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蛇足話(名前)
 僕は、彼女の自転車ほど速い乗り物はないと思いかけていた。
 いや、勿論、いくら彼女の自転車が、自転車として有り得ないくらいの速度を出していたとしても、いくらなんでも自動車よりも速いわけがないし、僕は特急列車にも飛行機にも乗ったこともある。実際を言うなれば、僕が乗ったことがある乗り物の中で最も速い乗り物は飛行機に違いない。
 ただ、飛行機や特急列車や自動車に乗っていても、それほど速さを感じることはできない。せいぜい、景色が速く過ぎていくのを見て、速いんだなーと思えるだけだ。
 でも、自転車の場合、座席が全く暴露している為、ぶつかってくる風圧を全身で感じ、ビュービューという風の音を間近で聞こえることによって、もっと速い乗り物よりもよりスピードを感じるのさ。まぁ、オープンカーだとか座席が開放式の列車や飛行機ならば、もっと風圧と風音を感じることができるだろうけど、生憎と僕はどれも乗った経験がない。ジェットコースターとかもない。
 だから、今、乗っている彼女の漕ぐ自転車が、僕にとっては最も速いと感じる乗り物だった。
 隣の国道をビュンビュン走る車が僕らを抜いていくので、車ほど速くはないとは思うのだけれどもね。ただ、僕らを抜いていくのが車だけなので、自転車より速く、自動車未満の速さってことかな。
 これだけ、びゅんびゅんスピードを出して走っていると中々気分が良さそうなものだけれども、後ろに乗っている僕は恐いだけだし、彼女は何だか機嫌が悪そうだ。僕をお姫様抱っこしているときも、しかめ面だったと思う。少し赤くなったりもしたけれども、それでも不機嫌の感情が強そうだ。
 何故だろう? まぁ、察しはつくけどね。僕が先輩と仲良くしていらっしゃったのが気に入らないのかもしれない。そんなところだろう。
「…………」
 そんなことを考えていると前の彼女が何か喋ったような気がした。
「あぁっ!? 何だってぇっ!?」
 ベテランお笑い芸人の芸風を少し真似て聞いてみると、彼女は少しスピードを落とした。これで、だいぶ、風の音が消えた。
「ところで、あ、歩」
「何で名前で呼ぶのさ?」
 いつも彼女は僕のことを「君」と呼んでいる。付き合ってからもう一ヶ月くらい経つけれども、彼女が僕のことを名前で呼んだことは殆どなかったはずだ。いくらかはあったかもしれないけど、覚えてない。
「恋人同士なんだから、名前で呼び合ってもいいじゃないか」
「えー、嫌よ。恥ずかしい」
 僕が応えると彼女は不満げに黙り込んだ。自転車に二人乗りしているので(良い子は真似しちゃダメだぞ!)、顔は見えないけど、きっと不機嫌なしかめ面をしているんだろうなぁ。あ、今、すれ違ったおばさんが「ひっ!」って悲鳴を上げてたけど、彼女の恐ろしい目に驚いたのかな。悪いことをしてしまった。
 そのことを話すと、彼女は少し機嫌悪く黙ってから、
「その前に名前で呼び合うことを嫌だって言った恋人に悪いと思わないのか?」
 と、棘のあるご返答を頂いた。なるほど、その通りだ。一般的にはね。
「んー? それは、もっと、君に気を使って、喋れってことかな? 君が嫌がりそうな言動は避けて、君に好まれる言動を心掛けろと?」
「そーいうことじゃないけど、もっと、私を気遣ってくれてもいいと思う」
「うーん。でも、僕、人を気遣うの嫌いだからなー」
「それでも、普通、彼女相手なら、もっと優しくしたり、思いやってくれてもいいんじゃないか?」
「ふーん。なるほど。君はそーいうのを望むのね。でも、僕の理想の人間関係は少し違うなぁ」
