ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
人の命の惜しくもあるかな
 助手席に座ってすぐに立羽は瑛次郎に謝ったが、瑛次郎は黙って車をスタートさせた。二人を乗せた車は立羽の自宅に向かって走り出す。

「怒ってる……よね」
「いや」

 瑛次郎は前を見据えたままそう答えた。

「何で……私浮気してるんだよ。しかも嵐と」
「それならとっくに嵐に聞いて知っていたよ。これでイーブンじゃないか、僕だって中宮とのことがある。だから干渉する気は無い」

 瑛次郎がそう言い切ると車内には重たい沈黙が流れた。
 付き合っていることは誰にも話さないよう嵐と約束していたのに、瑛次郎が前から知っていたことに立羽は驚きを隠せなかった。怒鳴られるくらいのつもりでいたのだが、予想に反して瑛次郎は無反応。立羽は安堵感より不安感が募った。

「君に話しておかないといけないことがあるんだ」

 大学近くの見慣れた風景の通りで車を停めると瑛次郎はそう言った。
 立羽は俯いていたままだったが、瑛次郎は言葉を続ける。

「実は近々結婚することになった」

 え、と呟き声を上げて立羽は運転席の横顔に目線を上げた。

「……私……じゃないよね。……誰……?」

 立羽の頭には冴子が浮かんだ。ここのところずっと見て見ぬ振りをして来た。その間に二人は結婚の話が出るような深い仲になってしまったのだろうか……。
 いろいろ考えをめぐらせる立羽に告げられたのは予想外の人物だった。

「栗原女史だ。君も知ってるだろう、現理事長の一人娘だよ」

 つまり春先に那津子がお見合いをした相手こそが瑛次郎なのだ。

――じゃあ、あの日中庭で那津子先生が惚気ていた相手が真木先生だったってこと?

 冴子が瑛次郎と付き合っていると言ったあの日、一番大人な対応を取っていたのは那津子だったと言うことになる。
 立羽はにわかに信じられず、ずっと瑛次郎から目を離せずにいた。

「ずっと一緒にいてくれるって言ったのは? 私とは運命を感じるって……先生そう言ってたよね」
「別にこれからだって一緒にはいられるだろう。付き合いを続けてもいいし」
「そんなの変じゃない! 一緒にいるって言ってくれたのは私と結婚する気があったからじゃないの?」
「政略結婚って意味は分かるだろう。君の好きな時代にも盛んだった風習だよ」
「いやよ! そんなの絶対にいや!」

 立羽は目を赤く腫らしながら髪を掴んで頭を振った。そして次は瑛次郎の腕に掴みかかる。

「先生、私のこと愛してないの?」
「子供じゃ無いんだからそんな質問しないでくれよ」
「いいから答えて!」

 瑛次郎は立羽の剣幕にため息をついた。

「愛だの恋だのに将来をかけるほど、もう若くないんだ。僕は君より権力を選ぶよ」

 立羽の瞳から涙がこぼれた。

「そんな……信じられない……」
「信じられなくてもこれが現実だ」

 瑛次郎は立羽の頭を撫でた。

「君は年相応の恋をするといい。このまま嵐と結婚するなら君の父親代わりだってしてやれる」
「私はもう子供じゃない。成人した大人の女よ」
「まだまだ子供だよ、君は」

 瑛次郎は少し口調を強める。

「僕に合わせようと精一杯背伸びをしている子供。僕と嵐を手のひらでうまく転がしているつもりの子供。冴子が飲めない精液を飲んで優越感に浸るような子供だ! まだ言おうか」
「もういい!」

 言われたことが図星だらけで立羽はいたたまれなくなり、耳を強く塞いだ。唇を震わせながら、目を固く閉じ、絞り出すような小声で立羽は囁く。

「私はただ……先生のことが好きなだけなのに」

 そう言い切ると立羽はバッグを手に車から降り、自宅の方へと走り去った。
 瑛次郎はその背中を見送り、立羽との終わりを確信した。



 自宅に駆け込んだ立羽は息も荒いままソファーに突っ伏し、嗚咽を漏らして泣いた。手に持っていた携帯電話には瑛次郎と一緒に買った桜の花びらのストラップが輝き、あまりの綺麗さに耐えられず立ち上がり、立羽は紐を引きちぎって床に向かって力いっぱい叩きつけた。パチ、と小さな音が鳴りガラスのモチーフにヒビが入った。
 テーブルの上に広げたテキストに偶然にも伊勢の句があった。立羽は力なく座り込んだ。
 伊勢のように美しく才能に溢れる女性に憧れていた。伊勢のようだと言われることが本当に誇りだった。そしてこの失恋でまた一つ伊勢に近づく……だがそれは嬉しいはずも無く、立羽は初めて伊勢を拒絶した。

