世界滅亡スイッチ。
なんとも馬鹿馬鹿しく、またセンスのカケラもないこの名前。
世界滅亡スイッチ。
冒涜する意味でもう一度言ってみる。
すごく情けない気分になってしまった。
恥ずかしいとか、なんかもうそんな生ぬるい問題ではない。正直、人前でこの名を言ったが最後ではないかと思う。精神荒廃者決定。社会的滅亡必至。ひとりラグナロク勃発。
まあこれらはさすがに過言に過ぎるが、とにかくそれほどまで口に出す事すらためらわれるキテレツな言葉だ。
ここで一つ問うが、もし、自分がそれを手に入れたら、いったいどうするだろうか。
こんな世界なんてクソくらえだなんて言ってすぐさま押すだろうか。
なにこれ阿呆とちゃうかなんて言って夢の島行きにするだろうか。
それは各々の判断に任せよう。例え考えたところで利益はないし、むしろ意味すらない。
でも、神は何を考えているのか、それを手に入れてしまった僕はどうするべきなんだろう?
手に入れたのはついさっき。漫画家を目指す僕が、切らした黒インクを買ってきた帰りの道端に転がっていたからなんとなく拾った。
それは黒い野球のボールを半分に切ったような形をしていて、その頂点に赤いでっぱりがあって、どうやらそこを押せというものらしい。
でも、これだけでは『世界滅亡スイッチ』だなんて馬鹿げた代物とはわからない。もし
「うわぁ、これ世界滅亡スイッチじゃん! なんでこんなとこに?」
なんて言える人がいたならば、まあ知り合いのいい精神病院を紹介するから、すぐさまそこへ向かって欲しいものである。
それはさておき。なぜこの意味深長だがあまり関わり合いになりたくない物体の名と正体が解ってしまったのかというと、裏面にでかでかと『世界滅亡スイッチ』と綺麗な明朝体で書かれていたからである。
まあ、信じるほうもアレだが、そう書いてあるのだから仕方がない。加えると、怪しさ満開であるそれから発せられる説得力は、存外に満ち満ちているのだ。なんとなくだが信じてしまう。このスイッチを押せば、本当に世界が滅びてしまうような気がしてしまうのだ。お前騙され易いだろとかそういった突っ込みは無用だ。
さて。まずこんな果てしなくいらないものを手に入れてしまった僕は、これから一体どうしたらばよいのだろうか。拾ってしまった手前捨ててしまうのは気が引けるし、そもそもこんな危ない(アブナイ、の方が適切だろうか)ものをほいほいとそこらに放置できない。誤って誰かが踏んで世界が滅びようものなら、僕は死んでも死に切れない。未練どころか怨念すら残す自信がある。まあとにかく手放すことは不可能だ。
手に持ったそれをまじまじと眺めてみる。『世界滅亡スイッチ』だなんて仰々しい名前の割には意外に軽く、また塗装も荒い。少し爪で引っかいてみると、いとも簡単に塗装がはがれてしまった。
ぺりぺりぺりと、はがれてしまう黒い塗装。はがれた箇所からは白いプラスチックが覗いていた。何気に安物か。
途中からなんだか罪悪感と哀愁に包まれてしまったので、僕は塗装剥離をやめた。しかし既に全体の三分の一程度の塗装がはげてしまっていて、物悲しいことこの上ない。やっちまったとついつい呟いてしまう。
さて。おかげで威厳みたいなものがすっかり薄れてしまったこのスイッチ。今度こそどうしてくれようか。先程までの意志とは反して、僕は捨ててしまいたい衝動にかられはじめた。
だが、僕のいたく過敏な生存本能がそれを許してくれない。捨てれば死ぬぞ、それでもいいのか。
ほんの小さな葛藤が、僕の頭を支配し始めた。本能と衝動が激突している。
それはさながらに戦争の様相を呈し、僕の脳内は小さな仮想戦場と化した。
「これを捨ててしまえば、僕らの世界が滅亡してしまうかもしれない! 全軍、衝動を叩くべく、前進だ!」
総勢二万と予想される本能軍勢が、荒い大地をものともせず果敢に突撃した。そして、各々小銃を構えた本能軍勢は一斉に発砲した。それと同時、軍勢の先陣を切る戦車が咆哮する。加え、後方に構える機関銃たちが怒りの炎を撒き散らした。
「ひるむな! 進軍せよ、衝動軍の精鋭たちよ!」
それに対し、衝動軍勢の兵力は五万と予想される。圧倒的有利。空からはステルス爆撃機を、陸からはおびただしい数の歩兵を。果てには宇宙からの衛星攻撃。
