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図書館ドラゴンは火を吹かない 作者:東雲佑/右

■ 一章.図書館のドラゴンは夢を見続ける。

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■5/了 リエッキとユカ

 その晩、月はいよいよ器を満たしてまるかった。満月は細部まで遺漏なく天穹を照らし、星々は際限を越えて夏を彩っている。雲はそのすべてが雨となって流れてしまったものか、遮るものの一縷いちるとも無縁の夜空はどこまでも蒼く深い。

 まったき月が照らす、まったき夜がそこにあった。

 彼と彼女はその夜の中心にいた。
 この夜は自分たちのものなのだと、どちらも言葉にしないまでもその気持ちを共に抱いている。
 二人の夜を完全にしているものの余韻に気持ちよく浸りながら、ユカとリエッキはなにも言わずに寄り添っている。既にひとしきり言葉は尽くして、ひとしきり喜びを喜び合って、だから、いまはただ沈黙を楽しんでいる。
 一日の終わり。あまりにも特別な一日の。リエッキは寂しささえ感じながらその過ぎゆく時に身を委ねている。
 不思議だ、と彼女は思う。
 彼女にとって、昨日まで毎日はひたすら同じ日々の繰り返しだった。だから、一日一日を惜しむなんてことは、発想することすらなかった。
 なのに今、彼女は今日という日が終わってしまうことが寂しくて仕方がない。
 自分が新しくなり続けた一日だったと彼女は振り返る。だから、昨日までの自分を遠く距離を隔てた他者のように思うこの感覚は、たぶん間違っていないのだろう。
 今まで、わたしの中にはまっさらな空白だけがあった。けれど今日、そこに最初の一筆が描き入れられたのだ。そしてそれに次ぐ二の筆、三の筆……いや、数え上げればきりがない。
 そうだ、数え切れないほど多くのものをわたしはこの一日で獲得したんだ。だから、昨日までのわたしはもういない。

 リエッキは語り部を見つめる。彼女という竜に点睛を加えた、まだ幼くすらある語り部を。
 いま、彼は彼女に寄りかかって星を眺めている。この夜に負けぬほど澄んだ瞳で。

「おいユカ」とリエッキは話しかける。
「なに?」とユカは答える。

 そして会話はそこで途切れる。
 わたしはなにを言おうとしたのだろう、と彼女は考える。考えて、そして唐突に答えは去来する。
 わたしはただ、こいつに話しかけたかっただけなんだ。
 話しかけて、そしていらえは得られた。当然のようにそれは返された。
 ……ちきしょう、と彼女は思う。
 ちきしょう、どうしてこんなにも気分がいいんだ。

「……今回のこれは」努めて低い声を作ってリエッキは言った。「今回のこれは、全部あんたがやったんだ。わたしはほとんどなにもしてない。だから、この結果はあんたのものだ」

 なにが言いたかったのか、自分でもよくわからなかった。
 しかし返答は即座に、間を置かずに返された。

「違うね。あの物語は君を主題に成り立ってたんだ。だからあくまでも主役は君だよ」
「口答えするなよな、あんたはわたしの使いなんだろ? だいたい失礼な奴だよあんたは。逃げなければ殺されるぞ焼かれるぞって、わたしはそんなに凶暴じゃない」
「そうかな? そのあとの君の迫力と来たら、その台詞を体現して余りあったと思うけど? 山道を畑の畝みたいにしちゃってさ。あそこまでしろなんて僕は言ってないぞ、山の神」
「だから口答えするなっていうんだ。愚かな二つ足め」

 言葉は鍛冶場の音響にも似て打てば響いた。和やかな言い合いを重ねて二人は見つめ合う。
 それから語り部が、ユカが笑う。耐えきれなくなったというように彼は吹き出す。

「違うよリエッキ、僕らは二人とも間違ってる。僕らはどちらが主役でもない」

 本当は君だってわかってるんだろう? と彼は彼女に笑いかけた。
 そして続けた。

「僕らは二人だから出来たんだ。二人だから成し遂げられたんだ。今日の勝利はどちらかひとりのものじゃない。この夜は、僕たち二人のものだ」

 ユカはもう一度リエッキに身体を預ける。暖かい重みが彼女に寄りかかる。
 ちきしょう。と彼女は思う。ちきしょう、どうして、どうしてこんなにも――。
 感情というものの威力を、リエッキは己の中にまざまざと感じ取る。
 それらは昨日まではなかったものだ。すべてがこの一日のうちに培われたものだ。
 それら感情の一つ一つを、彼女はいまだ名付けることすら出来ずにいる。彼女は感情という代物をまったく持て余し、その暴威にひどく振り乱され、そして、数々のそれらに余さずかけがえのない価値を見出している。
 今日という日が終わるのが寂しかった。深まる夜が切なかった。なのにその寂しさや切なさまでもが心地よかった。
 戸惑いは尽きずに、しかしどこを探しても不快さはない。

