気象予報士を泣かす君
紅茶はストレートで飲むものだとハルミは普段から力説している。ペットボトルに入った紅茶は、『ストレート』と表記されているにも関わらず、砂糖が大量に入っていることに納得ができない、という話を聞かされるのはもう三、四度目。茶葉の名前を聞かされても俺には全く分からないが、この喫茶店の紅茶はそんなハルミも認める味だ。
ハルミと知り合ったのは二ヶ月ほど前。欠員が出たからと数合わせで当日に呼ばれた、俺にとって人生初の合コンだった。
目立たないタイプのありふれた大学生そのままに、平日はだらだらと授業を受け、休日は家でブラウジングかテレビゲームをするだけの日々を送っている俺にはあまりに刺激的だった。王様ゲームこそやらなかったが、五人ずつの男女の内、二組も二次会を抜けて夜の街に消えた。二十歳を過ぎると、数時間会話をしただけで性交渉の約束を交わせるらしい。
そんな合コンの席替えタイムでハルミと隣になり、家が近所だということが分かって意気投合した。ハルミがこの喫茶店を教えてくれたのはその時だ。それから何度かここでお茶をしている。
「ねぇ」
「ん……うわっ」
ハルミがティースプーンを俺の目の前に突くように向けていた。俺が気づくとそれでカップの中を一周してから一口飲んだ。ストレートなのに混ぜる意味はあるのだろうか。
「どうしたの? ぼーっとしてる」
「ごめんごめん」
「聞いてなかったでしょ?」
「何を?」
「やっぱり」
ハルミはわざとらしく頬を膨らませた。人と話をしている最中でも、関係ない考えごとをしてしまうのは俺の悪い癖。ハルミはもう一口飲んで続けた。
「『聞いて欲しい話がある』って言ったの」
「何?」
俺は組んだ腕をテーブルに載せて身を乗り出し、しっかり聞く意思があるという姿勢をとった。
「変な話だけど、信じてくれる?」
「変? どうだろう、内容によるけど」
「うーん、やっぱりやめとこうかな……」
肘を付き、拳の上に頬を乗せて悩んでいる。
「笑わない?」
「うん、堪えればいい?」
「もういい……」
「いや、ごめん! 笑わないから続けて」
「よし……」
ハルミは伸びをし、浅めの深呼吸をした。おかしな表現だが、浅く深かったのだから仕方がない。
実は俺もハルミに話がある。この一ヶ月ほど、ハルミのことで頭がいっぱいになっている。
きっかけは一ヶ月前のこと。その日もこの店でお茶をしていた。
店を出ようとした時、通り雨が降った。俺は傘を持っていなかったのだが、ハルミは折り畳み傘をバッグに入れていた。常備しているらしい。
「入る?」
「いや、悪いよ、傘小さいから濡れるよ」
「まぁ、いいからいいから。はい、持って」
ハルミは細い指で俺の指を開き、傘の柄を握らせた。触れた指の神経が脳に信号を送り、心臓を揺らせと指示した。
人生で初めての相合傘。合コンといい、ここのところ人生初の体験が多い。小さな傘の下、普段よりずっと近い距離で会話をしながら歩いた。少し低い位置にある横顔、時折ぶつかる肩、肩より少し長い髪から香るシトラス系のシャンプーの香り、あるいは柔軟剤だろうか。それまで感じなかったハルミの女の部分を近くで感じ、不思議な気持ちになった。
俺は今日ハルミに告白する。そのためにこの店に呼んだんだ。
告白なんて中学生以来なので、昨夜しっかりシミュレーションをした。二人で初めて来たこの喫茶店で、ふとした会話の合間に、さりげなく、自然に、スマートに、「俺と付き合ってくれ」だけを言おう。あまりごちゃごちゃ言うのは気持ちが悪い。
理想的なタイミングは、窓際のこの席に差し込む夕日と、ほんのり紫掛かった雲が相まって絵画のように彩られた時。ハルミがそれに目を奪われている間に告白する。
女はロマンチックな雰囲気に弱く、そんな場面でする告白は成功率が上がると何かで読んだ。小さなアシストでも、何もないよりはいいだろう。
今日の日の入りは五時半頃、あと一時間。それまで繰り返し頭の中でシミュレーションしよう。
「こら」
「うわっ」
またハルミがティースプーンを俺の目の前に突くように向けていた。
「またぼーっとしてる」
「ごめん、続けて!」
俺は軽く頭を下げた。悪い癖だと分かっていてもなかなか直せない。つい数分前と同じミスをしてしまった。
ハルミは溜息をつき、紅茶を一口飲んでから続けた。
「てるてる坊主、吊るしたことある?」
てるてる坊主? 久し振りに聞く単語だ。
「子どもの頃に何度かあるけど、どうして?」
「どんな時に吊るしてた?」
真剣な眼差しで俺を見ながら、空調で揺れた前髪を小指で左右に分けた。その仕草にまた女を感じた。
突然の質問に考えを巡らせた。「何度かある」と答えたものの、ほとんど記憶がない。何しろ、少なくとももう十年以上吊るしていないのだ。『てるてる坊主』なんて、聞くことだけでなく発することも久し振りだ。
唯一記憶に残っていたのは小三の運動会のことだ。前年の小二の時の徒競走で、半分くらいまでぶっちぎりの一位だったのにも関わらず、ゴール目前で靴が脱げてしまった。何を思ったか当時の俺は拾いに戻ってしまったため、結果は三位。家に帰るなり父に言われた。