「進軍せよ進軍せよ進軍せよ! 奴等を叩き潰すんだ!」
みるみるうちに衝動軍勢は本能軍勢を葬り去ってゆく。本能危うし。
しかしここは本能の力を見せ付けるべき。本能軍は秘策を見せた。
「やっぱり持っておこ」
決着。一瞬で衝動軍消滅。本能最強。卑怯万歳。
というわけで結局このアヤシゲなスイッチを持ち歩くことにした僕。しかしもうどうしたものか僕の貧弱な大脳さまでは見当すらつかない。
スイッチをもてあそびながら、とりあえず帰途に着く。
家に着き自室へそそくさと入り込むと、買ってきた黒インクと共にスイッチを部屋の真ん中に鎮座するいつも漫画を描いている小さな机に置く。その机には今も書きかけの原稿が置いてある。
置いてみて思ったが、無残に塗装のはげた世界滅亡スイッチなるそれは、最早ガラクタ未満ゴミ以上といった存在でしかなかった。しまったなヲイなんでこんなものを。
はぁ、と小さくため息ひとつ。ただそれだけで今日の運気を全て吐き出してしまったかのように思える。下らないスイッチひとつでここまで思い詰めることのできる僕は、もしかしたらある種稀有な才能の持ち主なのだろうか。
それはないか。
さて。本当にどうするこれ。捨てるつもりはないし、なんだかもうスイッチを押したほうがいいような気もしてきた。
そう思い至ると、存外僕の行動は早かった。人差し指を伸ばし、徐々にその赤いでっぱりへと近づけてゆく。
徐々に、徐々に近づける。赤いでっぱりは無論微動だにせず、外に目をやっても雲行きひとつ変わることはない。
やっぱり、こんなもの押したところで何も変わらないのではなかろうか。そもそも道端にころんと転がっていた程度の代物だ。世界を滅亡させるようなトンデモな物がそうそう簡単に適当に落ちているほうが間違いなのだ。
うん。押したって何も起きない。今僕がそれを押そうとしているのはただの興味だ。気にすることはない。恥ずかしいなんてこともない。
とぼそぼそと呟き、自分に言い聞かせながらも途中で指が止まってしまう超絶弱虫な僕。あらまあなんてことかしら。お父さんお母さんごめんなさい。念のため死んだじいちゃんにもごめんなさい。ついでにウチのポチもごめんよ。デフォルトみたいな名前でごめん、でも『ああああ』よりかはマシだよねってそれは違うか。
「ああもうやってられっか! 押す!」
つい意気込んだ僕。そして次の瞬間には、僕はそのスイッチを勢いよく押していた。
すかっ。
「…………?」
何の手ごたえすらなかった。『カチッ』という音すらない。すかっとそのまま黒い(三分の一白い)半球に赤いでっぱりはいとも簡単に沈み込んでしまった。
なんだかもう、これはスイッチだったのかどうかも怪しくなってきた。手抜きにも程があるだろう。スイッチと銘打ったからには『カチッ』の音くらいでるようにしてほしいものである。
「なんだよ、やっぱりこれ、世界滅亡スイッチでもなんでもないじゃないか」
嘆息。よくもまあ僕はこんなものに振り回されたものだ。
もはや用無しのそれをぽいと後ろに投げ捨てる。いつもならゴミ箱へ投げるのだが、これに関してはそうやって僅かにでも恨みみたいなものを晴らしたかったのである。だってあんなふざけた物に僕は振り回されたわけなのだし。もしあれを作った人間を見つけたら、絶対に復讐してやる。
さあ、漫画の続きを描こう。賞の締め切りも近い。
そうして僕が買ったばかりの黒インクのふたに手をかけた時である。
かたん。
ころころころ。
こつん。
ぱたん。
ぼだびだびだ。
「……へ」
背後で聞こえる不穏な物音。振り返るとそこには。
「う……そ」
投げ捨てた世界滅亡スイッチが床に置いてあった開けっ放しの赤インク壷を倒し、書き溜めてあった仕上げ済み原稿にその内容液をぶちまけていた。
丹精に仕上げられたその原稿は、ものの見事に紅色に染まりきっていた。
「嘘だろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ…………!」
惨殺された原稿と同じく紅に暮れ始めた大空に、空しく僕の哀号がこだました。
僕の世界が終わった瞬間だった。
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