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鮭チャーハンを食べる動物に恋をした。



 やあ。いきなりだけど僕の話を聞いてもらいたい。

 ほんのちょっと長くなっちゃうけどね。

 今から僕の言うことを文字に起こしたら原稿用紙六十枚程度にはなると思うんだ。

 だけど、話を聞くのに疲れたらお茶を飲んだり、寝っ転がったりして休んでくれてもいっこうにかまわない。

 そもそもお茶を飲んだり寝っ転がりながら話を聞いてもらってもいい。

 もちろん、立って聞いてくれたってかまわない。
 もしかしたら、同人イベント会場の立ち読みコーナーだったり、スペースの机の前かもしれないし、イベント帰りの電車の中かもしれない。

 なんでそんな場所で話を聞けるのかはよくわからないんだけど、まあ要は、好きなタイミングに好きなように聞いてくれってことだ。

 僕は君が聞いてくれる時にいつでも話すからさ。

 いや、まあ単純に暇なだけなんだけどな。僕としてはどんな形でも聞いてもらえばそれでいいんだ。

 さて、今から話すことは恋についてだ。

 誰でも恋ってやつは一度は経験するもんだと思う。遅かれ早かれ……ね。

 僕の場合は高校生の時だから遅い部類に入ると思う。

 初恋が遅かったからといって恋愛自体に興味がなかったわけではない。

 むしろ恋愛がしたくてしたくてたまらなかった。

 だから恋愛ものの漫画やゲームに明け暮れていたほどである。だけど初恋の人はいつまでたってもなかなか僕の目の前に現れなかった。

 それもそのはずで、僕の通っている学校が中高一貫の男子校で、どこを見渡しても男しかいない(あろうことか教師も全員男だ)。

 初恋の人どころか初恋の人候補も現れない状況で、僕の小説や漫画やゲームなどを利用した擬似恋愛はますます進んでいく。

 もう何人の女の子と付き合ったかわからない。
 いや、もちろんもちろん脳内で!

 そんななかで僕はついに初恋の人に出会った。
 いや、初恋の「人」っていうのには語弊があるかもしれない。

 だって僕の初恋の相手は「ツキノワグマ」なんだから。

 あ……いや、笑えないって。
 ボケが今ひとつだって。いや、マジなんだからしょうがない。
 別にボケてるわけじゃないんだぜ。

 本当に僕の初恋の相手は「ツキノワグマ」だったんだ。

 笑っちゃうだろ。信じられないだろ。そんな笑っちゃって、信じられないような僕の初恋話を今から語ろうと思うわけだ。

 君が飽きちゃわないように僕も頑張って話すから、最後まで聞いてくれると嬉しい。




     *

 月野つきの 琢磨たくま
 これが僕の名前。

 僕は自分の名字が嫌いだ。
 小さなころからずっと嫌いだった。

 これは、小さな時から今に至るまで僕はまわりの友達よりも体が大きかったことにも関係がある。

 縦にも横にも人より大きかった僕は、年齢をいつも実年齢プラス5くらいに見られてしまう。

 僕の名字、そして僕の体型からまわりに付けられたあだ名、それは「ツキノワグマ」だ。

 ツキノワグマ、なんと間抜けなあだ名だろう。

 なんてったって「クマ」だよ「クマ」。
 本名の「タクマ」のほうが短いって話だ。

 このせいでずっと同級生の男子にはからかわれてきたし、女子には笑われてきた。

 学校の先生まで僕のことを「ツキノワグマ」と言われる始末だ。

 未だに僕が人見知りであるのはこのへんが関係している気がする。

 ……するったらするんだってば。

 そんな僕にもあるひとつの願いがある。


 それは恋愛がしたいということ。


 ……まあ、そうポカーンって顔されるのも想定内だから大丈夫。

 ちょっと心理的ダメージがあることは否定しないけどさ。 

 いや、もしかしたらいきなりそんなこと言って今頃笑われるかもしれない。

 何言ってるんだ? お前、みたいなさ。

 でも僕は十七歳、高校三年生なのだ。

 異性に興味を持つな、と言う方が無理な話だ。

 デートもしたこともなければ、まともに話した経験もないという絵に描いたような非モテなやつ、それが僕だ。

 年齢イコール彼女いない歴、それが僕だ。

 恋愛がしたくて何が悪い!

 僕くらいのレベルの非モテになると、女の子への興味がふくれあがって今日にも爆発しそうな勢いだ。

 爆発したら困る。たぶん怪我するし。
 そうしたら痛いし。

 そこで僕はこの爆発しそうにふくれあがった女の子へのあこがれをどうにか発散しなければいけない。

 駅前でナンパ……なんてできるわけがない。

 そんな度胸も器量も持ち合わせていない。

 だから、僕はこうした欲情を恋愛ゲーム、恋愛漫画で発散する。

 高校三年生は全国的には受験生というやつなんだろうが、僕の通っている学校は進学とは縁が遠い言うところの馬鹿高で僕やクラスメイトはいつも通りに遊びまくっている。

 まったく気楽な連中である(僕を含め)。

 だから高校最後の年になった今でも僕は家で(擬似)恋愛三昧というわけだ。

 今日、僕は習慣になっている恋愛シミュレーションゲームを攻略中だった。

 僕ぐらい非モテになると、服を買うことも仲間と出かけることもないのでお小遣いの全てを恋愛ゲームや恋愛漫画につぎこむことが可能だ。

 毎月毎月、新しい恋愛ゲームや漫画を購入していくと、本棚一杯の僕の『恋愛コレクション』は構築されていくのである。

 今日も今日とて、時計はもう深夜二時を回っていた。

 しかし、もう少しで目当ての女の子を落とせるところだ。

 ここでやめたら男がすたる。かといってこれ以上プレイを続けたら明日の朝起きられる自信がない。

 となればここで選択する道はただひとつ。

 徹夜だ。

 しかも一睡もしない貫徹だ。睡眠時間? 
 そんなもの授業中にたっぷりと用意されてるから大丈夫!

