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図書館ドラゴンは火を吹かない 作者:東雲佑/右

■ 四章.僕らはいま、物語の中にいるみたいだ

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◆2 おかえり

 春、春、春。いまや季節は完全に春です。絶え間のない歳月の流れに冬は遠く押し流されて、世界には目に見える春が、そして目に見えぬ春が、飽和する寸前まで溢れかえっています。
 いかにも、春とは麗しの季節です。
 こずえを縫う木漏れ日は幻想めいて眩しく、雪解けの泥濘にすら心躍るなにかを感じさせられます。山々には緑が芽吹き、野辺には百花の花盛り。広き湖上にはかすみが立ちこめて、海原を吹き渡る風はわだつみの国の春日かすがを伝えているかのよう。
 あらゆる土地、あらゆる地形に春は平等に到来します。

 そして、その数ある地形の大半が骨の魔法使いの森には取りそろえられているのです。

 小さな森の中の広大な小世界。そこには増水した河川があり、湖があり、燦然と輝く海辺があります。潤う平原と渇いた平原があり、大小の山々があり、さらには森の中の森があります。
 まるっきりでたらめな自然の寄せ集めで、しかし奇妙に調和してもいる完璧な箱庭。『鯨の頭骨の魔法』により生み出された聖域はそのような場所でした。

 さて、帰郷から一週間も過ぎた頃にはもう、リエッキと骨の魔法使いは既にすっかり打ち解けておりました。
 根がはにかみ屋のリエッキのことですから、いつまで経っても接し方から硬さは抜けきりません。けれどそこは骨の魔法使い、ユカが自慢とする天下一の母親です。その硬さが決して拒絶からくる態度などではないのだと、そう読み解けない彼女ではありません。
 むしろ、親愛を示したくても示し方がわからない、甘えてみたくても甘え方がわからない、そんなリエッキのジレンマを敏感に察し取っておりました。
 素直すぎるほどひねくれた竜の純心はしっかりとこの母に伝わっていて、それが為に、女二人の関係はまったく良好そのもの。仲良しの度合いは時としてユカですらが疎外感を覚える程でした。

 三人は連日にわたって聖域内のあらゆる場所に出かけました。なにしろ遠足先には事欠かないのです。
 ある日は海を見に出かけたと思えば、また別のある日には山辺のまだ柔らかな緑を堪能します。夏の先取りのような汗ばむ陽気の日には流れ落ちる糸滝に涼を求め、冬の遺産の肌寒い日にはとっておきの天然温泉に肩までつかります(ユカが疎外を感じた状況はこの温泉旅行などに顕著だったのですが、しかしこればっかりは仕方がないというものです)。
 手荷物はお弁当を入れた籐籠ひとつと、それにリエッキの楽器だけ。予定は未定のままで当日を迎え、その日の朝に今日はどこに行こうと決めるような楽しくて安寧に充ち満ちた毎日。
 ユカの故郷であるここは、もうほとんど、リエッキにとってもそうなりつつあったのでした。

「ねえ母さん。この森で養蜂をやってみたらどうだろうと思うんだ」

 ユカがそう言ったのはある日のお昼時でした。その日のおでかけ先は屋敷から程近いところにある丘陵で、丘の下の斜面には色とりどりの花々が春を謳歌するように咲き誇っています。

「養蜂……つまり、ミツバチを飼うってことかしら?」
「そう、ミツバチを飼うんだ。ミツバチを飼って、蜂蜜を収穫するの」

 蜂蜜という言葉に反応して、リエッキがぴくっと少しだけ頭を上げました。

「知ってる? 蜂蜜ってさ、つくられた場所によって味が全然違うんだよ。蜂蜜ってのはもともと花の蜜だからね。だから考えてみれば当然なんだけど、ミツバチたちが飛び回る場所にどんな花が咲いてるかによって、その出来は千差万別に異なるんだ。その点、この森なら」

 ユカは一面の花畑を見渡します。
 それから、自分の話に熱心に耳を傾けてくれている母と、無関心を装いながら実際には身体全部を耳にしている親友に向けて、解説を再開します。

「この森でなら、きっともの凄く美味しい蜂蜜が出来るよ。それもいくつかの巣箱をひとつずつ離れた場所に仕掛けるんだ。そうすればきっと、それぞれの巣箱からまったく違う味わいの蜂蜜が手に入る。全部が全部見事に個性的で、しかもその全部が素晴らしく美味しいんだ」
「そんなに美味しく出来るかしら?」

