これからの……
雪の静寂で覆われた季節は、室内で薪の爆ぜる音がよりいっそうよく響く。
その音は、この地方で生きる人々にとって、暖かさの象徴でもある。
サーレスは、その音を聞きながら、長椅子のすぐ傍に小さなテーブルを運び、チェスの駒を並べていた。
兄は、自分も戦に出ていたはずなのに、どこにそんな暇があったのかと思うほどたくさんの戦術パズルを送りつけてきたのだ。
これを、わざわざ黒騎士に託して持って帰らせたという事は、戦場まで運んでいたことになる。ひと綴りにしているが、相当な重さになるこれを、わざわざ帰りが雪道になるクラウスに持たせたというのだから、我が兄ながら何を考えているのかと思わずにいられない。
この冬の退屈しのぎに、という一言が添えられており、どちらかと言えば室内での遊戯を嗜むことがない妹のために、冬いっぱいかかっても終わりそうにないほど考えてくれた事は理解できる。だが、せめて梟に持たせればよかったんじゃないかと思うのだ。
梟は、近隣諸国の情報を集めるため、常時各国を飛び回っている。当然、このノルドにも頻繁に足を伸ばしていた。
ユリアには声をかけていくらしいが、ここに嫁いできたサーレスには、よほどの事がない限り顔を見せない。しかし、その気配は感じることができる。
城の奥まで入りこんでいるようなのだが、黒騎士の本部には行かないようなので、逆に始末に困る。城には、黒騎士の情報も、ノルドにある重要な施設の情報も、鉱脈などの地理関係の資料もないので、何か情報を取られる心配もないだろうが、だからといって放置して良いものか悩む。ひとまずクラウスに聞いたところ、構わないとのことだったので、放置している。
たまに、クラウスの気配がそれを追いかけているので、もしかしたらクラウス本人の訓練用に放置しているのかもしれない。もしくは、ちょうどいい息抜き相手としてお互いを認識しているのではないかとサーレスは思った。
駒を並べ終え、ふと隣りに視線を向けると、先程まで手を動かしていたはずのクラウスは、長椅子でうたた寝をしていた。
式をする前に、付き添いをしてくれたレイリアが、クラウスの寝起きの癖を蕩々と語り、クラウスが寝ている時は、絶対そばに盾になるものを置いておけとまで忠告されたのだが、今に至るまで、レイリアが言うような癖は見受けられなかった。
ただ、常に意識があるのは、なんとなくだがわかる。サーレスが動く方向に、意識が向いているのを感じるのだ。
……だが、今はそれも感じない。
ここまで無防備な姿は、見た事がなかった。
起こさないように、そっと顔をのぞき込む。
長い睫毛や、透き通るような白磁の肌。暖炉でほどよく暖められ、薔薇色に染まる頬。男性用の衣装を着ていようが、化粧など必要のない美少女っぷりである。
つい先程まで刺繍をしていたのだが、そのまま寝入ってしまったらしい。手には刺繍の途中である布も、刺された針もそのままになっており、力の抜けた手に、かろうじて引っかかっている状態だった。
その姿に、笑みが零れた。
たとえどんな場所であろうと、クラウスは熟睡ができなかった。そういう生き方をしてきたし、生き方を強いられた人でもある。
だからこそ、こうしてこの人が一瞬でも無防備になる事が出来る場所があることが嬉しく思う。
サーレスは、クラウスの手からそっと布と針を取り上げると、クラウスの隣ににじり寄り、その身体を自分の方に傾ける。
体に触れたからか、一瞬クラウスは身動いだが、またすぐに意識が遠退く。
膝枕の体勢になり、その場にあった膝掛けを、クラウスの体にかける。
クラウスが今まで刺繍していたのは、ルサリスの木だった。
サーレスには、兄からチェスのパズルが届けられたが、クラウスには母から、刺繍の技法を伝えるための見本となる一枚のタペストリが贈られたのだ。
中央に大きなルサリスの木が刺繍されたそのタペストリは、その周囲に小さな布がつなぎ合わされ、その一枚一枚に、カセルアの各地方伝統の模様と技巧で色鮮やかな刺繍がなされている。
それは、母から子へ贈られるもの。
結婚したその日から、コツコツと小さな布に技巧を凝らして刺繍し、やがて産まれる子供達に、結婚祝いとして渡す物だ。そして娘や嫁はそれを手本にし、新たな見本を作り、そのまた子に受け継いでゆく。
しかし、サーレスは、そのどれひとつとして刺すことはできない。当然ながら、送ってこられても、そのままこの見本を子に渡すことになる。
