2.漂う違和
太陽の陽の暖かさに目が覚めた。秋とはいえ、まだ肌寒い感じはない。憐子は大きく伸びをして、ボサボサの髪を手櫛でといた。
もう朝露と迅は起きているだろう。ガラスのない窓から空を見上げる。高く登った太陽が目を焼いた。
重たい身体をずるずると引き摺るように起こし、それでも気持ちは珍しく弾んでいる。否、弾んでいるという表現は正しくない。昂揚している。
数少ない持ち物の中から黒いワンピースを引っ張り出し、Tシャツとズボン姿からそれに着替える。洋服を脱いでも包帯で半分が隠れた身体、今年で十五になる彼女に女らしい膨らみはあまりない。憐子にとってはむしろ好都合だった。
薄汚れた白をなぞり、その下にある傷を撫でた。無数に存在する傷痕、隠すための包帯はいつまで必要なのだろう。指先まできっちり、封印のように巻かれた布を、ほどく日は来るのだろうか。
しばらくワンピースを掴んだままぼうっとしていたが、やがてのろのろと頭から被った。
なんだか頭が働かない。
「……震えてる」
長い袖に覆われた腕が微かに震えていた。ぎゅ、と自分を抱く。
恐ろしいのか。嬉しいのか。哀しいのか。自分でも解らない感情が、ドロドロと渦を巻いた。
閉じた右目が、疼く。
「おはよー憐子」
扉を開けて自分の部屋から出れば、いつものように歪んだ笑みと間延びした声に出迎えられた。それに頷きを返して、小さなテーブルを見る。トースト二枚とスープ。いつもの、つまりは政府から配布される食糧。憐子は不快感に顔を顰めた。
迅はすでに椅子に座り、じっとそんな憐子を見つめていた。
「なに」
いつもは上にある迅の目が自分を見上げていることに若干の違和感を覚えたが、それを顔に出すことなく、顔を顰めたまま憐子は言った。
「……いや」
なんでもない、と言う迅に、彼女はそう、とだけ返して椅子に座った。暗黙の了解、詮索はなしだ。それができるほど親しいわけでもない。
「はい、いただきまーす」
朝露も料理の片付けを終えたらしい、残った椅子に腰掛け、手を合わせる。三人で一緒に住むようになってから、憐子がまったく出来ないことと、迅が面倒くさがりなことも手伝って、料理はほとんど朝露が担当だ。
彼らは朝食を終えると、拾った乳児のところに手伝いに行くのが日課だ。今、三人の子供を育てている。三人とも女で、刹那、昌穂、美和という。みな彼らがつけた名前だ。それぞれ彼らが罪人から助けたことのある老婆、節子、トウ子、辰巳が世話をしている。
「あ、うまく焼けたかもー」
トーストを齧りながら、朝露が嬉しそうに言った。それに対する返答はなく、彼らの間に痛いほどの沈黙が流れる。静かすぎてうるさいとはこのことだ。最近は会話も増えてきたが、出逢って少しのころは朝露が一方的に喋るばかりで、とくに憐子はまったく言葉を口にしなかった。
お互いのパンを咀嚼する音やスープを啜る音が響く。朝露は居心地の悪さからトーストをのどに流し込んで、食器を片づけようと立ち上がった。
「もう出れるー?」
空気を裂いて彼の声が二人の耳に届く。迅は無言で席を立ち、食器を流しに立っている朝露に渡すと、投げ捨ててあった上着を羽織った。
迅と同じく無言で腰を上げた憐子に、朝露はひそかに苦笑した。
「刹那ーたかいたかーい」
「暴れんな落とすぞ!!」
きゃっきゃっと嬉しそうな笑い声が鼓膜を震わせる。刹那を満面の笑みで抱き上げる朝露と、昌穂を怒鳴りながらも肩車している迅。微笑ましい光景は、ここが罪人だらけの箱庭であることを忘れさせる。
建物がほとんどなく、あるとしても廃墟のここは、絶好の遊び場だ。瓦礫に近付かなければ危ないものはないし、視界が広くはぐれることもない。それに憐子たちがいれば、大抵の災厄は振り払える。
まだまだ赤ん坊の美和は憐子の隣に腰掛けるトウ子に抱かれ、すやすやと眠っている。
憐子はトウ子の優しい横顔を眺めるのが好きだ。けれど目を逸らしたくなるのも事実だった。慈愛に満ちた微笑みは、まさに“母親”そのもので。
「リンちゃん」
トウ子は憐子をリンちゃんと呼ぶ。顔を上げると、ふいに柔らかい、真剣な目で見つめられ、憐子は一瞬、息を詰めた。