「……ちきしょう」と彼女は声に出して言う。そして語り部を睨み付けて、続ける。「こいつは、全部あんたのせいだかんな」

 拗ねた子供のように、彼女はぷいっと顔を背ける。
 そんなリエッキを、ユカは瞳に微笑ましいなにかを湛えて見つめている。
 彼は言う。

「ねぇリエッキ。僕たち、もっと色々話そうよ。僕はもっと君のことを知りたい。僕のことも知って欲しい。だってさ、僕らは一緒に一つのことをやり遂げた親友同士なんだもん」

 今日という日はまだ終わらないと、少年の二つの瞳が、雄弁にそう語りかけていた。
 そうして、リエッキの中でまた一つ感情が脈打ち始める。
 わたしはいつからわたしになったのだろう、と彼女は思う。そして、親友と呼んでくれた男の子を見つめながら自答する。

 そうだ。きっと、はじめてこいつに名前を呼ばれたときからだ。



 リエッキとユカは語り合った。深まる夜に、終わりゆく一日に抗うように。
 歓談の場には蜂蜜と蜂蜜菓子、それに蜂蜜酒が所狭しと並べられた。ユカが蜂飼いの家族から与えられた餞別はこの夜に余さず解放され、そして残らず消化された。
 この夜、リエッキははじめて水以外の食物を摂取し、そしてその味わいに取り憑かれたように魅了された。それ以降、蜂蜜は生涯にわたる彼女の好物となった。
 酒に酔い、疲れに潰れ、二人はいつしか眠りにつく。
 彼と彼女が目覚めたとき、今日という記念碑的な一日は既に終わっている。

 しかしもちろん、二人の友情は継続している。

 翌日もユカとリエッキは共に過ごした。揃って目を覚まし、また眠るまでずっと、彼と彼女はあらゆる時間を共有した。
 その内側に特筆すべきことはなにもない。けれどすべてが特別だった。共にすること、共にいること、なにもかもが喜びと愉悦に満ちて輝いていた。
 ユカと過ごした数日に自分が得たものを、リエッキは数えきることが出来ない。
 彼女はもう己の内側に空虚を感じなかった。充実に次ぐ充実に、自分がまったき隅々まで充たされていることを彼女は自覚している。
 リエッキはもう、自分を現象とは思わない。
 わたしはわたしなのだと、彼女は世界に胸を張れた。

 その翌日も、そのまた翌日も、二人は同じようにして過ごす。
 蜂の巣を求めて山中を駆けずり回り、ようやく探し出したそれに中身の幼虫ごとかぶりつく。
 通行の再開した山道を眺めては自分たちの成し遂げたことを確認して満悦に笑み交わす。
 夜の数だけ物語が語られる。
 彼らは友情を確かめ合わなかった。確かめるまでもなく確固としてそれはあったからだ。


 そして、五日目に別れは訪れる。


 もちろんそれは予め定められていた別れだった。
 ユカは語り部で、物語ることで母の名誉を奪回する志しを抱いて旅に出たのだ。それがいかに強固な信念と深い愛に支えられた目的意識であるのか、リエッキは理解している。
 だから、彼女は決して『行くな』とは言わない。「明日出発しようと思うんだ」と四日目の夜にユカが言った時、彼女はただ「そうか」とだけ応じた。
 それが友情に悖る一言であると知って。だから、慰留を仄めかすこともまたしない。
 しかし、本心は?
 もちろん、彼女の内側ではあらゆる感情が悲鳴をあげている。
 それを黙らせているのはひとえに彼女自身の意思の力、ユカとの友情に対する信念だった。

 本心を隠したまま、リエッキは旅立つユカを見送る為に己もまた一時的に山をくだった。人の通行する山道は使わず、山中を二人で迂回して。
 彼女は悲しみや寂寥、またはそれに準ずるあらゆる感情を封じていた。それを感じさせることはユカへの負担になると弁え、おくびにも出さない。
 むしろ明るさを偽装して愉しそうな顔すら浮かべようと努力した。
 それは、感情の初心者である彼女にとって余りにも苦難に満ちた献身だった。

「二度と妄りに山を冒さぬよう! ……なんてね。大丈夫。きっと、いや絶対にそうなるさ」
「別に、また来たら来たで今度こそ丸焼きにしてやるだけさ。まぁ、わたしは達者にやるさ」

 快活そのもののユカに、彼女も平気な顔をして応じる。心はまた悲鳴をあげている。
 人間は抱えきれぬ悲しみを涙にして流すらしい、と彼女は思う。
 それは、もしやこのわたしにも宿っているのだろうか? だとすればユカを失った時、わたしは涙を流すのだろうか?
 リエッキは一つの決意を胸の裡に固める。もしわたしにも流れる涙が備わっているのなら、それは、ユカと別れるまでは堪えよう。ユカの前では決してそれを見せまい。
 ドラゴンは本能的に宝を求める。そして、彼女はこの時すでにそれを見出していた。ユカとの友情――それこそが、いかなる犠牲を払っても守らねばならぬリエッキの宝だった。
 この世で最も気高き生物の高潔さは、ただその一念にのみ尽くされようとしていた。