 そうと決まればさっそく準備だ。

 貫徹にはコーヒーや緑茶などのカフェイン類、あと栄養ドリンクが必要だ。

 僕はコンビニへと向かう。


 必要なものを買った僕は家路を急いだ。

 早く帰ってゲームがやりたかった。

 ゲームの中の女の子といちゃいちゃしたかった。

 僕の家からコンビニまでの道は昼間でさえ誰も通らないほど閑静な住宅街で、深夜二時を回った今では物音ひとつ聞こえてこない。

 しかも街灯が少なく、夜にここを通るときは少し勇気がいる。

 いつまでもここにはいたくない。
 ここはますます早く帰りたい。

 僕の家まであともう少しというところだった。

 僕は普段ではありえない光景を目にすることになる。


 クマがいたのだ。


 クマが自動販売機の前に立っていたのである。

 しかも何かを買おうとしているらしい。
 じっくりと自動販売機のラインナップを見つめている。

 僕はどうすればいいだろうか。

 警察に通報するべきか。

 コンビニへ逃げるべきか。

 それとも大きな声で助けを求めるべきか。

 僕がそんなことを考えているとクマと目が合った。

 あ、やばい。僕死ぬ。

「ねえ、君」

 僕はクマに話しかけられた。
 しかもけっこうかわいい声で――。

 クマはつぶらな瞳で僕の方を見ていた。

 僕はクマをただ見つめるくらいしかできない。

 たぶんクマ側からみたら相当アホ面になっているに違いない。
 口をぽかーんと開けている僕の図はたぶん面白いかも知れない。

「ねえ、ねえ君。そこのアホ面っぽい顔してる君」

 どうやら本当に僕は今アホ面らしい。
 今すぐ鏡で確認したいのはやまやまだが、こんな道のど真ん中に鏡があるはずもないし、第一今はそんなことをしている場合ではない。

「……僕?」
「そう君」

 クマは大きな手で僕を指さした。

 まるでぬいぐるみのような大きな手で……。

 うん? 
 ぬいぐるみ?

 僕は思いきってそのクマの手を握ってみた。
 とてもふわふわしてて心地よい手触り。

 どうやらクマ特有の鋭い爪もないようだし、まず獣の匂いがしない。

 漂ってくるのはただ甘くて少しすっぱい。

 そう、女の子の匂い。

 あの中学生の時に女の子から漂うとてもいい匂いそのものだった。

「どうしたの。いきなり手なんか握ってきて」

 クマが僕に問いかける。

 問いかける時にクマが少し首をかしげる。

 それがとてつもなく可愛い。

 まるで女の子がクマのぬいぐるみに入ってるみたいな感じで……。

 うん? 
 女の子がぬいぐるみに?


 僕はクマに抱きついてみる。


 とてもふわふわして気持ちのいい抱き心地。

 さっき漂ってきたいい匂いがますます強くなって僕を安心させる。

 ああ、ずっとこうしていたい。

 抱きついていると胸のあたりが三日月状に白く輝いているのがわかった。
 どうやらこのクマはただのクマじゃない。

 このクマは「ツキノワグマ」だ。

「……むう。どうして。抱きついてくるかなー。見ず知らずの人に」

 ツキノワグマは自分のことを「人」と言った。

 僕はもうちょっと抱きついていたい衝動を振り切って、ツキノワグマから一旦離れた。

 目の前にいるのは厳密に言うと「ツキノワグマ」ではなかった。

 そりゃそうだ。

 本当の「ツキノワグマ」だったら、僕が手をにぎったらもうちょっとゴツゴツしているだろうし、僕が抱きついたら僕は今頃本当に大変なことになっているだろうし。

 結論から先に言うと目の前にいるものの正体はツキノワグマの着ぐるみを着た女の子だった。

 まるまると大きなツキノワグマの着ぐるみを顔が可愛らしい女の子が着ている。

 自動販売機の明かりだけなのでよくわからないが、けっこう可愛いのではないだろうか。

「えーと。こんばんは」

 よくわからないけど、とりあえずあいさつ。

「うん、こんばんはー」

 ツキノワグマはぺこっとおじぎ。

 そのおじぎの時にツキノワグマの大きな頭が僕にあたりそうになる。

「あの……それで?」
「それでって?」
「僕のこと呼び止めたでしょ。『ねえ君』って」
「あー。そんなこともあったね」 

 ツキノワグマはそう言って自動販売機を指さした。(指さした、と言っても手はむくむくのぬいぐるみの手なので指さしたというよりは手を自動販売機の方に向けたという表現が正しいかもしれない)

「ちょっとボタンを押して欲しいんだ」

 あ、なるほど。

 その大きな手じゃ自動販売機のボタンは押せないよな。
 それだったらおやすいご用だ。

 お安いご用だけど、ツキノワグマは何を飲むのかな。やっぱりハチミツか何か? 

 けどそれは某黄色いクマの大好物であって、この着ぐるみぬくぬくツキノワグマに当てはまるかどうかはわからない。

「わかりました。んで、どれを押せばいいの?」
「んーとね。ホットミルク。温めのやつ!」

 ツキノワグマは嬉しそうに叫んだ。

 一応深夜なんだからもうちょっと声の音量は下げた方がいいと思うんだけど。

 まあいいか。どうせツキノワグマがやってることだし。

 動物のやることにいちいち文句は言わないだろ。

「あーと。ホットミルク? 温め……と。んー」

 結論から言うとそんなものはなかった。

 というよりよく考えてみれば、自動販売機に「ホットミルク」なるものは売ってないということはわかる。
 もちろん「温め」とかそういう以前の問題としてさ。

「えーと、ないですよ。ホットミルク」

 僕は現状をツキノワグマにそのまま報告。

「そんなことないんじゃない?」

 またまた首をかしげてとても可愛いツキノワグマだ。

 そんなに可愛く首をかしげられてもこっちは困る。

 まあいいやとりあえずまた抱きついてやれ。
 えいっ。

「んみゃ。どうしたのさ。また抱きついたりして。抱きつかれると私腰がいたくなっちゃうんだけど」

 どうもババくさいツキノワグマである。

「ババくさくて悪かったなー」

 どうやら聞こえていたらしい。

 この思ったことを勝手に独りごちる癖は直したほうがいいな。

 まあ直し方なんかわからんわけだが。

「ババくさいって言ったのはあやまるけどさ。ないんだよ。本当に。ホットミルク。見てみなよ。その可愛い目で」
「可愛いって私の目」
「そう」
「へへっ。可愛いって言われちゃったよ。私。きゃーあ」
「きゃーあはいいけどちゃんと確認してよ」
「はい、します」

 じ――っと自動販売機を見つめるツキノワグマ。

 このまま背中を押したらツキノワグマはびっくりするだろうかなんて考えてみたけど実行はしなかった。

 確かにそれは面白そうだけど、リスクが大きすぎる。

 なにせ相手はツキノワグマだ。

「……ない」
「でしょ?」
「そんな……」

 ホットミルクがないことに絶望した様子のツキノワグマはその場にしゃがみこんでしまった。

「……ショック。大ショック。めっちゃショック。ショックショック、オイルショック、ポリゴンショック!」

 よくわからないがとりあえず相当ショックらしい。

「はぁ……ホットミルクがないと……私は……」
 うん。私は? いったいどうなるって言うの?