「気をつけてねぇ、最近“罪人狩り”があるっていうから……」
トウ子も朝露と同じように語尾を伸ばすのが癖だが、彼のように馬鹿にした感じがないため、憐子は気にすることなく受け入れる。
「罪人狩り?」
聞きなれない言葉に、憐子は聞き返す。
「外の人間がストレス発散にここに来て、シルバーのブレスレットを見つけたら暴行するんですって……」
そう言って、トウ子は朝露と迅に視線を移した。その先にはシルバーのブレスレット、死刑囚の証。憐子の手首にそれはない。
浮かんだ疑問に眉を寄せ、憐子は首を傾げた。
「死刑囚と知っていて、暴行を?」
「えぇ……よっぽど自分の力に自信があるのねぇ。もう何人も犠牲になってるって……」
細められた目が心配そうに憐子を捉えた。
「リンちゃん、お願いだから死んじゃダメよ」
柔らかく、皺だらけの手が憐子の頬を撫でる。ブレスレットがないにも関わらず、トウ子は憐子に警告した。それは彼らとともに行動している憐子が、理不尽にも巻き込まれる可能性は十分にあったからだ。
幸せな、普通の生活では有り得ないセリフに、憐子は大真面目に頷いた。
「死なない」
自分の言った言葉に一瞬違和感を覚えながら、気持ち良さそうに目を閉じている美和の、小さな小さな手を出来る限り優しく包んで。
「リン姉ちゃん! 遊ぼ!」
いつの間に側に来ていたのか、刹那が憐子の腕を引く。無邪気な笑顔に押され、憐子は苦笑しながらも腰を上げた。
見れば、朝露が四つん這いになり、昌穂と、迅まで背に乗せ、今にも潰れそうになっていた。手を引いていた刹那も、お馬さん! と叫んで朝露に飛び乗る。
ぐぇっ、と悲痛な声が響き、かくんと折れた肘、とうとう朝露は砂ぼこりを立てながら平べったくなった。
「へばってんじゃねぇよ!」
容赦ない拳が降り注ぎ、朝露はさらに地面にめり込む。それを知ってか知らずか、刹那が追い詰めるように彼の身体をトランポリンにした。
「アサ兄ちゃん、もっともっと!」
「おら立て! お前は馬だ!」
「助けて憐子ー……」
苦しそうに寄せられた眉とは対照的に、その唇はいつもより歪んでいて。子供以上に楽しそうな迅の声が鼓膜を破る。
トウ子が不安げな視線を向けているのにも気付かず、憐子はふんわりと、微かに微笑んだ。
子供たちが座り込むまで遊ぶと、すでに空は赤かった。
トウ子と憐子は腹を空かせて泣き始めた美和と共に、節子と辰巳が待つ彼女たちの家へと、一足先に帰っていた。
迅が刹那を、朝露が昌穂をおぶり、帰路につく。背負ってすぐは騒がしかったものの、今では二人とも夢の中だ。すうすうと聴こえ始めた寝息に気づき、朝露は迅に声をかける。
「寝ちゃった?」
「あぁ」
「昌穂も寝ちゃったー」
「そうか」
答えた声に前ほどまでの柔らかさはなく、いつものように冷たい空気を孕むそれに、朝露は苦笑した。
「冷たいなー。憐子と昌穂たちには優しいのにー」
ぐにゃり、歪む唇。迅は、出逢った頃から彼が向ける笑みに不信感を抱いていた。それは言葉にできない不快感で、きっと朝露は故意にそうしているのだろうと思っていた。そして、彼の憐子に対する態度に、不自然な箇所があることにも気づいていた。
迅は深く眉間に皺を刻む。
「お前だろ」
ポツリ、零れた呟きが朝露の耳に届く。
「んー? なにがー?」
「お前だろ」
「だから、なにが?」
同じ言葉を繰り返す彼に、朝露は笑みを湛えたまま問う。
「憐子に冷たいのは」
彼の答えが想定内だったのか、朝露はさほど驚くこともなく、肯定とも否定ともとれる返答を述べた。
「そーかなー」
はっきりしない態度に、迅の苛々は募る。
問い詰めようとした矢先、朝露の言葉に遮られ、迅は口を噤んだ。
「迅は、さぁ」
そこまで言って、朝露は一旦息を吐いた。迷っているというより、焦らしているようだ。けれどすぐに、また言葉を紡いだ。
「怖くならない?」
「……なに、」
「憐子が」
唐突な問いに、閉じた口は開かない。いつもと違う雰囲気に、意味がわからない、と無視することもできない。そういえばこいつとこんなに話すのは初めてだな、と迅は思った。
