彼がつくった希望の箱
企画「Smile Japan」(無言ダンテ様主催)参加作品。被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。希望をテーマにした、普通の男女の恋愛話です。静かなひと時をお楽しみいただけたら幸いです。※2000字を超えているのに、うっかりして連載形式にせずにそのまま投稿してしまいました。企画に合わない字数ですが、とりあえずこのまま掲載しておきます。すみません。
「はい、お誕生日おめでとう」
帰り際の車の中、彼が、はにかみながら私に渡したのは、十五センチぐらいのサイコロ型の木箱だった。
「ありがとう。忘れちゃったのかと思った。二十五だから、誕生日を大喜びする歳でもないけど、うれしい」
軽く笑って受け取った。いかにも待っていました、という顔をしないように気をつけて。一緒に夕食を食べに行ったのに、お祝いの言葉も誕生日プレゼントもくれない彼に、少しがっかりしていたのだ。
「すごい、これ、自作だよね。何が入っているの?」
彼は、ニヤリと笑った。
「気に入らなければ捨てていいから」
「そんな。ここで開けていい?」
「いやだ。中身は自分の部屋で見て」
「どうして?」
「それは、俺にとってはパンドラの箱だから」
私は思わずふいてしまった。
「……ねえ、パンドラの箱ってさ、開けたらいけない箱のことだよね? 開けちゃったら悪いものがいっぱい飛び出してくるやつでしょ?」
彼は「そうだよ」とおもしろそうに口元を弛め、私の反応を楽しんでいる。
「恐怖満載の箱。パンドラの箱のように、希望も入っていると思いたいけど、入っていないかもしれない。もしも、香里が開けたくないなら、一生開かなくてもいいから」
「ふーん」
彼は、時々よくわからない大げさなことを言うので、適当に聞き流しておいた。
箱を開けずに、表面をじっくり観察。宝石箱のような造り。きれいに磨き上げられた表面には、絵も彫刻もなく、天然の木目が模様を作る。ヒノキのいい香りがする。それほど重くもないので、中にはお菓子でも入っているのかもしれない。
「振っても大丈夫?」
「だめだ。壊れるといけないから、ひっくり返さずに持ち帰って」
「精密機械?」
「内緒。あとで見て」
私の想像は膨らむが、彼の望み通り、箱をその場で開けることはしなかった。
彼に家まで車で送ってもらい、その日は別れた。箱はまだ開けず、自分の部屋の机の上に飾ってみる。
早く開けたい気持ちと、開けたら終わりみたいな恐怖が同居。
パンドラの箱って……。
どんな変なものが出てくるのだろう。すぐに開ける勇気がなく、先にお風呂に入った。
お風呂を終えても、箱は何も変わらずに置いた場所にある。渡した時の彼の顔を思い出し、あれこれ想像。
もしかして指輪が入っていたりして。頬が弛みそうな甘い期待もしてしまう。でも、そうではなくて、別れの手紙が入れてあったら。
ずっと見ていても、どうなるものでもないので、息を止めて箱を開いた。
「うわっ!」
いきなり現れたキューピー人形。箱を開ける前は、人形はバネで押さえつけられていたようで、ビヨビヨと縦に横に揺れている。
「あははは!」
あまりにも彼らしくて、声を出して大笑いしてしまった。
なんでキューピー?
