七不思議を求めて
四月。中学校の入学式。桜の舞い散る中を進み、体育館で祝いの言葉を送られる。
そんな中を私、伊藤文菜を含む新入生達は晴れやかな顔で式に臨む……ことはなかった。
「……」
式が終わって、私はチラリと校舎に目をやる。鉄の棒で組まれた足場が校舎中を張り巡っている。景観のためか安全上のためか、それを網のような布で覆っている。――校舎中を。その校舎内の教室に戻るため列になって歩いていると、後ろの子がお喋りをした。
「……ほら、地震で安全じゃなくなったから」
「危険ならしょうがないよね、でも入学早々これじゃテンション下がる~」
校舎は八月をもって完全に取り壊される。その準備のために著しく景観が悪くなった校舎を前にしたんじゃ、世間並みの楽しい入学式にはならなかったようだ。さらに教室に入ると、体育館にいた時には聞こえなかった工事のガガガ、とかズゴゴ、とか言う音が凄まじい。新生活への期待が思わぬ形で裏切られて、不満げな生徒は多かった。
「やってらんねー。オンボロの校舎で八月までいなきゃならねーのかよ」
「先生が言ってたんだけどよ、上の二、三年生なんかはこの工事の音を毎日聞かされてて、新一年――俺らが羨ましいってよく言われたってさ」
「羨ましがるなら一切工事の音聞かなくていい来年の奴らだろー? ってか、なに、工事にそんなかかんの?」
「かかるらしいぜ、なんせ築数十年で、千人は収容できる校舎だろ? 壊すのにも準備がいるんだと」
「はやく壊しちまえよー、汚い校舎とか工事の音とかマジやってらんねーよー」
入学して三日後、校舎のあちこちでこんな会話が繰り広げられていた。皆、一刻も早く新しい校舎に移りたいらしい。私は……。
「文菜ちゃーん、次は化学室だってー」
友人の呼ぶ声に笑って返事して、私は一緒に教室を移動する。
「……化学室は今プレハブで事実上外になるんだよね。あーあ、移動めんどくさーい」
「八月までの辛抱だよ。あと四ヵ月後には、生まれ変わった校舎で勉強できるよ!」
「新しい校舎かあ。どんな校舎だろうね、楽しみだよね、文菜ちゃん!」
その返事には曖昧に笑って、移動が楽になるなら嬉しいよねと答えておいた。
◇◇◇
その日、部活で遅くなった私は、忘れ物を取りに夕暮れの教室を訪れていた。ホラー映画とかなら誰もいない教室がやけに不気味だったりするけれど……。
窓に目を向けた。鉄柵の向こうに布。かろうじて今夕方か、と分かる程度しか見えない風景。誰もいなくても不気味とか怖いとかそんな雰囲気が全くない。たまに足場を移動する工事の人が見えたりするし、不定期にガガガと工事の音はするし。そんな光景に背を向けて、私は下駄箱に向かって歩き出す。
廊下にも誰もいなかった。それを確認したあと、歩きながら私は溜まっていた本音を口にすることで吐き出す。
「みんな新しい校舎新しい校舎って。そんないいものかなあ。歴史ゼロで自分達が初代なんてプレッシャーじゃん。先生達だって最近『あなたがたは新校舎を初めて使う者として……』 とか『初代という自覚を……』 とか何かと押し付けがましいし」
ふと、立ち止まって廊下の壁の一部を見る。かなり古い落書きと思われるものが残っている。
「みんなは汚いって言うけど、歴史ある古い物とか、こういうしょーもないものとか、私好きなんだけどな……。校舎無くなっちゃうの、ちょっとイヤだな」
過去の卒業生も学んだ校舎。そんな足跡もない中を歩くのは、内気な文菜には少し怖かった。ただ、それだけのはずだった。
『ありがとう』
ふと、文菜の耳にそんな言葉が届いた。声の主を確認するより先に、文菜の身体に悪寒が走る。
「――――! な、何?」
慌ててまず声の主を探す。しかし誰も付近にはいない。工事の人の気配も無い。ただ、どんどん暗く涼しくなる校舎の廊下があった。
「幻聴に寒気とか……私もしかして風邪ひいてる? やだなあ。今日は早く帰って寝よう」
