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ノブ、知ってたん? 作者:奈備 光
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30 行者還岳

 午前十時半。
 生駒は阪神高速道路松原線を南に向かって飛ばしていた。
 さっき柏原が電話で伝えてきた、とにかく朱里が死んだ現場に急行してくれ、という言葉がまだ耳に残っていた。

 今はゆっくり説明している暇はない。
 とにかく行ってくれ。一刻も早く!
 蛇草さんと鶴添さんと赤石が、朱里の追悼のために行者還岳に向かった。
 とんでもないことが起きるかもしれない。
 いや、念のためだ。無駄足になるかもしれないが。
 生駒、悪い。
 とにかく追いついて、ことが起こりそうだったら、それを止めてくれ。
 詳しいことは帰ってから言う。今すぐ出てくれ!

 柏原はもう一度、頼む、といって電話を切ってしまった。
 生駒は緊迫した言葉に背中を押されるようにすぐに出発し、ハンドルを握っている。
 なにがどうなっているのかわからなかった。
 ただ、赤石の名前が出た。今は柏原を信頼して動くしかないと思った。

 西名阪道路に入り、大和郡山出口から国道二十四号を南下。
 三一〇号に入ってからは山間部の道路をひた走る。
 数週間前、オルカで生駒自身が説明したとおりのコースである。

 修験道の聖地も、今や大阪から三時間ほどで行くことができる。
 観光客も訪れるようになり、新しい村営温泉場は季節を問わずキャンプ客や行楽客で賑わうようになった。公衆トイレのあるドライブインでは、大阪ナンバーとなにわナンバーが数珠繋ぎになって駐車していた。

 河合の集落を左折し、清流脇の道を遡っていくと、いよいよ川迫渓谷に差し掛かる。
 大峰山系から湧き出た冷たい水が豊かに流れ下っている。
 道は渓谷とぴったりくっついて、切り立った崖を伝っていく。曲がりくねった細い道は、対向車が来てもかわせる幅はない。
 道のいたるところに転がっている人の頭ほどもある大きな落石を避けながら、生駒は慎重に車を進ませた。

 大峰の代名詞、山上が岳の南斜面から流れ下る水と、弥山の北斜面から流れ下る水が合流する地点。
 そこにコンクリートの橋が架かっていた。傍らには朽ちかけたあずまや。その前に、かろうじて二、三台の車が停めることのできるスペースがあった。行者還岳への登山口である。

 朱里の車が発見されたのは、林道をもう少し奥に入ったところだったそうが、生駒は見に行くことはしない。
 すでに午後一時を過ぎていた。
 車から降り、先客の車のナンバーに目をやる。
 なにわナンバーと大阪ナンバー。
 携帯電話を取り出したがすでに圏外。

 登山靴の紐を結び直して軍手をはめ、歩き始めた。
 すぐに、人がひとり通れるだけのゆらゆらした吊り橋を渡ることになる。
 錆の浮いたワイヤ製の手すりをしっかり握り、白く逆巻く急流の上に、そろりと一歩を踏み出した。

 登山道はいきなり急登だった。
 たちまち汗が噴き出す。
 山の西側から、山頂に向かって高度を上げていくことになる。
 細い山道に覆い被さるように潅木が繁茂し、人の行き来がほとんどないことがわかる。
 ごろごろとした石を踏んで歩きにくい。
 尾根に出るまでの樹林帯は、沢の湿気でねっとりと蒸し暑く、息が詰まるような思いだ。
 うっそうとした緑以外に見えるものはない。散策のつもりでゆっくり登るのであれば、こういう道も楽しいのだろうが、ただ先を急ぐだけの今の生駒には、苦難以外の何物でもなかった。

 喘ぎながら三十分。
 ようやく関西電力の鉄塔が見えてきて、視界の利く尾根道に出た。
 渓谷を挟んで眼前に弥山が迫っている。頂部が美しく尖っている。
 大峰の主峰と呼ばれるだけのことはあって、大きな山塊が荘厳な印象を与えている。

