最終話 海へ
もう直ぐ夜明けだ。
何度も経験した夜明け。
ウキウキと遊びに出かけた夜明け前
憂鬱に迎えた夜明け前。
いくつ僕は夜明け前の気分を味わっただろう。
そして、これが最期の夜明け前。
まだ星の瞬く夜明け前。
僕と彼女の計画は、こうだ。
夜明け前に出発して、夜明けとともに彼女は海に帰る。
人混みを避けるためには一番良い時間だ。
「さあ、起きて」
「まだ眠いです」
昨日の夜は「早く寝なよ」と言っても彼女は寝たがらなかった。
僕も彼女の傍から離れなかった。
二人で取り留めのない話をしているうちに彼女は寝息をたて、僕は黙って彼女の寝顔を見ていた。
「朝御飯を食べよう」
「はい」
彼女はなかなかバスタブから出ようとしない。
「コーヒーを淹れてくれるんじゃないの」
彼女は、一昨日から毎朝のコーヒーを僕に淹れてくれるのを日課としていた。
もちろんインスタントだけど。
家族と居るときも、職場でも僕は自分でコーヒーを淹れた。
自分の飲みたい時間に自分で作って飲むのが好きだから。
「コーヒーは青菜が淹れます」
一昨日急に言い出した。
今までも時々は淹れてくれていたのだが、これからは毎回彼女が淹れると言うのだ。
「気にしなくていいよ」
「淹れたいんです。ダメですか?」
「ダメじゃないよ」
そんな風に真っ直ぐに言われるとこそばゆい。
今まで誰かの為に何かをしたいと思ったことは何度もある。
でも「貴方のためにしたいのです」なんて言ったことは無かった。
それが親切だと思っていた。
言われても素直に受け入れることも出来なかった。
「ありがとう。嬉しいよ」
こんな簡単な言葉を心から言えるまでに40年以上もかかるなんて・・・・。
大切なことが分かるのは、いつも手遅れだ。
僕にはかつて大切な人がいた。
何よりも大切な笑顔があった。
孤独も辛さも忘れさせてくれる笑顔。
僕を見つけると小さく手を振ってくれた大切な人。
その笑顔の大切さも失ってから分かったことのひとつ。
「美味しいですか?」
彼女は、少し濃いめのコーヒーを飲む僕の顔を覗き込んで嬉しそうに尋ねた。
「美味しいよ・・・・とても」
本当にとても美味しかった。
「さあ、夜明け前に海に行かなきゃ」
「・・・・・」
彼女は黙って車椅子に乗った。
「青菜です・・・・」
彼女は海に着くまでの間、なんどもトランシーバーで言った。
僕が運転するピックアップトラックの荷台に括りつけた水槽の中から。
「青菜だね」
僕は、その度にそれだけを答えた。
ヘッドライトに照らされた道路は少し歪んで見えた。
「さあ、もう直ぐ明るくなるよ」
僕は車椅子に乗った彼女と太陽が出てくる低い山を見つめた。
海を背にして。
「もうすぐお別れですね」
「うん」
「Tシャツは貰っていいですか?」
彼女は僕の着古した白いTシャツを今日も着ていた。
「スカートも履いたままでいいですか?」
「うん」
僕が買ってあげた海色のロングスカート。
山の頂上から太陽の光が見えてきた。
彼女がポロポロと涙を零した。
ポロポロと零れる涙は真珠となり彼女の膝の上でキラキラと光って弾けた。
僕は彼女の膝の上に落ちる前に1粒だけ真珠の涙を両手で受け止めた。
真珠の涙は掌の中でコロコロと転がり、まるで生きているようだった。
コロコロと転がる真珠の涙の上に僕の涙が落ちた。
頬を伝って落ちた僕の涙。
知らないうちに目から溢れ出した涙が、彼女の涙の上に落ちた。
コロコロと転がっていた彼女の涙が、金色の丸い真珠となり掌の中に残った。
「さあ、行こう」
僕は真珠を右手に握り締めて彼女を車椅子から抱きかかえた。
「お姫様ダッコって言うんですよね」
「そうだよ、人魚姫」
「花嫁が愛する人にしてもらうんですよね」
「そうらしいね」
「タカタタン、タカタタン、ターン・・・・」
彼女は僕の首に手を回して僕の耳元でウエデイングマーチを口ずさんだ。