「すっごく困る」

 まあそうだろね。

「あーもう気分がブルー。あー緑はグリーン」

 ものすごく当たり前のことを言ってるなこのツキノワグマ。

 よくわからないけどものすごく困っていることは確かだ。

「あの……」
「あー。ホットミルクー」
「あのさ……」
「んにゅ?」

 ツキノワグマに似つかない返事をするツキノワグマ。

「あの……家にくる? ホットミルクぐらいは出せるよ?」
「……いいの?」
「別にかまわないよ?」
「……行く」

 即決だった。

 こうして僕はツキノワグマを家に招待することになったのだった。

 それにしても今日の僕はなんだかしゃべるなーなんて自分で思ってたりする。

 普段の人見知りな僕にしては珍しい。

 きっとそれはツキノワグマを相手にしているからだと思う。

 っていうかきっとそうだ。

 まあそりゃ着ぐるみを着た女の子だってことはわかってるけどさ。

 まあ今はそういうことにしておくよ。

 僕はとりあえずツキノワグマを自分の部屋に招き入れる。
 当然のことながらツキノワグマを部屋に入れるのは生まれて初めてだ。
「まあ、そのへんに適当に座って――」
 と言おうとした時だった。

 ツキノワグマが自分の毛を剥ぎ始めた。

 そんな自殺行為な! と思ってみたがこれはどう見ても、着ぐるみを脱いでるだけだという見解に至った。

 着ぐるみを脱いだツキノワグマは可愛かった。

 髪はさらさらのストレートだし、スタイルも引っ込むところは引っ込んでて出るところは出ている。

 着ぐるみを脱いだツキノワグマは、白を基調としたTシャツに黒のハーフパンツという格好だった。まあ、そりゃあの着ぐるみの下にしっかりとした服装はしているはずはないわけで――。