 骨の魔法使いが、にやけかける頬をなんとか取り繕いながら相槌を打ちました。
 リエッキが聞き耳を立てていることには彼女もとっくに気付いていたのです。

「最高だよ、断言したっていい。この森には特別に働き者のミツバチが住んでいて――」
「そして、彼らにとって特別に働き甲斐のある仕事場がある。そうよね?」
「そう。天下に稀なる花園さ。どんなに素晴らしい蜂蜜が出来るだろう、想像もつかないや」
「ほっぺが落ちちゃうかしら?」
「落ちちゃうなぁ」
「にやにやしちゃうかしら?」
「しちゃうなぁ。想像しただけでしちゃうなぁ。――ほら、こんな風にさ」

 そう言って、ユカが不意打ちのようにリエッキを見ます。素晴らしい蜂蜜色の想像にすっかり夢見る表情となっていた竜が、大慌てで緩んだ口元を引き締めました。
 真っ赤な顔で親友を睨みつけるリエッキに、二人分の笑い声が降り注ぎます。

「まったく、今まで考えたこともなかったわよ。まさかドラゴンの好物が蜂蜜だったなんて」

 百獣の姫君失格かしらね、そう言って骨の魔法使いはさらに笑い続けます。
 リエッキの本性が人間ではないということを、骨の魔法使いは森に到着した二人を出迎えたときには既に看破しておりました。山猫がユカに覆い被さった瞬間にリエッキが発した迫力と威圧は、およそ人という生き物の放てるものではなかったのです。
 とはいえ、まさかドラゴンであるとまではこの母も想像してはいなかったようで、その晩にユカが事情を明かしたときにはまんまるの瞳でしばしまじまじとリエッキを見つめ続けたものでした。

「はじめてリエッキさんを見たときは、てっきり化け猫か化け狼だろうと思ったのだけれど……ほんと、我が子ながらとんでもない女の子をつかまえてきたものだわ」

 よくやった、というように母は我が子を見ます。
 息子の相棒が人外の存在であるということへのこだわりは、我らが主人公の母の中には皆目ないのでした。
 まったくこの息子にしてこの母ありというべきか……いえいえ、順序としてはこれは逆ですね。ああ、この母にして。

「母親としては、息子が連れてきた女の子に対しては文句のひとつ、ふたつ、みっつもつけるべきなんでしょうけど……でもダメね、やっぱり私は未熟な母親なのかしら。だって文句をつけるどころか、我が子の見る目を誇る気持ちばかりが日を追うごとに強まっていくのだから」

 これも一種の親ばかなのかしらね、と骨の魔法使いはいいます。ユカは嬉しそうに無邪気な笑顔を咲かせ、リエッキは赤い頬を隠すようにそっぽを向いて、はんと鼻を鳴らしました。

「その蜂蜜をつくったら……ねえユカ。その蜂蜜が出来たら、リエッキさんはこの場所をいまよりももっと好きになってくれるかしら?」
「うん、もちろん。きっと世界一好きになってくれるはずさ」
「困ったわねぇ。それじゃあ、やらない理由なんてどこにもないじゃないの。――そうね、やりましょう。つくりましょう。ユカ、じゃんじゃんやんなさいな。じゃんじゃん!」


   ※


 もちろん、森の外にだって春は訪れています。

 帰郷から十日目のその日、ユカとリエッキは久しぶりに外の世界へと出かけました。
 とはいえ再び旅に出たというわけではありませんので、一〇四の魔法と本棚は屋敷でお留守番です。

 二人が向かったのは、彼と彼女がはじめて出会ったあの山でした。
 二人揃って山猫の背に跨って、毛皮にしがみつくユカの背中には、リエッキがしっかりとしがみついています。
 母の妹たる猛獣の健脚は、少年だったユカが一月かかった道を半日足らずで走破してしまいました。目的の山の麓まで送り届けてもらった二人は、またあとで迎えに来てね、とお願いして山猫と別れます。
 それから、二人きりとなって山道を登りはじめたのでした。

「まったくさ、流石はあんたの母親って感じだよな」

 厄介なお袋さんだよ、とリエッキは言いました。前を歩くユカは振り返りも立ち止まりもしないで、けれど、なんだか楽しくて仕方ないというような笑い声で彼女に応じます。
 わざわざ振り返らなくても、ユカには一生懸命しかめっ面を取り繕っているリエッキの姿が目に浮かぶようだったのです。本当に、彼の親友は素直すぎるほど素直じゃない女の子なのです。

