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ノブ、知ってたん? 作者:奈備 光
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35 虫の音

 フロントガラス越しに見えるアコードの上には、大阪平野の無数の光の粒に照らし出された雲が、薄白く垂れ込めていた。
 さっき駐車場に乗り入れたばかりの車から、カップルが出てきて、シルエットとなった。
 男が女の肩を抱き、自然な動きで短いキスをした。

 ここに停まっている十台ほどの車の中には、それぞれの思いが、それぞれの愛が溜まっている。甘美なものも、切ないものも。そして、猛り狂うものも。
 やがて色あせていく色紙のようなものであっても、今は夜の星の下で精一杯の匂いを発している。

「弓削くん、朱里のパソコンに保存されていたブログの画像、あなた、あれが加工されていることも聞いた?」
「ええ、聞きました」
「生駒くんは貼り付け直されていると言ったけど、私、それがどういうことなのかよくわからないわ。でも、それって、あの住道駅の写真の男性、つまり赤石さんの画像のことよね。弓削くん、そのことにどういう意味があるのか考えたこと、ある?」
「どういうことって、わかりませんよ」
「じゃあ、言うわよ」
 上野の声は穏やかなものだったが、やはり緊張しているのだ。テンポが速い。

「だって、あなたはあの場にいた。つまり、あの画像の男性が赤石さんだと知っているのは、朱里と赤石さん自身、そしてふたりの行動を見ていた弓削くんなんだから、画像を……」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。僕はそんなところにはいなかったし、なにも知らない。朱里さんと赤石さんが会っていたことも、その画像がどうのこうのというのも」
「まあ、しつこいわねぇ。ま、いいわ。あなたが見ていたということは誰も証明できないでしょうから」

 また一台、駐車場に車が入ってきた。ヘッドライトが大阪の空に空しく光を投げかけ、アコードの車体を舐めていき、すぐ横に停まった。
 駐車場には再び暗い夜の帳が降りた。
 弓削は気になったのだろう。何度もその車の様子を見ていた。

「でもさ、生駒くんは、なぜあの画像が貼り付け直されているのかわからないって言ってたわ。誰かがあの画像に細工したのよ。なにか変よね。弓削くん、どう思う?」
「……」
「どうってことはないかな?」
「まいったなぁ。なにを言えばいいんです? そんなことをした人がいたとしても、それは僕じゃない。そう言うしかないですよ」

 上野の話が核心に近づいていた。
「でも、このことを警察に聞かれても、あくまで知らないと言い張るのかな」

 携帯電話を通して、弓削が大きなため息をつくのが聞こえた。
「しつこいのは上野さんですよ」
「そお?」
「そんなに言うなら、警察でもなんでも連れて来てください。しまいに怒りますよ。だいたい今日はなんですか。尋問の日ですか? ゆっくり夜景を見て飯でも食おうということじゃなかったんですか?」
「そう、そのつもりよ。でもその前に、私は聞いておきたいの。なぜあんなことをしたのかを」
 上野の声は、先ほどまでの調子と打って変わって、明らかにいらついていた。
 それに対して、弓削は上野をもてあそんでいるように、冷たいと感じるほどに静かな声をしている。

「弓削くん、もういい加減にしなさいよ。生駒くんによれば、朱里は自殺なんかじゃなくて殺されたのよ。いい? 殺されたのよ! 崖から突き落とされて! 犯人は、彼女の部屋に入ってパソコンに遺書を書き込んだのよ! そして、そのすべてを知っている人がいる! あなたよ! それがあなたなのよ!」
 弓削は黙って首を振っている。
 そしてまた、隣の車を見た。

「でも、あなたに罪はないんでしょ!」
「えっ、僕に罪はない?」
 短い沈黙。

「なんだ、僕が疑われているんじゃないんですか。ああっ、そういうことか!」
「そう」
「いや、もう言わなくてもわかりますよ。なるほど。僕が犯人だというのではなくて、あの画像を作り直して、赤石さんが注目されるようにしたという嫌疑だけがかかっているわけだ」
 ふう! という上野の短いため息が聞こえた。
「そう。そういう嫌疑ね。白状する気になった?」

 上野のシルエットが前を向いた。
 今度は少し長い沈黙が降りている。
 上野が弓削の答えを待っている。
 森の梢が揺れ始める。アコードの隣の車がゆっくりバックして、駐車場から出ていった。

