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図書館ドラゴンは火を吹かない 作者:東雲佑

■ 三章.かくれんぼでは鬼のことを

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■8 色の魔法使いの挿話 (『◆』)

 こうして青年は恋に落ちました。
 いいえ、本当はもうとうの昔に恋の火は灯っていて、しかし自覚を得たことによりそれは炎と燃えあがったのです。

 胸焦がす劫火へと。内から彼を呵む紅蓮へと。

 少女への想いに焼かれて、青年は幸福を感じるよりもむしろ苦悩しました。
 あるいは皆様も既にお気づきのことと思いますが、彼はまったく不器用な男でした。
 己の中の恋情を意識して、息苦しいほどに自覚して、けれどもそれとどう向き合えばいいのかが彼にはわかりません。どのように行動すればいいのかが、どのように振る舞えばいいのかが。
 どころか、自分が相手に対してなにを求めているのか、相手とどうなりたいのか、それすらも。
 世の真理を見通す特別な眼の持ち主は、他の誰もが、子供ですらが当たり前に知っている己の感情だけは見通すことが出来なかったのです。

 しかしそうした悩みには、それでも甘やかなところがありました。さながら上等の葡萄酒のそれにも通じて、渋みの中に甘きを賞味するが如く、苦悩の中の幸福を味わうという余地が。

 ですが、いま一面の苦悩には?

 恋の病とは別の側面に、青年はそれとは別の煩悶を抱えていました。彼を真に懊悩させたこちらには、いましがた述べたような愉楽の風は些かも含まれてはおりませんでした。
 暗い感情に直結した苦悩。彼を恋の自覚へと導いた感情。
 世俗の正義たるそれに、魔法使いへの差別と偏見に、青年は絶望を直視しました。それまではため息ひとつでやり過ごすことの出来た問題は、その正義の矛先に自分だけでなく愛する人もまた立たされているのだという認識を得るに至って、ため息を悲嘆の絶叫へと変じさせたのです。
 諦念は去って、その不在に住み着いたのは深い失意と強い怒りでした。

 恋情と憎悪、属性は両極を極めながら同じものを口火とする二つの炎に焼かれて、青年は心休まる暇もなく悩みます。疑問の箸休めにまた別の疑問に取り組み、苦悶の疲れを煩悶で誤魔化すといったように。

 彼は少女を愛していて、その愛のあまりの深さに心を削りつづけたのです。


 そのようにして数ヶ月が過ぎます。青年と少女の股旅は続いて、二人だけの巡業は常に大成功をおさめます。
 数ヶ月が過ぎても、彼と彼女の間柄はなにも変わってはおりませんでした。

『そうだ、なにも変わってない。なぁ、それって問題有りじゃねえか?』

 そう指摘したのは青年の目に見えない兄でした。
 朴念仁を絵に描いたような弟と比べて、この兄は死んで生まれた生粋の死者――なにやら奇妙な表現ですが――でありながら世間の諸事に明るいところがありました。
 彼にしてみれば、なんら進展のない二人の関係はもどかしさを通り越して苛立たしくすらあったようです。
 己の中の恋情に、青年は未だにひとつの答えも出せてはいませんでした。一般的な恋愛がどのような発展を辿るのか、その定型の鋳型に己を当て嵌めてみるなどという芸当も彼には到底不可能でした。
 だから彼は悩んで、ひたすらに、いたずらに悩んで、そうして夏の午後の犬のように同じところをぐるぐると回り続けておりました。
 少女は青年の変調に気付いていて、しかし彼がそれをひた隠しにしようとしていることも察していて、だから自分からは何も言いませんでした。
 皮肉なことに、こうした少女の気遣いは却って事態を膠着させていたのです。

 それに――。

『いいか? 俺が見るところ、あの娘はずっとお前のことが――』
『そうだ、なにも変わらない。それは問題だよ』

 兄の声を遮って、青年が暗い声音でいいました。
 ――それに、青年はもう一方の問題にこそ第一に心を砕いており、色恋の問題はまるっきり二の次にしてしまうことが多かったのです。

 兄の忠告がなくても、彼はもう滅多に乳白色の顔料を手に取らなくなっていました。大混雑の祝祭で転んでべそをかいている子供を見かけても、老骨の痛みに悲鳴をあげている老人が眼の隅にとまっても、彼は一切を見なかったことにしてしまいました。
 情景の中にある痛みの色から眼を逸らすために、さながら常人が固く瞑目するのにも似て彼は右の眼を見開きました。
 慚愧は常に彼を呵みます。良心は容赦なく彼を呵責し、色への背信を殊更に意識させもします。