そう無理に納得して、文菜はその日はそれで帰った。
◇◇◇
「ねえねえ、知ってる? ここの校舎の七不思議!」
入学して一ヶ月、おしゃべり好きな女の子は色々な噂話でクラスの友達と盛り上がる。今日はどうやら先輩達から聞いた、よくある七不思議の話らしい。私の友人達は結構な情報通だ。
「ちょっと待って、あれでしょ、七つ知ったら呪われるんでしょ? 怖いよ」
そう一人が口にすると、友人はけたけたと笑って言った。
「知ったところで何よ、ここもうすぐ壊されるじゃん。事前に地鎮祭もやってるっていうし、幽霊とかいてもこんな状況じゃ祟ったりしないって!」
「た、確かにそうかも……」
「それでね、一番目は、トイレの花子さん! 一階のトイレで、五時ちょうどに五番目のトイレで五回ノックしながら、『花子さん遊びましょう』 って言うの。そうすると……出るんだってー!!」
「ええっやだ! 一階のトイレっていったらすぐそこの……」
そんな友達同士のしょうもないおしゃべりは、チャイムの音にかき消された。間もなく先生が現れて授業が始められた。この授業が終われば、今度は部活である。友人達は運動部だから、お喋りする暇もないだろう。七不思議の話はこれで終わりのはずだ。……本当の事いうと、私怖いのとか得意じゃないし、ちょっとほっとしていた。
◇◇◇
所属する文芸部の活動が終わり、私は三階の部室から一階の下駄箱に向かって歩いていく。階段を降りると、ふとトイレが目に入った。
私の家は他の皆よりちょっと遠い。トイレに行きたいとか思っても簡単にはいけない。行けるなら今のうちに行っとこうと思って、荷物を廊下に置いてトイレに向かう。
用は済んで爽やかな気持ちで手を洗っていて、唐突に思い出した。
ここ、七不思議の……。
フラグみたいだなと思って、クスクス笑う。遠くに工事の音、さらに運動部の掛け声。日が暮れきっておらず明るいトイレ内。夜に聞く怪談は怖いけど、こんな状況で聞く怪談はへっちゃらだ。
見回して、誰もいないことを確認する。そして問題の五番目のトイレ。少子化で使われなくなったからか、とっくの昔にそこは物置になっている。トイレの物置に住む花子さん……とまた笑って、私は五番目のトイレの前に立つ。
五回ノック。
「はーなーこーさん! あーそーぼー!」
出るわけ無い。文芸部の部室を出る時に見たけど、今は三時半。今日は課題のテーマ決めだけで終わったから早目に帰れるのだ。そうじゃなきゃやろうとは思わなかった。
案の定、いつまで立っても静かなトイレ内に、ほら見たことかと私はいい気になる。友人の言ったとおりだ、壊される校舎の七不思議なんて。そう思って、ここから出ようと五番目のトイレから背を向けた時だった。
『はーあーい』
誰も、いなかったはず。
考えるより先に動く。ここから出なければ。女子トイレ入り口の取っ手を勢いよくつかむ。
開かない。ガチャガチャと何度力をいれても開かない。背筋に冷たい汗が流れる。無我夢中で取っ手と格闘する私の耳元で囁き声がした。
『呼ばれたから来たのに』
◇◇◇
「だって……」
「だってじゃない。とにかくこんな事はもうやめるんだ」
遠くから声がする。誰だろう? 小さい女の子の声と、とても穏やかな優しい感じの、男の子の声……。
「この子を――文菜さんをこれ以上怖がらせちゃいけない、いい?」
「はぁい……」
私?
「トイレに寝かせておくのはさすがに……。外に移動させるのは僕がやるから」
「寝かせておけばいいのに。ジゴウジトクじゃない」
「だめだよ。全て夢だったと思わせておきたい。あの人も反省してたしね……。これ以上、この子は七不思議に関わってはいけない」
身体が重くて目が開かない。何が行われているんだろう? 何を話しているんだろう? 何も分からないまま、けれどその感触だけははっきり分かった。誰かが私を横抱きして、どこかへそっと寝かせてくれた。
「全部、夢だから……」
待って、いかないで。あなた、誰?