「ああ、寒いー」

 そりゃあ、あんな上着を脱いだら寒くもなるな。




とりあえず僕はキッチンへと向かう。

 そして電子レンジで暖めればすぐできるホットミルクをツキノワグマに差し出した。

「どうぞ」
「さんきゅー」

 ツキノワグマはごっきゅっごきゅとおいしそうに飲んだが、動きがいきなり一時停止。

「あひゅい」

 どうやら「熱い」と言っているらしい。

 そりゃホットミルクは熱いさ。普通に考えればわかると思うけどな。

 ツキノワグマは僕に向かって舌をべーっと出して見せる。

 わかったよ。熱いのはわかったよ。ごめんよツキノワグマ。

「熱いなら冷ませばいいんじゃない?」

 ごくごく当たり前な提案を僕はしてみた。

「そういえばそうだね」

 ツキノワグマは妙に納得した様子でホットミルクを冷まし始めた。

 ふーふーと小さく口をすぼめてホットミルクを冷ますツキノワグマはとても微笑ましかった。
 唇がとてつもなくぷるぷるで可愛らしかった。

 もしかしたらツキノワグマ界ではぷるぷる唇が流行してるのかも知れないな。

 なんてどうでもいい妄想を僕は勝手に繰り広げていた。

「よく考えてみたらさ」

 僕の言葉にツキノワグマは一旦冷ますのをやめていた。

「あ、冷ますのは続けていいよ。耳だけ傾けてくれれば」

 というとツキノワグマは再びホットミルクを冷まし始めた。

「よく考えたらさ、ホットミルクは自動販売機には売ってませんよ」

「そんな嘘をついて……私が『まいりました』とでも言うと思ったか」

 いや思ってないけどさ。

「本当に自動販売機にホットミルクが売ってると思ったの」

 ツキノワグマは黙ってこっくりと頷いた。

「……ないの?」

「うん。ないの」

「そんな……」

 ツキノワグマががっかりしたというのは誰の目から見ても明らかだった。

 といっても今ツキノワグマを見ているのは僕だけだが。

「じゃあ、じゃあさ。今度ホットミルクを飲みたくなったらどうすればいいんだよお」

 知らんがな。

「あっそうだ」

 何かひらめいた様子のツキノワグマ。漫画だったら頭の上の電球がぴかって光ってるんだろうな。

「今度からホットミルクが飲みたくなったらここにくればいいんだ」

 ツキノワグマは目をキラキラさせて僕の方を見ている。

「ここって?」

 悪い予感がしていた。

「ここって……ここさ」

 それが僕の家を指していることはわかっていた。けどやっぱりわけがわからなかった。
 なぜ僕がツキノワグマを我が家に招いているのか。

「じゃあね。私は帰る」

 いつの間にか着ぐるみに着替え直していたツキノワグマは立ち上がって僕のほうを見た。

「あ、あの……名前は?」

 僕は叫んでいた。今考えると言いたいことは他にもいろいろあっただろうに。だけど僕が聞けることはそれだけだった。

「名前?」

 きょとんとした顔でツキノワグマはこっちを見る。

「んーとね。『ツキノワグマ』!」

 そのままだった。

「君は」
「へ?」
「君の名前。私は『ツキノワグマ』」
「えっと僕は月野琢磨」
「ツキノタクマ。タクマだね!」

 なんかコントみたいなやりとりだった。

「じゃあ、また来るね。タクマ!」

 ツキノワグマは大きく手を振りながら僕の部屋を後にした。

 しばらくして僕はあれは夢だったんじゃないだろうかなんてことを思い始めていた。

 だけど目の前にあるマグカップがツキノワグマが今までいたということを証明している。

 マグカップにはほんの少しだがホットミルクが残っていた。

 僕はその残りのホットミルクを飲み干してみる。

 なんだかいつも飲んでるホットミルクより甘い気がした。



     *

翌日の夜。

 時計は深夜の一時を回っている。

 深夜の自室。テーブルの上には、この時間までゆっくりと丹誠込めて冷やした炭酸水。

 コンビニで買ってきたその炭酸飲料を飲むために僕は熱い風呂に長時間浸かってきたわけだ。

 もう喉はからからでサハラ砂漠状態。

 体全体が水分を欲しているのがわかる。

 あせる気持ちを押さえて僕はペットボトルの蓋を開けた。

 ――と、ここで飲んでしまうのは素人のやること。

 僕ぐらいのレベルになるとこのタイミングで冷凍庫からキンキンに冷えたグラスを持ってくる。

 グラスは、これでもかというほど冷えていて、白く曇った全体から冷気が漂っている。

 これは父親がビールを飲むときにグラスを冷やしてるのをマネして始めたのだが、本当によく冷える。

 普通にグラスにつぐよりも冷たく炭酸水をいただけるという寸法である。

 ここでプロフェッショナルな僕はさらにここに氷を投入する。

 氷といっても冷凍庫で型に流し込んでできるあのうっすいような氷ではない。

 超プロフェッショナルな僕は、コンビニで売っているブロックの氷を既に用意しているのだ。

 たかが氷と思うなかれ、コンビニの氷は家で作るようなうっすい氷なんかとは比べものにならないくらい飲み物を冷やしてくれる。

 それに見た目も氷山から削ってきたかのごとく美しい。

 嘘だと思うなら一度コンビニで買ってきて試してみて欲しい。
 人生観変わるぜ?

 さて、丹誠込めて冷やした炭酸水、キンキンに冷えたグラス、そして氷山から削ってきたかのごとく美しいこの氷。

 それが一つになるとどうなるか。

 最強の飲み物になるわけだよ。

 究極の飲み物になるわけだよ。

 至高の飲み物になるわけだよ。

『おい、女将を呼べ! この飲み物を用意したのは誰だあ!』状態になるわけだよ!

 さっそく僕は究極で至高で女将を呼んじゃうような飲み物づくりにとりかかる。

 氷山から削ってきたかのごとく美しい氷をキンキンに冷やしたグラスに落とし込む。

 からん、と気持ちいい音をさせて氷がグラスの中で華麗に回る。

 まるでグラスというステージで氷というバレリーナがワルツを踊っているかのようだ。

 そして丹誠を込めて冷やした炭酸水を氷が躍っているキンキンに冷やしたグラスに注ぐ。

 氷がバレリーナ、グラスがステージだとすると炭酸水はスポットライトと言ったところだろうか。

 全て完璧な状態で整えられたこの炭酸水が今僕の手に握られている。

 ごくり、と思わず喉がなってしまう。

 僕ははやる気持ちを押さえて、腰に手をあてた。

 飲み物を飲むときの体勢はやっぱりこれに限る。

 そしてグラスを口に向かって傾けて一気に――。



 じ――――っ。


 一気に――。


 じ――――――っ。



 どこからか視線を感じるがここは無視して一気に――。


「じいいいいいいいいいっ」


 一気に飲むことを僕はおいておくことにした。

 それだけ僕に注がれた視線は熱い熱いものだったのだ。

 だって現実に「じ――っ」って言いながら人を凝視する人間を見るのはこれが初めてだ。

 いや、人間ではないか。「クマ」だから。

「あの……もしもし」
「じいいいいいいいいい」

 うん、完全に言葉のキャッチボールができていない! 
 すばらしいね! 
 ビューティホーだね! 
 メイクドラマだね!

「あの! もしもし!」

 さっきと同じ言葉を強く繰り返す。

 なんだか耳が遠くなったおじいちゃんに話しかけているおじいちゃんみたいだな、なんてことを思う。

「じいいいいい……っは」

 どうやら「クマ」は僕に気づいたようだ。

「あれ? タクマ! 偶然だね!」
「偶然も何もここは僕の家でなおかつ僕の部屋だ!」
「あははっ。そういう解釈もできるかもしれないね。おもしろいこというなータクマは。ぜひ落語家になるといいね」

 落語界をなめてるにもほどがあるね。

「それでさ。真打ちの古今亭タクマ師匠」

 流派が決まるのと出世がいくらなんでも早くないかい?

「その、おいしそうなものはいったいなんだい?」

 ツキノワグマは明らかに僕の右手に握られた炭酸水を見ている。

 なんだろう。

 また熱い熱い視線を感じる気がするのだが、気のせいだろうか。

「え……その。毒! そう毒! トリカブトの一億倍ぐらいの猛毒! アフリカ象が一瞬にして跡形もなく爆発しちゃうくらいの毒!」

 自分でもどんな毒だかさっぱりはわからない。

 どうやら、僕には話を作ることに関しては才能が全くないようだ。

 落語家にはなれそうにはないな。こりゃ。

「そ、そんな……、だめだよ! タクマ! 命は大事にしないと! どんなつらいことがあるかは知らないけど! 生きてりゃいいことあるって! 涙の数だけ強くなれるって! もともと特別なオンリーワンだって! 三年目の浮気ぐらい多めに見ろって!」

 最後は明らかに曲のチョイスミスだろうが!

 ……まあ、このツキノワグマがそんな反応するのも仕方がない。

 だって、猛毒を腰に手を当てて飲み干そうとしているのだ。

 これで僕が自殺を考えてないと考えるほうが難しい。

「そんな猛毒はこうしてやる!」

 あ……まずい。

 そう思った時には遅かった。

 ツキノワグマは持ち前のもこもこの手で僕から炭酸水を奪い、そしてそれを――。


 一気に飲み干した。


「なぜ! 自殺行為に走るんだこのツキノワグマは!」

 もちろん中身は炭酸水だから死にはしないわけだが。

「タクマ! この毒美味しい!」

 そりゃそうだろうよ。

 僕が一生懸命、最高の状態に仕上げた炭酸水なんだからな!