 お互いに気を使わないでいられる関係。これは簡単なように思えて、かなり難しい。でも、僕にとってはそーいう関係が理想的。とっても楽なんだよね。
 お互いに、お互いを思いやるっていう関係は、確かに、立派で理性的な良い関係だし、大抵の人はそーしないと親しい関係を維持できない。
 でも、僕はそーいう関係を望んではいない。少なくとも、長く一緒にいる相手にそーいう関係を求めないし、僕にそれを期待しないで欲しい。
 僕は、嘘も吐くけど、基本的には思ったことを何でもすぐに口に出したり、行動したりしなかったりする奴だからね。相手を思いやって、言いたいことを我慢したり、やりたいことを我慢したりなんてことを長くやっていけるわけがない。
 お互いに良い面も嫌な面も全部あっぴろげにして、お互いの嫌な面や良い面を堂々と言い合う。そんな関係が素敵。家族とか兄弟とかそれに近い関係が楽なんだ。
 僕が誰とでも平気で会話できる割に、友達が少ないのは、そこが原因なのかも。相手が嫌がるような言動でも平気でやっちゃうから親しくなれる人が限られてくるのかな。
「もしも、僕に、相手を思いやったり、気遣ったり、空気を読んだりするようなことを期待してるんなら、それは残念ながら無理ってもんだね。僕は好き勝手に好きなことを喋るし、好きなことをするし、好きじゃないことはしないし。だから、君も、我慢せず、好き勝手に好きなことを喋って、好きなことをして、好きじゃないことはしないと良いよ。まぁ、君は十分そうしているだろうけど。でも、その君がしている好き勝手な言動に僕が文句を言ったり注文をつけたりするのも了解してもらいたいもんだね。それが無理なら、僕と一緒にいるのは」
 甲高い自転車のブレーキ音が響いた。このキキーッて音が僕は好きにはなれないなぁ。街中をぷらぷら歩いているときにいきなり聞こえたりすると心臓がびくってなる。
「それ以上言うな」
 ブレーキレバーを固く握り締めた彼女が呟いた。
「わかった」
 彼女はそう言って、僕の方に振り向いた。いつもの無表情なしかめ面だ。
「君にとって理想の人間関係がそーいうものならば、そーしよう。君は我慢せず好きにするといい。但し、私も我慢せず好きにする」
「うん、そうするといいよ。でも、君、もう十分に好き勝手してると思うけど」
 今、僕が彼女の自転車の後ろに座っているのも、君の好き勝手な行動の賜物だしね。
「だから、私は君が嫌がっても、君のことを名前で、歩と呼びたいときに呼ぶことにする」
「えー」
「えーじゃない」
 この僕が提唱するお互いに好き勝手なことをする関係の唯一の欠点は、お互いが本気で嫌だと思うことを止めろとは言えても、相手が尚もそれを行う可能性があることだ。この関係は理想的ではあるけど、実際には大変難しいのだ。だからこそ、僕は円満な人間関係を築けていないんだけどね。個人的にはそれでもいいと思ってる。一人でいるのが苦なわけじゃあないからね。
「せめて名字にしてよー」
「それじゃあ、君のお母さんかお姉さんか妹さんか分からないじゃないか」
「文脈とか環境とかで十分分かるよ」
「とにかく、私は歩って呼びたいんだ」
 彼女の意思は固いようだ。まぁ、いいや。確かに恥ずかしいけど、それほど嫌ってわけじゃあないし。
「君も、私のことを名前で呼ぶといい」
「は?」
 何でそうなる。
「嫌よ。恥ずかしい」
「いいから。呼んで。呼ばないと、今すぐ、ここで、思いっきり、濃厚で、ディープなキスをする」
 彼女は真顔で言い、僕の腕を掴んだ。痛いくらいに僕の腕を握り締めてくる。
 これは脅しだ。ここは、交通量の多い国道の歩道上で、夕方の帰宅時間ともなれば、車の交通量も増えるし、自転車や徒歩で帰る人、夕飯の買物へ行く人、遊びへ行く人などが結構歩いている。
