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図書館ドラゴンは火を吹かない 作者:東雲佑/右

■ 三章.かくれんぼでは鬼のことを

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■17 本の魔法使い

 突如として湧き出し、店中を煙幕のように覆い隠した冷たい濃霧。
 さながら真白い暗闇たるそれが過ぎ去った時、語り部と、彼が連れていた女は忽然と姿を消していた。通路をふさぐように置かれていた本棚も、もうそこにはなかった。

「逃げたか。見事、逃げおおせたか」

 虚脱したように立ちつくしたまま、左利きは呆然とそう呟く。そして続けた。

「……私を出し抜いて、な」

 呪使いの怜悧な横顔を、湿った熱を帯びた笑みが彩った。

 まるであの日の再現じゃないか、と左利きは思う。あの山狩りの日の。あの原初の一日の。

 六年前のその日のことを、左利きは一日として忘れはしなかった。
 あれほどの屈辱を与えられたことはないと彼は思う。そして、あれほど快哉を叫びたくなったこともまたない、と。
 山の神の使いを名乗る少年の活躍は、対する陣営に属していた彼にとって痛烈な批判に他ならなかった。
 しかし同時に、その少年の行動は、彼の心にわだかまっていた、同じ道に生きる他の誰にも決して打ち明けることの出来ない思いを完璧に酌みとって代弁してくれていた。兼ねてから左利きが疑問視していた部分を、異なる立場から見事に指摘してくれていたのだ。
 その日の記憶は彼を呵み続け、そしてくだらぬしがらみに疲れた心を時に癒してもくれた。
 左利きにとって、記憶の中の少年は仇敵であり、そして唯一にして最大の理解者でもあった。

 その相手と今日、彼は再会を果たしたのだ。互いに齢を重ねて、互いに青年となって。
 六年の空白を一足に無効にする、まさしくそれは運命的な再会であった。

「貴様と話すべきことが山ほどある。貴様との因縁も。だから……逃がさんぞ、語り部よ」

 くっく、と、しのばせることもなく笑声が漏れる。憚りもせず声を出して左利きは笑う。
 と、その声に反応したものか、熟睡に陥っていた男達の一人が目を覚まして起きあがる。

「……ようやくお目覚めですか?」

 よろめきながら身を起こす年上の相棒に、左利きが冷ややかな声を浴びせる。

「なんだか、ずいぶん楽しい夢を見ていたようですね」

 相棒への彼の苛立ちは、悠長に眠り込んでいたことに起因しているのではなかった。これまでろくすっぽ役立ったこともなかったというのに、今日に限って妙な気を利かせて宿敵との対話に横槍を入れてくれた……そのことに彼は憤りを覚えていた。
 しかしもちろん、それは褒められはしても怒れる道理のことではなかった。

「ええ、はい。去年死んだ婆ちゃんの夢を見ていました。可愛がってもらったんですよ」

 嫌味を嫌味とも気付かずに相棒は素直に答えた。

「で……旦那、あの野郎はどうしました?」
「……逃げられてしまいましたよ」

 そう答えた左利きはひどく複雑な表情を浮かべていた。
 語り部を逃がしたことにはほぞを噛む思いであった。しかし同時に、宿敵が今もなお手強い相手であることを嬉しくも感じていた。
 彼は真っ直ぐに相棒を見据えて、己と相手の双方に対し宣言するように言った。

「よろしいですか。これはもともとの使命でもありましたが、今後我々はあの語り部を追うことになります。どこまでも、どこまでも……それこそ、地の果てまでもです」

 どうです? お付き合い願えますか?
 そう意思を確認した左利きに、年上の相棒は待ってましたとばかりに応とこたえた。

「望むところってやつだぜ、旦那」

 彼は片方の拳を片方の手に打ち込んだ。やはり呪使いらしからぬ仕草だった。

「へへ、俺たち二人なら必ずやれますよ。本の魔法使いの野郎、首ぃ洗って待ってろよ!」
「そうですね……って、ちょっと待ってください。なんです、その本の魔法使いというのは?」
「いや、あの野郎の呼び名ですよ。奴の魔法は見たとおり本でしたしね。本棚まで用意して」

 なんにしろ呼び名は必要でしょう? と彼は言った。
 勝手にしてください。いささか脱力した様子で左利きはそう答え、それから言った。

「さぁ、ひとまず、そこに寝ている奴らを起こして一働きしてもらいましょう。あの男はまだ街にいるのか、あるいはもう遠く逃げおおせたか……なんにせよ目撃者は必ずいるはずです。幸い、あなたの雇ったその連中は夜の街に顔が利きそうですから。役立ってくれるでしょう」

 左利きのこの指示に「応とも!」と力強く応じる相棒。なんにせよ忠実で素直な男だった。

「あ、ところで旦那」
「なんですか?」

 若者たちをたたき起こしながら話しかけてきた相棒に、左利きがおざなりに応じる。

「なんていうか、幸せになってたらいいですよね」
「……なにがです?」
「いや、あの踊り子の娘と、それに色の魔法使いのことですよ」

 左利きが唖然とした顔で相棒を見る。なに言ってるんだこいつ、とその顔には書いてある。

「ああ、いや。もちろんあの口八丁の講談師……本の魔法使いはいつかギタギタにしてやりますが。でもまぁ、物語の登場人物にまで罪はないというか、報われてほしいなぁというかね」