「あの場合は靴なんか無視して靴下のまま走るんだよ!」
自分でも分かっていたので、その夜は悔しくて寝付けなかった。
その雪辱を果たすため、満を持して迎えた小三の運動会。運悪く、当日の天気予報は雨だった。前日の夜に安物のティッシュ箱一つを全て使い、父と二人でいくつもてるてる坊主を作ったのだが、それでも晴れずに延期になった。
予備日に行われた際は靴が脱げることもなく、雪辱を果たせたものの、平日だったためその勇姿を父に見せることができなかった。
そんな忘れ掛けていた苦い思い出が彷彿した。
「なるほど……他には?」
感想もなく、ハルミはまた紅茶を口にした。自分から訊いたくせに、ダージリンでもカモミールでもなく、聞いたこともない名前の茶葉の方が気になるようだ。
「ほとんど記憶にないけど、遠足の日とか、遊びに行く日とか、出掛ける日だったと思うよ」
「うーん、そうだよね……」
ハルミはつまらなさそうに目線をテーブルに落とした。収穫がなかった、という表情にも見えるが、質問の意図がよく分からない。
「ハルミは吊るしたことあるの?」
「うん。遠足の日と、初彼氏との初デートの日」
デート、羨ましい。俺もハルミとデートをしたい。
こうして週に一、二回喫茶店でお茶をするのも楽しいが、デートという感じはしない。定番だが映画館や遊園地に行って、手を繋いで歩きたい。などと乙女のような妄想をした。夜はアダルトに、お洒落なホテルバーのカウンターで飲み、キザに言う。
「上の部屋、取ってあるんだ」
「ねぇ」
「あ、うん?」
危なかった、また聞き逃すところだった。俺はアイスコーヒーをストローで吸った。汗をかいたグラスが煩わしい。氷が溶けたせいで少し薄くなっておいしくない。
「もう一回訊くね。今から話すこと、信じなくてもいいけど、笑わない?」
「うん、笑わないよ」
そんなに変な話なのだろうか。ハルミは腕を組み、テーブルの真ん中近くまで身を乗り出した。一瞬にしてアップになったハルミの顔に、何故か溜まった唾を飲み込んだ。
「私ね、翌日を必ず晴れにできるてるてる坊主を持ってるの」
人生で初めて、『開いた口が塞がらない』という体験をした。合コン、相合傘に次いでまたも初体験。どちらかというとサバサバしていて堅実的なハルミのメルヘンチックな発言が、その諺を現実にした。そして、そのギャップに笑いが込み上げてきた。
「笑わないって言ったのに!」
「だって、未来の道具じゃないんだから」
不満そうな顔をするハルミに指摘した。まだ車も空を飛んでいない、それどころか自動運転の法律さえ整備されていないこの時代に、本当にそんなものがあるのなら世紀の大発見だ。
「待って待って! ごめん笑わないから!」
席を立つハルミの腕を掴んで引き止めた。ムッとしながらもバッグを投げて席に着き、溜息をついた。
「ちゃんと聞く?」
「うん、聞くから!」
「じゃあおかわり奢ってくれる?」
「もちろん!」
俺はすぐにキッチンの入口付近で暇そうにしている店員を呼んだ。気の抜けた顔が一瞬にして仕事の顔になり、プロ意識が見えた。
「ヌワラエリヤティーをください。コウサクは?」
「俺もそれを」
「え、珍しい」
本当はアイスコーヒーをおかわりしたかったのだが、昨日ヨウタとした話を思い出して変更した。
「明日、告白しようと思うんだ」
日付が変わる直前、ウチに大量の缶ビールを持って現れたヨウタに宣言した。
「あぁ、ハルミちゃんだっけ?」
「うん」
「やっと動く気になったか」
ヨウタとは知り合って二年くらい経つ。大学の食堂で話し掛けられたのが最初だった。
「焼きそばかー、焼きそばなら、『イタリアン』食べたいんだよね」
彼は食券機の前で同じ研究室の人と会話をしていた。
「じゃあパスタにしたら? ミートソースあるじゃん」
「そうじゃなくて、『イタリアン』が食べたいんだよ。知らない?」
「え、どうゆうこと?」
会話が成り立っていなかった。成り立っていないというより、ヨウタの連れがヨウタの言うことを理解出来ていなかった。
「ひょっとして、焼きそばの上にミートソースを掛けた、『イタリアン』ですか?」
俺はあまりの空腹に食券の前を陣取る彼らに早くどいて欲しいという怒りと、同郷の人間を発見したことの喜びで、思わず話に割り込んだ。人見知りの俺には滅多にないことだ。
「おお! 新潟の人ですか?」
興奮したヨウタは俺に握手を求めた。『イタリアン』は俺とヨウタの出身地である新潟のご当地料理なのだ。
それから食堂で顔を合わせる度に挨拶をするようになり、お互い一人の時はどちらからともなく隣に座って食べるようになって、今ではウチに来るようになるまで仲良くなった。玄関の外の植木の下に隠してある、紛失した時のための合鍵を勝手に使って、俺がいなくても勝手に上がり込んでいることもある。
「上手くいく可能性が少しでも高くなるような、心理学的な良い作戦ない?」
そして、女はロマンチックに弱いと例の作戦を考えてくれた。夕日が作るオレンジのテーブルクロス。言葉だけ聞くとキザで鳥肌が立つが、実際それを目にすればキザがクールに変わるとヨウタは断言した。
「他にはそうだな、相手と同じ行動をする」