「僕の立場から言わせてもらえば、君だって十二分に厄介な友達だよ。七年ぶりに再会した母親を息子の僕からとっちゃってさ。だって母さんてば、僕よりも君に夢中なんだから」
「べっ、別に、わたしは――っ!」
「うわあ、どうしよう! もしかして、リエッキは母さんのことが嫌いなの?」
「……ほらみろ。そういうとこがあんたもお袋さんも生き写しだっていうんだ」

 ユカのいじわるに、リエッキがぶすっとした声でひとりごちました。ユカはとうとう声をあげて笑い出します。
 迷うほど山深くはないのに、なんだか歌い出したい気分でした。

 なおも山道を行く二人は、やがて少しだけ道幅が広くなった場所に出ます。
 まずはしっかりと普請が行き届いており、さらには日々多くの旅人に踏み固められてきたのでしょう。山道は石畳の街路もかくやとばかりに平らかに均されています。
 けれどその地面に、ユカとリエッキは共通したなにかを見ていました。
 それは、掘り返された地面の幻像です。
 それは、今では完全に痕跡を残していません。
 けれど二人は、この場所がかつて畑の畝のように無惨に荒らされたことを知っていました。

 七年の昔に、怒れる山の神によって。

「二度と妄りに山を冒したりせぬよう……なんちゃって」

 ユカが言い、照れたような笑顔をリエッキに向けました。
 親友の笑顔を真顔で受け止めたリエッキでしたが、やがては彼女も堪えきれなくなったかのように口元をほころばせます。
 かつて山の神とその使いであった二人は、しばし顔を見合わせて笑いあったのでした。

 そのあとも、二人はさらに山道を先へ先へと進みました。山中を貫いて伸びる道は、ある地点を堺にしてはっきりと下り道に変化します。北面を登る道から、南面へと下山する道に。

 そして、もうそろそろ山越えの道も終点かという頃になって――二人は整備された山道を外れて、おもむろに山中へと分け入ったのでした。

 子供のように楽しげな声をあげながら、子供のように全力でユカは山中を駆けます。蜘蛛の巣に引っかかっても、ぶつかった枝がかすり傷をつくってもお構いなしです。
 彼を追いかけるリエッキも、口では文句を言いながらも、浮かべている表情は親友と同性のものでした。
 彼と彼女は走ります。立ち止まらずに、速度を落とさずに。
 事前の示し合わせなど少しもしてはいません。けれど、二人ともに目的地ははっきりしていました。

 すなわち、それは――。

 やがて、ユカとリエッキは目指していた場所にたどり着きます。
 木々の連なりは途切れて、地面は平らかとなり、そして、広々と拓けきった世界が二人の目の前に現れます。

 そこは二人の物語がはじまった場所でした。
 七年前、山を降りるユカと見送りのリエッキがやってきた、本当ならさよならを言うはずだった場所。ユカが親友に手をさしのべた場所、リエッキがはじめて涙を流した場所。

 これこそがその日の最終的な目的地でした。

 長い長い全力疾走に、二人の呼吸は完全に乱れきっています。立ち止まるまで疲れに気付くこともなく、あとから全身を打ちのめす疲労すらが心地よい。そんな感覚はまるで少年時代に立ち返ったかのようでした。
 七年の昔の、あの決して色褪せることのない原初の一日に。

 少しして最低限に息を整えたあとで、ユカが傍らの親友に言いました。

「随分遠くまで行ってきたね」
「……うん。そうだな」

 荒く息をつきながら、リエッキもどうにかそう応じます。ユカが言っているのは、もちろん物理的な距離のことだけではありません。そのことはリエッキも理解しています。

「あのときは、全然想像もしなかった。まさか君が人間の姿になっちゃうなんてさ」
「わたしだって、あんたが魔法使いになっちまうなんて夢想だにしてなかった」

 予想できないことだらけだ、そう言ってユカはリエッキに笑いかけます。そんな彼に、はん、と鼻を鳴らして、リエッキも笑顔で応じました。

「だけどさ、あの頃からはっきりとわかっていたこともあるよね」

 そして彼は口にします。物語の一説を。少年の日の自分が語ったそれを。

「『二人一緒ならば、なんにも心配はありません。なにしろ、彼と彼女は向かうところ敵なしの親友。最高の友達同士なのですから』……ね、リエッキ。これだけはわかりきってた」

 僕たちは、あの日はじまった物語の中にいるんだ。ユカはそう続けました。

 それ以上の気恥ずかしさに堪えられなくなったのか、リエッキは身体ごとそっぽを向いてしまいました。ユカに背中を向けたまま、彼女はもう一度はんっと鼻を鳴らします。
 そんな親友の背中に、ユカは短く言葉を投げかけます。

「おかえり、リエッキ」
「……ん、ただいま」

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