そう尋ねたいのに、身体はまたどんどん重くなっていく。ふっと意識が飛んだ。
◇◇◇
「伊藤さん!? 大丈夫!?」
次に意識が回復した時、目の前には心配そうに私を覗き込む運動部のクラスメートがいた。
「私……?」
「トイレの前で倒れてたんだよ、大丈夫? 貧血? これ何本か分かる?」
「三本……」
「あ、大丈夫っぽい。伊藤さん身体弱いの?」
「……そうなのかな?」
「自分じゃ案外分かんないよねー! でもほら、トイレの中で倒れなくて良かったじゃん! トイレの中だったらエンガチョ!」
「え?」
意識が完全に回復してきて、辺りを確認すると、確かにトイレ前の廊下だった。すぐ側には自分で置いた荷物もある。おかしい。私の記憶が確かなら、トイレで意識不明になったはず。……無意識にここまで逃げたのかな? でもそもそも、あの記憶、どこまでが現実なんだろう? 夢だったの? 私そもそも入ってなかったのかも……。
納得しかけている私の近くで、クラスメートが声を上げた。
「あれ、ハンカチ落ちてる。おーい、これ伊藤さんのー?」
クラスメートはトイレの中からそれを持って現れた。百円ショップで現品限りで買ったそれ。人に見られるのは地味に恥ずかしいキャラもののハンカチ。私の好きなキャラのハンカチ。間違いなく、私のだった。
私、トイレに入ってる。じゃあ、あれは……。
『文菜さんをこれ以上怖がらせちゃいけない』
『外に移動させるのは僕がやるから』
『全部、夢だから……』
優しい声の、優しい人。あれは、夢じゃないの?
◇◇◇
「え? 文菜ちゃん七不思議が知りたいの?」
「お願い!」
次の日、私は昨日七不思議を教えてくれた友人に、残り全部教えてくれと頼み込んでいた。
私は結局、あの人の姿を見ていない。どこの誰かも分からない。多分この中学校の人なんだろうけど……手がかりは何か七不思議に関係がありそうってことだけ。オカルトマニアなのかな? とにかくそれなら自分も知っていなくては!
「別にいいけどさー、文菜ちゃん」
「何?」
「好きな人でもできたの? 昨日と印象違う」
友人のその言葉に、ぼっと顔が赤くなるのを自覚した。
「え! ほんとに!?」
「こ、これはちが……とにかく七不思議を教えて! 文芸部の課題で使うの!」
「いいけど、あとでその好きな人教えてよねー。あのね……」
友人が話してくれた七不思議はこうだった。
①トイレの花子さん
②天井に現れる謎の足跡
③人体模型が手招きする
④真夜中に職員室で遊ぶ男の子
⑤音楽室の絵画が動く
⑥図書室のひとりでに開く扉
⑦すすり泣く女の霊
一通り聞いたあと、友人に私は言った。
「で?」
「でって?」
「えっと、七不思議に関係のある男の人とか……これ聞いたの、ひょっとして怪談好きな男の先輩だったり?」
「普通に女バスの先輩だよ。どうしたの文菜ちゃん」
「ええと……あ、チャイム鳴っちゃう!」
それから、ことあるごとに恋愛話を聞き出そうとする友人の追及をかわしながら、メモした七不思議を調べる日々が始まった。
◇◇◇
トイレの花子さんはちょっと後回しにするとして、②天井に現れる謎の足跡から調べることにした。放課後の校舎で私の声の人追跡は始まる。
②のこれは、天井の汚れがそれっぽく見えるということからきた噂話らしいけど……。特に多いという、一階の廊下……そういえばすぐ近くに女子トイレがあるんだ……を汚れを確認しながら歩いてみる。
なるほど、まるで天井を歩いたみたいに足跡が続いている。けど、他の汚れだ、電球を変える際についた汚れだと言い切れないこともない。でも他の汚れにしては……。
『え、僕のこと調べてる?』
一瞬、あの人の声が聞こえた気がして、バッと後ろを振り返る。
誰も、いない。気のせい? でも……。
幻聴でもいい。七不思議を調べて幻聴でもあの人の声が聞こえるなら、怖くても調べ続ける。
『……』
◇◇◇
③人体模型が手招きする
場所を変えて人体模型――外のプレハブに置いてある化学室へ向かう。化学の先生から忘れ物をしたからと言って鍵を受け取った。さあ来い!
電気を点けて悲鳴が出た。私が。人体模型の腕がこっちを向いている。気が遠くなるのをこらえて人体模型を睨みつける。あの人に会えるなら怪奇現象くらい! ん?