 僕らは事あるごとに、いつでもどこでもあちこちで所構わず時構わずちゅっちゅちゅっちゅとバカップルキスを繰り返してきた間柄ではあるけれども、さすがに、こんなに衆目のある所でやったことはない。自宅の中とか人通りの少ない夕暮れの住宅街とか学校の廊下とかで、しかも、人目が少ないときを狙ってしていた。せいぜいが、この間、演劇祭の練習中に全クラスメイトの目の前でかましたくらいだ。
 ところが、今、ここでとなると、まぁ、見ず知らずの何十人もの人々の衆目に晒されることになるのだ。しかも、彼女曰く、濃厚でディープなやつを。
「それは勘弁っ!」
「じゃあ、名前で呼んで」
 彼女に名前を呼んで欲しいと言われるっては結構良いシチュエーションのはずなんだけど、何で、こんなに僕が困惑する羽目になっているんだろうか。
 天下の往来である歩道上に立ち止まって自転車の上で向き合って何やら言い合っているバカップルを道行く人々は、一瞬、チラリと見たり、興味深そうに眺めたり、迷惑そうに睨んだりしていた。あんまり、ここにいては人の迷惑になりそうだ。それに、いつまでもここにては余計に目立って恥ずかしいことになりかねない。
 しょうがない。名前を言ってあげようか。ていうか、彼女の名前を彼女に向かって言うのは初めてだと今気付く。何て彼氏だ。
「え、えーっと、き、き、きー」
「キスして欲しいのか?」
 彼女が顔を寄せてくるので、慌てて顔を背けながら叫ぶ。
「違うっ!」
 もう! なんか、調子狂うぞ!
「き、紀伊嶋、さん」
「さんはいらない」
 もー! 何なのこの羞恥プレイッ!
「き、紀伊嶋」
「下の名前で呼んで」
 なんとなくそんなことを言い出しそうな気はしてた。
 しかし、ここで大きな問題が生じる。僕、彼女の下の名前を知らないんだよね。彼氏として最悪だ。友人・知人としても結構悪いね。
「早く言わないとキスする」
 彼女は僕の顎を掴んで、顔を正面から向き合わせた。彼女があと数十cm顔を近付ければ、僕らの唇はドッキングして、僕はドッキドキって、何だこの下らない駄洒落。
「ちょ、ちょっと待って!」
「待たない」
 僕の嘆願を彼女は呆気なく却下して、唇を数cm近付ける。
 たまたま、近くを通りかかった女子中学生たちが、僕らの間のただならぬ顔の近さに、顔を赤らめて友達同士で囁き合う。通行人のおじさんがけしからんとでも言いたげに睨んでいく。いつまでも、ここでマゴマゴしていては、既にエベレスト級の高さを誇る僕の恥の歴史が更に上積みされかねない。
 僕は意を決して口を開いた。
「え、えっとね。じゃあ、一つだけ教えて?」
「何?」
「君、下の名前何だっけ?」
 彼女は涼しげな無表情で静かに僕を見つめた。
 そして、微かに口の端を上げて、微笑み、口を開いた。
「罰ゲーム」
 彼女のヒヤリと冷たい唇が僕の冬風で乾いた唇に重なった。そして、すぐに僕の唇は彼女のぬめった舌によって十分過ぎるくらいに湿らされる。
 周囲で上がる「キャー」という明るい悲鳴が聞こえた。
 あぁ、これで、僕の恥ずかしい十六年史に「交通量の多い往来で彼女とディープキスをした」という項目が増えてしまった。
 僕と彼女は暫くの間、たぶん、十分くらいキスをしてから、
「ちょっと、君たち」
 という声で、唇を離して声の主を見た。
 紺色の制服に制帽の若い背の高いお兄さん。わーお、ポリスメーン。
 僕らはポリスメンから数分ほどお説教を食らって、二人乗りをしないように注意されて、とぼとぼと歩いて帰った。


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