第62話 すべてのあとに
それぞれの心に強烈な刻印を残して、事件は解決を迎えた。
葵たちはマスコミを大きく騒がせ、一時はニュース番組やワイドショーの話題を占領していた。
しかしそんな事後処理に忙しい日々が続いたものの、日が経つにつれて一同は元の平穏な日常を取り戻していった。
厚く積もった雪が解け、木にはつぼみが芽吹き、若葉の匂いのする風が吹いてくる季節の移り変わりを、葵は穏やかな気持ちで感じていた。
事件から、4ヶ月が経った。もう季節はすっかり春だ。
あちこちで桜が満開を迎え、そよぐ風に花びらを散らせている。
事件以来、五条家は無言で葵から手を引き、今は若宮家にも安定した生活が訪れていた。
葵は、白紙になっていたイギリスへの留学が復帰し、あと数日で出発の日を迎えようとしている。
もちろん、探と一緒に。
婚約は解消されたままだが、晴れて二人は恋人同士に戻ったのだ。
婚約者から恋人同士に発展する、というのも少々変ではあるが。
新しい土地への出発を目前に控え、二人は桜並木に沿って河川敷をゆっくりと散歩していた。
ひらひらと舞う花びらは、あの粉雪の夜を思い出させる。
葵の左手の薬指には、華奢なシルバーのリングがはまっていた。
それは探がイギリスに、ベンを訪ねて戻ったときに買ったものだ。
必ず葵を助け出す、という、決意の象徴。
前方にひたすら続く桜並木を眺めながら、葵がつぶやいた。
「組織の人たちの判決、どうなるんでしょう」
探も同じものを見つめて言う。
「彼らは殺人までには手を染めていないようですけど、それでも他の罪は重いでしょうね」
探の脳裏に、たった一人残された女性の姿が浮かんだ。
苦しんで苦しんで、やっと終わりを迎えたのに、その結末は彼女にとって更なる苦痛となっているはずだ。
人には意地でも涙を見せない彼女だが、今は両親や恋人を思って、ひっそりと泣いているのだろうか。
そんな探の思考を、葵の声がさえぎった。
「でもウノさんは、完璧に悪い人ではないような気がします」
探が顔を向けると、葵はどこか心配そうな表情になって続けた。
「あの人は一度私に、自殺か不老不死、どっちを選ぶかって聞いてきたんです」
葵は言葉の一つ一つを丁寧に思い出していく。
「『昔、絶望したとき拾ってくれたボスにどこまでもついて行くと決めた』とも言ってました。だから・・・彼は不老不死なんか、本当は欲しくなかったんじゃないかって・・・何か深い悲しみに囚われて犯罪に走っただけなんじゃないかって思えてくるんです」
探の記憶の中には、そんな人間らしい彼の姿など見あたらなかった。
彼は冷徹で恐ろしく賢く、急所を射抜くような鋭い目を持った、心のないロボットのような男だというイメージしかない。
「何だか・・・僕には信じられません。彼にそんな一面があるなんて」
びゅうっと風が流れて、若葉の匂いが吹き付けた。
新しい命を祝福するように、太陽の透明な光が辺りを優しく包んでいる。
そんな世界と同じくらい透明な葵の声が、青空を抜けていった。
「きっと、完璧に悪い人なんていないんですよ。ウノさんだけじゃなく。みんな『大切なもの』があって、それのために行動していただけなんだと思います」
そう言い切った葵の唇がゆっくりと持ち上がり、口元に優しい笑みが浮かんだ。
二人は足を止めて顔を見合わせ、しばし静かに微笑み合った。
キイッと軋む音を立ててドアが開き、入ってきた人物が真っ直ぐに立つ。
目を上げたウノ――啓吾はその意外な人物の姿に、驚きでハッと息を呑んだ。
その背後で警官がドアを閉める。
閉ざされた空気の中、その人物は歩みを進めて、無言で啓吾の前に腰を下ろした。
「馨・・・」
彼の乾いた唇から漏れた言葉は、ガラス一枚を突き通して自分を見据える恋人の名前だった。
面会室に入った瞬間、寂しさが心を突いた。
冷たく立ちふさがるガラスの壁が、向こう側にいる彼をまるで別世界にいるように見せていたからだ。
ガラスのちょうど口の高さの位置に、お互いの声が聞こえるように穴が円状に開いているのをサスペンスドラマなどでよく見るが、実際のそれは全く違い、どうやらガラスが設置されている下のステンレスの部分に穴が開いているようだ。
些細なことだが、自分が思っていたことと現実との違いが、痛みとなってチクリと胸を刺した。
現実は、甘くない。
4ヶ月前最後に会ったときより、啓吾は少しやつれたように見えた。
彼は半ば独り言のようにつぶやいた。
「俺のことは忘れろって言っただろ・・・」
だが馨はケロリとして笑う。
「『好きにしろ』って言ってくれたじゃない」
そんな馨に、啓吾は敵わないとばかりに眉を下げ、口元をゆるめた。
「どうだ、元気にやってるか」
「それはこっちのセリフ」
「まぁ・・・普通だ。それなりにマジメにやってる」