良く見たら、誰かのいたずらでそういう風に固定されていただけだった。前の授業は何組だこのやろう。そっと近寄り、戻してあげる。他の人が驚いたら大変だ。それにしても。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花? うーん……」
溜息をついて、私は次の七不思議へ向かう。
『会ってあげたら?』
『まずいだろ。人体模型も何考えてるんだ』
『後ろにいるよ! ってつもりだったんだよね、あれ』
『余計なことを。大体昼間にやっても分からないだろ』
私が出て行ったあとのプレハブで、そんな会話があったのは勿論知らない。そして今日はこれで終わりにすることにした。
④真夜中に職員室で遊ぶ男の子
真夜中指定なのがつらい。下校時刻の鐘がなったら、どのみち学校を締め出されるから……。しかも職員室って……。放課後は文芸部のネタを探すため、を名目にとにかく学校のあちこちを移動していられるけど、真夜中はね。ん? 一ヶ月経ってるのに課題が決まってないのって? 一学期通しの課題なの。夏休み明けに提出なんだって。何か一つテーマを見つけて、それに関する小論文みたいなのを顧問に渡す。早い人はもう決めて書き始まってるけどね。私? ……いいテーマが見つかったらね!
とにかく今は七不思議。日直の仕事で、集めたプリントを提出の口実で、職員室に入る。
「あら、二組の先生、今ちょっといないみたい。最近は情報保護とかで他の先生が受け取るわけにもいかないし……伊藤さん、ちょっと待っててくれる?」
担任がいなかったので、他の先生がそう言って職員室の片隅のソファーに私を座らせ、コーヒーまで出してくれた。ラッキー!
「じゃあ、ちょっと他の仕事してくるから」
先生達はそう言って私から離れ、それぞれの席で書類とか電話とか横の先生と打ち合わせとかしている。見ていると分かる、これは七不思議の雰囲気じゃない。プリントを横において、また溜息をついてコーヒーを飲む。その瞬間、「今日は少し暑いですなあ」 と中年の先生が窓を開けた。それと同時に――。
バサバサバサ!!!
横に置いておいた三十人分のプリントが、一斉に床に落ちた。その音に先生達も一斉にこっちを向く。気まずっ!
「すまんすまん、風が強かったんだな」
中年の先生はそう言って、窓を閉めた。あの、今日ほとんど無風ですよね? とは誰も言わなかった。私の両手はコーヒーカップだったし、行儀よくしてたからちゃんと置かれたプリントの束が落ちるのは、風のせい以外考えられなかった。あれ……。
『……おい、今の文菜さんのプリント……』
『そう睨むなよ。ちょっと脅かしただけじゃん』
◇◇◇
⑤音楽室の絵画が動く
気を取り直して、次の七不思議。音楽室の絵画が動く。しかし放課後に行っても普通に鍵閉まってるし、授業中に観察するしかないんだけれど……。
「はい、校歌を最初から!」
「おお 緑の大地に 構えし学び舎~」
……こんな雰囲気でホラーも何も……。歌いながら横目で見る絵画はああ教科書の人だーくらいで怖いとか不思議とかそんな気持ちは全く湧かないし。うーん。
『歌上手いよね。文菜ちゃん』
『声がしっかりしてる。だからあの人も独り言を聞けたんだろうけど』
『ねえ、あの人にだけでも会わせたら?』
『それが一番良くないだろう。彼女の言ったことが本当ならね』
◇◇◇
⑥図書室のひとりでに開く扉
実は我らが文芸部の部室でもあるのですが。
「あー! 先生またこの扉閉まりませんー!」
「古いからなあ……。あと数ヵ月だから、それまで辛抱して」
普通に古くて閉まらなくなってるんだよね。部員の一人と先生のやり取りを見て思う。閉まらない状態で放置してるんだから、そりゃあ風でひとりでに動くわ。
「さて、伊藤さんはテーマは決まりましたか」
「ええと、それはまだ……」
「ふむ。まあ九月までに終わればいいからね」
先生に聞かれてぎくっとするも、ゆるい対応で何とかなった。テーマねえ……。今はそれより七不思議! 資料を探すふりして、必死に卒業生の文集を見て何かヒントがないか探しまくる。
『会ったほうが勉強に集中できるんじゃない?』
『……だめだよ。彼女は、生身の人間だから』
◇◇◇
⑦すすり泣く女の霊
夕暮れ以降に、どこからか聞こえてくるらしい。それを聞いてから私は、なるべく下校時刻ぎりぎりまで残って正体を探ることにした。
下駄箱付近だったり、階段付近だったりで声が聞こえるのを待った。それと、確かめたいこともあった。
