僕と彼女の愛に満ちたいつもの朝
僕の一日は彼女に起こされることで始まる。
いくらか前まで、というか数日前までは、この仕事は我が妹のもので、毎朝、妹がずかずかと僕の部屋に入ってきて、僕が包まっている布団やら毛布やらタオルケットを剥ぎ取り、床に転がった僕の頭を足で小突きながら、
「ほら、兄ちゃん、さっさと起きなさいよっ! 毎日毎日、妹に起こしてもらうなんて恥ずかしいと思わないのっ!? てか、こー毎日毎日、起こすのも面倒くさくてしょうがないんだけどっ! いい加減、自分一人で起きられないのっ!? 子供じゃないんだから、それくらいできるでしょうっ! もう高校生なんだからさっ! 高校生の兄貴が中学生の妹に毎朝起こしてもらうなんて恥でしかないわっ! まったくもう! 本当に駄目兄なんだからっ! てか、また寝ようとしてんじゃいわよっ! 瞼開きなさいよっ! あぁっ!? 何っ!? 今日、休むぅっ!? 眠いから休むなんて許されるわけないでしょうがっ! このアホっ! いいから、さっさと起きなさいよっ! この糞ボケコンチクショウっ!!」
などと罵倒されながら起こされるのが常であった。
そんなに怒るくらいなら僕のことなんか放っといておくれよと思わなくもないけれども、妹は大変真面目な娘で学校をサボるなんていう不良的活動が身内において行われることに我慢がならないらしい。
まぁ、妹に起こされなかったとしたら、お母さんに拳骨食らって寝ぼけて何が何だか分かっていないうちに無理矢理着替えさせられて外に蹴り出されるという手荒どころじゃあない羽目になるから、煩いながらもさほど暴力的ではない妹に起こしてもらうのは僕にとっては大変ありがたいことであった。
しかし、僕に彼女ができてからは違うのだ。
僕の彼女は、中々に物知りな娘で、僕が彼女のことを一介のクラスメイトとしか見なしておらず、どころか、名前すら知っていなかった時から、何故だか彼女は僕個人の色々な情報を知っていらしゃった。僕の趣味や食事の好み、読んでいる本、得意な教科、大まかな家族構成、主な友人、一日のスケジュール、登下校のルート。当然、僕の住所もかなり前から知っていたようで、交際前に何回も非公式に訪問していたそうだ。そのお陰で付き合った翌日でも彼女は僕の家まで迷わず来ることができた。
その上、その交際開始当日には僕の家族と顔合わせ及び挨拶を済ませていたので、今では彼女は自由に僕の家に出入りすることができるのさ。そして、現に、彼女はいつなんどきでも僕と会っていたいらしく、僕の起床から学校への登校、学校生活、下校。たまに夕飯まで一緒に摂り、更には就寝まで共に過ごすことすらある。それくらい彼女は僕に殆どずぅっと付きっきりで離れないのさ。まぁっ、僕のプライバシーなんて皆無だわぁー。
彼女曰く、本当は「おはようからおはようまで。ゆりかごからゆりかごまで」付き合いたいらしい。つまり、朝起きる瞬間から翌朝起きる瞬間まで二四時間休みなく、そして、生まれた瞬間から転生し、新たに生まれ変わった瞬間まで付き合いたいと。
さすがにそれは無理なので「おはようからおやすみまで。青春期から墓場まで」で彼女は我慢しているところだそうだ。朝から朝までってライオンも吃驚だよ。
そもそも、転生論が正しいかどうかも分からないし。正しかったとしても、僕が再び人間になるかどうかも不明だ。ハリガネムシとかイソギンチャクとかかもしれないし。
そんなわけで、僕の「おはようからおやすみ」を獅子の代わりに守ってくれている彼女が朝弱い僕を放ったらかしにするわけがない。毎朝、僕の家の前まで迎えにやってきて、一緒に登校する義務を己に課しているらしい。ちなみに、彼女の家は僕の自宅からそれほど近いというわけでもないし、彼女の家から学校へ至る経路の途上にあるわけでもないので、わざわざ早起きして、寄り道的に僕の家に向かってから、僕と一緒に登校しているのだ。ご苦労なことですね。
毎朝、家の前まで迎えに来ているのであれば、家の中に入っていき、僕の部屋に踏み込んで、僕を起こすことなど、行きがけの駄賃みたいなもんだと彼女は思ったらしい。交際を始めてから数日した頃には、僕は毎朝、彼女に起こされ、一緒にむしゃむしゃと朝食を食って、のろのろと登校することになっていた。
今となってはいつもの日課でしかない。僕も、彼女も、僕の家族も、誰も違和感を感じないくらい自然なことになっていた。
その日も、僕は彼女に起こされた。
目が覚めると、何故だか口の周りと中がぬるぬるのべちゃべちゃになっていて、少し吃驚した。こりゃ、本当に吃驚栗の介。驚き桃の木山椒の木、狸にブリキに蓄音機、ぶんぶく茶釜は化け狸だ。
しかし、すぐに何事か予想がついた。
瞼を開けると、予想通り、彼女の顔のどアップだ。いつも無表情といっていいくらい表情が薄いせいか眼鏡をかけているせいか知的でクールな印象を受けるスリムな顔立ちをしていらっしゃる。よくクラス委員長か図書委員か風紀委員をやっていそうって言われるけど、彼女は保健委員だ。
