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軽めの文学作品集

私の中の小さな出来事(全日本もう帰りたい協会編)



『全日本もう帰りたい協会』

 僕がその協会のことを知ったのは、サービス残業に戻るため、コンビニから会社へと歩みを進めている最中のことだった。

 左手にコンビニ飯の入ったレジ袋を下げ、右手でスマートフォンを操る。冬のオフィス街には、人を孤独で寂しいものだと自覚させる、冷たい夜風が吹いていた。

 Tweeterを立ち上げて友人の呟きを眺めていると、その中に気になる画像付きのリ・ツイート(*)を見つける。(*他人の発言などを自分の友人に知らせる機能)

 思わず詳細を表示した。
 そこには高校か中学と思しき教室を背景にした画像の中央に、


【先生、今日も空が青いので、家に帰ります。全日本もう帰りたい協会】


 そんな文字が、記されていた。

「全日本、もう帰りたい協会?」

 怪訝に思い、声に出す。

 直ぐには意味を理解できなかったが、やがて理解がゆっくりと僕に沁み渡ると、思わず弾んだ息が口から漏れた。

「ふっ……なんだよコレ?」

 それは不思議な魔力を秘めた画像で、気づいた時には僕はその『全日本もう帰りたい協会』のことを調べ始めていた。

 やがてその協会は架空の団体で、素人が「(職場や学校から)帰りたい」をテーマに、”広告っぽい何か”を画像として作成し、Tweeterに投稿する一連の試みであると知った。

「家に帰りたい……か」

 路上で立ち止まり、思わず独り()つ。
 星の見えない、深海のように静まり返った夜空を仰いだ。

 大学を卒業し、今の会社に勤めて二年になる。

 学生時代、僕は無根拠にも自分を大した奴だと信じ込んでいた。だが就活の際、初めて自分の社会的な立ち位置を知った。

 三流私大に通う、掃いて捨てる程にいる、自信過剰な只の若者。

 面接会場で偶然知り合った国立大や有名私大の人間と比較することで、遣る瀬ない確信は高まる。僕が二次面接にすら進めなかった企業の内定を、そういう学校の出身者が得ていることもSNSで分かってしまう。そんな時代に生まれていた。

 不採用通知。

 その文面にも見飽きた。だいたいどの会社も、書いてあることは同じだ。僕の中の幼い万能感が綺麗に削がれるのに、そう時間はかからなかった。

 何てことはない。自分が考えていた程に自分は大した奴ではなかったのだ。その証拠に毎日、大して知名度のない会社で安月給で終電まで仕事をさせられている。

 ゆっくりと重たい息を吐いた。思考はそこで一時的に中断される。忘れるんだ、考えないようにするんだと自分を誤魔化す。そういうことにも、もう、慣れた。

 しかし仕事に戻る最中、自然と指が動くと、僕はまるで賛成票を投じるかのように、『全日本もう帰りたい協会』に関する呟きをリ・ツイートしていた。



♯ ♯ ♯ ♯ ♯



 それから数ヶ月後の平日。
 僕は目覚めてから、紫色の憂鬱に支配されていた。

 仕事でミスをしてしまい、昨日その件で僕の所属する課にクレームが入った。
 上司の顔が頭を過る。そのことでまた、ネチネチと責められるに違いない。

 誠心誠意で謝罪もしたし、それほどに大きな問題にも発展しなかった。クレームをいれた人も最後には納得してくれた。多分、どの会社にもある小さなクレーム。

 それでも、やられる。
 不機嫌そうな面で。こんなことじゃ困るよと、大問題だよと。

 胃がキリキリと痛む。ストレスという見えない霧を吸い、嘆きを吐く。何とかスーツに袖を通し、一人暮らしのマンションから地下鉄の駅へと向かった。


 でも…………僕はその日、改札を通ることが出来なかった。


 改札に向かう途中、あと少しという所で足が止まってしまったのだ。

 統制のとれた群衆さながら、今日も社会人はそれぞれの人生をぶら下げて職場に向かう。僕は自分が架空の存在になってしまったかのように、現実に馴染むことが出来ない。そんな僕に肩をぶつけ、疎ましそうな一瞥をくれて人々が通り過ぎていく。

 社会に……参加しなくちゃ。
 そうは思うのだけど、まったく歩を進めることが出来なかった。

 そこで不意に、疑問に肩を叩かれた。

 そもそも僕は、なんで今の会社に入ったんだっけ?
 僕は僕の人生を、ここですり減らし、消耗させていていいのか?