「なあ、あのプリントいつ期限だっけ?」
「来週ー」
「やっべ体操着忘れた!」
「あーこの靴そろそろ買い換えないとなー」
学年の違う人達がすれ違うスポットで、あの声の人がいないかと耳をすませる。七不思議も調べられて、あの人も探れる一石二鳥! しらみつぶしに当れば、きっといつかはあの人に当るはず! 特に下駄箱は、この学校の生徒なら必ずここを通るんだから。
『うわあ健気ー。で、いつまであれやらせるの?』
『……』
『おーい?』
『どうせ、九月になれば全てが終わるんだから……』
『そうだけどさ……』
◇◇◇
七月。校舎が取り壊されるまで一月を切った。あれから私はあの優しい声の人と会えたかというと。
「~~~! 何で影も形も見当たらないの!」
七不思議の現場に何度も足を運んだ。情報通の友人を頼って優しい声の男子生徒を片っ端からあたった。でも全部違った。あの人は見つからない。気配らしいのはあるんだけど……これは私が自意識過剰だから? それに最後の七不思議は結局真偽不明。
『七不思議に関わってはいけない』
そんな言葉を残すから、そんな言葉しか手がかりがないから……。私の予想、外れていた? 落ち込む私と対照的に、夏休みが迫り、工事の音が相変わらずうるさい校舎内でも、他の生徒達は浮かれていた。
「学校始まるのはイヤだけどさ、新しい校舎は早く見たいよな!」
「やっとボロ校舎と工事の騒音とおさらばだー!」
下校するたびテンションがあがる男子達。
ある放課後、教室から下の下駄箱を見ると、どうせすぐ壊すんだからいいだろうというように、男子の一人が壁を蹴って帰っていくのが見えた。
「うわ! なにあれ……」
確かにすぐ壊す校舎かもしれない。だけど、だけど。不快だ。
「何百人と送った校舎の最後に、そんなのないよ……」
あちこち見てまわったからか、三ヶ月で私はこの校舎に情が湧いた。もうすぐ取り壊される状況なのもあって、ああいうことする男子には怒りを覚える。むかむかしていると、どこからか声が聞こえてきた。
『トイレ……』
「え?」
やはり誰もいない。でもはっきり聞こえた。『トイレ』 って。すぐ近くの、そこの女子トイレなのかな?
実はあれ以来、私は一階女子トイレを使用していない。職員室脇のを使ったり、部室脇のを使ったり。何故って怖いからだ。でも、そういえば、確かに私と、あの優しい声の人はあそこで出会った。
それも、トイレの花子さんを呼んでいる時。……。もし、もしもう一回同じ事をしたら……。
ちらりと教室の時計を確認する。四時半。今度は、ちゃんと五時にやってやる。
◇◇◇
四時五十八分。この時間帯に一階の教室にいる人はいない。職員室は三階で、部室はほとんど二階か三階だし、運動部は外だから。それ以前に、五時は下校時刻で、よっぽど厳しい部活でなければ大概がとっくに終わって帰っている時間だ。工事の人もこれくらいになると校門が閉まるからいなくなる。
だから、きっと何かが出やすい時間。危険なのは分かってる。でも、一度助けられた私には、またあの人が現れて助けてくれるんじゃなかという奇妙な確信があった。トイレの前に立つ。
「花子さん……? いる? 来たよ」
不気味なほどシーンとしたトイレ。そうだよね、まだ四時五十九分だもの。出すには五時ちょうどに誰かが呼び出さないと。唾を飲み込んで、トイレの中に入ろうとした。
「本当に、無茶するなあ……」
そうしたら、あの優しい声がして、誰かが私の腕を引っ張るのを感じた。あの人だ! 勢いよく振り返る。
「えっ」
私の右腕を引っ張る手は、天井から伸びていた。視線を天井に移すと、重力に逆らって立つ半透明の男の子……。
「これが正体だけど、満足?」
立ちながら意識が飛んだ。
◇◇◇
「だから、会っちゃいなよって前から言ってたのに」
「会ってどうしろと? 住む世界が違うんだから」
はっと目を覚ますと、真っ暗だった。しかしそれに徐々に慣れると。彼らに気づいた。あの時の二人の声だ。小さな女の子、それに、儚げな風貌の男の子。……ちゃんと、地面に立ってる? うん立ってる。上半身を起こすと、少女が話しかけてくれた。
「あ、気がついた? こんにちは。花子です。やーあの時はごめんね? 正直驚かすつもりはなかったんだけど、声かけたら気絶するし、引き戸なのに押してるし……。あ、そうそう、あの人に言われて会いに来ようとしてくれてたんだよね? それをスグルが止めるから」
