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図書館ドラゴンは火を吹かない 作者:東雲佑/右

■ 三章.かくれんぼでは鬼のことを

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■10 色の魔法使いの挿話 (『◆』)

 それはほとんど無意識の反応でした。少女の視線を受け止めた数秒の後、青年はあらゆる思考を逸した衝動に突き動かされてその場から逃げ出していました。
 己の手により生み出された惨憺に背を向けて、問題の大元である呪使いに結果としての慈悲を与えて、彼は舞台から客席へと分け入ります。いまだ状況の把握には至らず、それが為に混乱とも無縁でいる観衆たちをかきわけて押しのけて、そうして広場を脱した後は、二つの足を止まらず転げる車輪と変じさせて、無我夢中で走ります。
 昼下がりは黒く染まって。縁日の活況は惨たる色調に沈んで。
 しかしそれをなしたのは、他の誰でもない彼自身なのです。

 混雑する市場を青年は駆けました。行き交う女房や旦那と幾度もぶつかり、生魚の泳ぐ水樽を危うく倒しかけ、荷運びの軽子に関してはとうとう突き飛ばしてこれを転倒させ、しかしそうした一切をまるっきり気にもかけずに。
 迷惑に対する抗議の罵声がそこここからあがりますが、もちろん一顧としません。
 形振り構っている余裕はなくて、そしてまたその猶予もありません。

 遠ざけなければ、と彼は思います。引き離さなければ、と彼は念じます。
 僕という邪悪から、彼女を。

 どこをどう辿ったものか自分でもわからぬまま、いつしか青年は逗留先の宿屋へと帰って来ておりました。
 なりふり構わぬ遁走はそこでようやくひとまずの終わりを迎えたのでした。
 乱れた呼吸を整える暇も惜しんで、青年は木戸口へと通じる扉を押し開けます。受付で午睡に傾いている店主の前を素通りし、数日分を先払いして借りている自室へと戻ります。

 朝には二人で出発したその部屋に、ただ一人で。

 その瞬間、彼を襲ったのは暴力のような喪失の実感です。
 この日に限らず、いままでは出かけるときも帰ってくるときも、常に二人一緒でした。彼の隣にはいつでも日向の笑顔が咲いていて、片方の腕には絡まる別の腕の体温がありました。
 ですが、それらはつい先刻、永久に失われてしまったのです。
 憎悪は成りをひそめて、狂気は鎮まって、心は奇妙なまでに落ち着いています。平静を越えた、凪の夕方のような心境。
 その精神のしずかの中で、あらためて彼は己の喪ったものについて思いを馳せます。

 耳朶に染みついた幻聴は制止の声です。最初の『やめて!』は引きつった叫びで、次の『やめなさい!』は強い調子の命令で、最後の『やめよ?』には、懇願の響きすら伴って。
 網膜に焼き付いているのは表情です。戸惑いの表情。眼前の光景を受け入れられず、我が目を疑っている表情。信頼と疑惑の狭間に揺れている表情。
 ああ、そして、繰り返し脳裡を過ぎるのは視線です。真っ直ぐに彼を捉える一対の目。彼の行いを非難する、無言にして雄弁な目。
 少女の、愛する人の悲しみの瞳です。

 俺は、私は――僕は、彼女を喪ったのだ。

 理解は人格と存在のすべてを貫きます。膚絵師としての彼を、魔法使いとしての彼を、そうした肩書きの一切を無効とした本来の彼を打ちのめします。
 失意は余りにも深くて、悲しみは余りにも烈しくて、だから青年は嘆じます。

 ああ、よかった、と。

『良かった? 良かっただと?』

 弟の呟きを聞きとがめて、見えない兄が怪訝を極めた声を発しました。

『いったい、なにが良かったってんだよ? 最近のお前は良い方向に向かってたんだ。あの娘を得て、お前はようやく報われようとしてたんだ。俺にはそれが……おい、なのに、ついさっきそれは台無しになっちまったんだ。それのいったい、なにが良かったって――』

『良かったんだよ』

 声だけの声を荒げさせる兄に、青年はもう一度はっきりと言いました。

『あの舞台で、彼女は僕を退ける役目を担ってたんだ。邪悪な魔法使いの前に毅然と立ちはだかり危うい状況にあった呪使い様を救った……構図としてはこんなところだ』

 彼は事実を述べあげる口調で淡々と語り、それから、笑顔さえ浮かべて先を続けます。
『僕と彼女の対立は大勢の観衆が目撃している。彼らのすべてが証人だ。だから、あの場の悪は僕一人に限定されていて、彼女に累が及ぶことは決してないだろう。むしろ彼女のさらなる評判に繋がるかもしれない。いや、きっとそうなるだろう。ああ、まさにこれこそ最善の結果だ。ねぇ兄さん、これが最善じゃなくてなにが――』
『なにが最善なもんかよ!』

 青年の台詞を、今度は兄が遮ります。

『お前――てめぇこの野郎! そんなのは後付けの強がりじゃねえかよ!』
『強がり? まさか。僕は本気でそう思ってるよ』
『じゃあなんでお前は泣いてんだよ!』

 言われて、青年は打たれたように頬に手をやります。
 そこは確かに濡れていました。濡れていて、あとからあとから伝うもので渇く様子もありません。
 涙は自覚された瞬間、勢いを増して流れはじめます。鼻先につんとした感覚があるのに気付き、瞳の奥で熱が生まれるのを感じます。
 つきあげるなにかで、呼吸が詰まります。