 尾根に出たことで、日差しがまともに生駒の顔を照らし始めた。
 鉄塔の下まで来て、初めての休憩をとる。
 倒れ込んだといっていい。べったりと地面に座り込んだ。
 生駒は、ちょっと頑張りすぎやな、と声に出した。

 オルカで皆に見せた地図を広げた。
 朱里が倒れていたという現場まで、まだ三割ほどしか進んでいない。今日は特に暑い。体力を温存しながら登なければ。

 柏原が口にした万が一のこと、というのが気になっていた。
 もう昼飯にしてもいい時刻はとっくに過ぎていたが、暑すぎることと気持ちが急いていることで、とてもそんな気にはなれない。
 それにしてもほんまにどういうことや、柏原のボケはなんにも説明しくさらんと、と生駒はまた口に出して悪態をついた。
 惜しむように、ひと口ちびりとペットボトルの茶を飲んで立ち上がった。

 そこから一時間ほどは尾根道だ。日差しが眩しいほどに明るい。
 手を使って登るほどの難所はないが、アップダウンが激しく、視界が広がるところに出るたびに小休止を入れたくなる。やがて尾根が細り、いよいよ頂上に向かっての急登にさしかかってくる。
 目指す崖はもうすぐだ。

 吊り橋を渡ってから人の姿を見ていない。
 赤石ら三人はまだ上にいる可能性が高い。
 行者還岳に登る道は一本道ではないが、生駒は最もポピュラーであろうと思われるルートを選んでいた。

 山もみじの大きな根元を回り込むと、眼前に巨大な岩肌が見えてきた。
 南を向いた大きな崖。
 遠くからでも、それとわかる行者還岳の特異な山頂部の形状が眼前に迫っているのだ。
 幅広の刃の切っ先が地面から突き出たような山頂部の崖。
 道は迷うことなくその崖に向かっている。

 生駒は歩調を速めた。
 近づくにつれ、それまでの比較的明瞭な山道は、やっと足を乗せられるくらいの細さになっていった。

 ついに崖の手前に到達した。
 眼前左手に岩肌がそそり立ち、シダやごく小さなかん木がかろうじて貼り付いている。
 右手は垂直かとも思える角度で深く落ちこみ、木々の梢が百メートルほど下に広がっている。
 見上げると、岩とその頂部に生えている木々が、青空をちょうど半分に切り取っていた。
 行く手には、岩肌をわずかに削り取った頼りない足場が続いている。ところどころに鉄のはしごが横倒しに掛け渡されているが、細いそのはしご段に一足ずつ乗せて進んでいくのは、なかなか思い切りが必要だ。はしご段の隙間から容赦なく絶壁のはるか下が目に入る。かろうじて頼れるものは、部分的に張り渡された鎖と、応急措置のようなトラロープだけだった。

 このような崖をいくつか繰り返し登っていくと、主尾根であるいわゆる奥駈け道に出る。そこに避難小屋があるはずだ。奥駈け道を北に折れ、二十分ほど登ると行者還岳山頂への小道が左に分岐する。
 このあたりのルートは、朱里の事件以降、何度も地図を眺めて頭に入っていた。
 朱里はこの先のどこかの崖で転落したのだった。

 目の前のロープに手を触れてみた。黄色と黒のまだら模様のロープは真新しい。
 先が輪になった鉄の杭が岩に打ち込まれ、そこにしっかり結ばれていた。
 もし、この崖に足を踏み出し、一歩、二歩、三歩、ロープにつかまりながら、かろうじて靴を乗せることのできる足場を確かめながら進んでいるとき、このロープが外れたらどうなるだろう。
 踏ん張れるものではない。
 もちろん落ちればひとたまりもない。
 生駒は、崖の下に視線を向けた。

 強い風が吹いていた。
 木々の梢が揺れている。
 気の早い木がすでに紅葉を始めている。
 聞こえてくる音はない。
 鳥のさえずりさえもない。
 真昼の山の中は、うつろなほどに静かだった。