「例えば?」
「相手が笑ったらこっちも笑う、飲みものを飲んだらこっちも飲む、やってみ」
ヨウタは缶ビールを右手に持ち、歯を見せてニコッと笑った。俺が慌てて真似をすると腰に手を当てて一気飲みした。
「そうそう、そんな感じ」
次にヨウタは立ち上がり、左右の耳の横で交互に手を叩いて踊った。叩いた方の手に合わせて膝も同じ方に上げるという簡単な振り付けだ。
「これに何の効果があるんだよ」
俺は文句を言いつつも真似をしながら訊いた。
「『ミラーリング』っていって、相手に同じ行動をされると、無意識に好意や親近感が沸いてしまうって言われてる。かなり効果が高いらしいよ」
「じゃあ、飲みものを飲むタイミングを真似するとして、ハルミはいつも紅茶を飲んでるんだけど、俺も同じものを飲んだ方がいいのかな?」
「あぁ、うん。さらに効果が上がる、と思う」
だから、俺も同じナントカティーを注文した。普段紅茶はあまり飲まないのだが、これで成功の可能性が高くなるなら試す価値はある。
「それでね、そのてるてる坊主の役に立つ使い方を考えてるの。面白くて、なるべく資金が掛からない使い方。せっかく持ってるのに私あんまり使いこなせてなくて」
持ち始めたスマホのようにハルミは言った。本気なのか冗談なのか、表情からは読み取れない。
常識的に考えて、そんなてるてる坊主が存在するはずはない。晴ればかりになり、効率よく農作物が育たなくなり、深刻な水不足になる。よほど世の中のことを理解し、世界平和を望む良心的な人じゃないと扱えない。ハルミはちょっと気が強いが、優しくて良心的かもしれない。だからといってごく普通の一般人であるハルミに世界の未来を預けるのは違う。仮にそのてるてる坊主が存在していたとしても、世界の頂点の機関が管理するだろう。とにかく、少なくとも今はそのてるてる坊主の存在を信じることはできない。
「その前に、信じてない訳じゃないんだけど、質問していい?」
「うん」
また席を立たれないよう言葉を選んだ。オレンジのテーブルクロスまであと三十分くらい。それまで粘らないと。
「今までに何回使った?」
「うーん、五回くらいかな」
「毎回晴れた?」
「うん」
迷いなく答える。
「天気予報が雨の日の前日に吊るして晴れになったの?」
「うん。ほら、今日もそうでしょ? 昨日吊るしたの」
そういえば、今日の天気予報は雨だったのに朝から晴れている。俺は持って来なかったが、窓の外には傘を持って歩く人が数人確認出来た。折り畳み傘をバッグに入れている人も少なくないだろう。
「お待たせしました」
店員がナントカティーを運んできた。二杯分入った陶器のティーポットとカップとソーサーが二つずつテーブルに並んだ。
「わーい」
ハルミがカップに注ぐタイミングで俺も注いだ。注ぎ始めも終わりもぴったり合わせて真似をした。白いカップと、オレンジと茶色の間の色をした紅茶がマッチする。
「いただきます」
飲むタイミングもハルミに合わせた。口中に味と香りが広がる。
「おいしい?」
メリーゴーラウンドに乗る少女のように嬉しそうな顔で俺に訊く。右頬に出来た笑窪に指を入れたい。
「うん、さすがハルミが認めるだけのことはあるね」
おいしいとは言わずにごまかした。嘘ではない、よく分からないだけだ。
「どう? 信じてくれた?」
てるてる坊主の話に戻った。確かに今日の天気予報は雨だった。でも、たまたま外れただけかもしれない。全ての天気予報を確認した訳でもないし、当然毎回当たるというものでもない。
「それは、吊るすと世界中が晴れになるの?」
答える前に気になることを質問した。日本で吊るしてブラジルが晴れになるのか、信じていなくても気になった。
「それは分からないけど、関東全域に大雨の予報があった時に吊るしたら、次の日東京も横浜も晴れだったよ。他の地域までは分からないな」
いつの話だか知らないが、初彼氏との初デートが横浜で、中華街でも回ったのかなと勝手に嫉妬した。それにしても曖昧な答えだ。しかし、こんな状況でもなければ調べる機会も効率の良い方法もないのだから、仕方ないとも思える。
俺はスマホで東京から横浜までの距離を検索した。それこそ使いこなせておらず、通話とメールくらいしか使っていなかったからブラウザを開くのは久し振りだ。
「吊るしたのは東京だよね? 東京駅から横浜まで三十五キロくらい。少なくとも半径三十五キロ内は効果があるのかもね」
「うんうん」
ハルミは頷いてから両手で包むようにカップを持って紅茶を口にした。晴れてはいるが少し肌寒いので、手を温めているのだろう。秋なので店内の暖房はそれほど強くない。その仕草が可愛くて、自分の鎖骨辺りにハルミの頭を寄せて髪を撫でたい衝動に駆られる。ミラーリングを思い出して俺も一度両手で持ってみたが、俯瞰で見て気持ち悪いことに気付いてすぐ片手に持ち直し、飲むタイミングだけ合わせた。
「例えば、日本中に効果があるんなら、冬の北海道や東北の雪の日を晴れにすれば、雪が積もらなくて災害が防げるし、転んで怪我する人もいなくなって役に立つよ」
新潟の実家にいた頃、雪にはさんざん苦労させられた。ウチは特に田舎だったから、学校まで普段一時間で通える道を、冬は二時間掛けて通ったものだ。