小さな女の子は、花子と名乗った。目を凝らしても半透明だけど、そういうことだよね? 本物なのを驚くべきか、トイレで気絶までしたあの時のことを恨むべきか、ドアの真相に恥じるべきか……。悩む私をよそに花子ちゃんは明るく言った。
「でも結果オーライ? 文菜ちゃん、スグル探してたんでしょ!」
「え、えっと……スグル、くん?」
男の子のほうを見る。ちょっとムスっとしてたけど、やがて諦めたような顔をして、自己紹介してくれた。
「二度目まして。天井の足跡の犯人、スグルです。あのさ、君――」
話を遮るように軽快なスマホの着メロが鳴った。慌てて電話に出ると、心配そうな母の声。
『文菜? 良かった出てくれて……どうしたの? 今日は随分遅いけど』
「あ、その、と、友達のうちに寄ってから帰るから! 遅くなるけど、帰るから!」
『そうだったの。それならいいけど、今度からは事前に連絡しなさい? まったく何のためにスマホを買ってあげたのやら……』
まだスグルくんといたい。そう思った私は、咄嗟に嘘をついた。携帯を切って、二人を見ると、花子ちゃんは笑っていたけど、スグルくんは怒ったような顔をしていた。
「親を心配させるなんて」
「ご、ごめんなさい……」
「大体ね、霊に近づくっていうことがどういうことか分かってやってる? 下手すれば死ぬ可能性もあるのに君は!」
何で想い人に会えたのに怒られてるんだろう。いやそれより想い人が人間じゃなかったんだけど。ダブルショックで無意識に涙が零れる。
「あー! スグル泣かせた!」
「うっ……」
ボロボロと夜の校舎で泣いていると、不意に誰かに頭を叩かれた。
「スグルは頭が固いんだよ。自分は病弱で学校に通えずに死んで、親不孝だった、自分も学校に通いたかったーの念で浮幽霊になるし。だからって他人にも強制するなっつーの。なあ?」
こっちは年頃の男の子らしい声。でも声の主を見ると、やっぱり半透明。うわー、夜の学校すごいなー……。
「カツヤ!? 何しゃしゃり出てるんだ。というかお前は、職員室の件を文菜さんに謝ったらどうなんだ!」
「職員室? あ、いつかのプリント……」
え、もしかしなくも、この人があれの犯人?
「悪い悪い、あの時はちょっとふざけすぎた。つーかスグル、お前な文菜と二人分説教しなければならないとか言って怒鳴りまくったくせに。それじゃ俺叱られ損じゃね?」
簡単な謝罪? をした後、カツヤくんはスグルくんに矛先を向けた。何か空気悪いけど、この二人仲がよろしくないのだろうか。
「あの時は、文菜さんに会うつもりはなかったんだ。だがこうして会ったからには別だ。迷惑かけた謝罪を……」
「うぜー。お前に言われるまでもねーよ。つーか文菜を先に見つけたの俺だぜ? 職員室からは外の景色がよく見えるからな。工事中の校舎に唖然とする奴らの中で、寂しそうな顔をする文菜は目立ったからな」
二人が何やら言い争っている横で、花子ちゃんが袖を引っ張って聞いてきた。「ねえねえ、どっちが好み?」
……は? 好みって……。好みも何も、私ずっと恩人を探して……。あれ、そういえばこの三人、どこまで私のストーカーのような行為を知ってるんだろう……。羞恥で頬が染まる。
「あー、これはだめね。諦めなよカツヤー」
「……チッ」
三人が何を言っているのかよく分からない。でもとにかく、私がしたいのは、あの声の主、スグルくんに会って、どうしても直接お礼を言いたい。幽霊だって分かっても、考え無しだって怒られても、私……。
カツン、カツン
ずっと向こうから足音が聞こえた。
「あ。見回りの先生だ」
花子ちゃんの声で我に返る。そうだ、ここは夜の学校――――。見つかったら強制的に帰される。しかし今自分たちのいる場所は廊下の真ん中で、隠れられそうに無い。良い考えが思いつかずわたわたしてると、思わぬ助けが入った。
「ん? 何だこれ……。人体模型? 誰のイタズラなんだ全く……」
先生の独り言を聞くに、外のプレハブにあった人体模型が廊下に落ちていたらしいけど、え? 誰がそんなイタズラを……。首を捻っている私に、花子ちゃんが意味深に笑った。
「あ、人体模型くん助けてくれたみたい。文菜ちゃんモテモテだねえ」
「え?」
「勝手に動いたのに、あとの人が驚かないようにって戻してあげたでしょ。うふふ」
……つまるところ、人体模型は立派な……考えるのやめたい。
「お、チャンス! 文菜をあの人のところに連れて行こうぜ!」
「待てカツヤ! このまま文菜さんは人の場所に……」
「不義理なやつだな、あの人の最後の願いくらい叶えてやれよ」
「……」
何かまた二人が争っているけど、『あの人』 って?