「生駒さん! 生駒さんじゃないですか!」
 突然の大声で、生駒は飛び上がりそうになった。
 足元から、小石がぱらぱらと崖の下へ放物線を描いて落ちていき、思わずバランスを崩さぬようにしゃがみこんだ。

 さっと振り返ると、ふたつの人影が見えた。
 声の主は鶴添だった。木々の間に立っている。蛇草がその後ろに座っている。
 生駒が登って来た山道からは、彼らの姿は藪の陰になって気がつかなかったのだ。
 生駒はゆっくり立ち上がった。鶴添が歩み寄る素振りをみせて、軽く手を上げた。

「びっくりさせてすみません」
 鶴添は屈託なく笑ったが、蛇草の方は、憮然とした表情で生駒を眺めている。
 赤石の姿は見えない。

「生駒さん、いったいどうしたんです? まさかこんなところで会うとは思いませんでした!」
「あんたらこそ、そんなところでなにしてるんや。赤石はどうした。一緒に来たはずやろ」
 鶴添が蛇草を振り返った。
 不機嫌そうな男が、生駒をぐっと睨んでから口を開いた。
「おまえ、俺達をつけて来たんか!」
「赤石はどうしたんか、聞いてるんや!」
 生駒は自分の鼓動が聞こえるような気がした。
 本能は身構えろと指示していたが、生駒の理性が友人である態度をなんとか維持していた。

 山道から外れ、草や枯れ枝で覆われた斜面をゆっくり登っていった。
 ふたりが黙って見下ろしている。
 大量に落ちたどんぐりを踏み、乾いた音が立つ。大きな倒木が根をあらわにし、根があった地面に大きな穴ができていた。
 生駒は立ち止まり、じっとふたりを見つめた。
 疲れてやつれた表情をしていた。それでも、それ以上は近づかずに、蛇草を睨んだ。

「まあまあ、ふたりとも……」
 鶴添が仲裁めいた言葉を出しかけてやめ、代わりに生駒に歩み寄ってきた。
 蛇草が吐き続ける荒い息づかいが、はっきり聞こえてきた。
「赤石さんとはさっき別れました。赤石さんは頂上まで行くそうです」
 鶴添の口調は穏やかだった。

 どれくらい前? 三十分くらい前。本当か。なぜ嘘をいうことがありますか。それならなぜふたりはここにいる? 恥ずかしながら大休止。
 といったやり取りが交わされ、生駒の体のこわばりが徐々に緩んできた。
 急に汗が背中や胸に流れ出したことを感じた。蛇草がタオルをTシャツの中に入れて体を拭き始めていた。
「朱里の弔いやと、赤石を誘ったらしいな」
 いつの間にか、生駒は赤石を呼び捨てにしていた。赤石がクライアントの担当者であったころのまま、今までさん付けで呼んでいたのに。

 蛇草が自嘲気味な笑顔をみせた。
「そうや。誰に聞いた?」
「柏原」
「ふーん。それでおまえはなにしに来たんや。花でも持って来たんか?」
「……」
「そうか。生駒を誘わなかったのは悪かったな」
「赤石は、なぜひとりで登って行った?」
「せっかくここまで来たんやから、ってことやろ。あいつが趣味の山登りをしているのはおまえも知ってるやろ」

 蛇草が靴を脱いだ。
 ふくらはぎをさすりながらニヤッと笑いかけてくる。
「朱里が死んだのは、たぶんそこの崖や。俺達は奥駈け道まで行ってみた。結局、そこの崖が一番高いし、ここ以外は下の方がよく見える。長い間見つけられなかったということは、そこの崖だと思う」
 蛇草は生駒から目を離し、弥山に目をやって、それにしてもとんでもないところだな、とつぶやいた。
 生駒もつられて山塊に眼をやった。大きな雲の影が落ち、陰気な色合いを見せていた。
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