「そうだね。でも、スキー場とか大変じゃない? 雪がなくなると経営不振で生活できなくなっちゃうんじゃない? 旅行客が減って日本経済も心配だし……」
地元の俺よりもしっかり考えている。しかも、日本経済まで。このてるてる坊主の力が本物なら、ハルミに預けても問題ない気がしてきた。さっきまでの考えは訂正する。
「あ、そうだコウサク」
「ん、何?」
「今日の夜は何か予定あるの?」
ハルミはテーブルに肘を付き、顔の前で指を組んだ。
「いや、ないよ」
「じゃあ、ここで早めの夕食食べて帰ろう。いつも紅茶とコーヒー飲むだけだし、ね」
心の中で小さなガッツポーズをした。一度は帰ろうとするほど悪くなった機嫌が良くなったらしい。オレンジのテーブルクロスまであと十五分。俺の左、ハルミの右に窓がある席に向かい合って座っているのだが、もう俺の左側は多少オレンジになっている。
俺は二つ返事でメニュー表をハルミに渡した。彼女が決めた後、迷ったフリをして同じものを注文しよう。
ハルミは参考書でも読んでいるかのように真剣な顔でメニュー表を見ていた。優柔不断な女が多いと聞くが、彼女も例外ではなかった。
「よし、クラブハウスサンドにする!」
五分ほど悩んでから俺にメニュー表を渡した。思えば、ハルミの言うように、ここで食事をしたことがない。料理のメニューを一つも知らない。
受け取った俺は悩むフリをするついでに上から順にメニューを指で追った。店主がサインペンで書いたのであろう、いかにもおじさんが書きそうな味のある字で、ナポリタン、オムライス、トースト、喫茶店の定番メニューが並んでいる。その中に、広い高原に咲く一輪のエーデルワイスのように一際輝くメニューの文字が飛び込んできた。それは俺の地元のご当地料理、イタリアン。
食べたい、どうしても食べたい。ヨウタと知り合ったときよりずっと前から食べていない。東京にはないものだと諦めていた。あまりの恋しさに自分で作ってみたが、どうしても地元のあの味が再現できなかった。まさかここで出会うとは。
でも待て、重要なのはミラーリングだ。告白が上手くいく可能性を高めるためには、ハルミと同じものを食べなければならない。どうしよう。悩めば悩むほど、イタリアンに惹かれていく。
「すいませーん」
俺は手を上げてまた気を抜いている店員を呼んだ。
「クラブハウスサンド二つ下さい」
「かしこまりました」
誘惑に負けなかった自分を褒めてあげたい。帰ったら発泡酒じゃなくちょっと高いビールを開けよう。
「今日は私と同じだね。ヌワラエリヤティーにクラブハウスサンド。真似したでしょ?」
心臓が筋肉を突き破りそうなほど揺れた。何の気なしに言っただけだと思うが、突然言われると焦る。
「してないよ、たまたま」
「嘘だー」
「してないって」
ハルミは笑いながら紅茶を飲んだ。タイミングを合わせて俺も飲んだ。
「あー、なんか飲むタイミングまで真似してる! コウサク、なんか今日変だよ。どうしたの?」
さすが、鋭い。どうしよう、どうやってごまかそう。いっそのこと、「それはお前が好きだからだよ」と、赤ずきんを騙す狼みたいな言い方で告白してやろうか。どうせオレンジのテーブルクロスまであと五分くらいしか……え?
窓の外を見ると、空一面雲に覆われていた。ほどなくして数人の通行人が手の平を上に向ける。まさか、雨?
目をやると、ハルミも俺と同じように窓の外を見ていた。
「……」
「……」
まさかの光景に、二人とも開いた口が塞がらなかった。俺に関しては一日に二度も。
時が止まったように気まずい。てるてる坊主の力はやっぱり嘘だったんだ。何て声を掛けたらいいんだろう。ハルミは心ここにあらずといった感じで、窓の外に目をやったまま紅茶をティースプーンで何周も混ぜている。
「コウサク」
「ん?」
「てるてる坊主だけどね、言い忘れてたことがあるの」
嘘だった、と白状するのか?
「吊るしてから十二時間だけしか効果がないの。正確に言えば、吊るしてすぐ効果が出るんじゃなくて、二、三時間掛けて雲の流れを変えて、それから十二時間晴れるの。私は昨日、日付が今日に変わった後寝る前に吊るしたから、今効果が切れたんだと思う」
言い訳? おいおいマジか?
「あ、そうなんだ……聞いてなかったからびっくりしたよ」
戸棚のお菓子を勝手に食べたことがお母さんにバレた時の子どもレベルの言い訳。それを呈して帰られてしまわないよう、一応信じたフリをした。
雨のせいで、オレンジのテーブルクロスは見られなくなった。どうしよう、告白のタイミングが分からなくなった。そう思ったときだった。
ガランガラン。
「いらっしゃいませー」
入口のベルの音に目をやると、びしょ濡れの男が立っていた。突然の雨にやられたのだろう。店員がハンドタオルを渡した。気が抜けているように見えて、意外と気が利くのかもしれない。
「お一人様ですか?」
「はい。タオルありがとうございます」
あ、あの野郎……。
濡れた髪と普段掛けていないメガネで分からなかったが、よく見るとその男はヨウタだった。一体何しに来たんだ……?
