第9話 アボカド
5月も半ばになると、日差しはすっかり夏になっていた。
きっと、僕と彼女の日常も後1ヶ月ぐらい。
そして僕が、この世界にいるのも。
いつものように夕方の銭湯を終えて帰るとポストに封筒が入っていた。
見慣れた文字で、丁寧に僕の名前が記されている。
差出人の名前も見慣れていた。
苗字を記さず名前だけ。
妻の名だ。
僕は、ジーパンの後ろポケットにネジ入れた。
「お帰りなさい」
彼女は缶ビールを1本ずつ両手にもって玄関まで出迎えてくれた。
尾ヒレレジャンプも尾ヒレ立ちも上手になった。
このまま陸地で暮らしていたら彼女の尾ヒレは進化を遂げて歩けるようになるのではないかとさえ思ってしまう。
「ただいま。早く飲みたいみたいだね」
「喉がカラカラです」
そう言うとバランスを崩した彼女は僕に倒れかかって来た。
「危ないよ」
抱き支えた彼女の肩は細く頼りなげだった。
「やっぱり陸で立つのは難しいですね」
僕に抱きついたまま言った彼女は少し悔しそうだった。
体制を立て直した彼女は尾ヒレジャンブで自分の椅子まで戻った。
「もっと立てたら料理を作りたいです」
「海草しか食べられないじゃない」
「でも作って食べさせてあげたいんです」
「誰に?」
「オジサンに」
「僕に?」
「はい。テレビで『手料理は男心をゲット』って言ってました」
「僕の心をゲットしても仕方ないでしょう」
「そうですね」
彼女は顔を赤くしてビールのプルタブを勢いよく開けた。
「鼻やオデコでは飲めないよ」
僕は泡だらけになった顔を見て大笑いした。
「目が痛いです」
僕は慌ててベッドルームにタオルを取りに行った。
ついでにポケットにあった封書を机の引き出しの奥にしまった。
「料理してみる?」
顔を洗ってきた彼女に新しいビールを渡しながら尋ねてみた。
暑さが増し、夕方の散歩の時間も短縮され退屈していた彼女になにかさせてあげたかった。
「出来るかな」
「もう少し高い椅子があれば座りながらも出来るよ」
「しますします」
「僕も料理は苦手だから、カレーぐらいしか教えられないけど」
「大丈夫です。今月号のSTORYに美味しい野菜料理の作り方がありました」
彼女には少しSTORYは大人ぽいのでないかと思ったが、コンビニで気に入ったようだったので買ってあげた。
黒田なんとかさんが親戚のお姉さんににているらしい。
「野菜料理でハートをゲットです!」
僕は彼女にハートをゲットされる奴が羨ましいと思った。
例えマッコウクジラの尾ヒレがついていたとしても。
翌日の夕方散歩は、コンビニから少し離れたスーパーに行った。
車椅子で野菜売り場を回りメモを片手に買い物をした。
「アボカドが欲しいです」
「これだよ」
僕は目の前にあったアボカドを彼女に渡した。
「なんかカワイクないです」
「そうなの?」
「アボカドって名前だから、もっとカワイイ野菜だと思ってました」
「どんなのがカワイイの?」
「例えばトマトとかパブリカとか」
「なんとなく分かる気がする」
「さて、買い物終了です」
いつもより長くなった散歩時間は、やっぱり彼女に負担だった。
「少し疲れた?」
彼女のオデコに手を当てると少し熱っぽかった。
彼女は暑さやクーラーの寒さに弱い。
温度調整がうまく出来ないらしく、温度の変化に体調を崩してしまう。
その日はバスタブの温度を常に25度に保つようにして休ませた。
「お料理作りたかった」
「体調が良くなったら作ろう」
「ビールも飲めないんですね」
「それも体調が良くなったらね」
「もし、作ったら食べてくれますか?」
「ああ、喜んで」
「ボルシチとアボガドのサラダ」
この時期にボルシチはちょっとキツイな。
その日は、彼女の手を握って便器に座って眠った。
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