「こんなに美味しい毒だったらきっと自殺も悪くないものなのかもしれないね。タクマ」

 さらっとなんてこと言うんだ。

「あのさ。ツキノワグマ。君は『一休さん』って知ってる?」
「もちろん。知ってるよ! 『ドカベン』とか『あぶさん』とか書いてる人の漫画でしょ?」

『一球さん』じゃねえんだよ! 誰が知ってるんだよ! 平成生まれがネット検索することうけあいの野球漫画を例に出すんじゃねえ!

「ああ、あのスキンヘッドの男の子の方の一休さん」
「せめて坊主って言ってやれ!」

 一気に頭の中の一休さん像が人相悪くなっちゃったじゃねえか。

「その一休さんが和尚さんに留守を頼まれるって話知ってるか?」

「うん、確か和尚さんが大事にしてる水飴を毒だって言って――、は! たくま! ってこの美味しい毒って」

 ここまで言えば、いくらツキノワグマでもわかるよな。

「水飴だったんだね!」
「解釈の方向が残念すぎるわ! 俺が言いたいのはこれは毒じゃないってことだ!」
「それならそうと最初から言えばよかったんだよ! おかげで飲みたくもない美味しいやつを飲んじゃったじゃん! あーおいしかった!」

 後悔がひとかけらも感じられないのだけど!

「まあ、嘘をついたのは僕が悪かったと思うけどさー」

「そうだよー。タクマ! 嘘をついたら、両手両足を縛って牛に引かせるよ!」

「初耳だよ! そんな重い刑罰! ごめんなさい! 嘘ついて!」

 そんな中世みたいな四つ裂きの刑に処されるくらいだったら、炭酸水の一杯や二杯やすいもんだね!

「……で、水飴じゃないとしたらこの美味しいものは一体なんなの?」
「飲んだんだからわかるだろソーダだよ。炭酸水」
「こんな美味しいもの初めて飲んだよ」

 前、ホットミルク飲んだ時も同じこといってたよな。デジャブかと思うくらいだ。

「この前の自動販売機の件と言い、君は世間を知らなすぎる気がする」
「まあ、クマだからね」

 便利だなー。クマって。

 僕もなれるもんならなってみたいもんだね。

「それでさ、何しにきたの?」
「んにゃあ?」

 可愛く首をかしげるツキノワグマ。んにゃあ、じゃないよ。クマのくせに。

「だって、たくま。また来るっていったじゃん」
「僕はそれに対して「いい」とも「悪い」とも言ってない」
「だって、あれじゃん。何も言わなくても通じる間柄っていうか」
「まだ会って二日目だっての」
「一度会ったら友達で、毎日会ったら兄弟だ!」

 そんな『ドレミファどーなっつ』理論をここに持ってくるな!

「毎日会った私とタクマは、兄弟だ。貴様と俺とは同期の桜! 俺とお前と大五郎!」

 全くよくわからない上にさらに関係性を複雑にしなくても!

「というわけでおじゃましまーす」

 丁寧に挨拶したつもりだろうけど、もうすでにいろいろとお邪魔していることに気づかないかなこのツキノワグマは。

「いいけど、何一つかまわないぞ。僕は」
「かまわないってそれは村八分ってことかな」
「いや、別にそこまでかまわないわけじゃないけど。っていうかなんてことを言うかな」
「村八分ってタクマ知ってる? 仲間はずれにしちゃうことなんだけど、唯一クリスマスパーティとハロウィンパーティだけは付き合ってもいいみたいな」

 それ僕の知ってるのと違う!

 それにそれなんか楽しそうじゃねえか。
 どんだけイベント大事なんだよ。っていうかなんか逆に気まずそうだな、それ。

「そんな村八分状態にされるのは私は反対だな!」
「ガン無視なんてしないっての! ただ、僕は僕でやることがあるから、君にはかまってやれないって言ってるの! ただそこで大人しくしてなさいってこと」
「なんだ。村八分にしないんだったら早く言ってください!」
「村八分なんて概念を最初に持ちだしたのは君だろ!」
「そうと決まれば、大人しくしてるよ! 息もしないし、呼吸もしない!」
「うるせえな! だから大人しくしてろ!」

 あと息しないのと呼吸しないのはおそらく同じような行動だ!


僕はツキノワグマと向かいあう形でノートパソコンを置くと、日課の積み恋愛ゲームを消化する作業に戻った。

 ヘッドホンをして、画面をやや小さめにしてのプレイなのはツキノワグマがいる手前だ。いくらクマが相手だって僕にはプライバシーってものがある。

 まあ、本当に邪魔だったら追い出せば良いし。

 そしてまたいつの間にか着ぐるみを脱いだ当のツキノワグマは、僕があまりにもうるさく言うもんだから、大人しく部屋にある漫画本を読んでいる。

 一応、恋愛漫画と名の付くものはだいたい買っているので、少年漫画、青年漫画の他に少女漫画や女性向け漫画なんかも部屋にはあるので、退屈はしないだろう。

 ツキノワグマは、一度漫画を読み出すと、手が止まらなくなる体質のようで、逆に僕がわざわざツキノワグマの様子を窺うくらいの集中っぷりだ。

 だから僕も気にせずにいつものように恋愛ゲームに熱中することにした。

 なるべくにやけないように。それだけを注意しつつ。





 一時間後。
 深夜二時。

 深夜二時には魔物がいると僕は本気で思っている。

 眠気? 
 いや、そんなものはブラックコーヒーとレッドブルでカバーした。

 性欲? 
 ……は恋愛ゲームをしてる最中に性欲なんてものは邪道だ。

 人間の三大欲求、眠気、性欲、の他にある欲求。
 深夜にどこからともなく湧いてきてしまう欲求。

 そう食欲。
 深夜二時というのはとてつもなく腹が減る。

 そして、この時間に食うものはたいがいがとてつもなく旨い! 
 通常の五割増しで旨い!