 だが、と彼は思います。だが浅はかな善行は、果たしてなにを俺に……俺たちにもたらすんだ?
 青年は、己の内側に悪を感じます。そしてその悪を、彼は肯定します。

『ああ、問題だ。なにも変わらないことは。世の正義は余りにも普遍で、そして不変に過ぎて……俺たち魔法使いにとってそれは、いかにも大問題じゃないか』

 いまや青年にとって正義とは憎悪の対象に他なりませんでした。そして世の大半の人々は己の属する正義を信じていて、だから、青年にとって彼らは潜在的な敵でもあったのです。
 過剰なものが青年の内部から溢れ出し、知らずのうちに彼を絡め取りつつありました。



 そして、事件はついに起こります。
 ある縁日の午後のこと、出番を迎えて舞台に登場した少女を、人垣を割って現れた十人ばかりの男たちが取り囲んだのです。
 当然、彼女の一番を楽しみにしていた人々は無数の声をひとつと合わせて抗議しました。
 ……が、それらの声は次の瞬間、遇えなく封殺されてしまいます。

『静まれ! 静まりたまえ! ……ええい、静まらんか!』

 男達の先頭に立ちそう叫んだのは、一目で呪使いとわかる出で立ちの初老の男でした。
 呪使いを一目見た瞬間、少女は寄せた眉根に不快の情を滲ませます。
 近頃、少女の演舞には熱心な愛好家と申しますか、信奉者じみた支持者が多数ついておりました。この呪使いの老人はひときわ熱心な支持者の一人で、祝祭と縁日の渡り鳥を続ける少女を追って自分もまた祝祭渡りをしているほどの筋金入りです。
 もちろん、芸人にとってそういう客は有り難いことこの上ない存在です。が、ここ最近、彼は少女にとってはひたすら迷惑な存在に成り下がっておりました。
 すなわち、一観衆であることに満足出来なくなり、少女を己一人で独占しようとしつこくつきまといをはじめたのです。

『下々のお楽しみに水を指して心苦しいのはやまやまだがな』と、呪使いはいいました。『そこな舞姫には舞台を下りて同行頂かねばならん』

 少女が、二匙分も苦虫を噛んだ顔をして呪使いを睨みます。
 事情は飲めました。つまり、いくら口説いても首を縦にしない少女にしびれを切らせ、権力を笠に着た実力行使に出た……と、こういうことなのでしょう。

『一応質問はしてみるけど、どういう理由であたしをここから引きずり下ろすって?』

 毅然とした、ほとんど不敵なまでに堂々とした態度で少女はそれを問います。
 呪使いは左手に持った杖を大仰に振りかざして、答えました。

『とぼけたことを! お主には邪悪の嫌疑がかかっておるのだ! 邪な魔法使いの……なぁ、踊りの魔法使いよ!』



 舞台袖で、青年はすべてを見ていました。そこで、一部始終を目撃しておりました。
 彼は身の内に燃えさかる炎を感じて、そのあまりの冷たさに身震いしました。氷の温度の炎が心の表面を炙って、そこから体温を奪い尽くします。歯の根はガチガチと鳴って、視界は血を失いすぎた時のように明度を落としています。

『これはもしかして、僕の内側から出来した悪夢なのか?』

 ほとんど茫然としながら青年は呟きます。
 目の前の光景を現実として受け入れられず、心は千々に乱れています。
 しかしそれは無理からぬこと。なにしろそれは彼の苦悩の顕現とでもいうべき情景だったのです。
 もしもこのとき、成り行きを見守る彼を逆に見つめる視点があったならば、いったいその眼にはなにが映されていたでしょうか? 
 もしも彼と同じ性能の眼を持つ者がいたならば、このときの彼にいかなる色を見たでしょうか?

 邪な魔法使いと、そういった呪使いの声が彼の耳朶を打ちます。
 踊りの魔法使いと、彼の愛する人に向けられた、敵愾の響きを持つ二つ名を聞きます。

 その瞬間、青年の内側で憎悪がいっぺんに煮えたぎりました。
 そして、ポケットにずんと重みが加わります。
 乳白色の顔料を入れた右のポケットではなく、それとは逆の左のポケットに。


 そこにあったのは黒の顔料瓶でした。

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