放課後カクレンボ
トクトク、と忙しなく心臓が喚いていた。
栄子は胸の辺りに手を置き、何だか悪いことでもしてる気になった。放課後の学校というのはなぜこんなにも不気味で、入るのを躊躇わせるのだろうか。
普段はうるさい校舎も、人の騒ぐ教室も慣れ親しんだ食堂も、放課後に歩くとどこかよそよそしく他人行儀だ。
そして何より、廊下の不気味さは一層だ。
栄子の通う高等学校には上靴がなく、代わりにスリッパの購入が義務付けられていた。栄子の学年のスリッパは赤色で、親が少し大きめに買ったために気を付けていないと脱げそうだった。
窓から入る日の光はオレンジ色で、白い床も橙に染める。ペタペタ、とスリッパが地面に着く音、スッスッ、と踵の部分が床を擦る音が響いて、誰かに追いかけられてる気がした。
職員棟3階、職員室。コンコン、とノックをすると英語科の海原がテストの採点をしていた。
「失礼します。教室の鍵を借りに来ました」
黙って持っていくのは駄目だろう、と海原に声を掛ける。
「ん?ああ。勝手に持ってってくれ。そこにあるだろ?」
栄子は扉の近くにある壁を覗き込む。生徒が勝手に鍵を開けて良い教室の鍵はここに掛かっていた。2-4。鍵の先に着いた教室名を確認し、栄子はそれを持って職員室を出た。
「失礼しました」
廊下を歩き、階段を上る。ふと、栄子はこの学校独自の七不思議を思い出した。しかも、ひとつだけ。
時間はそう、丁度このくらい。辺りが夕焼けに染まるぐらい。
放課後の話。
ゾッと、背筋が冷たくなった。
背中のくぼみを汗がたらりと伝う。
「早く、帰ろう」
心持ち早足になる。廊下を駆け、教室に行く。教室棟4階、2-4の教室。忘れ物はノート1冊。
本当は明日でもよかった。ただ、明日提出の課題をこれにやらなければならなかったから、急いだだけだ。
ガチャガチャ、と不器用に鍵を開いて扉を開ける。
____放課後、何者かの影が見えることがある。その影は決して自身のものではない。その影を見たら息を5秒止め、音を立ててはならない。
栄子の頭にオカルト好きの友達が語った七不思議が蘇る。誰もいないし、幽霊など存在するはずもないと思っているのに、怖くて仕方ない。
「あ!あった!」
自分の席、机の中に入っているノートを取り出して安堵の息を吐く。
必要以上に声を出したのは、空元気であり自身を慰めるためだった。
____10秒目をつぶって数えてから、ゆっくり振り返る。振り返ったそこに誰もいなければ、決して音を立てないように学校を出る。校門を出るまで音を立ててはいけない。
栄子はノートを持ち、教室を出ることにした。そこで壁に目を向けたのがいけなかった。
建築年数故の古びた壁には長さ30センチ程のヒビがある。そこの端の方に影があった。栄子は息を呑む。
光の当たり方故に、それは絶対に栄子のものではなかった。
栄子はそのまま息を止めた。
(いち……にい……さん……しい……ご……)
汗が止まらない。心臓がうるさい。
目を瞑る。
(ろく……なな……はち……きゅう……じゅう)
泣きそうだった。
(心臓がうるさい……音を立てちゃダメなのに)
____もしも振り返って、誰かがいたら。絶対に、悲鳴をあげてはいけない。音を立てずに逃げ、理科室に隠れること。6時までそこに隠れ、それから音を立てないように学校を出る。校門を出るまで音を立ててはいけない。
(どうか、誰も、いませんように)
栄子は祈る。
きっと、誰もいない。きっと、学校を出たら思うのだろう。自分の影に驚いて泣きそうになったなんて、と。
明日にはきっと笑い話だ。栄子はオカルトの類を信じていない。心霊番組は好きだし、見た後はトイレに行くのが怖い。
けれども実際に出る、なんて思っていないのだ。
栄子はぎこちなく振り返った。
「……っ……!?」
慌てて口を押さえ、悲鳴を殺す。そこにいたのは、同じ制服を着た女の子。年頃は栄子と同じぐらいだった。
女の子の目元には包帯のような、黒く薄汚れた白い布がまかれていた。その布は頭の上半分を覆っている。
丁度目の当たりは黒ではなく、赤黒く汚れていた。そう、まるで、血のように。
「あ゛ぐ……あ゛……め、ちょうだい……じゆうになりたい……あ゛あ゛、あ゛……」
少女は呻いた。
