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図書館ドラゴンは火を吹かない 作者:東雲佑/右

■ 四章.僕らはいま、物語の中にいるみたいだ

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◆12 物語はいまこそ現実の尾を噛んだ 【物語の日、神話の午後/3】

 凄まじかったのです、それほどまでに――この日のユカは。

「――善き養い親と人ならぬ無数の友達の存在は、養い子をまっすぐに、まっすぐに育てあげます。人の世にあっても稀な、卑屈の影もない素直な子供へと。そうして尽きせぬ愛情の受け皿となった養い子のほうもまた、己が愛されているということを理解し認識しておりました」

 熱視ねっしの瞳で語り部を見つめていながら、しかし聴衆の誰にもユカという語り部の実相を把握することは出来ません。
 見目に映る形は女物語師のそれで、昏黒こんこくの闇が結集して出来たかのようないとも神秘的な姿で、しかし、その印象は実像としてそこにある輪郭をも裏切って変化の上に変化を重ね続けます。
 たとえばある瞬間にいとけない童となったかと思えば、次の瞬間にはもう妙齢の魔女へと変わっている、というように。場面と状況に応じて、千差万別に。

 そして、聴衆はすべての瞬間に森を幻視します。
 紡ぎ出される言葉は濃密な透明感に満ちて、聴き手を森へと導きます。

 かたられるほどに物語は存在感をいや増して、それに比例して語り部の存在感は希薄となってゆきます。
 そうしてやがて、聴衆は言語を逸した部分で理解に貫かれるのです。
 先駆けてそう宣言したとおり、語り部は己を憑り代と差し出して物語をこの場に顕現けんげんさせているのだと。そこにある輪郭は語り部のものであっても、そこにいる存在は既に物語そのものであるのだと。

 ――このようなことが可能なのか? このような譚りの技術わざが存在し得るのか?

「――そうして、赤子であった男の子が五つの齢となったその日、魔女はついに解き明かしたのです。己が彼の実母ではなく、彼が己の実子ではないという事実を。自分が彼の養い親となった、その経緯を。
 すべてを包み隠さず告げられた幼子は、唖然とした失語の間のあとで、やはり声は一切発さぬままで静かに涙を流しはじめます。母と獣たちの見守る前ではらはらと零される大粒の涙……ですがそれは、己の出自を呪う心が流させたものでもなければ、母が母でなかった悲しみが流させたものでもありませんでした。
 明かされた真実が幼子にもたらしたものは、呪いでも悲しみでもなく、己が真実愛されているのだということへのそれまでにも勝る自負と自覚、そして、養い親である骨の魔法使いへの限りのない感謝の心だったのです」

 物語は譚られます。物語は譚られるほどに膨張して、譚られるほどに聴衆を圧倒します。
 聴衆の中に骨の魔法使いの名を知らぬ者は一人としておりませんでした。
 深きの森の骨の魔女、暗きの森の悪しき女……その悪名は余りに高く、土地の人間の中などにはちょっとした不運にすら彼女に因果を求める者、さらには子供をしつけるのに彼女の名を持ち出す親もあるほど。

 早く寝ないと骨の魔法使いがさらいに来るよ、と。
 ……ああ、なんと身近で便利な邪悪!

 ですが、この日の物語の中に邪悪の代表格としての骨の魔法使いの姿はありませんでした。
 代わりに聴衆がそこに見たのは、血のつながらぬ我が子ならぬ我が子に、尋常の母親ですらが太刀打ち出来ぬほどの深い愛情を注ぐ、侵しがたいほどに清らかな母性の化身の姿です。

 ……物語は時に歪められ、時に過誤にまみれて――聴衆の誰かが、語り部の台詞を無意識に反復します。
 そしてそれを聞いた別の誰かが、やはり語り部の台詞をなぞって、呟きます。

 ――歪めて伝えられていた物語が、本来あるべき姿へと解放されていく。

「――七つ、八つ、九つ。世界一の母親の元で幼子は着実に齢を重ね、そしてとうとう十の年齢の少年となります。その年、骨の魔法使いはそれまでの教育の区切りとして、はじめて養い子を街へと連れ出しました。自分たちの暮らす森からほど近い街、盛大な夏祭りの最中さなかにある街……そう、十一年前のこの街、このお祭りに、森の母子おやこもまた足を運んでいたのです」

 そして場面は移り変わります。この現実の街に、この現実の祭りに。その過去に。
 森の情景は一挙にして遠景へと去ります。聴衆たちの多くが、無意識の行動として周囲を見渡します。この祭りのどこかにいるはずの母子の姿を探し出そうとしているかのように。

 臨場感の奇襲が聴衆を打ちのめし、ついに彼らに現実と物語の境目を喪失させたのです。

「――はじめて訪れる街の空気、それも華々しい祝祭の空気それは、少年の五感を余さず貫いて彼をときめかせます。そうした我が子の様子に母である骨の魔法使いもまた親としての冥利を味わい、こちらもまたこぼれ落ちそうなほどの笑顔となっています。
 いったい、誰がこの二人に血のつながりのないことを見抜けるでしょうか?
 いったい誰が、この母が邪悪な魔女であるなどと看破出来るでしょうか? 
 森からやってきた母子はどこにでもいる母と子と同じように連れ添って街路を歩んで、どこにでもいる母と子と同じように屋台に飴を買い求めました」

