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バスタブに人魚
作:晴天



第2話 白ワイン


「すいません、トイレを使いたいんですけど」

「分かりました。今、開けます」

僕がトイレを使うために彼女に声を掛けることから朝が始まる。

ドアを開けて器用に尾ヒレで立った彼女は、バスタオルを腰に巻いて小さなテーブルまで移動する。

座るのは決まってテレビが一番良く見える場所。

僕はトイレを済ますと、自分の為にインスタントコーヒーを作る。

彼女にはワカメスープ。

僕はトーストにマーガリンをたっぷりつける。

彼女は冷蔵庫から茎ワカメのパックを開ける。

テレビは、「ズームイン!朝」。

羽鳥さんが好きらしい。

「今日は、職安に仕事を探しに行くから適当に過ごして下さい。夕方には戻ります」

会社を辞めてから1週間が経っていた。

後悔はないが、仕事をしないわけにはいかない。

「大変ですね。今のままじゃ駄目なんですか」

「駄目です。毎日テレビを見て君と話をしていたら生活出来なくなります」

「わたしと話していても詰まらないですよね」

彼女と話すのは、思いのほか楽しかった。

海の中の生活や人魚にも日本近郊と北米近郊、南米
、ヨーロッパなどで肌の色や言語が違うことも分かった。

知らないことを知るのは楽しい。

それに、僕の話を素直に聞いてくれることも嬉しかった。

「ウザッ」

「関係ないじゃん」

「僕はそう思いません」

「君の言うことは現実的じゃない」

僕もそうだったように、僕の回りも話を聞かない。

自分の都合の良いこと以外は。

「楽しいですよ。君と話しているのは」

「だったら、仕事なんかしないで一緒にテレビを見ましょう」


「とにかく、職安に行ってきます。帰りに増えるワカメも買って来ます」

僕は久しぶりにネクタイをして外出した。

窮屈だ。

ネクタイも背広も前から嫌いだったけど、今はもっと嫌いになった気がする。

職安にあるパソコンで仕事を探すが、やりたいと思うものは見つからない。

そうだ、僕は死のうと思っていたんだ。

彼女に逢った海には死ぬために行ったのだ。



『誰にでも出来る簡単な仕事 時給800円』

と映る画面を見ながら重要なことに気がついた。


夏まで退職金で過ごそう。

夏になったら彼女と一緒に海に入ればいいのだから。

僕は楽しい気持ちでパソコンの画面を消して、スーパーにむかった。

【茎ワカメ】
【こんぶ】
海草の好きな彼女のために大量に買い込んだ。

試しにイチゴも買った。

自分のためにワインも。




「ただいま」

僕は鍵を開けて、久しぶりに「ただいま」を言った気がする。

今まで家でも会社でも普通に使っていた言葉。

「お帰りなさいでござる」

エコーの掛かった彼女の声がバスルームから聞こえて来る。

彼女は『ズームイン!朝』が終わると昼過ぎまでバスタブの中で本を読んで過ごす。

僕の机の上に積み重ねた文庫本を上から読んでいる。

お気に入りは藤沢周平の時代物小説らしい。
彼女は子供のように時代言葉を面白そうに使う。

「拙者、テレビを見たいで候」

「茎ワカメがまだ硬いでありんす」

自分で言ってケタケタと笑う。

昼からは『笑っていいとも』を見始めるので、『2時ちゃお』の時間はバスタブに戻らなくてはならない。

彼女は何しろテレビと本が好きだった。



バスタブを占領されている僕は、夕方には近くのスーパー銭湯に行くのが日課だった。

サウナに入り露天風呂から月を見る。

同じ月が寝袋から見るときより大きく見えて、僕を呼んでいる気がするのは何故だろう。

風呂上りには、決まってドクターペッパーを飲むことにしている。

ドクターペッパーを一気に飲んでタバコを1本吸うと充実した気分になった。

何も仕事をしていなくても汗をかくと充実した気分になるものだ。


「ただいま」

僕が湯冷めしないようにダウンを着込んで帰って来ると彼女はバスルームから尾ビレジャンプをして玄関まで出迎えてくれた。

「やっと逢えたわね」

胸から巻いたバスタオルをスルリと落として彼女は言った。

どうやら、今日は渡辺淳一ゴッコらしい。

タオルの下には、僕が買った安物の白い長袖シャツと床まである黒のロングスカートを履いている。

貝殻ブラに鱗のついた尾ビレは見慣れたとは言え裸に近い格好なので、服を着てもらうことにしたのだ。


テーブルに海草を盛り付けた皿と生野菜を並べて夕食を始めた。

彼女の前では魚料理は食べる気にならないし、肉類も気が引けた。

1週間ペジタリアンとして過ごしたので痩せた気がする。

今日は特別に白ワインを開けた。

いつもは、缶ビールとミネラル深層水を飲みながら夕食を食べる。

「少し飲んでみる?」

彼女は少しだけ注がれた白ワインの匂いを嗅いで一気に飲んだ。

「美味しい!ビミじゃ!」

彼女は空になったコップを僕に突き出した。

気がつくと僕と彼女は、720ミリリットルのフルボトルを空にしていた。





「もっとないのかー」

彼女は呂律の回らない口で僕に絡んで来る。

酒癖は悪い。

「お酒はないけどイチゴを買ってきたから食べる」

僕は酒乱の人魚を避けるように冷蔵庫にむかい洗っておいたイチゴをとってきた。

「何これ?」

「イチゴ」

「何それ」

「くだもの」

これ以上「何?何」を繰り返すつもりのない僕は、イチゴを口に放り込んだ。

「美味しい?」

僕は黙って彼女に一粒わたした。

「うん。うん」

彼女は少しずつかじってしきりに頷く。

二粒目は自分で皿から取って口に放り込んだ。

気がつくと、全て一人で平らげていた。

その日は朝まで、トイレで彼女の背中を擦った。




イチゴの季節は、もう終わりだ。












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