「あなたでしょ、そんなことができるのは。朱里のパソコンを弟さんが貸してくれたとき、持って帰ったんだから」
 上野の小さな声が聞こえてきた。声が震えていた。

 弓削がゆっくり間をとって応えた。
「でも、だからって、僕がそんなことをしたっていう証拠はないですよね」
「証拠か……。ないわね。だから話して欲しいって言ってるのよ」
「なるほど……」
「それに、あなたなら、いつも仕事でそんなことしてるんでしょ。画像の加工なんて簡単だし、日付を操作することもたぶんできるんでしょう」
 上野の声はますます小さくなっていた。

「もう一度言います。修正された画像に写っていたのが赤石さんだったのかどうか知りません。もしそうだとしても、僕には関係ないことです。それに聞きますけど、なぜそんな面倒なことを僕がする必要があるんですか? なんのために?」
 上野が黙っている。

「さっき、僕が朱里さんを好きだったって言ってましたけど、そのとおりです。でも、言っときますけど、当たり前のことです。みんな仲間だと思っていますから。……そう、今でも。上野さんも生駒さんもね。……たった今、上野さんも同じようなことを言ったじゃないですか」
 アコードの中にまた沈黙が溜まり、 柏原はふたりの表情が見えないことにもどかしさを感じた。

「それにね、画像のレタッチなんて、どうして思いつくんですか? わけもわからず開いたパソコンにあった画像ファイルを? なぜ?」
 柏原は窓を少し開けた。
 冷たい空気が流れ込んできた。
 虫が鳴いていた。

「それにね、ポンとワンタッチで画像を変えてしまうなんてこと、できませんよ。手間はそれなりに大変なん……」
 突然、上野が金切り声を出した。
「とぼけないで! そんなの簡単じゃない! レタッチソフトで開けば簡単よ。あなたなら苦もなくできることだわ!」
 少し間があって、弓削が静かに言う。
「しかしですね、そんな画像ファイルをどうして見つけられるんです? たまたま見つけられるようなものですか? タイトルにでかでかと住道での赤石さん、とか書いてあったんですか?」
「ミステリっていうフォルダに入っているのよ! 生駒くんから聞いたわ。あなたは朱里から聞いていたんでしょ!」
「やれやれ。上野さん、今日はおかしいですよ。そのフォルダってどこにあるんです? すぐに見つかるところ? デスクトップ? それともマイドキュメント?」
「なにを言ってるのよ、Dディスクに決まっているじゃない! すぐにわかるところにあったのよ!」
「ふーん。しかし僕はなにもしてないですよ。上野さん、悪いですけどね。僕はそう言うしかないですよ。さ、もういいかげんにこんな話、やめましょう。冷静に考えたらばかばかしいでしょ。いくら冗談だと言っても、だんだん不愉快になってきますよ。それに朱里さんが聞いてたら怒りますよ」
「冗談ですってぇ!」
「うん。でしょ」
「いいえ! 違う! あなたがやったんでしょ! 赤石さんの画像を変えたのは!」
「ねえ、上野さん、冗談だって言ってくださいよ。ほんとにしようのない人だな。僕がやったの一点張りだ。言っときますけど、僕の仕事ではレタッチソフトなんか触ったことがないから、やり方は知りませんよ」
「なんですって! よく言うわよ! 『デジカメの達人』で加工されていたのよ。あれは使いやすいって、あなた、コナラ会のとき私に勧めていたじゃない!」

 ふたりの言い合いはどこまでも続くかのようだ。
 柳が、まだかというよう顔で柏原を振り返った。
 柏原はもう少しというように手を上げて、柳の焦る気持ちを押さえた。

「でも、それで作り直した画像を、どうやってまたもとのドキュメントに戻すんです?」
「なんで、そんな! わかっているくせに! 戻す必要なんてないわ。どうせ目を引くためにやったんだから、画像のままで並べておけばいいのよ!」
「フウー! ですけど、なぜ、それが僕だってことになるんです?」
「さっきから何度も言ってるじゃない! 朱里と赤石さんが会っているのを見ていたのはあなただし、普通なら、あの画像を見ても赤石さんだとはわからないわ。最初から知っていなくちゃ。そういうことよ!」
「ハァ、なにか無理やりの理屈ですね」

 弓削のシルエットが初めてまともに上野に向いた。
 突然、上野の頭が下がって視界から消えた。
 柳の手がヘッドライトのスイッチへ伸びる。柏原があわててそれを制止する。
 次の瞬間、上野が大きな動きで手を振り上げてシートにもたれた。
 両手がそのまま頭を抱え込むようにして何度も髪を後ろに撫で付けた。

