第7話 化粧水
5月の始めに彼女に異変が起きた。
「顔が赤いよ」
「そうですか?なんかカサカサしてますよね」
彼女はバスタブの中で自分の頬をさすりながら不思議そうな顔をした。
人魚の彼女には肌が荒れるなんてことは考えられないようだ。
水道水の塩素が彼女の肌を痛めていたのだ。
なにしろ1日の半分以上を水道水に浸かって過ごしているのだから人魚と言えども肌に異常が起こるのは当たり前だ。
「南の海に行けば、もう温かくなってるかな」
僕は彼女を早く海に戻してあげないといけないと思った。
彼女との毎日は、不思議な平凡さを僕に与えてくれていた。
散歩をして朝御飯を食べる。
そして、ゆっくりと話をする。
夜には銭湯に行き帰って来て彼女とビールを飲む。
特に何も欲しいと思わない毎日。
そんな毎日が、普通にずっと続くと勘違いし始めていた。
「海が変わると家族に会えなくなります」
彼女は、南の海に行くことを拒んだ。
「でも、このままバスタブにいたら身体に悪いよ」
「大丈夫です」
彼女はカサカサになった肌をさすりながら言った。
「後、1ヶ月ぐらいかな」
僕はこの辺の海が温かくなるまでの期間を考えた。
「そうですね」
「もう少しだね」
「はい」
2ヶ月があっと言う間に過ぎていた。
こんなに不満のない2ヶ月を経験したことがない。
人生の最期の時を彼女と過ごせたことは幸せなのだろうか。
好きとか愛しているなんて言葉を人魚に使うのも変だし、彼女とこの先も居られる訳じゃない。
僕は今の幸福を理解することも表現することも出来ないと思った。
もしかしたら、本当の幸福ってそんなものなのかも知れない。
僕は彼女がこの日常をどう感じているのか訊きたかった。
訊きたかったが訊けなかった。
早く海に帰りたいに決まっているけど、それでもこの毎日が彼女にとって唯の待機期間だとは思いたくなかった。
(楽しい?)そんな簡単な質問が出来ないなんて。
僕は、このカサカサに肌を荒らした人魚のために何が出来るのだろう。
永遠には続かない幸福のために。
「少しバスタブから上がった方がいいね」
「そうします」
「これからは、もう少し短い時間で出入りをしよう」
「・・・」
それは、今までみたいに外出を楽しむことが出来ないことを意味していた。
僕たちはダイニングのイスに座りコーヒーと海洋深層水を飲んでテレビを見た。
「綺麗な人ですね」
「そうだね」
「私も綺麗になりたいな」
「充分綺麗だと思うよ」
「駄目です。私なんか全然です」
「人魚界のレベルは高いんだね」
「エーゲ海周辺は特に美人ぞろいです。金髪の巻き髪が綺麗なんですよ」
「人魚ぽいよね」
「私も化粧すれば綺麗になりますかね?」
「化粧したい?」
「したいです」
「そうだ、化粧水を使ってみようか?肌荒れが治るかもしれない」
僕はテレビに映っている化粧品のCMを見て膝を叩いた。
僕は生まれて初めて化粧品屋と言うものに行った。
「肌荒れに効く化粧水ってありますか?」
「いえ、僕が使うんじゃないんです。二十歳ぐらいの女の子なんです」
「いえ、あの・・・水泳の選手なんです。毎日何時間も水に浸かっているんです」
「そうです。そうです。カサカサになるんです」
僕はシドロモドロになりながら説明をして化粧水を買った。
そして、少し薄い色の口紅も。
水着売場や下着売場で少しは慣れたものやっぱり女性ものを買うのは恥ずかしい。
娘の買い物について行ったこともないし、たぶん思い切り断られただろう。
最期に一緒に買い物行ったのは、いつだったろう?
何を買いに行った時だろう?
憶えているのは、娘が欲しいと言った筆箱を買いにデパートのファンシーグッズ売場に行ったことだけだ。
僕が化粧品屋や女性下着売場に行っていることを知ったらどんな顔をするだろう?
きっと汚いものを見るような顔をするかな。
それとも「意外とやるじゃん」って笑うかな。
息子は彼女の買い物に付き合ってあげてるのだろうか。
きっと、彼女の後ろについて下着売場でも化粧品売場でも平気で行くんだろうな。
それでいいのだと思う。
「なんだかシットリしますね」
「全身に使えるみたいだから」
ダイニングに座って早い夕食を食べていた。
テレビは6時のニュースで明日が雨だとお天気お姉さんが言っている。
「似合いますか?」
彼女は口紅を唇いっぱいに塗って満足そうに僕に訊いた。
ちょっと大きく塗りすぎたみたいだね。
「良く似合うよ」
僕は思わず噴出してしまった。
「オジサンもこれを食べた方がいいですよ」
彼女は自分の前にあったワカメのお皿を僕の前に押した。
「髪にいいらしいですから」
どうやら反撃されたようだ。
僕は少し広くなったオデコを撫でた。
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