 健康に悪いとかダイエットとか知ったこっちゃない! 
 食べ盛りの成長期の僕にそんなことを言う方が間違ってるのだ! 
 いや別に誰にも言われてないけど。

 これ以上漫画の邪魔をするのは気が引けたので声をかけずにそのままにしておいた。

 なんで僕自身の部屋でここまで気をつかわないといけないのか、という疑問もないことはないのだが、ツキノワグマが一生懸命に漫画を読んでいる姿を見ていると、ここが僕の部屋だろうがなんだろうが、彼女に声をかける行為がすごく悪いことに思えてしまうのだ。

 僕はこっそりとキッチンへと向かう。

 冷蔵庫を開けると、残った冷やご飯にこれまた残った刻みネギ、それに鮭フレークに卵なんかが転がっている。
 これさえあれば何でもできる。元気がなくたってなんでもできる。

 まずは、中華鍋にサラダ油を入れて熱するところからスタートだ。

 ポイントはこれをとにかくカンカンに熱すること。

 煙がガンガン出るくらいまで。

 ただ、火災報知器が作動するまでやっちゃいけない。
 けどなるべく熱く熱く熱してください。

 油はやや多めでいい。油が多めの方が中華料理は旨い。

 まあ、好きずきなんだけどね。

 そこにあらかじめ溶いておいた卵を鍋にぶち込む。
 ポイントは完全に卵を混ぜきってしまうこと。

 よく、卵をまぜる時にはあまり溶きすぎないようにとか言われるけど、ここだけは無視。

 鍋がカンカンに熱せられているので下手をしたら白身と黄身が混ざり合う前に卵が固まってしまう。
 だから僕的には完全に混ぜきってから卵を焼くことを推奨する。

 まあ、好きずきなんだけどね。

 そして、そこに鮭フレークを投入。

 これは入れ過ぎるとしょっぱくなりすぎるので加減を見て入れて欲しい。

 そして、最後に冷やご飯とネギを投入。
 ネギは最初に入れて少し焦げ目をつけてもいいかもしれない。
 けど、今回はネギのシャキシャキ感を大事にするのであえて最後に入れる。

 まあ、好きずきなんだけどね。

 材料を投入したら、とにかく冷やご飯をつぶす。

 本当は、最初に冷やご飯をほぐしておくと、さらさらになるのだが、今日はこれも無視。理由はただ一つ。
 めんどくさいから。

 そして、あとはひたすらこれらを炒めるわけなのだが、この時、鍋をむやみに振らなくていい。
 というかあれはプロの料理人に任せておけばいい。

 中華鍋を振り上げるのは、振り上げられた食材が火の上を通過することで、炙らせてご飯をパラパラにするのが目的なのであって、一般家庭のコンロだとそこまで火は強くないので木べらでほぐす程度にとどめておいた方がいい。
 逆にコンロから鍋を離さないくらいでいい。

 別に振り上げてもいいっちゃいいけどね。
 かっこいいから。

 まあ、好きずきなんだけどね。

 そして、最後に香り付けに醤油を少量鍋に垂らしてもらいたい。
 こればっかりは好きずきとかじゃなくて、とりあえず垂らしてみて欲しい。
 人生観変わるぜ!

 味付けは鮭フレークの塩っ気とこの醤油だけで十分。
 うま味調味料を加えてもいいけど、基本的にこれだけで大丈夫。

 と、ここまで早足で説明しちゃったけど、こうしてできあがったのが――。

「ねえ、タクマ。何それ」

 誰かの声で僕の料理実況を中断された。

 まあ、「誰か」と言っても僕以外に言葉を発するのは一人、いや一匹と言うべきだろうか。

「ねえねえ、タクマ! ねえねえねえ!」

 先ほどの熱心に漫画を読むあの姿はどこへやら、といった感じのツキノワグマがそこにはいた。

「そのおいしそうな匂いをさせているものは何? ってことを私はとってもとっても知りたい」
「え、いや、チャーハンだよ。鮭チャーハン」
「すげーいい匂いだ! タクマでかした! そんな君にはノーベル平和賞をプレゼントだ!」

 いつからこのツキノワグマは、ノーベル賞の選考委員になったんだろう。

「いや、別にこれを君にあげるとは一言も言ってませんけど」
「いやだなあ。タクマったら冗談がきついんだから! 家燃やしちゃうよー?」
「あ、どうぞどうぞ! 召し上がってください!」

 可愛い顔してさらりととんでもないこと言うな。このツキノワグマ。

 僕はお皿を二つ用意して、ツキノワグマと僕の二つのチャーハンをテーブルの上に並べる。

 作ったばかりの鮭チャーハンはゴキゲンに湯気をたててテーブルの上に置かれている。

「では、いっただき――」
「待った!」

 今にもがっつこうとしているツキノワグマを僕は急いで止める。

「なんだよー。タクマ。もう家は燃やさないから早く食べさせてよー」
「ごめん、食べていいから家だけは燃やさないで! ちょっと飲み物を用意するぐらいいいだろー」
「飲み物? あの冷たい冷たい炭酸? それとも甘い甘いホットミルク?」
「いや、鮭チャーハンにはこれ!」

 僕は炭酸水を飲んだときにも使ったブロックの氷とキンキンに冷えたグラスを用意。

 そして、そこにこれまたキンキンに冷やしたウーロン茶をグラスにぶち込んでやる!

「はははは! 鮭チャーハンにはウーロン茶と決まっているのだ! 中国四千年を甘く見るな!」
「えらい! タクマ! とってもえらい! 『なかとみのかまたり』くらいえらい!」
「もうちょっといかにも偉そうな人でたとえて欲しかった!」

 いや、中臣鎌足だって十分偉いんだろうけども!

「それじゃあ! いっただきマンモース!」

 二十一世紀の今において、世界中探しても誰も言わないような挨拶でツキノワグマはチャーハンを口にする。君はマンモスじゃなくてツキノワグマなのに。
 いや、そんなことは本人もわかってるか。

 チャーハンを口にしたツキノワグマは、しばらくすると目に涙を浮ばせた。え……何? そんなに泣かせちゃうほどの味だった?

「ねえ、タクマ」
「え、なになに?」

「あ……あひゅい」

 ……あ、そうだった。このツキノワグマは猫舌だったっけ。
 クマのくせに猫舌とは生意気だ!

「じゃあ、ウーロン茶でも飲みなよ」

 と僕が勧めるよりも早く、ツキノワグマは目の前のウーロン茶に手を伸ばしていた。

 ごきゅっごきゅっと飲み干すと、

「ぷはあ。タクマ、あついよー」
「そりゃあ、見たらわかるでしょうよ。こんなにも湯気が出てるんだから」
「ねえ、タクマ。冷まして」

 冷ましてと言われても僕にはどうしようもないので自分でどうにかしてください!