「そう・・・良かった」
「髪、伸びたな」
「え・・・あ、うん。なんか最近、違うことに気を取られてて髪にまで手が回らないっていうか・・・」
「そうか・・・」
そんな調子で、ぽつぽつとだが、二人はお互いの生活を話した。
馨は今日啓吾に、どうしても報告しなければならないことがある。
先ほど言った、馨が今最も気を取られていることだ。
だが漠然とした――黒い沼に足を踏み入れるような不安が胸に壁を作り、最初の一歩が踏み出せなかった。
今度こそ、という決心が何度も揺らぎ、結局彼女は無難な話題にすがる。
「就職決まったよ。念願叶って保育士になれた」
「本当か?良かったな。そういや昔から『なりたい』って言ってたな」
一方の啓吾の生活は平坦で、毎日同じことの繰り返しらしいが、大きな問題は無いらしい。
二人とも、あえてあの最後のメールには触れなかった。
あれはお互いの心の中で、黙って分かり合っておくべきもののような気がしていたのだ。
言葉にして、解説や理由を付け足したら、純粋さが濁るだけのように思えた。
だから馨はあえて遠回しだが、確実に啓吾の心に届く言葉で気持ちを表した。
「啓吾・・・」
「・・・何だ?」
「・・・ありがとう」
ガラスの向こうの彼の瞳に、優しい光が浮かんだのが見えた。
それが、わずかに声にも現れているようだった。
「それはこっちのセリフだ」
鼻の先に、鋭い痛みのような感覚が走り、涙がにじんできた。
馨は急いで深呼吸し、泣いていないということを無言で啓吾にアピールすると、彼の次の言葉を待った。
啓吾は静かに語り始めた。
「俺は昔、自衛隊に居たんだ。その時たまたま式典か何かでボス・・・お前の父親と知り合った。そのときは不老不死なんてバカげてると思ってたんだが――」
彼はそこで一旦言葉を切り、わずかに眉間にシワを寄せた。
「・・・そんときホレてた女がな、自殺したんだ」
馨の目が、悲劇に見開かれる。
目線を落としたままの啓吾は、思い詰めたような顔をしていた。
「本当に、あのときは絶望した。遺書も何も見つからなかったから原因もわからねぇ。それで逆に、俺のせいだったんじゃねぇかって思っちまってな」
一見冷めてはいるが、深い悲しみが心の傷となって血を流しているのが伝わってくる声だった。
「本当に俺のせいだったのかもしれねぇ。訓練に忙しくて、なかなか会ってやれなかったし」
馨は、言葉が出ない。
ただただ、苦々しく歪む啓吾の顔を見守ることしか出来なかった。
「それで、『死』っていうもんの考え方が変わっちまったんだ。『死』が何なのか、わからなくなった。自分から進んで選ぶような価値があるのかどうか考え続けて・・・。『死』とか『命』ってもんに疑問を投げかける絶望の日々が続いた」
彼はふいに顔を上げ、歪んだ顔のまま口元だけ笑ってみせた。
「だからよ、お前の父親に弟子入りして『永遠の命』ってもんに関わってみた。『命』ってのがどんなものか、この目で見てやろうと思ったんだ。例えそれが犯罪でも構わなかった。どうせ落ちるところまで落ちてるんだからよ、もうどうでも良かったんだ」
苦い空気が流れる。
しばらくの間ののち、馨は静かに問うた。
「今でも、どうでもいいって思ってる?」
啓吾はしばし無言で視線を落としていたが、ふいに馨と目を合わせた。
「いや、今は違う。あの頃の俺は、がむしゃらに突っ走ってた。でもな・・・」
自分を真っ直ぐに見つめる彼の目が、愛しかった。
「お前に出会って変わった。お前は強い意志があって、まぶしかった。両親のことも自分で決着つけて・・・。だいぶ影響されたよ。だから今は、真剣に生きてるつもりだ」
馨の唇が、わなわなと震え始めた。
溢れそうな涙をこらえ、きゅっと唇を引き結ぶ。
今、言わなければ。
「実は私、啓吾に話さなきゃいけないことがあるの」
目の前の啓吾が両眉をひょいと上げ、聞く態勢になった。
馨に、もう不安は無かった。
「2ヶ月くらい前に病院にかかって、その時たまたまわかったことなんだけど・・・」
「どうかしたのか?まさか、何か病気でも見つかったんじゃ・・・」
「あ、ううん。そういうことじゃなくて。私・・・私ね、実は・・・」
彼が、自分の言葉を待っている。
生きることに全力で、真っ直ぐな彼が、待っている。
今、言わなければ。
馨は口を開いた。
「私、妊娠してるの」
呆然と、目だけ見開く啓吾。
馨はすかさず付け足した。
「今、5ヶ月。女の子だって」
啓吾はずいぶんと長い間、夢でも見ているような顔で呆気にとられていた。
何と言っていいかわからない。
啓吾は混乱していた。
馨の言ったことが信じられない。
着ている服のせいか、お腹が少し大きくなっていることにも気付かなかったからなおさらだ。
よくわからない感情があっちへ行き、こっちへ行き、また戻って行き止まり・・・