消え入るような小さな声で。
「青菜は、オジサンが好きです」
「・・・・」
僕は何も答えなかった。
何も答えられなかった。
「さあ、ここからは泳いで行って」
僕は腰まで海に浸かったところで彼女をゆっくりと海の中に入れた。
スーと静かに彼女は僕の周りを泳ぐ。
白いTシャツと海色のロングスカートのままで。
そして尾ヒレジャンプで僕に抱きついた。
「また、逢えますよね」
「うん」
「また、青菜が逸れて倒れてたら助けてくれますよね」
「もう、逸れちゃだめだよ」
「約束して下さい」
「何を?」
「今度、オジサンが生まれ変わったら人魚になるって」
「そうだね。今度は海で暮らしたいね」
「さあ、早く行かないと」
「行きたくないです」
「陽が昇ると人目につくよ」
「もっと話したいことが、いっぱいあるんです」
「・・・・」
僕も、もっともっと話したいことがあるんだよ。
彼女に伝えたくて伝えられなかったことが。
「生まれ変わったら、珊瑚に座っていっぱい話をしよう」
「いやです。今話したいことが・・・」
彼女の流した涙が真珠となって海に沈んでいった。
「さあ、行くんだよ。君が行くところは僕の部屋じゃない」
僕は彼女にキスををした。
強く抱きしめてキスをした。
乱暴に彼女の唇に僕の唇を押し付けた。
ずっと我慢していた気持ちを抑えきれずに。
彼女は、僕から離れると何度もジャンプして僕に手を振りながら朝日に照らされた海の奥に消えていった。
僕はポケットの中に手を入れたまま。
彼女を見送った。
彼女の手を振り返すことも出来ずに。
僕は強くハンドルを握りしめピックアップトラックを走らせて部屋に戻った。
計画通り途中でゴムボートを買って。
これから夕方までに少し残った部屋の片付けと簡単な遺書を書かなくてはならない。
僕は短い間彼女と過ごしたバスタブの水を抜いた。
バスタブには、鱗が一枚残っていた。
キラキラと電球に照らされて虹色に輝いている。
僕は抓み上げて傍にあった空の化粧水の小瓶にそっと入れた。
彼女が嬉しそうに使っていた化粧水の小瓶。
僕は小瓶と金色の真珠を机において遺書を書き始めた。
<遺書>
妻へ
前略
離婚届は捨てておきます。
生命保険金を受け取る時に問題にならないように。
もしも僕の遺体が発見されなくても、この遺書をもって君が親しくしている弁護士に相談すれば7年後には受け取れるはずです。 早々
感謝の言葉
子供たちへの言葉
両親への言葉
友人、知人への言葉
何度も書き直しては止めた。
死を選択することは決して許されることではないことは充分に分かっているから。
人は苦しんで、もがいても生きるべきものだから。
死の選択にどんな言い訳も許されないことを僕は知っているから。
失ってしまった友人の死から。
封筒に書き慣れた住所を書き遺書を入れて投函してピックアップトラックの運転席に座った時には、太陽が傾きかけていた。
今朝、彼女を降ろした海外沿いの道路に着き、空気を入れたゴムボートをズルズルと引きずるようにして砂浜を歩き人魚に出逢った場所に辿りついた。
僕は3ヶ月前にこの海に沈むつもりだった。
あの凍るような冬の海に。
季節が春から初夏になり、僕が何もしなくても暖かい海に変わっている。
寄せ付けないように荒かった海が、今は穏やかに夕日を抱き込もうとしている。
僕は波打ち際にボートを浮かべゆっくりとオールを漕ぎ出した。
夕日が沈むところに行けば彼女が待っているような気がした。
もしも・・・・
もしも・・・・
もしも・・・・
彼女に逢えたら
「好きだよ」
そう、ちゃんと言えるかな。
僕は冒険にでも行くようなワクワクした気分でオールを漕いだ。
ポケットには鱗の入った化粧水の小瓶と真珠の涙が入っている。
僕と人魚の短く淡い3ヶ月は終わった。
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