 ――朝から晩まで働かされ、休日は死んだように眠る。

 僕はこんな日々を繰り返すために、生まれてきたのか?
 どんな意味があって、今の会社にしがみついているんだ?

 僕の人生の意味は? ここで働き続ける意味は?
 こんなことでいいのか?

 疑問だけが、意識の中で乱反射していた。

 通勤ラッシュが過ぎ去っても、僕はその場に一人で立ち竦んでいた。
 駅員がチラリと、訝しんだ目で僕を見る。

 そこで僕はようやく僕を取り戻し、その場から立ち去った。
 後ろ暗さを引きずりながら、足は自然とマンションの方向に向かう。

 帰ろう、家に……。

 とてもじゃないが、出勤する気になれなかった。それで状況が良くなる訳じゃないのは分かっている。一度欠勤すれば、更に職場に行き難くなることも。

 不意に、職場から消えていった同期たちの顔が頭を過ぎった。
 彼らはある日、突然会社に来なくなり、そのまま……。

 だけど僕はその時、自分にまとまりをつけることが出来ず、どうしても家に帰らずにはいられなかった。

 進めた足が改札口から少し離れた場所にある、駅の連絡用掲示板の前に差し掛かる。そして僕は、そこである光景に出くわした。

 掲示板の前で案内を眺めていた男が、手に持った何かを突然バッと広げた。
 その音で、反射的に視線がそちらに向き――。

「……え?」

 思わず、足が止まった。

 大学生を思わせるラフな恰好をした男の背中越しから、カラー刷りのポスターが見えた。そのポスターの感じが、僕にある印象を思い起こさせたのだ。

 僕が驚きに捕らわれている間にも、男は掲示板内のぽっかりと空いたスペースに、画鋲を用いて黙々と手にしていたポスターを止めていく。

 それは明らかに、許可されて掲示している感じではなかった。
 事実、閑寂とした日本庭園を背景にしたポスターには、こう書かれていた。



【こまけぇこたぁ、明日でいいんだよ。全日本もう帰りたい協会】



 僕の視線はそのポスターに釘付けになる。気になって以来、全日本もう帰りたい協会の記事やアカウントは大体チェックしていた。

 そんな僕でさえ、見たことのない、全日本もう帰りたい協会の広告だった。

 ポスターを張り終えた男は、どこか満足そうに腕を組み、様々な角度でそれを眺め始めた。僕はその様子を見ながら、不思議と強い心臓の脈動を感じていた。

 ――こいつは一体、何をしてるんだ?

 やがてその男が、僕の存在に気付いて振り返る。
 視線が合った瞬間、僕はバツの悪さを覚えた。

 思った通り、男は若そうだった。髪はパーマでも掛けているのか不均一に波打ち、凶悪そうな三白眼をしているものの、男前と言って間違いない顔だ。

「お前……」
「え?」

 その男が、僕に向けて口を開く。低く透った声。

「ひょっとして、協会員か?」

 まさか話しかけられると思わなかった僕は、酷く狼狽してしまった。
 少しの間を置き、視線を彷徨わせながら尋ね返す。

「あ、その、きょ、協会員って?」

 男はふん、と鼻を鳴らし、

「決まってるだろう。”全日本もう帰りたい協会”のだよ」

 と、振り向かず、背後のポスターを親指で示した。

 どこか芝居がかったタメ口に、不思議と反感は覚えなかった。
 それよりも、悪いことをした訳でもないのに何故か焦ってしまい、

「いや、別に協会員ってわけじゃないけど。ただ、それ系のアカウントをフォローはしてる……かな」

 そう、少し早口になりながら応えた。
 すると男が、満足そうに口元を綻ばせる。

「なら、協会員だろう。まぁいい、手間が省けた。悪いがこのポスターを写真で撮ってくれないか? そして、Tweeterで拡散して欲しい」

「え? 僕が?」

 男に持ちかけられ、僕は思わず自分を指差す。普段ならそんな間抜けな動作は取らないが、慌てていたんだと思う。そこで男は僕に、ゆっくり頷く。

「あぁ、俺がやると自作自演になるからな。そういうのは好かん。まぁ、お前にやらせたところで、自作自演みたいなものだが」

 僕は「え……いや」と言葉にならない言葉を発したが、結局、言われるがままにその光景を写真に収めた。

 それは、断ると面倒臭いことになりそうだから、とか、そんな考えからではなかった。それとは別の、何故男がこんなことをしてる意味を知りたいから、とか、そんな好奇心に駆られた結果だったにように思う。


