〜独白1〜
夏のある日のことだった。
僕が彼女を失ったのは。
一週間前に、僕は長く付き合っていた彼女にようやく結婚を申し込んだ。
彼女は快く受け入れてくれて、僕は小躍りして喜んだ。……その一週間後の悲劇も知らずに。
『また、明日』
僕と別れた後、彼女は事故に遭い…………遺体すら、帰ってこなかった。
あの時、僕が引き止めてさえいれば……。
会いたい。僕はずっとそう思いながら日々を過ごしていった。
彼女に会って、それから……。
〜独白2〜
夏のある日のことです。
私が事故で他界したのは。
一週間前に、彼に婚姻を申し込まれ、歓喜して受け入れた矢先のことでした。
……せめて、命が尽きる前にもう一度だけ彼と会って、謝りたかった。そして、お礼を言いたかった。
だけど私には、そんな時間すら与えられませんでした。
だから、死んだ身でありながら願い続けています。またいつか、彼に出会える事を。
そして四季は一巡し、夏を過ぎ――
赤い。
その世界は、一言で表するとなればそうだった。
赤一色というわけではない。それでも、赤の占める割合は、そのほとんどだった。
眼前に展開される光景。
地面には、埋め尽くさんばかりに彼岸花が咲き乱れ、その赤い花弁を誇っている。
どこまでも続く大地を、赤く染めていた。
少し視線を上げると、夕日が半分ほどその姿を隠している。
さらに視線を上げると、空は沈む太陽に茜色に染められていた。空を宛てもなくたゆたう雲たちもまた、その光を浴びて朱が差していた。
一言に赤と言っても、それぞれがオレンジに近かったり、真紅に近かったり、はたまた紫色に近かったりしている。
そんな場所に、僕は立っていた。
まるで身に覚えのない場所。
記憶をどれだけたどっても、こんな光景は見たことがなかった。
はっきりしているのは、ここが現実の場所ではないということ。
不思議な世界だった。
空を宛てもなくたゆたっているはずの雲は、その形を変えることもなくその場にとどまり続けている。
遥か遠くにある沈む日も、それ以上動いているようには思えなかった。
そしてなにより不思議なことがもう一つ。
目の前。少し離れた所に背を向けて佇む一人の女性。
その後ろ姿は、記憶にある大事な人物と重なっていた。
さぁぁぁぁぁぁ。
優しい風が吹いた――。
目の前を彼岸花の花弁が通り過ぎて行った。
風にさらわれた花弁はひらひらと宙を舞い、何処かへと運ばれていった。
「あ――」
目の前の女性が、こちらを振り向いた。
深海を映したような、深みのある色合いの瞳と目があった。
少し眠たそうな目つき。透き通った鼻梁。小さく形の整った唇はほどよい薄桃色。
腰まである長い黒髪は斜陽を浴びて少し赤みがかっていた。
背は高く、身に付けた白いワンピースから覗く手足はすらりと長く、その肌は色白だ。
今は戻らぬ日々の記憶の中で、要となっていた彼女の姿そのものだった。
あの時と、別れたあの日と全く変わらぬ姿で彼女はそこに佇んでいる。
「久し振り……ですね」
僕はただただ目の前の光景に言葉を失ってしまっていた。
「あなたは……変わってませんね」
そう言って、彼女はうれしそうに目を細めた。
「私、あなたに……紅耶さんに謝らなくてはなりませんね……」
なぜ。そう問い返す前に、彼女は頭を下げた。
「約束、しましたのに。ずっと一緒に暮らそうって。それなのに私は……その約束をかわして一週間もしないうちに」
「もういい。そんなことはいいんだ!!」
「――え?」
僕は彼女に最後まで言わせなかった。
僕は彼女を――昨年失った最愛の人を、この手でしっかりと抱きしめていた。
「もういいんだ……。そんなこと、気にしなくて、いいんだよ……」
「紅耶さん……」
彼女は少しためらった後、僕を抱きしめ返してくれた。
「苑美……僕は…………」
体を少し離し、二人で向かい合う。お互いの手はそれぞれの肩を離すまいと掴んだままだ。
苑美の姿がぼやけて、よく見えない。どうしてだ?!