「あの席でもいいですか?」
「あ、どうぞ」
俺と目が合うと、指定して俺たちの隣の席に着いた。ハルミの背中越しに俺たちの様子が見える席だ。
俺は思わず立ち上がった。
「どうしたの?」
「ちょっとトイレ行ってくる」
ハルミに告げると、ヨウタの席の方向にあるトイレに向かった。途中でのん気に座るヨウタの腕を引っ張って一緒にトイレに押し込んだが、背中を向けているハルミには見えていない。
「何しに来たんだよ?」
この店のトイレは便器一つに大きめの洗面台があって、広めに作られている。だからといって二人で、それも男同士で入るのはかなり不自然だ。まぁ、出る時のことは後で考えよう。
「お前の家に行ったらいなかったから、まだここなのかと思って。ここにいなかったらいなかったでここで久し振りに食事して帰ればいいやと思ってさ」
のん気な奴はある程度殴っても罪にならないという法律が必要だと思う。
「というか、お前がちゃんと告白できたか確認に来たんだよ。成功してたらお祝いに奢ってやろうと思って。失敗してたら居酒屋にでも誘おうかと。で、どうなの?」
俺は答えずに、壁に付いて寄りかかっていた右手を離した。ヨウタは俺のその仕草で察してくれたようだ。
「どうすんだよ? あんな可愛いコ、すぐ男できるぞ。見てびっくりしたよ、想像よりずっと可愛いな」
「今からするよ! 雨のせいでタイミングが分からなくなっただけだよ」
ヨウタは英語圏の人のように両手を広げて呆れたポーズをした。自分が情けない。ただ一言、「好き」と言うだけのことが何故できないのだろう。
「安心しろ、良い作戦持ってきた」
俺の肩をポンと叩く。
「どんな?」
「まぁよくあるやつだけど、俺がハルミちゃんに絡んだところをお前が助ける。『カッコイイー!』ってなってハルミちゃんはお前にべた惚れ」
五秒ほど時が止まった。こいつもメルヘンチックな能力を持っているのだろうか。
「お前……ものすごい昭和臭が……」
「昭和とか言うな! 作戦に古いも新しいもないんだよ!」
今度は俺が呆れたポーズをして、また右手を壁に付いて寄りかかった。
「とにかくそれはやめてくれ、演技とかできないし」
「難しくないって」
「いや、やめとこう、お願いだから」
「そうか……じゃあもうこうなったらタイミングなんていつでもいいだろ。今席に戻ったらそのまま告白しろ!」
心理学を研究している人間とは思えない発言。こいつ、完全に楽しんでいやがる。
でも、勢いをつけないと行動できないのも事実。俺は体育会系ではないが、後押しされると気持ちが高まるタイプではある。自分だけでは無理だ。
気付けば五分以上経っていた。そろそろ戻らないとまずい。男二人でトイレにいることもそうだが、ハルミにトイレが長いと思われるのも嫌だ。
俺が先に出て、一分後にヨウタが出ることにした。大して変わらないが、一応鏡を見ながら手櫛で軽く髪をセットして、ヨウタに一つお願いした。
「よし、ヨウタ、ビンタしてくれ」
「は?」
驚くヨウタ。まぁ無理もない。
「なんとか注入とかあるだろ、気合入れるんだよ!」
「……よし!」
ヨウタは二回手を叩いて、シーパンの腿の辺りをはたいた。
「行くぞ!」
「来い!」
ビターン!
「いってぇえええええ!」
「バカ、声がでかい!」
脳が揺れている。殴られた経験なんて数えるほどしかないが、今までで一番痛い。頬に触れると熱を持っているのが分かった。
「お前、限度があるだろ! なんかやってただろこれ、眩暈までしてきた……」
「ごめん、大学受験直前まで極真空手を……久し振りだったから加減が分からなかった。それよりやばい、今の大声で店員が来る。出ろ!」
ヨウタはトイレから俺を押し出した。ちょうど店員が小走りでこちらに近付いてきた。
「大丈夫ですか? 叫び声みたいなのが聞こえましたが……」
「大丈夫です、足を挫いて転んじゃって……迷惑掛けてすいません」
俺はそそくさと席に戻った。心配してくれたのか、おかしな奴だと思われたのか、他の客たちからの視線が痛い。
「大丈夫? 店中に声が響いてたけど……」
引かれてしまったか?
「うん、ちょっと打っちゃって」
俺は押さえていた頬をハルミに見せた。自分では分からないが、猿の尻みたいに赤くなっていることだろう。
「もう」
ハルミは腰を上げ、俺に顔を近付けた。相合傘をしたあの日と同じように、シトラス系のシャンプーの香りがした。
えっ……?