 この後、立羽はただ感情に任せて泣き続け、諦め切れない瑛次郎への思いをこれからどうして行こうか、など、この時の立羽にはとても考えることが出来なかった。




 季節は流れ、紅葉が赤い世界に染める秋――

 神前式を行うための黒羽二重の紋付羽織り袴を身にまとった瑛次郎は神宮の控室で花嫁・那津子の到着を待っていた。黒いスーツを着用した嵐は同じ部屋で時間を持て余し、持参したデジカメで周りの物を撮影して暇を潰している。

「那津子先生まだなの?」
「そろそろだろう」

 瑛次郎は机上の時計を確認してそう答えた。

――トントンッ

 瑛次郎はほらな、と得意げな表情で嵐を見てから扉を開き、出迎えた。

 訪れたのは立羽だった。

 水色から藍色へのグラデーションの生地には黒いリボンで裾まつりと胸元の切り替えが付いていて、瑛次郎は第三棟の教室のホソバアイイロタテハの標本を思い出した。
 こうやってきちんと会うのはあの別れ話以来だった。
 立羽は唇をキュッと結び、力を宿した目で瑛次郎を見つめた。

「本日は誠におめでとうございます」

 立羽が深々と頭を下げると、瑛次郎は礼を言った。

「おう、立羽か。電話くれれば駅まで迎えに行ったのに」

 瑛次郎の後ろから顔を出す嵐に首を振りながら立羽は微笑んだ。

「神前式は御親戚だけ出席されると聞いたんですけど、那津子先生の白無垢姿が見たくて、彼に無理言って来させて頂きました」
「別に問題無いよな、俺の彼女なんだし」

 瑛次郎は二人に固い表情で微笑み、ああ、と短く答えた。

「それと……」

 立羽はバッグから出したピンクの封筒を差し出す。

「預かり物です。見てもらえば誰からかわかるって聞いてます」

 瑛次郎は封筒を受け取り、柄に目をやると、そこには美しいシロヤマザクラが描かれていた。春に行った吉野のことを思い出し、これが立羽からの物だと確信したのだ。

「じゃあ嵐、私は先に行ってるわね」

 そう言って二人に背を向ける間際、立羽は瑛次郎に妖艶な笑い顔を見せた。
 瑛次郎が封筒を開けると、中にはかるたが一枚入っている。

「嵐、これはどういう意味だ?」

 嵐は瑛次郎の方に体ごと向きを変えてかるたを受け取ると、句を音読した。

「『忘らるる 身をば思はず誓いてし 人の命の惜しくもあるかな』……か。これは未練の歌だよ。忘れられる自分の身は構わないけど、相手が神に誓った愛を破ってしまったことで命が罰を受けて失われるのが惜しくてならない、って内容かな。ちょっとイヤミな句だね」

 嵐が苦笑いしながらそう言うと、瑛次郎はもう一度封筒を開いた。

「しかしおっかない札をもらったね、親父」

 封筒の中にはもう一枚、別の便箋が入っていた。

右近(うこん)がこの句を宛てたって言われてる藤原(ふじわらの)敦忠(あつただ)ってさ、早くに病死してるんだ。それが右近のこの句の怨念だって言われてるんだぜ」

 嵐の言葉を聞き終わると瑛次郎はそれを鼻で笑いながら便箋を取り出した。

「そう言えば報告なんだけどさ」

 相槌を打ちながら便箋を開く。中に書かれた内容と嵐の続く言葉に瑛次郎は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

「俺、立羽と結婚するから」
『先生の最後は私が看取ってあげる』

 瑛次郎は乾いた声で笑った。
* 今回の一句 *
≪忘らるる 身をば思はず 誓いてし 人の命の 惜しくもあるかな≫

意味:忘れられる私の身のことはなんとも思いません。ただ神に永遠の愛を誓ったあなたの命が罰を受けて失われるのが惜しまれてなりません。

まずはじめに、最後までお付き合いくださった読者様、本当にありがとうございます。
『春エロス2008』に参加させていただけたこと、小学生の頃に好きだった百人一首を題材にして小説をかけたことを非常にうれしく感じています。

何より、締め切り間に合ってよかった!
これも応援してくださった方々のおかげだとおもっています。
本当にありがとうございました。

ご意見・ご感想等頂けると幸いです。
◇春エロス2008◇
評価
ポイントを選んで「評価する」ボタンを押してください。

▼この作品の書き方はどうでしたか?(文法・文章評価)
1pt 2pt 3pt 4pt 5pt
▼物語(ストーリー)はどうでしたか?満足しましたか?(ストーリー評価)
1pt 2pt 3pt 4pt 5pt
  ※評価するにはログインしてください。
ついったーで読了宣言!
ついったー
― 感想を書く ―
⇒感想一覧を見る
※感想を書く場合はログインしてください。
▼良い点
▼悪い点
▼一言

1項目の入力から送信できます。
感想を書く場合の注意事項を必ずお読みください。


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。