「……………!!」
苑美が息を呑んだ。
すると彼女は僕を胸に抱きしめた。
「紅耶、さん……泣かないで、ください……」
……嗚呼、そうか。
僕の目が悪くなったんじゃなくて、彼女の姿が揺らいだのでもなくて、そう、ただ単に――涙が視界をぼやけさせたのか。
もう二度と味わえる事のないはずだった彼女の温もりを感じながら、彼女が今、確かにこの場所に存在していることに心の底から安心した。
と、僕の頬に、自分のそれとは違う滴が落ちてきた。
「苑美……?」
どうしたのだろうと、顔を上げるとそこには――
「私まで……私まで……うっ……うう……泣きたく、ないのに……涙が出て……きてしまうじゃない、ですかぁ………」
彼女が笑顔のまま涙を流していた。
みるみるその顔は歪んで、とうとう堪え切れなくなったのか、彼女の目からは大粒の涙が大量に零れだしていた。
僕は、彼女にそうしてもらったように、今度は自分が胸に抱いた。
「会いたかった。すごく会いたかった。離れたくなんてなかった。約束を守りたかった。ずっと傍にいたかった。死にたくなんて、なかったよぉ………」
彼女は胸の内にあった、生前伝えることのできなかった想いを吐き出してゆく。
「紅耶さんを悲しませたくなんて、なかったのに……。私、わたしっ! うっううっ……」
嗚咽交じりに伝えられるそれは、僕の胸の奥深くを温かくしてゆく。
僕は泣きじゃくる彼女の頭を優しく撫でて、背中をそっと擦り続けてやることしかできなかった。
「ごめんなさいごめんなさい死んじゃってごめんなさい。最後まで一緒にいられなくてごめんなさい。お料理もっと食べさせてあげるって言ったのに嘘ついてごめんなさい。何もしてあげられなくて、せっかく幸せになれると思った矢先に死んでごめんなさい。あなたの人生を狂わせてごめんなさい。心を傷つけてごめんなさい。迷惑ばかりかけてごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
彼女は謝り続けた。僕は止めなかった。止められ、なかった。
僕はただ、彼女がいてくれるだけでよかったのだ。
それがわかっているからこそ、余計に彼女は気にしているのだということが、痛いほどわかった。
「うん……うん………」
なんて無力なんだろう。彼女を守ることもできずに、泣いている彼女を慰めてやることもできずに、ただ相槌を打つくらいしか、黙って彼女の言葉を聞いていてあげることしかできないだなんて。
こんなにも僕のことを思ってくれているのに、僕にはなにもしてやれないだなんて。
悔しかった。ただただ悔しかった。情けなかった。
僕は、苑美が落ち着くまでずっと抱きしめていた。
それが今の僕にできる、唯一のことだったから。
「落ち着いた?」
「はい……」
彼岸花畑の中に僕たちは座り込んでいた。
肩を並べて、寄り添うように。
「ところで……さ。ここって、どこなんだろうね」
「………」
彼女は答えない。こことは違う、どこか遠くを見つめたまま反応を示さない。
「苑美?」
「え、ああ、はい?」
慌てたように振り向く彼女は、わかりやすい生返事をしてくれた。
「話、聞いて……たわけないか」
「聞いてました!」
「それじゃあ何の話かわかる?」
断言する彼女に、僕はつい意地悪してしまう。
「えっと……彼岸花は別名、曼殊沙華と言う……でしたっけ?」
「やっぱり聞いてない」
「ごめんなさい……」
「まーた謝ってる。苑美はさっきから謝ってばかりだよ?」
「……ごめんなさ……っ!」
また謝罪の言葉を口にしようとした苑美の唇を、僕は自分のそれで塞ぐ。
一瞬彼女は驚いて固まったが、すぐに目を閉じた。
長い口付けの後、僕はぽつりと呟いた。
「……どうしてだろうね」
「はい?」
苑美が「なんでしょうか」と首を傾げる。
「僕たちは、もうこうして会うことはできないはずなのに。もう二度と戻れない過去の時間においてのみ、有り得たのに。これから先、絶対に君に会うことはないんだって、僕はずっとそう思いながら過ごしていた……」
「私もですよ。もうあなたの傍にいられない。思い出の中でしか、二人一緒にいることはできないんだなと、思っていました。それなのに……またっ……こうして会え、うっ……」
「ほらほら、泣くなよ。……泣き虫なのも相変わらず、だね」
頭をくしゃくしゃに撫でまわしてやる。
苑美はくすぐったそうに目を細めて首をすぼめた。
「だって……会いたかったんですもの………」
本当、嬉しいことを言ってくれる。
そんな彼女が、たまらなく愛おしい。肩に手をまわして、引き寄せる。
「僕だって……会いたかったんだよ? だから、願った。ひたすら、君に会えるように願い続けていた。……あれ……おかしい……な?」
悲しくないのに。苦しくないのに。嬉しいのに。今この瞬間の僕は、確かに幸せなはずなのに。
「紅耶さん……?」
僕は知らないうちにまた涙を流し始めていた。
「どうやら、君の泣き虫がうつっちゃったみたいだ……」
なんでだろう。どうして、どうしてこんなにも……切ないんだろう……?