 既に聴衆たちは物語の内側に取り込まれています。
 自分の立ち位置が、彼らにはもうわかりません。自分の存在する場所と時間とが、彼らにはもはや判然としません。
 聴衆のすべてがそうした忘我にも等しい状態へと陥っていながら、しかし、それでも沈黙は守られます。物語の暴威にさらされて思考はまとまりを失い、しかしそれでもなお、沈黙を遵守する意思だけは聴衆たちから失われておりません。

 鏡のような静けさが。猫の足音すら聞き取れそうなほどの静寂が。
 物語に対する統一された敬意に張りつめた、絶対的な沈黙が祝祭の空の下にあります。

 このとき、広場には聴衆だけでなく、まじない使いたちもまた集結しつつありました。
 続々と集まってくる杖持ちたちはしかし、仇敵たる語り部を前に行動を起こすことが出来ずにいます。
 呪使いたちは横やりを入れません。入れられないのです。
 いまこの場での物語に対する妨害行為がどのような結果を呼ぶか、いかに曇った瞳の持ち主であっても膚で察せずにはおられなかったのです。
 それをした瞬間に、自分たちはここにいる聴衆のすべてを敵に回すことになるのだと。
 呪使いたちはただ歯噛みして状況の中に身を置いています。
 そして、そうしているうちに彼らの中からもまた、物語に取り込まれて聴衆の一人となり、自らの立場を忘れて敵である語り部に肩入れしはじめる者たちが現れはじめます。

 刻限は正午前。
 物語は、いまや完全にこの小昼時を支配しています。

「――そして魔女は、不安顔の我が子を力づけるように言いました。『私があなたを見失うもんですか。私はこれでも魔法使いなのだし、それに、なんたってあなたの母様じゃないの』」

 聴衆と呪使い。敵味方双方の見守る前で物語はさらに先へと進みます。

 ――母に送り出されて単身お祭り見物に繰り出した少年は、お小遣いが底をつく最後の最後に一人の物語師と出会う。元来おはなし好きであった少年はいたく感動し、最後に残った一枚の銅貨を差し出して物語をせがんだ。少年の胸は期待に膨らむ。はち切れそうなほどに膨らむ。しかし、語り部が物語の題号を口にしたその瞬間、少年は心に氷点を抱いた。暗い森に住む呪われた女、ご存知、骨の魔法使いの……はじまった物語は愛する母を貶める一曲だった――。

 その瞬間の少年の失意と悲しみを、聴衆は我がことのように共有します。それが己の記憶にある痛みであるかのように錯覚して、そしてその錯覚が去ったあとには、これまで無責任に骨の魔法使いを邪悪と信じてきた己に対しての、堪えがたいほどの慚愧ざんきに打ちのめされます。

 物語はなおも続きます。

 ――母に対する世の悪意を知った少年はしかし、それを伝えた物語を遠ざけようとするどころか、以降最大限の熱意を注いで物語と向き合いはじめる。お祭り見物に出掛ければまず第一に物語師を探し出し、それぞれの語り部が身につけた技術のすべてを我がものと学び取らんとし、与えられた小遣い銭のすべてを費やして物語を買い求めた。歳月はそのようにして過ぎ去った。そしてある日、彼はついに母に申し出る。森を出て、物語師となる決意を。善意の物語によって悪意の物語を退ける、その志を。愛する母への偏見をこの世から払拭する為に――。


 そこまで譚ったところで、ユカはおもむろに立ち上がります。
 彼は本棚の上に仁王立ちとなって、いかにも雄弁なまなざしを無言のまま聴衆の頭上へ投げかけます。

 それから、ゆっくりと告げたのでした。

「――皆様。なにを隠しましょうや、その少年とはこの私のことなのです」

 そう告白した次の瞬間、ユカはその身に纏った女物の衣服と面紗とを左右の手で同時に取り払います。
 そして――ああ、なんという早変わり!
 時間にすればたったのまばたき一回ほど、その一瞬に女装のころもは完全に解かれて、その下から現れたのは一転して男物の服装。

 神秘の女物語師は瞬時にかき消えて、一人の青年がその空白に滑り込んで登場したのです。

「本日ここまで譚って参りましたのは、他ならぬこの私――いいえ、この僕自身のことなのです。骨の魔法使いに拾われ養われた孤児みなしごは、いま皆様の前に立っているこの僕なんです!」

 ほとんど素のままの口調でユカはそう宣言しました。

 演出の効果は、言わずもがな完璧を越えています。それはまず唖然と呆然の二つを一つに極めた聴き手の反応に表れています。聴衆の誰もが己の目と耳を疑わずにはおられずにいます。
 女装からの早変わりは、服装の変化というよりは人物そのものが変わったかのような印象を聴衆に与えています。

 女物語師から青年物語師への交代――いや、いや、いや、そもそも先の女語り部は物語そのもののような存在であったのだから、では、この青年は物語から現れたと見るのが正答? そうだ、彼はそもそも物語の登場人物だったのだ。では、ならば――。

 統一された混乱の中で、聴衆はただ一つの認識だけを確信をもって受け止めます。

 ――我々は物語と地続きとなった現実にいる。物語は、いまこそ現実の尾を噛んだのだ。

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