しかし、彼女の顔が近距離でも見るに耐える容姿で良かったよ。そうでなければ、僕はかなりの頻度でいやーな気分にならにゃいかんからね。
彼女はベッドの上に仰向けで寝転がっていた僕の上に馬乗りになっていて、僕の唇に自らの唇をぴったりと合わせ、それどころか舌を僕の口の中に潜り込ませていた。今も彼女の舌は僕の口の中で縦横無尽に蠢き、歯を舐め上げ、舌を絡ませ、唾液を啜ったり、流し込んだりしていた。
放っておいたら、いつまでもやっていそうな様子なので、彼女の頬をぺちぺちと叩いて、僕が起きたことを知らせる。
すると、彼女は閉じていた瞼を上げて、僕と至近距離で暫くの間、見つめ合った。
「ん、む、んー、む」
彼女の舌が入り込んでいる口をむぐむぐさせても喋れないことが確認されたので、目で口を離すように訴えかけると、彼女は渋々といった様子で唇を離した。つつーっと唾液の橋が僕と彼女の唇の間に架かる。
「…………おはよう」
彼女が唾液でつやつやした唇を動かすと唾液の橋が切れた。
まぁ、朝、目が覚めたら、まず、おはようだよね。彼女の言葉は間違っちゃあいない。
「うん、おはよう。とっても刺激的な目覚めだよ」
「それはよかった」
挨拶に皮肉で返すと彼女は満足そうに頷いて、生憎、僕の皮肉は不発に終わった。たまーにあるんだよね。皮肉が通じないときとか。駄洒落の意味が通じなかったときと同じくらい寂しい気分になる。
「どいてくれる?」
彼女はこくりと頷いて、ベッドから降りた。続いて僕もベッドから降りて、彼女の隣に立つ。彼女はとても背の高い少女であり、僕は、まぁ、ちょっと、少し、微かに、身長が伸び悩んでいる為、大変、極めて、物凄く、遺憾なことに二人の間には頭一つ分くらいの身長差が生まれてしまう。大変、極めて、物凄く、遺憾だ。本当に。マジで。
そんなことは置いといて、僕はのろのろと部屋を出て、階段下りて一階へ向かう。僕の部屋は二階にあるんだ。彼女は無言で僕の後をついてくるけど、特に言葉は交わさない。
僕は洗面所で顔を洗い、彼女が差し出したタオルで顔を拭いてから、彼女にタオルを渡す代わりに受け取った歯磨き粉つきの歯ブラシで歯を磨き、彼女が差し出したコップで口をすすいで、のんべんたらりと自室へ戻る。やっぱり、彼女は無言でついてくる。
しかし、あれだね。何でもかんでも介助されて、僕は介護老人か?っていう感じだけど、別に僕一人でも洗顔と歯磨きくらいできるんだよ。でも、何も言わんでも彼女が勝手に介助してくれるっていうんなら、まぁ、その方が楽だからね。お世話になったっていーじゃないか。うん。という自己弁護してみる。
自室に戻ってパジャマの上を脱いでから、ふと気付いて、僕は、当然のように僕の後について来て、僕の着替えをじっと見つめていた彼女に声をかける。
「君、ちょっと外出てて」
「何故だ?」
「何故って、君、僕がこれから着替えるからだよ。僕はパジャマ主義者だからね。制服に着替えないと学校に行けない。僕がパジャマで通学している姿を見たことがあるかい? 僕はいっつも朝起きたらパジャマから制服に着替えることにしてるんだよ? 知ってた?」
「知ってる」
「だから、出てってば」
「何故だ?」
「いや、会話がループしてる。だからね? 君、普通、人が着替えちょったら、異性はそこから離れて、着替えを見ないようにすべきなんだよ? それが世間としての常識だよ」
なおも部屋から出て行かない彼女に僕は根気よく常識を教えてあげるけれども、彼女はやっぱり部屋から出て行かない。
「私がいても着替えはできる。気にせずするといい」
「いや、着替えをそんなじっと異性に見られてると落ち着かないんさ」
着替えを同性にじっと見つめられても激しく嫌だけどね。異性にじっと見られるより嫌だ。お尻を気をつけないといけない。
そんなふうに僕と彼女が押し問答を続けていると、いつまで経っても部屋から出てこない僕に業を煮やしたお母さんがやって来た。お母さんはTシャツにジーンズ、エプロンっていういつもの格好で、いつもどおり、不機嫌そうに眉をしかめ、口をへの字にしていらっしゃる。お母さんは何でかいっつも不機嫌そうな顔をしていらっしゃるのだ。
「やぁ、お母さん、おはよぐぅっ」
朝の挨拶をしたら、殴られた。頭を。脳細胞が何億か死んじゃった。まぁ、いつものことさ。
「てんめぇーっ! いつまで経っても起きてこねーと思ってたら、まだ着替えも終わってなかったんかっ! 馬鹿かお前っ! 遅刻すっぞっ! 今、何時だと思ってんだっ!?」
「いや、だってさー。彼女がね。僕が着替えたいって言ってるのに、部屋から出て行ってくれないのー」
僕はずきずきと傷む頭を撫でさすりながら、言い訳する。
「だから、なんだっつのさ? んな細けーこと気にしてねーでさっさと着替えれっ!」
「私が着替えを手伝います」
「ん。じゃあ、よろしく」
そして、お母さんは、僕の布団カバーとか枕カバーとかタオルケットを取って去って行った。洗濯するつもりらしい。こんな朝っぱらから洗濯せんでもええのに。
あれ。ちっと待って。さっき、彼女が変なこと口走って、お母さんに承認されてたよ?
