第10話 オマジナイ
6月に入ると海開きのニュースが聞かれるようになった。
夏の好きな僕にとっては好ましい筈の話題が今年は寂しい。
彼女と永遠に一緒にいられないとしても、もう少し長く居たいと思う。
しかし、それは許されないことなのだ。
彼女の体調が良くない。
バスタブでの温度管理や入浴時間の管理をしても海の中で過ごすのとは全然違う。
肌荒れも化粧水で緩和しているが、それも限界がある。
何よりもバスタブとダイニング以外で過ごせる時間が無くなって来たことが彼女の気持ちを滅入らせた。
「公園に行きたいですね」
テーブルに頬杖をついて言った。
ここのところ暑い日が続いているので、夜のコンビニ散歩も控えていた。
先日、30度を越す熱帯夜に外出した時に、彼女は肌を火照らして熱を出した。
通常の解熱剤が彼女のどんな影響を与えるのか分からないので使うことも出来ない。
「そうだね。そろそろアジサイも綺麗に咲く頃かな」
「アジサイ知ってます。テレビで見ました」
彼女はテーブルの上にあるスケッチブックにアジサイの絵を色鉛筆で書き始めた。
本を読むことにもテレビにも飽きた彼女の為にスケッチブックと12色の色鉛筆を買ったのだ。
コップ
海草
ビール
蛇口
魚
そして僕
彼女は思いつくままに絵を描いた。
「どうですか?」
描き終わると必ず僕に感想を求めた。
「綺麗な色だね」
彼女は、絵の下手な僕よりも下手だった。
「本物を見れば、もっと上手に描けるのに」
「見に行こうか?」
「本当ですか?」
「雨の早朝なら気温も低いし、水分もあるから」
「スケッチですね」
「雨だから描けないよ」
「青菜は濡れるのは大丈夫ですよ。人魚ですから」
「そうだね。君は人魚なんだよね」
「はい!」
彼女はロングスカートから尾ヒレを出してヒラヒラと振った。
翌日は雨が降らなかった。
今年は空梅雨らしく、雨の日が少ない。
ジメジメと鬱陶しい雨を望んだのは初めてだ。
「雨降りませんね」
「降らないね」
「オマジナイをしましょう」
「オマジナイ?」
「夕日の沈む時に飛び上がります。そして両手を頭の上で3回合わせます。そうすると、翌日に願いが叶います」
「叶うの?」
「叶う時もあります」
「叶わない時もあるんだ」
「叶わない時のが多いです」
「そりゃそうだよね」
「そりゃそうです」
人魚の頼みも人間の頼みも神様は差別せずに、等しくなかなか叶えてくれないらしい。
夕方のビールタイムの前にベッドルームに二人で立った。
幸いにも、僕の部屋は西陽だけが差し込む。
「そろそろかね?」
「もう少しですね。太陽が半分ビルに隠れたらです」
「そうなの?」
「なんとなく、そんなタイミングです」
「半分隠れたよ」
「では、行きますよ」
「うん」
「せーの」
僕達は西陽を向いてジャンプし素早く頭の上で手を叩いた。
パン、パン、パン。
ドーン
彼女が着地に失敗して僕に寄りかかり二人で床に転がった。
彼女が僕の上に重なるように。
「大丈夫?」
息がかかるほどの距離にある彼女に聞いた。
「やっぱり海と違って難しいです」
5センチの近さに彼女の笑顔があった。
彼女にキスをしたらどうなるだろう?
驚くかな?
怒るかな?
僕は彼女から離れて先に立ち上がった。
「明日は雨が降るかな?」
「あ!お願いをするのを忘れました」
頭を抱える彼女を見て僕は大笑いをした。
その日の夜に僕は夢を見た。
大雨の中を一人で傘もささずにアジサイを見ていると、会社の上司が傘をさして現れた。
「傘も買えないのか?」
「・・・・・」
「謝れば貸してやるよ」
「いりません」
「意地を張って惨めな思いをするんだな」
「惨めじゃないです」
そこに、同僚がやって来て自分の傘を貸そうとした。
「やめろ!お前が濡れるから」
僕は大声で止めた。
上司に促された同僚は、上司の後を追って何処かに行ってしまった。
僕は安堵した。
彼女を探してずぶ濡れになりながら、周りを見回した。
妻と子供達が東屋の中から無言で僕を見ていた。
僕は何故か深々と頭を下げて違う方向に歩き出した。
かつて恋人だった女性が、花柄の大きな傘をさして歩いていく後ろ姿が見えた。
「美沙?」
彼女は振りかえらずに去っていった。
僕は口を空けて雨水を飲んだ。
喉が渇いた。
僕は全身に汗をかいて目が醒めた。
時計は夜中の3時だった。
僕は冷蔵庫からビールを取り出して一気に喉に流し込んだ。
「雨は降ってないな」
窓辺に向かいカーテンを開いて呟いた。
それから寝れなくなった僕はスケッチブックに彼女の絵を描いた。
「雨が降らなかったですね」
バスタブから尾ヒレジャンプで出てきた彼女が言った。
ブラジャーだけで。
お願いだから、Tシャツを着て欲しい。
「今度は違うオマジナイをしようか」
僕はベットルームから半袖のTシャツを投げて言った。
「しましょう」
僕は丸めたテイシュでテルテル坊主を作り彼女に顔を描かせた。
「これを逆さまにして吊るそう」
「なんだか可哀想ですね」
なるほど、普通に吊るしても可哀想な感じだが、逆さまだと余計に可哀想だ。
「オマジナイって呪いの一種だからね」
「こ〜わ〜い〜で〜す〜」
どこで憶えたのか、両手を前に垂らした幽霊のポーズをした。
翌日の朝は夢を見ないで起きた。
時計は5時。
窓の外は土砂降り。
「雨ですよ、雨」
雨の音に目が醒めたらしく、彼女も早起きをしてきた。
「すごい雨だね」
「アジサイを見に行きましょう」
「よし、早く朝ごはんを食べて行こう」
僕と彼女は、Tシャツ1枚でピックアップトラックに乗り込んだ。
「出発進行です!」トランシーバーから彼女の楽しそうな声が聞こえてきた。
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