意味がわからないが、妙にかわいい。不安定なバネの上に立ち、体調十センチほどの裸の体に、タスキをななめがけしている。タスキには赤いマジックで小さな文字が。
よく見ると――【花嫁募集中】。
これはウケねらいだ。彼と結婚の話をしたことはないから。
箱の内側の底にはネジがついていたので、回してみると、どこかで聴いたようなメロディが流れ出した。キューピー人形の足元には、飴などが詰められ、メモ書きが添えられていた。
『感想を聞かせて。メールではなくて電話で』
「それだけ? あーもう、おなかがよじれるぅ」
これを作るのに、いったい何時間かかったのだろう。
ユラユラ揺れるキューピーがおもしろくて、げらげら笑い続けていたら、一つ年上の姉が、部屋をのぞいてきた。
「何それ?」
「キューピー人形が飛び出すオルゴール。彼が作ってくれたの。『パンドラの箱』って作品名だってさ」
姉は箱を手に取り、「へー」と感心しながら、箱をいろいろな角度から見ている。
「あいかわらず器用な彼ね。もしかして、プロポーズされた?」
「ないない。花嫁募集なんて思わせぶりだけど、彼はまだ二十二だよ。結婚なんか考えているわけがない」
彼は私よりも三つも年下。結婚して家庭を持つよりも、今はまだやりたいことがいっぱいあるだろう。実際、私にお見合い話が来ていて困っていると彼に告げても、彼は眉ひとつ動かさなかったのだから。若い彼には、今すぐ私と結婚するという未来図は描けていないはずだ。
この箱には深い意味などない、ただのびっくり箱。
私だって女だから、二十五の誕生日をむかえ、知人の結婚報告が相次ぐ中、自分の結婚を夢見ないわけではないけれど。
箱から流れる曲を聴いていた姉は、フフン、と笑った。
「香里は鈍感だね。これ、結婚式でよく歌われる曲。歌詞知ってる? 男が女に結婚を申し込む歌だよ」
「へっ……そうなの? どこかで聴いた曲だと思った」
「あーあ。これで嫁入りが決まったね。まさか、あんたに先を越されるなんて。あたしも年下男をさがそうかな。どこかにいい男、転がっていないかしら」
「あのねえ……結婚してくれって言われたわけではないし、返事も何も――」
「はいはい、ごちそうさまでした。これは一大事だから、お母さんに報告しなきゃ」
「ちょっと、姉さん!」
姉は笑いながら部屋から逃げて行った。
一人になった私は、急いで携帯電話を手に取った。彼の携帯電話をコールする。
「もしもし」
わずか一コールで彼が出た。あまりの早さにぎょっとしてしまう。
「マー君……だよね?」
「ごめん、実は裏の公園にまだいるんだ。今、少しだけ外へ出られる? 箱の感想を聞きたくて」
「私が電話するのを待っていてくれたの? 最初からそう言えばいいのに」
私は大急ぎで着替えると、家を走り出た。時刻は午後九時を過ぎている。静かな住宅街の中、街灯に照らされた裏通りへ回れば、彼の車が公園駐車場に停めてあるのが確認できた。彼は車から降り、携帯を片手に立っている。
――ずっと待っていてくれた……あんなふうに公園でぶらぶらしていたら、なんか不審者っぽいけど。
彼に向って駆けて行く。がまんできない笑い声をもらしながら。
けど。
駆け寄ったものの、まったく笑っていなかった彼。私は笑いをひっこめた。とりあえず、お礼を言わなければ。
「びっくり箱、おもしろかった。ありがとうね」
「……」
いつもなら「どういたしまして」と楽しそうに返してくるはずなのに、彼は黙って私の顔を見ていた。真剣すぎる表情にドキリとしてしまう。
なに、この重苦しい雰囲気は。待たせすぎた?
「あ、あのキューピー、どこで買ったの?」
彼は大型ショッピングセンターの名を言った。それ以上、会話が続かない。
沈黙。沈黙。どこまでも。
彼はただ私の顔を見つめている。さぐるような目が私の瞳の奥まで入り込んでくる。春の夜風が吹きぬけ、肌寒さを感じた。彼の様子はどう見てもいつもと違う。
「ねえ、どうしたの?」
「すぐに電話をくれなかったら、終わったと思ったんだ。パンドラの箱には終焉しか入っていなかったかもしれないって」
言葉には安堵が混じっている。顔は怖くても怒っているわけではなさそうだ。
「ごめんね。お風呂に入っていた」
「こっちこそ、ごめん。まだ髪が濡れているね。風邪をひくといけないから、もう帰っていいよ」
「わかった。じゃあね、今日はありがとう」
とは言ったものの。
――あれ? このまま帰っていいの? あの箱……プロポーズのつもりじゃなかったの?