ざらついた声で呟いた。目を欲しがった。包帯の目の部分は赤黒い。そして異様に窪んでいる。それで悟った。
少女には、目が無いのだと。だから音を立てなければ逃げ切れるのだと。
栄子は音を立てないようにして後退する。少女は栄子の方を向いていた。見えてはいない。音を立てていない栄子を追いかけてはこない。
栄子は時計を見た。5時47分。今から理科室に行って、13分我慢すれば良い。
栄子は教室を飛び出した。スリッパがパスパスと間抜けな音を立てた。栄子は自分のスリッパの音に驚いた。
「あっち……?こっち……ああ。そっちにいるの……」
少女の声が存外近くで聞こえた。確認すると、少女はとんでもない速さで走っていた。栄子は曲がり角を曲がる。少女は目が見えない。
少女は鈍い音を立てて壁にぶつかった。少女は呻いた。その間に栄子はスリッパを手で持った。そうして理科室に走った。
理科室は特別棟の5階。教室棟から行くならば3階の渡り廊下を通らなければならない。
階段を降り、渡り廊下を走った。それから、荒くなる息を整えながら5階に行った。
理科室はなぜか空いていた。栄子は一番奥にある机の下に隠れた。
もう大丈夫、なんて。どこからの自信だろうか。栄子は乱れた息をハァハァと吐き出した。
5時52分。あと8分。栄子は机の下から確認した。目の前には扉。はて、何の扉だろうか。
考えて、やめておけばよかったと思い出してから後悔した。目の前の扉は、理科準備室だ。ホルマリン漬けにされた虫の死骸と、全身人体模型が一体、上半身だけの人体模型が一体。
不気味なものが沢山あるのだ。
唐突に、扉が開いた。
「ひっ……ぅ……」
口を塞いだ。けれども漏れた声は戻せない。
「み゛ぃ……つ、け……た」
準備室から出てきたのは人体模型でも虫の死骸でもなく、少女。少女はするりするりと包帯を外す。
白いを通り越して青白い肌を見せつけ、ニタニタと笑った。そうしてから、白い手を栄子に伸ばす。
指が視界いっぱいに広がった。栄子は恐怖でガタガタ震えるだけで、その震えは何の役にも立たなかった。
指先が栄子の眼球を引っ掻く。それから、瞼と眼球の間に指が捻じ込まれた。
栄子は気絶寸前だった。恐怖と痛みに涙がボロボロと溢れ、口はだらしなく開き、意味もなくごめんなさい、助けて、を繰り返す。
ぐりぐりと指が容赦なく栄子の眼球の周りをなでつけ、それから人差し指と親指が右の眼球を捉えた。それから引っ張られる。
目から溢れ出したのは、涙や血。血の割合の方が多い。
右の眼球が抜かれ、次は左。どうして意識があるのか、どうしてこんなにも痛いのか、どうして死ねないのか、栄子は頭のどこかで考えていた。
オカルト好きの友達に、音を出してしまった時の末路を聞けばよかったと思った。
「ああ!ああああ!よく見える!やっと、見える!」
少女のダミ声は綺麗な声になっていた。感動したように何かを言う。
栄子はもう何も見えなかった。視界は黒く、何も見えない。
「あは、あははっ。ありがとうね、これ。よく見えるよ。次からはあんたが学校の怪談。放課後カクレンボの幽霊」
少女は言いながら、丁寧に栄子に包帯を巻いた。なぜかその包帯を巻かれると、眼球の無い穴だけになった目が痛くなくなった。
「ど……して……あ、あ……」
栄子は聞いた。声はダミ声で、綺麗なソプラノの声は出せなかった。
少女はその眼球のない穴に人差し指をぐりぐりと押し付けると、この鍵は返して置くよ。と言った。
《放課後カクレンボ》
その昔、事故があった。とある少女の目にガラス片が刺さるという事故。少女は目を失った。
少女は痛みをこらえて助けを求めた。どうにか職員室を目指したが、階段から落ちてしまった。打ち所が悪く、少女は亡くなった。
それから、その学校には少女の霊が出るようになった。眼球を求めて。
少女の霊は、ある女子生徒から眼球を奪った。霊はその女子生徒から眼球を奪い……さらには、その女子生徒を霊にした。自分が生きるために。
以来、放課後カクレンボの幽霊は時々代替わりしながら今も校舎を徘徊している。
新しい目を求めて。
-end-
どうでも良い話。栄子の名の由来は匿名・A子から。
ここまでお読みいたいただき、ありがとうございました。夏の暑さを少しでも涼しくさせていただけたなら、嬉しい限りです。