 地面は段々となだらかになり、いつしかその傾斜は完全に失われて平らになる。木々の連なりは途切れ、やがて視界も拓ける。
 境界が現れる。山と平地をわけるそれが。

 そこが二人の別れるべき場所だった。

「それじゃあ」とリエッキは自分からそれを切り出す。「いよいよここでお別れだな」
「うん」とユカは応じる。その表情に寂しさのないことが、リエッキの心をちくりと刺す。

 彼女はユカを見つめる。世界でただ一人の友達を彼女は見据える。
 そして言葉をかける。

「それじゃ、達者でやれよ」

 言いたいことは山ほどあったはずなのに、結局口に出来たのはただそれだけだった。
 わたしは随分あんたに世話になった、と言いたかった。あの狼藉者どものことなんかじゃない、あんたはわたしに数え切れないほど多くのものをくれた、そう感謝を伝えたかった。
 だからもうわたしは心配いらない。この数日の思い出があるだけで、わたしは――。

「あんたの幸運と成功を祈ってるよ。じゃあな、さよなら」

 痛ましいほどの笑顔を向けて、彼女は親友にそれだけを告げた。本当に言いたいことはなにひとつ言葉にしなかった。それらのうちひとつでも口にしてしまえば、たちまちそこから綻びが生じてしまいそうだった。彼女にとってそれはなによりおそろしいことだった。
 ともかく、リエッキは別れを放った。あとは相手からそれが告げられるのを待つだけだった。
 しかし、彼女がいつまで待ってもユカはさよならを返してくれなかった。己の内側で限界に達しかけているものをなんとか抑えているリエッキをよそに、ユカは腕組みをしてなにやら真剣に考え込んでいる。

 はやくしてくれ、とリエッキは思う。はやくしてくれ、でないともう、わたしは。

「ねぇリエッキ」

 そのとき、ようやくユカが言葉を発した。別れの場面には余りにも適さない、晴れわたる空にも似て清々しい笑顔で。涙の雨を含んだ雲の気配はそこには皆無だった。
 彼は言った。

「あのね、新しい物語の出だしはどんなのがいいかなってずっと考えてたんだ」

 それは、状況と脈絡の一切を無視した切り出しだった。
 リエッキは唖然として、一瞬、自分の内側で暴れ狂っていたものすら忘れかける。
 そんな彼女の反応に、ユカはしてやったりというような色を笑顔の中に浮かべる。
 そして、さっき言いかけていた話を最後まで続けた。

「いいかい? こんな具合だ。『こうして二人の友情ははじまったのです。こうして二人の物語は幕を開けたのです。きっと、彼らの前には無数の困難が立ちはだかるでしょう。きっと、彼らの前には数多あまたの障害が横たわるでしょう。けれど、二人一緒ならばなんにも心配はありません。なにしろ彼と彼女は向かうところ敵なしの親友、最高の友達同士なのですから。そうして、彼らはいつまでも仲良く旅を続けたのでした』」

 あれ、これじゃ始まりじゃなくて終わりの文句みたいだな。
 そう呟いて舌を出したユカの仕草に、リエッキは彼がなにを言おうとしているのか、たちどころにそれを理解した。

 語り部は恭しい動作で片方の手を竜へと差し延べる。そして言った。

「リエッキ、僕と一緒に行こう。僕ら二人なら何処に行っても最高に楽しいはずだよ」


 それまで封じ込めていた感情の数々が、リエッキの内側で爆発的に量感を増す。
 それらはもはや彼女の中には収まりきらなくなり、二つの瞳からぽろぽろと溢れ出す。
 彼女は涙を流していた。ユカの前では決して流さぬと誓ったはずのそれを。
 しかし、その涙は友情を裏切る涙ではなかった。
 その涙は彼女の気高さを侵してはおらず、彼女の守るべきものを汚してはいなかった。
 だから、彼女は憚ることなく泣いた。悲しみのものではない涙を流し続けた。

「僕と行こう? ずっとずっと僕と一緒にいよう? ねえ、リエッキ」

 答える代わりに、彼女は高々と吼えた。

 遮るもののない平原に、随嬉ずいきの咆吼が響きわたる。



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 読者よ。親愛なる読み手よ。

 こうして二人の旅ははじまります。
 こうして二人の物語は幕を開けるのです。

 冴えないユカ。
 取り柄なしのユカ。
 七光りと威光の申し子の、情けないユカ。

 けれど、彼の傍には常に彼女の姿がありました。
 百千万の人生を繰り返しても二度とは望めぬ友情がありました。
 意地っ張りで涙もろく、そしてなにより友達想いな、リエッキという親友がいてくれました。

 だから、読者よ、何度でも申しましょう。
 これは、最も幸福な男の物語なのです。 

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