聞けないまま、背を向け歩き出す。彼が何も言わないのに、年上女の自分から結婚の話など出したくない。いや、あの箱がプロポーズを意味していると思うことは、結婚妄想だったかもしれない。
むなしさを隠し、一歩一歩彼から遠ざかる。
「香里! 待ってくれ」
曲がり角へあと少し、というところで、彼が追いかけてきた。これを望んでいなかった、と言えばうそになる。心が熱く波打つ。でも。
振り返ったら、彼の顔があまりにも悲しそうだったので、言葉が出てこなかった。
「俺さ……さっき言いそびれたんだけど、来月から九州支所に転勤することになったから」
「えっ」
「転勤してしまえば、五年は東京本部には戻れない。だから、香里の誕生日を祝えるのはこれで最後かもしれない。お見合い、うまくいくといいね。呼び出してごめん」
彼は淡々とそれだけ言うと、車へ戻ろうとする。
彼が見せた背中。こんなのいやだ。今度は私が呼び止める番だった。
「待ってよ。そんな大事なことならもっと早く言ってほしかった。マー君は、私が誰かとお見合い結婚をすればいいと思っているの?」
彼は振り返り「香里」と言ったきり、次の言葉をすぐには出さなかった。
「ねえ、どうして黙っているの。あんな手作りの箱を送っておいて、お見合いの話を応援なんて……私たち、付き合っているんだよね? マー君にとって、私って何?」
彼はため息をつくと、苦しそうに目をそらした。
「俺は……三つも年下で、香里から見れば子どもだし、お見合いの相手が年上でそれなりの地位にある人なら、俺なんかが勝てるわけがない。しかも九州行だ」
彼は自虐的な笑いをもらすと、再び車へ向かおうとする。
「待って! 行かないで」
私は彼の背中に取りすがっていた。涙が出そうになるが、ここで泣いて何も言えない状態では、本当に私たちは終わってしまうかもしれない。
「ちゃんと話をしようよ。正直に言うね。私、あの箱に婚約指輪が入っていたらいいなって、実は期待していたの。花嫁募集って書いてあったから、結婚しようって意味かもしれないって勝手に想像して、少し舞い上がっちゃった」
「香里……」
「妄想を膨らませて、結婚を申し込まれたような気になってうれしがって、バカなやつだって笑ってよ。私だってね、二十五にもなって結婚のことを考えないわけじゃない。だけど、マー君が私をお嫁さんに望んでくれるなんてありえないって、いつも自分に言い聞かせてた」
「……どうして?」
「だって……」
「俺は香里の結婚相手になる価値もない男だってことか」
さみしそうな彼の言葉に胸が痛い。
――違う。違うの。そんなんじゃなくて。彼は誤解している。言わなきゃ、今。
勇気をふりしぼって自分の言葉で。
「私は三つもおばさんだもん。付き合ってもらっているだけで充分幸せだから、それ以上望んだら嫌われちゃうかもしれないって怖かったの。結婚してくれなくてもいい。だけど、こうして会うことすらできなくなったらいやだよ」
ふっ、と彼が笑い、広い背中が動いた。彼が背中に取り付いている私をひきはがし、正面から見つめてくる。怖い顔ではなく、目が笑っている。
「結局それか。なんだか俺たち、年のことばかり言っているな」
「本当だ、同じことにこだわってる」
顔を見合わせて笑った。心が弛められていく。
彼が手を広げる。迷いなくその中へ身をゆだねた。彼は私の濡れた髪をなで、耳元で囁いた。
「俺は香里とずっと一緒にいたい。お見合いなんかしてほしくないんだ。でも……俺は九州へ行かされる。だから――」
◇
一年後。
私の二十六歳の誕生日。久しぶりにあの箱を開いた。
キューピー人形が揺れている。彼とのことを真剣に考えたあの日と同じように。
『どこがパンドラの箱なの? 変なものなんか出てこないよ』
『俺にとっては、結婚の話を出すこと自体が、恐怖そのものだったから。少しは希望が入っていたかな』
鳴り続けるオルゴールを聴きながら、あの時のことを思い浮かべた。居間には、夫となった彼がいる。
「なつかしいな、それ。あの時は、五年も待ってくれ、とは俺は言えなかったんだ。だから箱に思いを託して、香里の気持ちを試そうとした。ごめん」
「あやまることなんかないの。これは悪いことがいっぱい詰まったパンドラの箱なんかじゃない。希望しか入っていなかったもんね」
彼は、ほほ笑みながら近づくと、私のお腹に手を触れた。
「希望は、ここにもある」
宿したばかりの小さな希望がそこに。
彼がつくった箱は『希望』と改名された。希望の箱は、私たち家族をずっと見守り続けていくことだろう。
了