『……お前は、あんまり不器用過ぎるよ』

 もう一度、見えない兄が言いました。弟を思っての怒りは、やはり弟を思っての嘆きへと変じておりました。
 兄弟はしばし無言となり、沈黙のうちに悲しみを共有しました。
 しばらくして、先に口を開いたのは青年のほうでした。

『ねえ兄さん。でも僕はさ、これで良かったって、少しは本気でそう思ってるんだ』

 なおも止まらぬ涙を拭って彼は笑いました。笑って、続けました。

『僕はさ、もう責任を果たしたと思うんだよ。僕の化粧がなくても彼女は自信に満ちている。僕の化粧がなくても、彼女は充分以上に美しい。
 彼女は日に日に魅力を増してさ、いつの間にか僕なんか必要なくなってたんだ。
 僕はそれを心底嬉しいと思ったよ。でも、僕はそれを嫌だなぁとも思ってたんだよ。彼女が僕を必要としなくなるのが嫌だってさ。
 ねぇ、これだけじゃないんだよ。たとえば大観衆の前で踊る彼女を誇りのように感じながら、同時に心のどこかでは、すぐに舞台から引きずり下ろしたいと考えてた。彼女を隠して、僕だけのものにしたいってね。
 まいったな、これじゃまるっきりあの呪使いと同じじゃないか』

 自嘲の笑い声が午後の客室に満ちました。兄はなにも言いませんでした。

『こんな風に、彼女に関わる限り僕は本当に浅ましい人間だったんだ。いや、浅ましい人間なんだ。今日より以前から、僕はもうずっと自分の内側に悪を養っていたんだ。だからね、今日の出来事は良いきっかけだったと思うんだ。だからさ、だから――』

 彼はそこで少しだけ言葉を詰まらせましたが、すぐに最後まで続けました。

『ここらで、おひらきにしよう』

 そう言い切って、彼は口角を持ち上げます。涙の笑顔を虚空に向けました。

『お前は、本当になんにもわかってない』
 見えない兄が絞り出すように言いました。
『そんなの、悪なんて言わねえよ。それが悪なら、愛情ってのはそれそのものが……』

 兄はそこで台詞を途切れさせます。
 室内には再び沈黙が満ちます。

『……それで、これからどうするんだ?』

 ややあってから、諦めたような声で見えない兄が弟に問いました。
 青年はすぐには答えません。自分の内側に目をやっても、そこには展望と呼べるものなど何一つ見あたりません。
 考えて、考えて、考えながら、彼はポケットに手を入れます。右と左の両方のポケットを同時に探ります。
 そこにあるのは対極の色彩です。
 逡巡の末に、彼は左のポケットにある顔料を取り出しました。この日発現したばかりの二つ目の魔法。彼の中の過剰なものを象徴する色。
 それを眺めながら、彼は思いました。
 この色があれば、塗り替えるのではなく塗りつぶすこの色があれば、報復は可能だ。そして、魔法使いは報復それをしないと高を括っている呪使いたちに思い知らせてやることは、これもまた可能だ。
 白ではもたらすことの出来なかった変化は、しかし黒でならば、あるいは。

 ――本当に、本気で、邪悪な魔法使いをやってみようか。

 鎮まっていた憎悪と狂気が、再び青年の心にちらりと影を差しました。

『……そうだね、とりあえず、先のことはこれから考える』

 己の内側に兆したものを追い払うように頭を振って、青年は部屋を見渡します。そこにあるのは少女との共有財産で、終わってしまった夢の残滓でした。それらの一切を彼は残していくつもりでした。品物はもとより、一枚の銅貨も一袋の糧も持ち出すつもりはありません。

『ともかく、先立つものは必要だ。それは膚絵師稼業の再開で解決出来るだろう』

 そうだ、僕にあればいいのは商売道具だけで、他にはもう、思い出すら不要だ。
 ……と、そこで彼は、その商売道具を入れた革袋がないことにようやく気付きます。
 ああ、そりゃそうだ。と彼は苦笑混じりに嘆じます。なにしろ僕は舞台からそのまま逃げ出してきたんだから。道具は天幕に起きっぱなしだ。
 もちろん、取りに戻るつもりなどさらさらありませんでした。常に肌身に帯びている絵筆も乱闘の最中に失われて、彼には本当に一つの道具もありませんでした。

『文字通り一から出直しってことか』

 どこか清々しさすら感じる口調で彼がそう呟いた、そのときでした。

『――おいヤサ男、忘れもんだぞ』

 背後から青年に呼びかける声がしました。
 反射的に彼は振り返り、そして、振り返った瞬間につい今しがた諦めたばかりの仕事道具で横っ面をはたかれます。容赦のない不意打ちに青年がよろめいたのも束の間、相手は全体重をかけて彼の胴体に組み付いてきます。
 がむしゃらな突進は、しかし青年を押し倒すには及びません。
 体格の面でも身長の面でも、相手は青年よりもずっと小柄だったのです。

『全部置き去りで、あたしまで置き去りで……あたしのヤサ男はなにをやってんのよ!』

 永久に失ったはずの愛する人が、青年の胸の中から彼を怒鳴りつけたのでした。

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