俺の頬に手を置いた。片手で、包み込むように。
「熱っ」
からかうように笑い、腰を下ろして元通りに座った。フルマラソンを完走した直後と同じくらい、俺の心臓は揺れている。
今だ、今しかない。
今の雰囲気とビンタの痛みで、かなり気持ちが高まっている。もう一度だけシミュレーションしよう。さりげなく、自然に、スマートに、「俺と付き合ってくれ」だけを言おう。
「ハルミ」
「うん?」
二、三秒の間の後、俺の口が『お』の形になった瞬間。
「失礼しまーす」
店員が手にマッチを持って立っていた。忍者からスカウトされてもおかしくないくらい気配がなかった。
店員は料理を乗せる台車のようなものからブランデーグラスを一つ取り、テーブルの通路側の端に置くと、中に入っているロウソクにマッチで火を点けた。
「しばらくしたら店内の照明を少しだけ暗くしますのでご了承下さい。ごゆっくりどうぞ」
ディナーの時間の演出らしい。ロウソクというより、キャンドルと言うべきなのかもしれない。窓の外にはいつの間にか夜の帳が降りていた。六時をとうに回っていたが、雨は勢いを変えずに振り続けている。
「わー、なんかいいね。キレイ」
キャンドルの火に目を奪われるハルミに俺は目を奪われた。ダイヤモンドというより、瞳に映る火の色からルビーのようだ。
「それで?」
「ん?」
「何か言おうとしてたでしょ?」
ハルミの屈託のない笑顔に、また気持ちが高まった。ビンタの痛みも、やっと名前を覚えたヌワラエリヤティーの味も俺から消え去った。
「あのさ」
「うん」
二、三秒の間の後、俺の口が『お』の形になった瞬間。
「お待たせいたしましたー、クラブハウスサンドお二つです」
店員が慣れた手つきで皿を並べた。二回目の邪魔、なんてタイミングが悪い奴なんだ。
「わー、おいしそう!」
「ごゆっくりどうぞ」
去る店員の背中を無意識に睨んでしまった。
また窓の外を見た。傘を持っていないのだろう、歩道にはフードを被って走る小学生や、バッグで頭を守るスーツの中年。向かいの靴屋の軒下には誰かに迎えの電話を掛ける水商売風の女。
雨は大嫌いだが、人間観察をしていると面白い。突然の雨への対策から見えるその人の性格。この一メートル四方の窓からさまざまな人間模様が伺える。
俺はあの日の相合傘を思い出し、頭の中の二人を窓のキャンバスにトレースした。この窓のすぐ近くを歩いて駅に向かった。傍から見たら恋人同士だったのかなと、乙女のような思考に自分で自分に吐き気がした。
「おーい」
ハルミは紙相撲の要領で、クラブハウスサンドの皿を爪でカチカチ叩いた。その音で我に返った俺は、ハルミに向き直してから一つ咳払いをした。
「やっぱりおかしい。またぼーっとしてる」
「ごめんごめん、さっきほっぺを打ったショックかも。とりあえず食べよう! いただきまーす!」
ごまかすように急いで雑に持ったクラブハウスサンドを齧った。生地が大きくて具が多いサンドイッチという認識だったが、食べてみると全然違った。この店オリジナルのソース、内側に塗られたバターの量の加減、あまりのおいしさに脳が味蕾以外の神経を断ったのか、時が止まったように数秒動けなくなった。店主までメルヘンチックな能力を持っているのだろうか。
今まではお茶していただけで夕方に帰っていたから知らなかったが、料理といいキャンドルの演出といい、俺の中でこの店の評価が上がった。
ハルミもおいしそうに食べている。齧る時に大きく開く口が妙に妖艶で、一瞬脳が局部に信号を送った。
「ねぇ、てるてる坊主の使い方浮かんだ?」
そうだ、そんな話をしてたっけ。雨が降った言い訳でこの話は終了したと思っていたところもあり、正直どうでもよくなっていて全然考えていなかった。さっきの雪の件以外に浮かぶ予感がしない。
「十二時間しか効果がないことの他に言い忘れてることない?」
こっちから質問してヒントを拾おう。真剣に答えることで俺の株が上がるかもしれない。こうなったら本気で考えよう。
「うーん、そうだなぁ……あ!」
ハルミは目線を上にして、握り拳の側面で手の平を叩いた。マンガなどの登場人物が何かを思い出したときにする定番の動きだ。
「普通に吊るすと晴れになるけど、逆さに吊るすと雨になるの」
なるほど、普通のてるてる坊主でもそんな話を聞いたことがある。
「それも踏まえて考えてみよー」
「簡単に言うなぁ」
ハルミが紅茶を飲んだので俺も合わせて飲んだ。忘れ掛けていたミラーリングだ。
俺は逆さに吊るした場合の使い道を、キャンドルの火を見ながら考えた。雨を降らすということは、雨が降って欲しい時に吊るすということだ。そんな場面はあるだろうか。
水不足だったり、農作物の不作で食べるものに困っている地域があればそこに降らす。砂漠を彷徨う人のためにオアシス代わりに降らす。
視野を広げれば人を救えそうなアイデアは出るが、ここは日本、現実的ではない。世界の何処かに雨を降らすなら、なるべくその周辺で吊るさなければならない。それは難しい。そのために飛行機嫌いで外国人嫌いの俺がなけなしの貯金をはたいて旅行するほど、世界平和に関心もない。
ここは科学研究所の一員として、理系らしく逆転の発想をしてみよう。晴れにする場面は、運動会、遠足、初デートなど。それらの日を雨にしたいのはどんなときだろう。
運動会を雨にしたいのは運動音痴の人。遠足を雨にしたいのは面倒臭がりな引率の教師。初デートを雨にしたいのは乗り気じゃないのに男の誘いを断り切れず勢いで付き合うことになった女。
人を救うという意味でも、面白いという意味でも、晴れにするより雨にする方がやりがいがある気がしてきた。自然と、晴れにするのはリア充を、雨にするのは非リア充を救うことになる。救うなら、非リア充であるべきだ。既に人生が充実している人間を救う必要はない。
俺は残り四分の一程度のクラブハウスサンドを一口で頬張り、飲み込んでから言った。
「よし、じゃあ運動音痴な小学生の男の子を探そう!」
「え? 何それ?」
うさぎのようにクラブハウスサンドを齧るハルミの頭上にクエスチョンマークが見えた気がしたので、さっきの考えを述べた。
「春に運動会をする学校も多いけど、もうすぐ体育の日だし、ちょうどいい時期だと思う」