刺繍針より先に剣を握り、伝統的な模様を覚える前に戦の定石を学んでいたサーレスは、たとえ見本を渡されても、針の動かし方がわからない。
そんなサーレスにかわり、クラウスはその見本と同じ物を作り始めたのだ。
まずは中央にあるルサリスから刺していたらしい布を、針だけを外してそっと広げてみる。
すでに、花の形は見事に刺繍で表現されていた。
サーレスは、自分が刺繍できなくても、見る目は鍛えられている。母が見本として刺したものと寸分違わぬその花に、思わず感嘆のため息がもれた。
「刺してるところを見ても、どうやってそこに刺すことを決めているのか、わからないんだよな」
しみじみとつぶやき、その布を丁寧に折りたたみ、そばのテーブルにそっと置いた。
「見ていると簡単そうにやってるのにな」
サーレスは、苦笑しながら、膝の上にあるクラウスの頭にそっと手を添えた。
「……ところで。何か用なのかな、マージュ」
天井に向けてかけた言葉に、諦めたような身動ぎの気配を感じる。
「……やな親子ですねぇ。父親と同じように声をかけてくるなんて」
声は間違いなくマージュだが、顔を見せることはない。
「ここを開けたら、ノエルは起きるでしょうからね。ま、気が付かなかった不肖の弟子は、あなたに免じてしばらく休ませてやりますよ」
その言葉に、サーレスは苦笑した。
「いや、気が付いてはいるんじゃないかな。気配に反応するのは、クラウスにとっては無意識の出来事なのだから。ただ、私がそばにいるから、体を動かさないんだろう」
「おやまぁ、自信ありげですねぇ」
「私達の場合、相手を落とした者勝ちだからな」
「……はい?」
「どちらかの意識があれば、身の安全は守られる。相手を休ませたいと思うなら、先に寝かしつければ勝ちだ。……だから、今日は私の勝ちだな」
「そういうのは普通、先に寝た者勝ちなんじゃないですかねぇ」
天井から、苦笑する気配がある。
「だから、私達の場合だ。ところで、何か用があったんじゃないのか? ここしばらく顔を見なかったから、冬の間は帰ってこないんだと思っていたんだが」
「冬の間、私は王宮詰めですよ。雪道を越えるのは、私の足を使っても時間がかかりますからね」
「だから、今帰ってきたのは、急用じゃないのか?」
「急用と言うほどのことはありませんよ。……先の戦のケリがついたので、詳細の報告に帰ってきたんです」
「……そうか」
それなら、確かに雪道を越えてでも、伝えたいだろう。
黒騎士達にとって、失うばかりだった戦の終焉なのだから。
「……起こすか?」
「いえいえ。今起こして連れて行ったとしても、大人しく話を聞きませんから」
くすくすと笑う気配がする。密偵らしく、自分を印象付けないよう細心の注意を払うマージュは、普段城にいる時も、周囲に埋没する。今、笑う声が聞こえていても、サーレスの頭には、マージュが今どんな表情をしているのか、ぼんやりとしか思い浮かばない。
それは、サーレスの知っている密偵達にも共通した印象だった。
そこに思い至り、サーレスはふと思いついたように、話題を変えた。
「そういえば、この城に最近、梟が巣作りしている」
「先程気配を感じましたよ。あの人は、ここに巣を作るつもりですか」
「すまないな。あれらにとってルサリスは止まり木だ。止まり木が移動した場所に、巣を作る」
「ああ、それでですか……」
「止まり木のある場所の安全を確認するのは、あれらにとっては本能だ。ましてや、今この場所から、カセルアとは連絡が取り辛い。冬の間は、居るつもりじゃないかな」
「つまり、排除するなという事ですか」
「排除したいなら、私の一言ですむんだが、クラウスは構わないと言ったからな」
だが、狼の巣の主には、一応の確認を取らねばならない。そう思っての言葉だったが、その人は至って平静な声でそれを了承した。
「ノエルが構わないなら、私がどうこう言うこともないですよ。それはまだ、黒狼の頂点ですから」
「……あなたじゃないのか?」
「私は、ノエルに黒狼を渡した時、一旦引退したんですよ。今、それが団長になり、裏の仕事はやり辛いから、私がもう一度、それの代理で仕事をしているだけ。後継者をもう一人作れば、私はお役ご免です」
「……惜しいな。まだまだ現役だろうに」