「あ! 何っ!? 君、何で、僕のパジャマ(下)を脱がしてんのさっ!?」
「着替えを手伝う」
「いや、手伝うってっ! ちょっ! やめてっ! パンツはやめてーっ!」
「気にするな。もう何回も互いの裸は見ているだろう」
「それとこれは違うっ!」
「あんな痴女まがいなことするなんて、僕には君の考えが理解できないよ」
「何故、君がそれほど気にするのか私には理解できない」
この子とは常識についてじっくりと話し合わないといけないね。
「くっちゃべってる暇があったらさっさと朝飯食えっ! テーブルの上、片付けらんないだろっ!」
お母さんに命じられるがままに、朝食という名の昨晩の夕飯の残りと弁当の具材の残りを食べていると、ふと隣から視線を感じた。僕の隣に席を占めているのが誰かなんてことは言うまでもないことさ。
「何? 僕の口の周りにご飯粒でもついているかい? ついてりゃ普通感覚で分かるから、それを僕が感知していないとしたら、肌の神経がおかしいってことになるから今日は病院に行こうかと思うんだけど?」
「いや、ついてない」
僕の言葉に、彼女はいつものむっつりとした無表情面で答えた。
「じゃあ、何で見てるの?」
「ついていたら取ってあげようと思って」
「そんなの待ち伏せしている暇があったら、さっさとご飯食べなさいよ」
彼女は渋々といった風に頷くともくもくと食事を続けた。
更に暫し、食事を続けていると、今度は視線だけじゃなく、何かがほっぺにつけられる感触も感じた。
じと目で彼女を見る。
「あのね」
「ご飯粒がついているぞ」
「君が今つけたんでしょ」
彼女はふるふると無言で首を横に振った。
まぁね。君のやりたいことは理解できるよ? 彼氏のほっぺについたご飯粒を「ほーら、ご飯粒ついてるよ! もう! 取ってあ・げ・る」と彼女が取ってやるっていうシチュエーションはよく見るものね。
しかし、だからってね。ご飯粒がついてないからって、人工的に頬にご飯粒をくっつけるのはどうかと思うよ?
「まったく」
「あ」
僕は溜息を吐きながらほっぺについたっつーかつけられたご飯粒を取って、手近にあったゴミ箱に放り込んだ。
食後のコーヒーをのんびり楽しんでいると、お母さんに「何、ゆっくりしてんだこのアホっ!」と怒鳴られ、殴られ、家から蹴り出された。彼女はその後からのっそりとやってきて、地面と絶賛キス中の僕の傍らに立って声をかけてきた。
「大丈夫か?」
「大丈夫だけどさ。君ね。僕のことを好いてくれているのならば、もうちっと僕を暴力から救ってくれたり、僕を庇ってくれたりしないのかな?」
普通ね。自分の好きな人が暴力に晒されていたりしたらさ。守ろうとかするでしょ? まぁ、僕の場合は僕の母親から暴行というか、ちょっと手の早い躾を受けているだけなんだけどね。それでも、少しは庇ったり、擁護したりしてくれてもいいんじゃあないかな。と僕は思ったりするんだよ。勿論、彼女が暴力に晒されていたとしたら、僕は当然、素早く警察に電話するとも。僕じゃあ暴力への対抗手段になり得ないからね。
「……遅刻する」
彼女はぼそりと呟くと、とっとこ通学路を歩いて行った。
無視か。
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