『全日本もう帰りたい協会のポスターが、駅に貼られてるぞ!』


 ハッシュタグを添えた呟きと共に、撮ったばかりの写真を投稿する。直後、何人かのフォロワーさんがリ・ツイートしてくれた。

「ふっ、これでよし」

 男は僕のスマートフォンの画面を覗き込みながらその作業を確認すると、口の端を曲げて言う。僕は苦笑いを張り付けた後、たまらず尋ねた。

「あのっ……君、どんな意味があってこんなことしたの?」

 すると男は眉を上げて少しの驚きを露にした後、シレッと答えた。

「ん? 別に意味なんてない」
「え?」

「ただやりたくなったからやっただけだ。前からここの空きスペースは気になってたし、何よりも面白そうだったからな」

 僕は呆気に取られてしまう。男の一連の試みに、何らかの社会的なメッセージや意味が込められていると、勘違いしたためだ。

「そ、そんな理由なんて……」

 驚き、訝しむな僕に、男は何でもないように応える。

「まぁ、意味なんてそんなもんだ」
「は?」

 それから男は鼻から息を抜くと、笑みを深めて言った。
 瞬間、駅の構内にひしめく雑音が、僕の世界から消えたような気がした。

「何故か人間というやつは、すぐに意味を求めたがる。そこに(すが)り着きたくて仕方ないんだろう。だが意味なんてものは存在しない」

 静かな世界。男の言葉が、僕の意識にポツリと(したた)り落ちる。
 僕は目を見開き、身じろきも出来なくなった。

「意味なき世界の無意味に耐えろ。そして突き抜けろ。俺たちは踊らされてるんじゃない、踊ってるんだ。そうだろ?」

 そう男が言い終わるや否や、僕は一種異様な感じに打たれた。

 ――男の姿が大きく見えたのだ。

 それは心象の中、徐々に大きさを増していくと、やがて僕を脅かす程の威圧的なものへと変わった。

 意味が存在しない? そんなことがあって……。
 そう考えたあと――いや、そうなのかもしれない、とも思った。

 毎日の仕事が、自分のやっていることが、何らかの意味に繋がっていてほしい。全てのことには意味がある筈だ。

 働き始めるまで、僕はそういう風に考えていた。
 だが今では、そんなものは存在しないと、何処かでそう感じている自分がいた。

 でも……それを認めるのが怖かった。
 だってそんな人生は、とてつもなく空虚で、寂しくて……。

『意味なき世界の無意味に耐えろ。そして突き抜けろ』

 そこまで考えたとき、男の先程の言葉が意識の上で反芻(はんすう)された。
 同時に視界の端に映る、あのポスターが……。

「くっ――」

 僕は思わず、笑いを吹き出していた。
 それは不思議な心象の変化だった。

 ついさっきまで、男が何かとんでもない格言を吐いたように思えた。
 そして僕もその言葉に、大いに感化されたような気がした。

 でもその当人がやっていることと言えば、自作の下らないポスターを無断で駅の連絡掲示板に張っているだけ。

 そのことに思い至ると、急に可笑しさが込み上げてきた。
 男に向かって、つい口が開いてしまう。

「いや、君、偉そうなこと言ってるけどさ」
「ん?」

「やってるのは、すっごく、下らないことだからね」

 僕はそこまで言うと、笑いを抑えることが出来なくなった。

「ぶっ……ふっ、はは、はははは!」

 腹を波打たせながら、笑いをその場に散らかす。
 男はそんな僕に「まぁ、確かにそうだな」と顎に親指を添えて言うと、

「ふ、ふはは! ふはははは!」

 しばらくすると、楽しそうに、演技めいた笑い声を響かせた。

 僕たちはそんな風に、しばらく声を出して笑い合った。
 通行人が馬鹿笑いしている僕たちを、不審そうに眺めては通り過ぎて行く。

 気付けば僕は、晴れやかな、清々しい気持に包まれていた。自分の抱えていた問題が、突然ちっぽけなものに思え始めてもきた。

 ――意味なんてものは存在しない……か。

 不意に、この物憂い人生の一端を垣間見た気がした。

 事実がある場合に奇妙に、そして不自然に映るのは、あるいはそのせいかもしれない。僕たちは意味がないという事実を認められない。

 その空白が人生の様々な位相に、奇妙で不自然な歪みをもたらして……。

「ふっ、じゃあな」