「これだから若造は……。行くよ文菜ちゃん」
動揺する私を立たせたのは、一番年少に見える花子ちゃんだった。そのまま私を連れて階段を登っていく。慌てて二人も追ってきた。……でも、若造? あの人??
「分かんないって目だねー? 私が何年幽霊やってると思ってるの? ここ十数年のあいつらとは格が違うよ」
「な、長生き?」
「幽霊だとちょっと違うけど、まあそんな感じ。それとあの人は……文菜ちゃんは私より先に会ってるよ」
◇◇◇
連れて来られた先は、屋上だった。わー、アニメと違って滅多に来れないから、新鮮。ただ工事の器具でごちゃごちゃしてるからムードは皆無だけど。それでもちょっと感動していると、カツヤくんが近づいて伝言を残す。
「さて、振られた男は潔くフォローに回りますかねー。どれだけやれるか分からないけど、見回りの足止めしてくんな。……おいスグル、男だったらビシッと決めろよ?」
何のことか私には分からないけど、分かったらしいスグルくんは真っ赤になっていた。
「カツヤ!」
「何だよ照れんなって!」
カツヤくんは面白そうに笑っていた。意味が分からないし部外者すぎるしでもじもじしてる私の横を、花子ちゃんがすり抜ける。
「私も行くよ。人手は多いほうがいいし。じゃ、あとはよろしくねー」
二人が去って、夜の屋上で、幽霊と二人きりになった。非日常すぎて、この感覚をどう形容していいかわからない。ただ、幽霊でも何でも、好きな人だから、ちょっとドキドキした。ええと……。か、会話を盛り上げるには、天気の話題、過去の話題、出身地の話題……。夜だし、幽霊だし、学校だし!
「文菜さん、僕は本当は関わらないほうがいいと思ったんだけど……」
一人ドギマギする私のよそに、スグルくんはただただ、寂しそうだった。
「なら、どうして助けてくれたの?」
「最初のこと? 助けたんじゃない、身内の不始末をもみ消すのを手伝っただけだよ」
そうだったんだ。なんか、勝手に人魚姫に助けられた王子様な気分だったけど。私、夢見がちなんだなあ。
「でも、一番よかったのはそのまま放っておくことだったのも確かだけどね」
「え?」
一気に浮上する。スグルくん、少しだけでも私のこと好き、かな? 少なくとも、完全に嫌いじゃないかなあ。だったら嬉しいんだけど。
「あの人のこと、僕も感謝しているから」
……だから、誰?
「ええと、あの人って?」
「文菜さん、七不思議は知ってる?」
急に話題を変えられた。幽霊と人間だからなのかな、話が噛み合わないのは。ううん、それでも頑張ればきっと!
「七不思議? うん知ってる。スグルくんに会おうと、その、お礼を言いたくて手がかりかもと思って探してたけど、花子ちゃんとスグルくんとカツヤくん……と人体模型くん以外は結局は噂に過ぎなかった気がする」
「こういうのはね、噂と真実が交じり合って出来るんだ。だから嘘も混じるし、本物も混じる」
「そっか、そういうものなんだ。じゃあ私は本物のは全部見たのかな?」
「そうだね。でも一人忘れてるよ」
「?」
「その人が、君にお礼を言いたいって言うからね。よくないとは思ってるけど、僕も住まわせてもらってる身だから断りにくいし……」
住まわせてもらってる?? なんのこっちゃと思っていると、どこからともなく声が聞こえる。
「ありがとう」
「!」
三回目だ。最初のありがとう。次のトイレ。そして今回の……。でも誰? どこ? キョロキョロする私に、スグルくんは笑って言った。
「彼女は、この校舎そのものだよ」
「え?」
「ありがとう……慕ってくれて」
校舎?
校舎なの?
