遠い過去の恋
プロローグ
とある病院。男性が一人、中に入っていった。肩からはかばんを引っさげ、上下に黒いスーツを着て、受付でとある老女の部屋の場所を聞いた。そして、老女の部屋の中に入ると、彼女は、ベットから半身を起こし、窓の外の空を見ていた。
「あなたは、誰ですか?」
「私は、あなたに頼まれて、調査をして来た興信所の者です。あなたに報告をする前に、もう一度、お話をうかがおうと思いまして…」
「分かりました。もう、何回も話しましたが、今でも良く憶えています。私が、まだ、元気に歩けた頃の話…」
第1章
"私は、まだ、15ほどのころ、誰からも無視され、この世界の事が嫌いになっていた時の事…"
一人の少女が歩いている。どこへとも行くわけでなく、ただ、どこかへ行きたいわけでもなく、ただ、歩いているだけ。何も感じない、何も分からない。
(どうして、私、ここで歩いているんだろう)
ただ、人通りが多いながらも、誰ともぶつからない。向こうの方が私を避けているのだろうか。それとも、私が彼らを避けているのか。分からなかった。
とあるベンチで、一人ゆっくり座っていた時、何も思わない、何も分からない、その状態で、空を見上げていた時、軽い振動と共に、となりに誰かが座った。
「ねえ、君、ここ最近ずっとここに来ているね。どうして?今日は平日だし…」
「私……」
私の知らない人、そう思って見た時、その人は、私の知っている人に変わる。
「ん?どうしたの?」
「私、いいえ、なんでもないです…」
そのまま顔を下に向ける。彼は、彼女に聞いた状態から動かない。そのまま、永遠とも思われる時間が過ぎた。
「そっか。俺、なんでここにいるか、教えようか?」
今の今まで、こんな人がいるとは思わなかった。そんな状況で、偶然、いや、必然的、運命的な出会いをした彼から、突然語り始めた。
「俺は、この近くの中学校にいるんだ。でも、その中学校で、ちょっと、いろいろあってな。それで、抜け出しては、ここの公園のこのベンチでずっと考え事をしていたんだ。なんで、俺って、生れてきたのかなって。ハハハ、馬鹿らしいわな。こんな話」
彼は、彼女の返事を聞く前に、ベンチから立ち上がり、彼女に言った。
「もしも、こんな俺の事が嫌いじゃなかったら、きっと、明日もここにいるはずだから。会いたいなら、座っといてよ。今日と同じように。その時でいい、教えてくれ。なんで、君が平日のこんな昼間にここにいるのか」
そのまま、彼はどこかへ歩いていった。彼女は、そんな彼の背中を見る事しか出来なかった。
翌日、彼女は同じ時間にこのベンチに座っていた。すると、再び彼がベンチに座った。
「今日も、来たんだね」
「…うん。私に、こんなにやさしく声をかけてくれた人、初めてだから…」
「そうか…」
ゆっくりと流れる雲。上を見上げると見えない糸に引っ張られるように流れていっていた。それにつられて、影も動いていく。足の先の方から来た影は、ゆっくりと這うようにして、頭まで舐めていった。
「……昨日、言っていたよね。なんで、私がここにいるのか。こんな平日の昼間っから」
「そうだったか?」
彼は、すっとぼけた。
「そうよ。私ね、学校に居場所がないと思っているの。私も、ここからちょっと離れた所にある中学校に通っているんだけど、そこでね、なんだか、疎外されているような感じがあるの。でね、こんな公園に抜け出して来ているっていうわけよ。あんまり、あなたと変わらないわね。でも、あなたがいてくれて、私は、とてもうれしく思っている」
「なんで?」
彼女が立ち、彼の目に言った。
「私の心は、今までは、漆黒の闇の中にいた。自分の足元どころか、指すらも見えないような、そんな闇の中。でも、あなたが話しかけてくれたおかげで、そんな闇の中でも、わずかな光が差し込んできた。あなたのおかげ。また、明日も会ってくれるよね?」
「ああ、いいとも」
彼は、とてもやさしく言った。そして、今日は彼女の方が先にベンチから帰った。
第2章
"こうして、彼と出会ったの。それで、それぞれの胸の内を話すにつれて、だんだん、親しくなっていったの。それで、出会ってから数週間たってから…"
最初と同じ時間、最初と同じ状態。でも、二人の距離は確実に狭くなっていた。
「ねえ…私達が最初に出会ってからもう数週間たっているよね」
「もう、そのぐらいは経つな…」
「あなたに会えなければ、もしかしたら、私……」
彼女は、泣き出した。横で突然泣きだした彼女を見て、彼は優しく抱き寄せた。
「泣いたっていいんだ。今は、好きなだけ泣けばいいんだ。そうしたら、なんでも、スッキリする」
「…ヒック……ぅ…」
彼は、私が泣き止むまで、ずっと、抱いていてくれていた。
私が泣き止むと、彼は、私の顔を見て言った。
「付き合わないか?」
その顔からは、嘘のにおいはなかった。私は、再びなきそうになるのをこらえながら、言った。
「……うん」
「よかった…」
そして、彼はまた私を抱いた。今度は、力強く。
"こうして、私達は、つき会い始めたの。それから、1年ほど経ったある日のこと…"
第3章
いつもの公園、いつものベンチ、いつもの彼。何も変わらない。雨の日でも、晴れの日でも、雪の日でも、どんな日でも。この二人が出会える時間は変わらない。そう思っていた。
その話は彼が突然切り出した。
「なあ、俺らがこのベンチで出会って、付き合い始めてから、1年ぐらい経つな」
「そうね。だいたい、そのくらいね」
空は、いつか見た空だった。雲が、ゆっくりと誰かに引っ張られていた。
「…急な話なんだが、俺、引っ越す事になったんだ」
「…え?」
「それで…向こうの家の電話番号、教えておくから、何かあれば、連絡、よろしくな」
"その時ほど、彼が悲しそうな顔をしたことはなかったわ。そのまま彼は、そのベンチから離れて、そのまま帰ってこなかった。それ以後、彼とは会ってない。電話をかけても、何の連絡手段をしても、彼を見つける事は出来なかった…"
第4章
「これが、私の昔話よ。その後、結婚もしたし、子供も産んだし、孫までできた。それでも、彼のことが忘れられなかった。こんなおばあちゃんになるまでそんな話を引きずってるなんてね」
「そんなことはありませんよ」
「さて、次はあなたの番よ。私が依頼した事、ちゃんと調べてもらえたんでしょうね」
「ええ、調べました。あなたの今回の依頼は、その彼を探して欲しいと言う事でしたね。50年ほど前に分かれた初恋の彼を」
「そうよ」
「彼は、いま、ここにいます」
「見つけたのね。で、その廊下にでも立っているの?」
彼女は、彼が入ってきた扉の向こう側を指差して言った。
「いいえ、ここにいます」
彼は、「ここ」と言う1単語を強調した。
「…もしかして」
彼女は、彼を指差した。彼はうなずいた。
「そうです。50年前、図らずもあなたの前から去ってしまった、あなたの初恋の相手は、私です」
彼は彼女に近づき、抱きついた。
「お久しぶりです」
彼女は、優しく微笑んだ。
「ええ、久しぶりね」