しろつめくさ
届かないあなたへの想いは絶えず絶えず絶えず。
水の流れ落ちるような澄んだ声を聴いてそちらに行けば、私の知る彼女というひとがいた。彼女はその歌を歌いながら、朝露に濡れる白色の花を一つ一つとり上げ、白い指で花の冠を紡いでいる。
私の足元でかさりという草の触れ合う音がしたそのとき、彼女の歌が止まった。それは、私が近くに来たことに彼女が気づいたからだろう。
私は、草と私の靴底に、少しばかりの恨みを感じる。
彼女の涼やかな歌を、もっと聴いていたかったのに。
「おはよう」
彼女はこちらを振り返って、私に挨拶をしてくれた。そうして彼女が動くから、彼女の金の髪が光を反射して柔らかく光る。
私は微笑んで右手を軽く上げることで、それに対する挨拶とした。
彼女が歌っていたものは恋の歌。
遠い場所にいる愛しい人へ、届かない想いを綴った歌。
「誰への歌だい」
尋ねる。と彼女は、ふふ、と目を細めて笑った。
それから、細く白い指をそっと唇に当てて、
「秘密よ」
それはとても、面白そうに、楽しそうに。
「意地悪」
だから私は彼女の耳に唇を近づけて、おどけた様子で言ってやる。
彼女は笑って、小首を傾げた。
私は彼女が花を摘み、紡いでいくのを、彼女の隣でずっと見ていた。
しばしの後に彼女の手の中に組みあがったものは、白く可憐な花の冠。
「できたわ」
彼女はそれを私の頭の上にそっと乗せた。
私は小川の水面を覗き込んで、それの姿を確かめる。私の黒一色の髪に、その白い冠はよく栄えていた。
「似合ってる」
彼女は嬉しそうに、笑う。
「ありがとう」
私も嬉しくなって、そう礼を言った。
しかし私には、冠を作ってくれたことが嬉しかったのではない。彼女が私を彼女の瞳に映し、そして私のためだけに笑ってくれたことこそが嬉しかったのだ。
もう一度水面を覗き込む。
小川の中からこちらを見る私は、心から幸せそうに笑っていた。
するとそのとき、彼女が。
「どうしたの?」
尋ねられる心当たりがなくて、私もまた疑問符を浮かべて彼女を見る。
彼女は小首を傾げていた。
何がだい、と私が尋ねる――と、彼女は困ったように眉根を寄せた。
「挨拶をしたとき、あなたが少し悲しそうだったから」
表情に出ていたか、と今更思う。彼女は繰り返し、どうしたの、と言った。
彼女に心配そうな表情をさせている自分にひどく腹が立つ。水面を見下ろすとそこには私がいた。その私はもう悲しげな顔はしていなかったが、しかし同じように、先ほど浮かべたはずの幸せそうな笑顔も消えていた。
私は呟くように、想いを口にする。
「ふと、思ったんだ」
「何を?」
小川から顔を上げる。
私の目に入ったのは、木からするりと垂れ下がった蔓。その濃い緑色の先は水面より更に下にあって、私からは伺うことはできない。
私は言った。
「例えば世界が壊れたとして――」
突然の仮定だったからだろう。彼女は目を見開いた。
私はそれには構わずに、呟くように、続きを言う。
「――そうしたら何が残るだろう」
彼女を見る。彼女は私の目を見ると、ゆっくりと深く頷いた。それは肯定でも否定でもなく、ただの相づちに過ぎなかった。
だから私はもう少し続ける。
それによる私の思考の果てを。
「……何も残らないのは、寂しいと思ったんだ」
私のその想いを聞いて。
彼女は。
「不思議な人」
ころころと、鈴の音のように笑った。
それはいつもいつも、私を安心させてくれる声だった。
「その考えた仮定すらあなたが考えたことなのに。
その仮定の齎した結末すらもあなたが考えて、そして悲しんでいる」
あなたは本当に不思議な人、と、彼女は繰り返す。
薄紅色の花弁がひとひら、水面を滑るように流れていった。
「君なら、どうする?」
ふわりと風が吹いて、草と木々と彼女の髪を揺らした。
彼女は空を見上げた。
「そうね、私なら――」
風の影響か、一枚の濃緑の葉が木の上からゆるりゆるりと落ちてきた。それは時間をかけて宙を舞った後、音もなく、草の上に落下した。
彼女は白い手を伸ばして、その葉を音もなく拾い上げる。その仕草はとても繊細で、まるでこの際疾い世界を壊さぬよう留意しているかのようでもあった。
そしてそれを見つめながら。
私なら、と、彼女はもう一度呟いて。
「壊れた世界のひとかけらをとり上げて、また世界を作るわ」
そう言って顔を上げると、彼女はサファイアブルーの瞳の中に、私の鳶色の瞳を映した。澄んだその青は私のただ黒いだけの髪も瞳も、美しい青に染めてくれる。
彼女はまた、微笑んだ。手元に咲いた、一輪の白花を摘みながら。
「そしてその世界の中に、あなたとこの花を作るの」
彼女の長い金の髪。
木々の間から降ってくる光を受けて輝く彼女の髪はあまりにも美しくて、だから――彼女の歌ったあの曲は、果たして彼女が誰へ捧げたものなのだろう。先ほども抱いたその疑問が、また私の頭をもたげた。彼女の想うその『誰か』、できることならそれが私であったらと、あまりに自己中心的な想いを抱いた。
――君の作った世界で、その世界の中で、私と君は。
「アダムとイヴを気取るのかい?」
そうであったらという私の願望を。
たった一瞬の幻想の中で生まれた、その甘い夢を、ただ甘いだけの私の夢を。
「まさか」
しかし彼女はあっけなく打ち砕いた。
そしてその何もかもを魅了する温かい微笑のまま、彼女は彼女の小さな望みを口にする。
「私は広い世界の中の、小さな小さな欠片になるの」
そうして彼女は空を見上げた。
*
狭く広い世界の中で、たった二人で見上げるものは、
木々の間から漏れ出でる光。