「……ちぇ」

 すると、ツキノワグマはレンゲでチャーハンをすくい、ふぅーふぅーと冷ましはじめた。

 冷ましている時のツキノワグマのすぼめた唇がチャーハンの油で光って見える。

 まるでリップクリームをつけたばかりのようなその唇がなんだか無性に可愛く思えた。

 ただでさえぷるぷるな唇がさらにぷるぷるになっていた。

「ん? どうしたのタクマ?」
「んー。なんか可愛いと思って」

 気づくと僕はそうつぶやいていた。

 言った後に「しまった」と言う後悔は特になかった。
 だって本当に可愛いと思ってそれを口に出したのだから。

 けど、問題は僕ではなく、ツキノワグマの方にあった。
 一瞬にしてツキノワグマが固まってしまったのだ。

 ツキノワグマでもフリーズするんだなー、なんて僕はぼんやり考えていた。

 そして、ツキノワグマの顔がちょっとずつ赤くなっていくのがわかった。

 ツキノワグマでも赤くなるんだなー、なんて僕はぼんやりと考えていた。

「冷めるよ?」

 フリーズして赤くなっているツキノワグマに僕は鮭チャーハンを促す。

「食べるよぉ。食べればいいんでしょ!」

 ツキノワグマでも怒るんだなー、と僕はぼんやりと考えていた。

 というよりなんで僕はこんなにも怒られているんだろう。

 なんだか腑に落ちないけど……まあ、いいか。

 ツキノワグマのチャーハンも良い感じに冷めたみたいだった。
 ツキノワグマはレンゲの中でさらにちっちゃなチャーハンを作ると再度ゆっくりと口の中に運んだ。

 そして再びフリーズ。

 ツキノワグマっていうのは何度もフリーズするもんなんだなー、なんて僕はぼんやりと考えていた。

「う……」

 ツキノワグマの目には涙が浮んでいた。そんなにもまだ熱かっただろうか。

 僕がそんなことを思っていると、ツキノワグマはそのままテーブルに突っ伏してしまった。

「そんなに君は猫舌なの?」

 と僕は尋ねる。

「……旨すぎ」

 突っ伏したツキノワグマは静かにつぶやいた。
 どうやらツキノワグマにもこの時間に食べる鮭チャーハンとウーロン茶の魔力にやられてしまったのだろう。
 ツキノワグマはつっぷしたまましばらくテーブルから動かなかった。




     *

 次の日、その次の日もツキノワグマは僕の部屋にやってきた。

 部屋にやってきても何をするということはなく、僕の部屋で漫画を読み、ホットミルクを飲み炭酸水を飲み、鮭チャーハンを食べた。

 そんな日が続いたある日のこと、静かに漫画を読んでいたツキノワグマが僕に話しかけて来た。

「ねえ、タクマ」
「ん?」
「デートしようか」

 突然のツキノワグマからの提案に今度は僕の方がフリーズしてしまった。

「ねえ、デート」

 ツキノワグマはもう一回同じ事を繰り返す。

「なんでいきなりそんなことを言い始めたの?」

 僕はツキノワグマに尋ねる。

「いや、なんかしたいなーと思って、デート」

 何のためらいもなくそう言ってのけたツキノワグマの手には僕のコレクションの一部である恋愛漫画が握られていた。

 ああ、なるほど。と僕は思う。

 ヤクザ映画を見終わった人が急に態度を大きく見せてみたり、ボクシング映画を見終わった人がシャドーボクシングをしてみたりするのと一緒だ。
 恋愛作品に触れると恋愛をしてみたくなるのだろう。

 僕の場合は次々に恋愛ゲームや恋愛漫画を押し込んでいるからなんとか自分自身を保てているものの、実際には本物の恋愛というものに憧れを持っていないわけがない。

「ねえ、デート」

 僕はなんて答えていいかわからずにいた。
 だけど、ツキノワグマのまっすぐな視線に僕は口を勝手にすべらせていた。

「うん」

 まさか、あんなにも憧れてしたかったデートが深夜にツキノワグマと一緒というシチュエーションだとは思わなかった。

 もしも、タイムマシンで過去の自分に
「君の初デートはツキノワグマとすることになるんだよ」
 と言っても信じてもらえるわけがない。

 もしも、僕が過去の自分だとしたら未来の自分にこう返すだろう。

「恋愛ゲームのやりすぎで頭がおかしくなったのか……」

 いや、恋愛ゲームのやりすぎは間違えてはいない。
 現にやりすぎなんだから。

 だけど、今僕の隣にはツキノワグマがいる。
 これは現実の出来事なのである。
 いくら僕がゲーム脳だとしたって現実と妄想の区別くらいつく。

 デート中のツキノワグマは着ぐるみを着ていた。

 なんで着ぐるみを着ているかは特に問いただすことはなかった。
 僕が尋ねたところで、もう既に彼女は着ぐるみを着ているわけだし、これから脱ぐことはないだろう。

 僕らは夜道を歩く。
 ただ黙々と歩き続ける。

 僕自身は何をしていいか全く分からなかったのだ。

 あれだけ恋愛ゲームをしてあれだけ恋愛漫画を読んだというのに――だ。

 けど、何をしていいかわからないということにおいてはツキノワグマも同じようだった。
 外に出てからというもの僕に話しかけることもなくただただ僕の横を歩いている。
 これではデートというよりはただの散歩になってしまう。その時だった。