ようやく、一つの結論に辿り着いた。
「俺の…子ども…か?」
「そうよ、啓吾の子よ。啓吾は私に、新しい『命』を宿してくれたのよ」
涙目で声を震わせ、それでもこぼれる笑顔でそう言った馨を見て、啓吾の胸に何か温かいものが広がった。
それが『喜び』だということに気付くまで、彼はまた夢見心地で馨の顔を眺めていた。
しばらくののち、喜びと期待、そして少しの不安の色が入り交じった馨の顔に、ようやく言葉をかけた。
「産んで…くれるのか?」
馨の顔から、不安の色が消えた。
「誰が何と言おうと、私は産む」
強い決意の声が狭い面会室に響き、啓吾の頭に幾度と無く響きわたる。
自然と、優しい笑みが浮かんだ。
「パパとママにも報告してきた。二人とも驚いてたけど、すごく喜んでくれた」
ようやく落ち着いた啓吾に、馨は語って聞かせる。
「そうか・・・新しい命だもんな」
啓吾も、今まで見たことがないほど穏やかな目で言葉を発している。
「パパなんかね、まさか自分の親友が義理の息子になるなんて夢にも思わなかったって笑ってたんだけど、涙目だった」
それを聞いた啓吾が、無言で微笑む。
馨は興奮気味に、両親のことを話した。
「私、成人したばっかで母親になるなんて早いかなと思ったんだけど、考えてみたらあの二人なんか40代前半でおじいちゃんとおばあちゃんだよ。でも良かった、喜んでくれて」
「これであの二人も、やっと救われるな」
啓吾のその言葉に、はっと気付かされる馨。
やはり啓吾は気付いていたのだ。
彼らが『死』に――『命』というものに縛られていることを。
不老不死など幻想に過ぎないということを。
それでも辛い過去を背負い、自暴自棄に組織を動かしてきたのだ。
今回の逮捕で、彼もまた救われたのかもしれない。
犯罪だとわかっていても引き返せず、必死に悪に染まろうとした立場がようやく崩れ、気丈な精神からも解放され、やっと本来奥に持つ優しさ――馨にかいま見せていた優しさ――を出せて、こんな穏やかに微笑むことが出来るようになったのかもしれない。
そう思うと、また涙が盛り上がった。
啓吾がからかいを含んだ目で馨を見やる。
馨は持ち前の強がりで、彼を見返した。
「泣かないよ」
大きく深呼吸する。
「泣かない」
馨は精一杯の笑顔を作った。
「ただの強がりじゃなくてね、強くなろうと思う。強い母親に」
啓吾が、穏やかな光をたたえた目で深く頷く。
そっと自分の腹部に手をやって、馨は目を閉じた。
「赤ちゃんのために、いいお母さんになるから。だからさ…名前、考えといてよ。『お父さん』?」
桜が舞う。
風に身を任せ、それでも最後の瞬間を精一杯踊り、どこかへ消えていく。
花の隙間から差し込む日差しを受けた葵の髪の一本一本が透き通り、彼女の繊細さを際だたせているようだった。
そんな彼女の姿に、探は目を細めた。
降る雪も、散る桜も、この先ずっと2人で経験していきたい。
当たり前に繰り返す季節の流れを、当たり前に一緒に感じていきたい。
当たり前に、側に居たい。
当たり前に、お互いの世界の一部を共有できるようになりたい。
お互いの『大切な人』から、『当たり前に隣に居る人』になりたい。
その先にある2人の姿はきっと、当たり前に自分の一部の人――かけがえのない人になっているだろう。
2人は川べりの草地に腰を下ろした。
目の前を、透き通った春の川がゆるゆると流れていく。
その流れの先は遙か彼方に延び、淡い光の中に消えていた。
2人の背後から吹き抜けた風が、頬を撫でていく。
葵の横顔に髪が揺れるのを、探はじっと見つめた。
長いまつ毛の下には、初めて会ったときに引き付けられた瞳が、変わらずに前を見据えていた。
水面に反射した陽光が白い頬に重なり、ゆらゆらと流れていく。
まるで、日に透けているようだった。
愛しさと切なさが心地よく解け合った感情の波紋が、探の全身に広がっていく。
彼はそっと葵の頬に手を添えると、髪を脇へどけた。
と同時に、まるでその動きを合図にしたかのように葵がこちらに顔を向ける。
もう幾度と無く繰り返してきた手順だ。
『その瞬間』への道をお互い無意識のうちに模索し、確立した愛の形である。
探が葵の髪や肌に触れると、葵が顔を向けて視線を合わせる。
一瞬ののちに待っているのは、最も幸せを感じるひととき――。
どちらともなく目を閉じ、顔を近づける。
2人の間の空気は甘く張りつめ、風さえも動きを止めた。
触れ合った唇の温もりが、全身を包む。
唇を重ね、手を重ね、心を重ね・・・・・・――
いつか、お互いの世界の一部になる日まで 共に歩んでいこう。
唇に宿る温もりに 身を任せて・・・・・・
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