「でも、どうやって探すの? パッと見て分かるものでもないんじゃない?」
「太ってる子は大抵運動音痴な気がする」
「こらこら、偏見だよ。そうかもしれないけどさ」
そもそも俺が運動音痴な小学生を選んだのはそこだった。面倒臭がりな教師は見た目で確信を持てないし、断り切れず付き合ったカップルはピアスを開けた金髪の男がおとなしそうな美女を連れて歩いていたらそれっぽい感じはあるが、確信を持てない上に、男から暴行を受けるリスクがある。
その点、相手が小学生ならローリスクで声を掛けやすく、なおかつ話を聞いてくれそうな気がする。
「どうやって声を掛けるかだね。いきなり、『君、運動音痴でしょ?』なんて失礼なこと言えないよ。場合によっては変人に思われて警報ブザー鳴らされるよ」
「そうだなぁ……『スポーツ好き?』でいいんじゃない? 運動音痴な子は嫌いって答えるだろうから」
「おー、さすが!」
ハルミは笑顔で小さな拍手をしたが、その目が何故か寂しげなのに俺は気付いた。視線は俺に向いているのに、立体視でもしているかのように遠い。いつも元気で明るいハルミと何か違って心配だ。俺の勘違いならいいが……。
「でも、それでも運動音痴な子を傷付けちゃうかもしれないよ」
突然視線を合わせて指摘をされた。
「だから、二人だけでできる使い方を考えようよ」
「二人だけで?」
「うん、二人だけで」
寂しげな目のまま俺と目を合わせた。潤んでいて、飼い主に何かを求めるチワワのようだ。抱いて頭を撫でて頬を摺り寄せて、その寂しげな目を楽しげな目に変えたい。
言いたい、好きって伝えたい……。
そんな女性シンガーソングライターのような言葉が浮かんだ。このタイミングで言わなかったらもうチャンスはない。そう思って気持ちを高めるんだ。
顔を上げると、いつの間にか席に戻っていたヨウタがおいしそうにイタリアンを食べているのが視界に入った。どこまでのん気な奴なんだ。
俺と目が合うと、口パクで「いま」と繰り返した。読唇術の憶えがなくても分かる。
さりげなく、自然に、スマートに、「俺と付き合ってくれ」だけを言おう。落ち着くために紅茶を一口飲んだが、苦手な味なのを忘れていて一瞬焦った。
そのお陰か、冷静になって思った。この流れだと、また邪魔が入るかもしれない。店員が食べ終わったクラブハウスサンドの食器を下げに来る頃だ。そう思った瞬間だった。
「空いてるお皿お下げします」
また気配を消していた店員がお盆に皿を乗せた。危なかった、この店員、何度邪魔をするつもりなんだ。
よし、これで邪魔は入らない。さりげなく、自然に、スマートに、「俺と付き合ってくれ」だけを言おう。心の中でカウントダウンをし、勢いをつけた。
「あのさ」
「うん?」
二、三秒の間の後、俺の口が『お』の形になった瞬間。
パチ。パチパチ。
スイッチの音とともに、店内の照明が全て消えた。窓の外の街灯と、テーブルの上のキャンドルだけの明かりになった。オレンジの光がテーブルの端から薄っすらと彼女を照らしている。ラブホテルにあるベッドのパネルでムードのある照明を選んだときのようで、一気に淫靡な雰囲気になった。
「え? 停電?」
「いや、スイッチの音がしたけど……」
他の客の声もあって、店内がざわついた。ヨウタはスマホの明かりで辺りを照らしていた。
誰もが店員に事情を訊こうとキッチンの方に目をやったとき、暗闇から火がこちらに近付いてきた。火はまとまって多数あり、近付くに連れて何か音が聞こえてきた。それは店員の声だった。
「ハッピバースデートゥーユー」
店主と思しきロマンスグレーの男と二人で歌っている。暗さに慣れた目で見ると、火の点いたロウソクが刺さった直径十二センチほどのバースデーケーキが運ばれているのが確認できた。客の誰かの誕生日なのだろう。
二人は俺たちの席の通路を挟んだ向かいの席を向いて止まった。二十代であろうカップルが座っている席だ。
「みなさま、ご迷惑お掛けしております。本日はこちらのお客様のお誕生日です。どうか盛大な拍手をお願いします」
おとなしそうな見た目とは裏腹に、かなり声量がある。拍手の中店員は続ける。
「お誕生日、おめでとうございます!」
パーン。パン。
店員と店主が同時に引いたクラッカーの音が鳴り響いた。それを合図に女の方がロウソクに息を吹き掛けた。一度では消えず、二度目で残った二本を吹き消した。
店内の明かりが点くと、彼女を祝福するように客全員がまた拍手をした。視線を浴びながら、彼女は全体に何度か会釈をした。
「なんかいいね、あの人幸せそう」
ハルミが憧れの眼差しを向けている。女はサプライズが好きだとよく聞くが、ハルミもその一人のようだ。
男の俺でも多少感動した。告白の邪魔をされた訳だけど、文句を言う気も起こらないくらい、素敵な演出だった。俺の中でのこの店の評価がまた上がった。何故か声を出して感動の涙を流すヨウタが目に入った。
今だ、今しかない。あのカップルのお陰で店内が温かいムードに包まれている。今なら流されて告白を受け入れやすくなっているかもしれない。頼りにならない心理学者の代わりに自分でそう分析した。さりげなく、自然に、スマートに、「俺と付き合ってくれ」だけを言おう。
「ハルミ」
「うん?」
二、三秒の間の後、俺の口が『お』の形になった瞬間。
「お姉さん、綺麗ですねー」
いつの間にかハルミの隣に立っていたヨウタが絡んできた。このバカ、まさかトイレで言っていた、『良い作戦』を……。なかなか言い出さない俺にイライラしたのだろう。邪魔が入ったことを言い訳したいが、もう遅い。
「なんとなく会話聞こえてたけど、この人彼氏じゃないでしょ? 俺と遊びに行きません?」
ハルミの頭の後ろの背もたれに肘を付き、俺を指して言った。ハルミはそれほど怖がっていない様子で無視している。
演技だと分かっていてもヨウタに腹が立った。店員に引き続き、まさかお前にまで邪魔されるとは思わなかった。でも、こうなった以上乗っかるしかない。このままにしておいたらハルミに俺がチキンに映ってしまう。
「おい!」
「あ?」
胸ぐらを掴んでみたものの、この後はどうしたらいい?