「て」 

 ツキノワグマがそっとささやく。

 どきっとしていた。
 それが「手」を意味することくらい僕にはわかっていた。

 ただ僕はどうしたらいいか分からなかった。
 ちょっと気が動転していた。

 こういうときはただ自分の手を差し出してやればいいだけのこと。
 ものすごく簡単なこと。
 ただ、その簡単なことが僕はできずにいた。

 するとツキノワグマは黙って僕の手を握る。

 握る――といっても着ぐるみなのでごわごわしている。
 それでも誰かに手を握られるということは僕にとって初めてなわけで――。

 なんだか自分の中でむずがゆさがいっぱいになる。
 なんだか自分が自分じゃないみたいだ。
 お酒を飲んだらきっとこんな感じになってしまうのだろうか。

 ものすごい心地よさの中にいるんだけど、それは夢の中なんかじゃなくて、現実の世界にいる――それがなんだか信じることができない。


 結局僕らは自動販売機でジュースを買って飲んだ。
 ツキノワグマと初めて出会ったあの自動販売機だ。

 そして買ったジュースを飲みながら歩いた。

 ただそれだけだった。

 これをデートと言ったら笑われるだろうか。

 だけど、帰り道に見た星が綺麗だったこととか、買った缶のおしるこが無性に熱かったこととか、ツキノワグマの笑顔をずっと見ていたことが幸せだったりとか――。

 そんな些細なことをこれから僕はずっと忘れないだろう。

 きっとこれから先、何があってもずっと覚えているんだろうなー、なんて僕はぼんやりと考えていた。




     *

 この日から数日間、ツキノワグマが部屋にこない日が続いた。

 ツキノワグマが来ないからと言って僕の生活が変わるわけではない。

 いつものようにゲームをして漫画を読む。

 ツキノワグマと出会う前と何一つ変わらない日常を僕は送っていた。

 失って気づくものがある、なんてよく言われるけど、それは本当なのかもしれないって思う。

 いつのまにかグラスを二つ出しておいたりとか、チャーハンを無駄に余らせてしまったりとか、自分の独り言がものすごく寂しく聞こえたりとか――。

 そんなことでいちいちつかなくていいため息をついてしまうのだ。

 僕はふと気分を変えてみようと思った。

 滅多につけることのないテレビの電源をいれて、適当にチャンネルを回した。

 いくつかのチャンネルを回したが、興味のわく番組が一つもない。

 もう、テレビを消してしまおうかと思った瞬間に僕は一つの番組が目に入った。

 若手芸人がうるさくしゃべってるようなバラエティ番組で、芸人の後ろのひな壇には若い女の子たちが座っている。アイドルなのか単なるタレントなのかは僕にはわからなかったが、彼女たちは肌の露出度が高い服を着てほほえみを浮かべている。


 その中に見覚えのある女の子がいた。


 彼女もまた他の女性達と変わらず笑みを浮かべている。
 だけどそれは僕の知っている彼女の笑みではなくて、誰かが絵に描いたように作った笑顔だった。
 その笑顔がなんだか悲しそうに見えた。人の笑みがなんで僕をこんなに悲しくさせるのか……。

「タクマ」

 後ろから声が聞こえた。

 僕が振り返ると、テレビ画面に映っているのと同じ女の子がツキノワグマの着ぐるみを着て立っていた。

 おそらくこの番組は収録なんだからテレビに写ってる彼女が今僕の部屋にいてもおかしくはない。

 僕が驚いているのはそんなところではなくて、しばらくいなかったツキノワグマが僕の部屋に来ているということだった。

 なんて声をかけていいかわからなかった。
 ネットで検索しても、相談掲示板に聞いてもこの時にかける声の完璧な答えなんておそらく出てくるわけがない。

 僕が何をしていいかわからずにいると、ツキノワグマはいつものように着ぐるみを脱ぎだした。

 着ぐるみを脱いだ彼女は服装は違うが、間違いなくテレビに映っていた女の子だった。

 彼女は黙って僕の隣に座る。

 近いと思った。

 着ぐるみを脱いだ状態の彼女がこんなに僕の近くにいることはおそらく今までになかったのではないだろうか。

 ツキノワグマは何も言わなかった。
 そして、悲しげな表情を浮かべている。

 今の彼女はもしかして僕が知っているツキノワグマではないのかもしれない。
 そんな彼女を見ていると僕は寂しい気もちでいっぱいになって、だんだん不安定になっていくのがわかった。

 だんだん自分がぼんやりとしてくる。
 彼女は相変わらず悲しそうにしている。


 そんな不安定な僕は、悲しそうな彼女をそっと抱きしめていた。


 彼女に抱きついたのは初めてじゃない。
 あの時の彼女は着ぐるみを着ていたけれど今はそうではない。

 甘い香りが鼻孔をくすぐる。
 それはホットミルクよりも甘いにおい。

 いきなり抱きついて怒られると思った。
 叫ばれるかもしれなかった。

 だけど、彼女の反応は僕の予想とは反するものだった。


 彼女の目から涙が落ちてきた。


 そして小さなすすり泣く声が聞こえてくる。

 なんで彼女が着ぐるみを着ているのか――。
 人目につかないように――。
 誰にも見つからないように――。

 そんなことがふと頭に浮ぶけど、今の彼女にはそんなことは問題じゃない気がした。

 だって、彼女の着ぐるみが崩れていくように涙が流れているのだから。

 この後、彼女が落ち着いたら、とびきり甘いホットミルクを入れてあげよう。

 それまで僕はとにかく彼女に寄り添っていた。

 ツキノワグマの泣き声は全く凶暴なものではない。
 僕にはそれが、強くて、そしてどこか優しく聞こえたのだ。

 その夜はいままでで一番長くて、一番暖かい夜だった。


     *


 僕はテレビのチャンネルを回す。

 そこにはあのとき、悲しい笑顔を浮かべていた彼女がいた。
 だけど、今日の彼女はちゃんと笑えているように見えた。

 その笑顔は、僕と一緒にホットミルクを飲んで、炭酸水を飲んで、鮭チャーハンを食べてる時に彼女が浮かべる笑顔と一緒だった。

 今日も彼女は僕の鮭チャーハンを食べにやってくる。
 鮭フレークと冷やご飯の準備はできていた。
 卵とネギもばっちり揃っている。

「タクマ。おなかすいたー!」

 前と変わらない表情で彼女がやってきた。
 僕もいつもと変わらずに彼女を迎え入れる。 
 唯一変えたことと言えば、部屋の温度を少し上げていることぐらいだろうか。

 だって彼女はもうあの着ぐるみを着ることがなくなったのだから。

 僕としては、もう一回ぐらいあの着ぐるみを見てみたいと思う。
 だけど、そんなことは言えずに僕は彼女を部屋に迎えいれる。

 もうあの悲しい笑顔を見ないように――これから先も僕は鮭チャーハンを作り続ける。

                                     (了) 
  

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