「この仕事は、一度でも失敗すれば終わりですからねぇ。我々の失敗は、死に直結する。体が動くうちに引き、後継を育てるのが、本来のあり方なんですよ。それを思えば、私は少し、働きすぎですからねぇ」
「……そうか」
ふむ、とひとつ頷いて、サーレスは穏やかに微笑んだ。
「それなら、隠居場所に、カセルアはどうだ?」
「嫌ですよ。お兄さん、絶対私を働かせるでしょう。カセルアは梟の地です。狼の出番などありませんよ」
「そうか、残念だ。あなたが行けば、兄上はきっと喜んだだろうに」
「冗談じゃないですよ」
口ではそう言っているが、気配は笑っている。面白がっているのがよくわかる。
「では、それが起きたら、私が帰っていると伝えてください。今日は私もゆっくりさせてもらいますよ」
その言葉を最後に、マージュの気配がふっと消える。
まるでろうそくの炎を吹き消したような見事な消え方に、サーレスは苦笑した。
「まだ十年くらい、大丈夫な気がするんだがなぁ」
父も同じことを言うだろう。自分がマージュの気配を感じたのは、本当にぎりぎりの間合いだった。一瞬、ぽとりと一粒だけ水滴が落ちた。その程度の気配なのだ。よほど鋭敏な感覚がなければ、捕まえられないに違いない。
そのマージュが、すべてを渡し、すっぱり引退できるほどの密偵。
その人の頭をゆっくり撫でながら、改めて、その寝顔を眺める。
「……寝たふりか?」
「……起きたのは、ついさっきです」
「流石に話し声がうるさかったかな?」
「いいえ……。むしろ寝てしまったことが不覚です」
ゆっくりと目を開けて体を起こしたクラウスを、再び引き寄せ無理矢理その頭を膝に乗せる。
「構わないから、もう少し寝てるといい」
にっこり微笑み、サーレスは夫に茶目っ気たっぷりに言い放った。
「それとも、私の膝枕は、寝心地が悪いかな?」
「……むしろ寝心地がよすぎてそのまま起きられなくなりそうです」
驚いたように目を見開き、そう告げた夫は、しばらくは困惑したまま、サーレスを見上げていた。
「あなたが寝られるのは、冬の間くらいだろう。しかも、ゆっくり時間が取れるのも新婚の今くらいだ。だったらしっかり寝ておかないと」
「それに慣れたら、次の冬が辛くなりそうです」
「次の冬も、その次の冬も、私はここにいるんだから、良いじゃないか」
「でも……」
「それに、雪中行軍の訓練は流石にやってないから、さすがの私も外に出られない」
肩をすくめたサーレスに、クラウスは穏やかな表情のまま、きっぱりとした口調で告げた。
「じゃあ、雪中行軍の訓練はやらないでください。そうしたらずっとここにいてくださるんですよね」
「え……」
雪が降らない日は、外に出てその訓練がてら雪かきをしているのがばれているらしいと思い至ったサーレスは、気まずそうに視線を逸らした。
「わかってたのか」
「もちろんですよ。あんなに喜々として雪かきする人は珍しすぎです」
ずっとサーレスを見てきたクラウスである。この姫として規格外の人が、騎士としても規格外な事をよく知っている。
この人にとって訓練は、ある意味趣味と変わらない。体を動かすことが楽しくて仕方がないのだ。新しい訓練だと思えば、それはそれは嬉しそうに訓練に没頭する。
クラウスとしては、サーレスが猛然と、そして楽しそうに雪かきする姿は、大型犬が雪で遊ぶ姿のようなほほえましさを感じるのだが、傍でそれを見ていた全員が表情を引き攣らせていた事実が、実情を物語る。
そしてクラウスは、すぐにくすくす笑いはじめた。
「冗談です。むしろ、訓練はしておいてください。訓練しないまま、もし雪の中に出る事になれば、それこそ危険ですから。……ただ、慣れない間は、降っている間は外出禁止です。慣れなければ、街の中でも凍死しかねませんから」
「ああ、わかってる」
苦笑したサーレスから確約をえたクラウスは、機嫌良さそうに、その頭をサーレスの身に寄せた。
「お言葉に甘えて、あと少し、休みます」
「少しと言わず、思う存分寝ていいぞ」
「二人で居られる夜に、一人寝ているつもりはありません」
それを聞いたサーレスが言葉を詰まらせた時には、クラウスはすでに目を閉じ、眠っていた。
すぐに、その意識が遠退いたことを感じる。
サーレスは、ふっと息を吐き、肩を落とすと、そっとクラウスの手を持ち上げ、その手に口付けた。
夜の無かった狼に、つかの間の安らぎを。
そう願いながら、サーレスは、クラウスの手をそっと戻し、飽きることなくクラウスの寝顔を幸せそうに見つめたのだった。