「ここにいる理由も、どこから来たのかもはっきりしない、潰れた片目と灰色の髪と、人間離れした力をもった女の子が、さぁ」
暢気な声は重く、その顔には自嘲するような笑みが浮かんでいる。
「考えたことはない? 人間にしては耳が良すぎる、とか、人間にしては素早すぎる、とか、さ」
いつの間にか、迅は背負っている刹那の服を、すがるように握りしめていた。
嫌な汗が額に滲む。それは彼が言っていることに、少しだけ心当たりがあったからだ。
人は異形を疎外する。迅も例外ではない。自分より優れた部分が多すぎる彼女を、不審に思ったことがないわけではなかった。
「憐子は、もしかしたら」
もしかしたら。
迅は俯いた。その先を聞きたくなかった。朝露の口が、始めの一文字を形作る。
「節子ばあちゃん!」
「辰巳ばあちゃん!」
それが音になる前に、刹那と昌穂が同時に叫んで、彼らの背から飛び降りた。そのまま前に向かって走る。そこには四つの影があった。憐子とトウ子たちだろう。
「走ったら転ぶよー」
歪んだ笑みを称え、朝露はいつもの調子で彼女たちの後ろ姿に叫んだ。
歩を少しだけ速め、影に近寄る。数歩、進んだ後に迅が追ってこないことに気付くと、後ろを振り返った。
「迅も早くー」
前ほどまでの真剣さはどこにいったのか、迅が彼の軽い口調に、安堵の息を吐いたのは初めてだった。
「うるせぇよ」
いつも通りの憎まれ口を叩いて、迅も歩き出す。足を進めるたびに影が付いてくる。
「迅」
呼ぶ声に、迅ははっと我に返る。いつの間にか憐子がすぐ近くで、彼の顔を覗き込んでいた。
「あ……」
聞き慣れているはずの声、見慣れているはずの縫われた右目に、彼の心音は速くなる。
それを誤魔化すように彼は無愛想になんだよ、とだけ返した。
「危ないよ」
瞬間、ひっくり返った視界、昌穂たちの悲鳴、反転して見える朝露の驚いた顔。
リンちゃん、というトウ子の叫びが、辺りに響いた。
「邪魔するな!」
女性というには低く、男というには若干高い、少年の声。
迅は訳もわからぬまま憐子に倒された身体を起こし、その光景に唖然とした。
「どうして?」
「なにが!」
「迅だけ狙った」
「関係ないだろ! とにかく退けよ!」
倒れている黒い服を纏った少年、彼に馬乗りになる憐子。
彼らが会話する口同士は異様に近く、彼が顔を赤くしている原因は夕陽だけではきっとない。
憐子に押さえつけられた細い手首は白く、まだ成長過程にいるようだ。ブレスレットはない。
その側に落ちている刃物に、迅は目を丸くした。なるほど、憐子に突き飛ばされたのはこれのせいらしい。
「言え」
落ち着き払った無表情で紡ぐ彼女と対照的に、少年はがなる。
「なにを! ていうか命令すんな!」
「理由」
「誰が教えるか敵め!」
「敵?」
ピクリ、と憐子が反応し、眉を寄せる。少年は自分の手首にさらに食い込む彼女の指に歯を食いしばる。
片方しかない赤い目が冷たさを増し、同じ赤でも炎のような揺らぎはなく、真っ直ぐに彼を捉えた。
「迅を狙った」
「……」
「迅だけを、狙ってた。今も、気にしてる」
「……」
「迅と同じ、刀で」
迅の目が見開かれる。少年は彼女から目を逸らした。
「当たってたら、死んでたかもしれない」
「……」
「でも、気付けば避けられた」
「……」
「タイミングも、力加減も、ぴったりだった。なのに」
「……退けよ」
「お前は迷っていた」
「退け!」
少年は腕を力任せに振りほどき、ぐらついた憐子を突き飛ばして素早く立ち上がった。
爪痕の残る手首を擦り、落とした刀を拾おうと手を伸ばす。しかし、いつの間にかそれは憐子の手中にあった。
「迅の、何?」
悔しげに噛まれた唇、少年は憐子より少し高い位置から彼女を睨む。
彼と彼女以外の者は時が流れていることも忘れ、ただただ彼らを見つめている。
沈黙が流れた。
「……俺は」
ポツリ、掻き消されそうな声で、少年は呟いた。憐子はふわりと赤い目を細める。
「兄貴を殺しに来たんだ」
ぶわっと吹き抜けた一陣の風に彼の黒い髪が靡く。
はっきり見えた闇色の瞳は、日本人と呼ぶに相応しく。
憐子は、それを綺麗だと思った。
|