「えっと、本当にこの中学校、なの?」
「ええ」
「もうすぐ取り壊されちゃうこの?」
確認のため言っただけなのに、彼女? は突然しくしくと泣き始めた。ああ、すすり泣く女ってこれだったんだ……。
「まだ、生きたかった」
「校舎さん……」
「けど、今の私では、遠からず生徒の害になってしまうから……」
あの時の地震の……。
「でもまさか、誰からも疎まれて消えるなんて思わなかった。悲しかった。それを、文菜、貴方だけが庇ってくれた」
「その、そんなつもりは……」
「いいの。嬉しかっただけだから。ありがとう」
お礼を言われたり、喜ばれたりするのを嫌う人間は、そうはいないと思う。でもやっぱり、ちょっと照れくさい。
「でもごめんなさい。私が貴方を慕ったばかりに、よかれと思ったばかりに、文菜、貴方に霊感がつきそうになっている」
「はい?」
霊感? 私に? そう思っていると、スグルくんが代わりに説明してくれた。
「言っただろう。霊に近づけば死ぬこともあるって。最初に校舎からの直接の接触。次に花子の遊びで接触。あと僕と……。こういうのを避けるために、普段は天井を住処にしていたのに」
「霊感が、つくとどうなるの? 中学の間中、スグルくんと一緒にいられる?」
「その前に悪霊に殺されるよ。霊感は媒介だからね」
「じゃあ……どうすればいいの?」
「……これで彼女の用も済んだし、今日を最後に霊的な物との接触を立てば、百年くらいは大丈夫だと思う」
「一生、会えないの?」
一瞬だけ、苦しそうな顔をしてスグルくんは言った。
「そうだよ。大体、僕はずっと心配していたんだ。君がいずれ困るんじゃないかって。分かったら大人しく帰って」
迷惑じゃなくて、心配って言ってくれた。それだけで充分だ。初恋の終わりには。
「分かった。戻る……。でも会えなくてもどこかにいてくれるんだよね?」
せめてそれが分かれば安心して、私は去れる。けれど、思うような答えは返ってこなかった。スグルくんは、切ない表情でただ事実を言った。
「無理だと思うよ」
「え、どうして?」
「蝉は成虫になるまで、地中で過ごすだろう? その上にコンクリートを流したらどうなると思う? ……出て来れないよね。新しい校舎っていうのは、僕達幽霊にとってもそういうものだから」
「消えるの?」
「多分ね」
あっさり言うスグルくんが、少しだけ憎らしかった。
「さあ、早く帰りなよ。母親も待ってる」
「……私、スグルくんが」
「僕もだよ。だから、ね? 何も生まない夜の世界に、君まで来なくていい。君はずっと、光の下を歩くんだ」
思わず叫びそうになった。それをもっと強い叫び声が制する。
「こらー!!! 誰だこんな時間まで!!!」
◇◇◇
一時、不良少女のあだ名がついた私だけど、すぐに夏休みに入ったから、その噂が消えるのは早かった。そして夏休み明けしばらくして、今度は私に天才文学少女のあだ名がついた。文芸部の課題で書いたレポートが先生に目を付けられ、あれよあれよとついには新聞に載ったのだ。
「『旧校舎によせて』 これは素晴らしい作品だね。先生は思わず泣いてしまったよ。歴史やいわれはもちろん、数千人の卒業文集からどこそこの落書きを特定したり……」
スグルくんを調べていたついでの産物だったんだけど。さすがにそれは言えない。というか信じてもらえないだろうな。
「新しい校舎になった今、何を無駄なことを、という人もいるかもしれない。しかしね、伝統という言葉がある。きっと志とか気持ちとか、新しい校舎になっても受け継がれていくものだと先生は思う。君のこの作品は、それを証明してくれる気がするんだ」
顧問の先生のその言葉に、二重の意味で嬉しかったのに気づく人はいるだろうか。作品を褒められたこと。彼らの生存を暗示するような言葉であったこと。
「そういえば以前、君が真夜中まで校舎にいたのは、この作品のためだったのかな? 冒険好きにもほどがあると思ったけど、この作品を読めば納得してしまうな。君は足で調べるタイプだね」
あの出来事すらも、こうして上書きされていく。少しだけ悲しかった。やがて顧問の先生との話が終わり、新部室を出て、かつの旧校舎の廊下を思い出しながら歩く。
きっと私はいつまでも称え続けるだろう。校舎が最後に私というちっぽけな存在を思ってくれたこと。お茶目な花子さん。短い間だったけど、あの立て付けの悪い扉や、重々しい絵画、人体模型の謎、職員室でのハプニング。そして……。
ふと、天井を見上げて、心臓が止まるほどの衝撃を受けた。
新しい校舎の天井に、足跡みたいな、汚れがあった。