感動させる事は、あまりにも重い――
そっと、丁寧に鍵盤をしまう。
乱暴に扱えば傷ができたりして、次に使う人が心苦しく思ってしまうだろうから。
今日も僕は、たくさんの音を綺麗に響かせてくれたピアノに――ありがとうの言葉を送る。
傍に落としておいたカバンを拾うよりはやく、ひとつの拍手が鼓膜を奮わせた。
振り返る。
音楽室にはありきたりな、良し悪しの分かれやすい個性ある机やイスの群。それよりも手前に、彼女はいつもどおりの立ち位置で小さくも盛大な拍手を喝采していた。
「……いつ聴いても、すらすら〜だよね。嫉妬しちゃう」
「美弥ちゃんも上手だよ。僕はちょっと、豊富なだけだ」
ブレザー着た女の子。スカートが短いのは流行か何かだろう。あまり気にしてはいない。そう、いつもどおり、気にしてはいない。
カバンを拾い、歩き出そうとした。
まだ話したそうな美弥を視界に入れ直し――言葉を交わすまでもなく僕が折れる。
勝ったことはない。勝つつもりがないだけ。
近くから木のイスを持ってきて、美弥を促す。
自分は、ピアノとセットの、黒い長方形の四足イスへと腰を下ろした。
美弥はすぐさまねぇねぇと尋ねて来る。
「本当の本当に、グレードテストの級持ってないの?」
「ん…………何度も言ってるけどさ、持ってないよ」
グレードテストってのはピアノの級で、六級くらいから講師資格を取るためのテストを受けられるようになる……だったか。
美弥は納得いかないという風に、唇をアヒルみたいにする。
「御影君だったら、歴史に名を残せるくらいの偉人になれるって思うんだけどなぁ……」
そこまでいかないとは、思う。
自分のことだから、肯定するのは間違っているだろうから、曖昧に笑っておいた。
そして、いつもどおり僕の番が回ってくる。
いうことは同じ。
「僕は、たくさんの人を感動させたりできるほど、寛大な心を持ってるつもりはないから。
荷が勝ちすぎるからさ……いつか潰れちゃうんじゃないかって思えて、恐くて仕方がなくて、だから独学で自分が楽しむためだけにやってるんだよ」
「……そんなに弱い風にみえない。っというより、絶対私よりも強い」
いつもと同じく唇を尖らせた美弥。
そう、いつもどおり――ここまでは。
少し遠くにある窓から、外を見る。
そろそろ雪が降り始める季節。あと少しもすれば、三年間という時間を過ごしたこの中学校と――美弥とも、お別れになる。
美弥は音楽学校に行くといっていた。僕は普通の公立高校。今みたいに会うことも極限にまで減ってしまう。あと数十回しかこの時間は来ない。
多いようで……一生からみれば、とても少ない残りの時間。
僕は、決めた心を秘めていた。
乾く口内。構いはしない。でも声がかすれたら困るから、ゆっくりと呟く。
「……美弥ちゃんがいてくれるなら、きっと僕はどこまでも行けると思う」
この台詞を聞いたのは、何の映画だったか。
自分の言葉で表せないのが悔しい。
我ながらこそばゆい台詞。率直に『好き』と伝えられるほど、僕の心は断固でも頑固でもない。
……遠まわしなキザ台詞を吐くほうが勇気がいる気もするが、気にしてはいけないはずだ。
美弥ちゃんはキョトンと目を瞬かせて――凄いくらいの反応を返してくれた。
「え、いや、その……いやじゃないんだけど、さ……えっと、な、な、何、どういう意図、っていうかあの、えぇっと……」
要領がつかめずに垂れ流すくらいなら、黙っていたほうが良いだろうな。
僕はそう思って――いや、そう言い訳して、美弥を黙らせる。
必然的に黙ってしまうのは、僕もだけど。
「…………」
「…………」
嫌じゃない静寂。やっぱり息苦しくなってこちらから離れる。
永遠にできるなんてこと、やっぱりあるはずがないんだと痛感。
美弥は落ち着いたのか、それとも完全にパンクしたのか、顔を真赤にしてちらちらと僕を窺っている。
美弥が熱いからだ。そのせいで――僕の頬も、焼けるくらいに熱いんだ。
そういうことにしておく。伝えたいことは伝えた。立ち上がり、歩き出そうとして……
「……でも、でもさ」
美弥の呟きを、淡くてかすかで、ちゃんとした響きのもった囁きを。
「できたら……御影君の音は、私だけのものにしていたいな。なんて」
耳で、心で、受け止めて。
ああ、そうか。と思う。
きっと、美弥の気持ちと僕の気持ちは今――同じなんだ。
僕の知らないことを、美弥は知っていた。やっぱり美弥は僕よりも強い。ずっと強い。
「……そうだね。うん、そのとおりだ」
だから、決める。
僕は、自らの手を見下ろした。
天才と呼ばれる実力がこの手に宿っている。その道を行く誰もの羨むものが、僕の手には秘められている。
「僕の奏でる音のすべてを……美弥ちゃんに捧げるよ」
――たった一人の人間の心に感動を生むための、素晴らしい使い方をしよう。
自分よりもしどろもどろで真赤な美弥ちゃん。
やっぱり……美弥の熱気に当てられてるから、こんなにも頬が熱いんだ。
うん、そういうことにしておこう。
未だ落ち着き無くなにやら呟いている美弥を見て、あと少しだけ、と思う。
キザな言葉を言えてしまうほどに――僕は美弥に溺れているだろうから。
あと少しだけ。数年だけでいいから、こんな時間を増やしていきたい。
美弥への愛は、本物だから。
たくさんの人を感動させられる音のすべてを、愛する君だけに送る―― |