 聞こえてくるふたりの会話は、テンポが遅くなってきた。
 上野はヒステリックになって弓削を追及し続けているが、効果をあげることができないでいた。

「もういい加減にしてよ!」
「なにがですか。こっちがそう言いたいですよ」
「弓削君、あなたね……」
「さっきから聞いていると、こういうことですか? 朱里さんを殺した赤石さんが彼女の部屋に入り込んで、にせの遺書を書いた。そう考えた僕が、彼女のパソコンを自由にできる時間を利用して、画像の細工をしたと。そう言わせたいようだけど、なぜ僕がそんなことをしなくちゃいけないんですか」
「何度言わせるのよ……」
「……」
「あなたは朱里に特別な思いを持っていた。……昔のことだって言わないでね。つい最近も、私はあなたと話をしながら感じたわ。朱里からも聞いたことがある。彼女の部屋で会ったこともあるんでしょ。それも最近」
「……」
「一方、あなたは赤石さんを憎んでいた。朱里が赤石さんとも……。あなたは、もし赤石さんが起訴されなかったとしても、不倫が明らかになれば家庭は崩壊するかもしれないし、会社での地位も棒に振るかもしれないと考えた。それでも十分な復讐になる……」
「それ、本気で言ってるんですか?」

「……本気よ」
 そう言った声は消え入りそうに小さかった。

「言ってることがむちゃくちゃですね。もうこんな話、やめましょう。ねえ、月世さん」
 弓削がやさしく話しかける。
 上野を名で呼んだ。

「あのブログのお誘いの手紙、僕にも来ていましたね。ブログを読んでいて、あの写真が赤石さんだとは知らなかったけど。僕はね、わかりましたよ。あれを最初から全部読んで。こんな話になる前にね。これは月世さんだってね」
「えっ……」
「その気になれば、最後まで読まなくても月世さんだとわかる。もう誰かが『はり重』でおごってもらっただろうと思って、連絡はしなかったけど。というか、電話通じなかったし」
「あ……」
「携帯の番号、知らなかったし。メールすればよかったですね。すみません」
「……」
「ちょっと思い切って言いますよ。聞いてくれますか。さっきも言いましたけど、僕は朱里さんのことが好きでした。仲間ですからね。月世さんも好きですよ。仲間だからってことだけじゃなくてね。そう、昔から」
 弓削が窓を開けたようだ。
 アコードの中にも虫の声が充満しているだろう。

「ねえ、こんなこと言うのはどうかなって思うけど、いくつになっても恋はしたいですね。でも、難しいですよね」
「……」
「ね、月世さん」
 携帯電話を通して、弓削の静かな声が聞こえてくる。
「あなたは赤石さんが今も好きなんでしょう? でも、その愛って……」

 弓削が間をおいたが、またポツリを言葉を繋いだ。
「こんなことを聞いても、なんにもなりませんね……」

 長い沈黙が続いた。
 やがて上野のあっさりした声が聞こえてきた。いつもどおりの声を取り戻していた。
「弓削くん……。嫉妬に狂った女か。あーあ、やれやれ。……あなたは昔から変わらないわね。いつもやさしくて」
「生駒さんが聞いていたら怒りますよ。それは俺の専売特許だって」
「ハハ、そうね」

 弓削が上野の肩に触れた。
「月世さんはいつも強がっていましたよ。自分が、自分がって。悪口じゃないですよ。僕にとってすばらしい先輩でしたし、仕事に対するそういう臨み方、憧れでしたよ。そしていつも、僕らを見守ってくれていましたね。お目付け役というより、もっと温かい目で」
 上野の声はまたよく聞き取れなくなった。
「ごめんね」

 弓削の指が上野の頬を撫でていた。
「泣かないでください。らしくないなあ。月世さんの気持ちは、みんなよーくわかっていますよ」
「そうよね……、私……。ごめんね。せっかく……、こんなに夜景のきれいなところへ連れて来てくれたのに」

 柏原は柳に目配せをした。
 そして声に出して、行ってください、といった。
 柳が無線を使った。
 柳がヘッドライトを点けようとするのを、柏原はとめた。柳が、そうですね、とドアを開けた。

 部下達がアコードを大きく取り囲むのを待ち、ゆっくりと近づいていった。
 そして窓を叩く。
 ガラスがゆっくり下がった。
「警察です。上野月世さんですね。そちらは弓削俊美さんですね。ちょっとお聞きしたいことがあるんですが」
 警察手帳を見せる。
「中道朱里さんの転落死の件で、話し合われていたようですね。私にもお聞かせ願えませんか。署までご足労いただけるとありがたいんですが」
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