 僕が一種、笑いながら瞑想的な気分にかられていると、笑い終えた男がそう言いながら、その場から立ち去る仕草を見せた。

「え?」
「俺はさっさと家に帰るためにも、やるべきことをやらなくちゃいけない」

 僕は不思議な寂しさを感じてしまい、何を話す訳でもないけど、もう少し男と時間を共有したい気持ちになっていた。男を引き止めるように尋ねる。

「その、やるべきことって?」

 男は行きずりの人間を前に、少し思案すると、

「幼馴染みがいるんだ。対人恐怖症の」

 と言った。

「対人、恐怖症? 君の幼馴染が?」

 言葉としては知っているが、あまり耳慣れない言葉に疑問符をつける。
 すると男は重々しくうなずいた。

「そうだ。だがアイツは今、大学で自分の居場所を見つけようと頑張っている。強がってはいるが、泣き虫な女なんだ……。だから俺はアイツを、からかいに行く必要がある」

「からかいにって……」

 言いながらも、その言葉に男の中のぶっきらぼうな優しさを見た気がして、温かなものを感じずにはいられなかった。

 またその幼馴染が女性であると知り、思わず目を細めた。

「そっか」

 羨ましいような、眩しいような思いに、苦笑が零れる。
 男はそこで少し気恥ずかしそうに笑うと、

「あぁ、お前も早く家に帰れよ。やるべきことをやってな」

 そう言って、そのままその場を立ち去った。

 ――そして僕の人生の中で、もう二度と、出会わなかった。

 男がいなくなり、連絡用掲示板に振り向き、僕は歩み寄る。張られたポスターを見ながら考えた。考えが、自分自身に及ぶことを恐れるような気持ちで。

 目を暫く伏せた後……再びポスターを見て困ったように笑い、来た道を戻る。


 一時間遅刻して、僕は出社した。


 Tweeterに投稿した写真は、夜にはネット中に拡散されていた。
 ポスターは、翌日にはあの場所からなくなっていた。



♯ ♯ ♯ ♯ ♯



 男が僕にもたらしたその小さな出来事は、十数年を経た今でも、しばしば思い出される。

 それによって僕は、よく分からない生きる活力を与えられるのだ。
 不思議な、微笑と共に。

 僕はあれからも地道に同じ会社で働き続けた。
 意味という物を求めず、粛々と。

 そんな僕を、或いは誰かは社畜と呼ぶのかもしれない。
 大学時代の僕が見たら、間違いなくそう呼ぶと思う。

 でも今ならば、こう答えることが出来る。

 それが現実的な社会で生きていくことなんだ、と。
 現代に生きる大多数の人間は、そうやって生きているんだ、と。

 あれから何年かした後、合コンで知り合った女性と結婚した。
 特別に美人と言う訳じゃないが、一緒にいると心休まる女性だ。

 そんな彼女と、共働きしながら子供も育てている。
 家族がぜいたく品になる時代。そんな小さな幸せで十分満足していた。

 同じ会社に十年以上もいれば、少しの出世も果たし、僅かばかりの成功体験を重ねもした。だがそういった物は、あまり僕の人生の役には立たなかった。

 ただあの小さな出来事だけが、ことある毎に僕の脳裏に蘇り、時には以前に増して鮮明になり、不思議な勇気と希望を与えてくれる。

 あの男に会いたいと思うことは、何度かあった。

 幼馴染の娘との仲はどうなのか、彼女の対人恐怖症は治ったのか、君はその娘が好きなんじゃないか。

 そういうことを聞きたかった。

 だがその質問は、どれも聞く程のものじゃないのかもしれない。
 きっと男は立派にやっている。

 彼にもまた彼の人生があり、その中で、多くの人と同じように笑いながら何かを失い、泣きながら何かを得ているんじゃないだろうか。

 そういう風に思った。

 やがて、時間の流れと共に、その他の大勢のものと同じく、『全日本もう帰りたい協会』も消えていった。

 それは幻の風のように、僕の人生の中を通り過ぎて行く。僕も歳を取った。
 だけどそれが確実に存在した証拠に……。



















 僕の携帯には、あの写真が今も、残っている。















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