掴んだ拳で後ろに押し倒せばいいのか?
「やめろー!」
俺が戸惑っていると、店員が俺の手を払ってヨウタの胸ぐらを掴み、そのまま綺麗な払い腰を決めた。体育の柔道の授業で観た練習用ビデオのような美しさだった。
「出てけ!」
「いや、ちょっ……えぇ?」
ヨウタを怒鳴りつける店員。さっきまでの気だるそうな顔が格闘家のそれになっていた。
他の客の注目を浴びながらまたヨウタの胸ぐらを掴むとひょいと簡単に立ち上がらせた。『赤子の手をひねる』ってやつか。今日はやたらと慣用句や諺に縁がある。
「分かった、出ていきます! 出ていきますから支払いを……」
「いらねぇよ! お前みたいな奴の汚い金なんかに価値はねぇ! 二度と来るな!」
そう言うと店員は入口に向かうヨウタの鳩尾辺りにケンカキックをした。雨の中、よろけながらバツが悪そうに店を出たヨウタは、事情を知らない人から見れば食い逃げ犯だ。
パチ。パチパチパチパチ。
「いいぞー!」
「よくやった!」
「カッコイイ!」
店内の客がスタンディングオベーションで店員を讃えた。
「ご迷惑お掛けして申し訳ございませんでした!」
恥ずかしそうに言う店員。止まらない拍手で完全に雨音が掻き消されていた。
「カッコよかったねー、店員さん」
「うん」
一段落し、俺は沈んだ。今日のために告白のシミュレーションをし、飲みたくもない紅茶を飲み、イタリアンを我慢し、訳の分からないてるてる坊主の話に付き合い、自分で頼んだもののヨウタにビンタまでされたのに、何度も告白の邪魔をされた。
一人として悪気がないのは分かっている。悪いのは自分だ。邪魔が入る以外のタイミングでも何度も告白のチャンスはあった。その見極めができなかった自分が憎い。
気付けばもう九時を回っていた。変わらず降りしきる雨音がブーイングに思えて胃が痛くなってきた。
ハルミを見ると、また寂しげな目をして窓の外を見ていた。今は十一月だが、ハルミと窓の外の雨の構図が六月のカレンダーのようだ。部屋に飾って、七月になったら写真と日付を切り分けてポスターにしたいくらい様になっていた。
声を掛けたいが、今の俺には何も浮かばない。ただでさえ口下手なのに、沈んでいる今浮かぶはずがない。
「そろそろ帰ろうか?」
「え? あぁ、うん……」
これ以上一緒にいたらおかしくなってしまいそうだ。ハルミへの想いと告白へのモチベーションが反比例していて混乱している。冷たいと思われてしまったかもしれないが仕方ない。
「ごちそうさま! ありがとう」
「いえいえ」
支払いを終えて店を出た。今月の生活費がきついが奢った。貧乏学生なので普段は割り勘だったりするが、今日はそれくらいはしたかった。
ハルミはバッグから出した折り畳み傘を開くと、犬でも呼ぶかのように手招きした。
「ほら、入りなさい」
「あ、うん」
俺の指を開いて傘の柄を握らせた。指の神経が脳に心臓を揺らせと信号を送ると、あの日のことを思い出した。
「憶えてる? 一ヶ月前」
心を読まれたのかと焦った。
「うん、憶えてるよ」
「コウサク、あの日も傘持ってなかったよね」
からかうように笑った。
「だってそれは、天気予報が晴れだったから……あ」
そうだ、あの日の天気予報は晴れだった。その週はずっと天気が良く、雨の予報は一日もなかったと思う。
でも、まさか……。頭に浮かんだ疑問を思い切ってハルミにぶつけた。もし違ったらただの勘違い野郎だけど、もうやけくそだ。
「もしかしてあの日、逆さに吊るした?」
ニコッと笑い、数秒焦らしてから、吸い込まれそうな瞳を俺に向けた。
「やっと気付いたの?」