 話している内に物語の余韻が蘇ったものか、相棒の瞳にはじんわりと涙が滲んでいた。

「……あの、実は前から考えていたことがあるのですが」

 ややあってから左利きはそう切り出した。なんです? と相棒が応じる。

「私はあなたよりも二歳年下ですが、しかし杖位は私のほうがいくらか上です。ですからここは序列をはっきりさせる為にも、今後はもう少し砕けた話し方をしようと思うのですが……」

 左利きのこの申し出に相棒は笑顔で、おお、是非ともそうしてください! と応じた。

「旦那の話し方はいくぶんよそよそしくて、正直俺もちと寂しく感じてたんすよ」
「そうですか。では、さっそく遠慮無くいかせていただきましょう」

 左利きはそこで言葉を切ると、僅かに残った遠慮を捨てた後で、決然として言い放った。

「……あのさ。あんた、呪使いとしちゃちょっと個性的に過ぎやしないか?」





 まさに一目散というに相応しい逃走だった。
 霧に乗じて酒場を脱したユカとリエッキは、ほとんど脇目もふらずに闇路やみじを駆けた。
 一言として示し合わせたわけではなかった。しかし、リエッキにはユカがどちらに向かって走っているのか、次にどこで辻を曲がるのか、そうしたことが手に取るようにわかった。
 そしてユカもまた、彼女が決して遅れを取らぬと信じ切っているかのように一度として後ろを振り向かなかった。

 夜の街を抜け出した二人はさらにしばしの距離を行き、街道からいくぶん離れた未開発の荒れ地で、これもまた互いに声掛け合ったわけでもなく自然と同時に立ち止まった。
 手分けして燃料となる枯れ枝などを集めたあとで、ドラゴンに戻ったリエッキがそれに点火した。

 いまやあらゆる現象を物語として譚りだすユカは、しかしただ一つ、炎だけは操ることが出来なかった。最も古い数冊の中に熱を操る物語があるが、これは炎とは似て非なるものだ。
 あんたが炎を使えればわたしは野宿のたびに竜に戻らなくていいのに。以前リエッキがそう文句を言った時、ユカは次のように答えた。
 僕が炎を使える必要も理由もないよ。だって、僕の隣にはいつだって世界一の炎がいてくれるんだから、と。
 彼女は赤面してそっぽを向き、やはりいつものように、はん、と鼻を鳴らした。そして二度と同じ文句を口にしなかった。

「久しぶりの野宿、久しぶりの焚き火。それに、久しぶりのドラゴンのリエッキだ」

 歌うような口調でそう言って、ユカがリエッキの背中に身体を預けてくる。

「こうしてるとすごく落ち着くんだ。人の姿の君には、こんな風に寄っかかれないけどね」
「ばあか、当たり前だ。自覚ないかもしれないけどさ、あんた、随分でかくなったんだぞ」
「でも君だってちゃんと大人になってるよ?」
「ほんとにバカだな。男と女じゃ伸び代が違うだろ。子供の時と同じ比率で考えてるなよな」
「ふふ、男と女、か。まるっきり人間みたいなこと言うんだもんなぁ」

 ユカが楽しそうに、嬉しそうに笑う。
 それから、リエッキにかかる体重がまた少し増した。

「もう少し力を抜いて寄っかかっていいかな? なんだか、今日はちょっと疲れちゃった」
「許可を求めるならそうする前にしろよな、ったく……ん、いいよ」

 リエッキが事後承諾に許可を与えると、ユカはえへへと甘えきった声を出した。まったく、希代の物語師もこれじゃ形無しだ、と彼女はぼやいた。
 しかし口では不満を表していながら、ユカの存在を我が身で感じるこの時間に安らぎを感じているのは、リエッキも同じだった。

「……おっかない奴だったな」
「……うん、呪使いはいっぱい見てきたけど、彼はそのうちの誰とも、根本から違ってた」
「で……そのおっかない奴が逃がさないって言ってたけど……これからどうすんだ?」
「そうだねぇ……どうしよう」

 答えて、ユカが大きくあくびをする。
 ほんと緊張感のない奴、と彼女は思う。
 そして、でもそれは私も同じか、とも。
 あの若い呪使いの目を思い出すとぞっとした気分が蘇る。けれど緊張は既に遠く過ぎ去っていた。ひとたびその現場を脱してしまえば、あとに残ったのはどうにかなるさという楽観だった。

 そうだ、どうせいつも通りどうにかなるんだ。だって、わたしとユカが一緒にいるんだから。

 ユカのあくびが感染したようだった。親友の体温と重さが、暴力的に心地よかった。
 うとうとと微睡まどろみの入口に立ちながら、リエッキは思う。このまま二人して寝入っちまったら、目が覚めた時には揃って呪使いの手に落ちてる……なんてことになりかねないな、と。
 でも、それならそれでいいか。投げやりな気分に任せて思考を放棄して、彼女は瞳を閉じる。
 そうなったらそうなったで、でも、二人一緒ならなんにも心配はないんだ。
 だっていつかあいつが言った通り、わたしたちは向かうところ敵なしの親友なんだから。

 リエッキはユカを信じている。そして、彼女はその気持ちを見失わない。

「ああ……そうだ……それじゃさ」

 彼女と同様、まどろみに沈んだ声でユカが言った。

「あのさ……一緒に……会いに行こうよ」
「ん……だれに?」

 眠りのとばくちからリエッキが聞き返す。
 ユカも半ば以上眠った状態でそれに答えた。

「君と姉さんに並ぶ、この世で一番強い女性の、最後の三人目……四人目の魔法使い……」

 ――ねぇリエッキ、僕の里帰りに付き合ってよ。

 眠りに落ちる直前に彼女が聴いた、それがこの夜の最後の言葉だった。

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