など、手本を示している。
 九兵衛はヒロに習ったばかりのクロールで、こっちの岸に戻ってきた。一回レクを受けただけで、すっかりさまになっていて、その運動能力の高さには舌をまく。このままもし現代社会に登場してきたら、どんなすごいアスリートに成長するのだろうか、ふとそんな想像をして惜しい気もする。
「負けた」
 顔を出して、九兵衛が潔く負けを認めた。
「四百年後の連中なんて、なんもできないって思ってたけど、ちょっと見直した。カッパみたいだ。にいちゃんのあの泳ぎにはかなわないや」
 ヒロはターンして、今度はバタフライで悠々と向こう岸に向かっていた。空はとても青く、澄んだ池の水面には、山並みと巨大な入道雲が映りこんでいた。
「あれはなんて泳ぎ?」
「バタフライだよ」
「四百年後の人はみんなできるの?」
「まさか」
 四百年後のヒロをのぞく全員、一斉にぶるんぶるんと首を振った。

 



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