「ふふ……。これで……一緒ですね。涙も、お揃いです」
泣きながら、至福の笑みを浮かべるという器用なことを彼女はしてみせた。
僕にはそんな器用な真似はできなかったけれど、精一杯、ぎこちなくはあったが微笑み返した。
僕たちはしばらく、昔話に花を咲かせたり、たわいもない会話を続けた。
なんてことはない。死別する前の僕らが毎日のように送っていた日常が再び戻ってきたようだ。
ひょっとして苑美が死んだのは、悪い夢の中で、だったのではないのだろうか。
僕はそんなふうにさえ思った。
「夢……じゃないですよ。現実です」
苑美が悲しげに告げた。
「――――え?」
心の中を読まれたと一瞬焦った。――が。
「もう、ちゃんと聞いていて下さい……」
苑美は少し頬を膨らませて不満をアピールした。最後の方は、少し苦笑が混じっていた。
「ごめん。えっと……なんだっけ?」
「今私たちがこの不思議な場所でお話していることは夢ではなく現実です」
どうやら違ったみたいだ。
今は現実。ということは、苑美は……。
「紅耶さん。今ちゃんと言いましたよ? 現実だって」
今度こそ僕の考えは見透かされたらしい。
『現実……なんです………』
「苑美……どうしたの?」
苑美は何かを言ったようだった。でもそれは、僕には聞き取れないくらいに小さな呟きで、声は空が止まった世界に吹く風によって、さらわれていってしまった。
苑美は……今にも泣き出しそうな顔をしていた。
そして自分の腕を強く強く握りしめながら、唇を噛んで何かに耐えていた。
こんなときの苑美は……間違いなく悲しんでいる時だ。
僕は僅かに震える彼女の肩を抱きしめた。
「紅耶さん……」
「ん?」
「そろそろ……帰った方がいいみたい……ですよ?」
僕は「どういう意味?」と問いかけようとして、異変に気づいた。
彼女の――苑美の姿が、少し霞んで見えた。苑美だけじゃない。周りの風景全てがそう見えるのだ。
僕は目を疑った。
立ち上がって、とにかく目を細めたり大きく開いたり何度かごしごし擦ってからもう一度確かめても、結果は同じだった。
それどころか夕日と逆の方向では……景色が、消滅し始めていた。
天へと立ち上る、白い粒子となって。淡く光を放つそれは夕焼けのせいで仄赤く温かそうで、こんなときだというのに僕は奇麗だなと感嘆の吐息を漏らしていた。
「この場所は、役目を終えたのですね……」
苑美が僕の隣に立った。
「役目……」
「そう、役目です。私と紅耶さん。死者と生者を再び出会わせるという、役目。ここは導きの園というらしいですよ」
「なんで、そんなことがわかったんだ?」
「わかりません。ただ……ここはそういうところだと……思ったのです。頭の中に直接浮かんできたとでもいいましょうか……」
苑美は困ったように頬に手を当てて小首を傾げ、悩むそぶりをする。
「それよりも……ここが消えてしまう前に返らないと、紅耶さんは多分、一緒に消えてしまいます。あの夕陽に向かって走っていれば、帰れるはずです。だから……もう、お別れです」
「苑美……っ?!」
苑美に触れようとした僕の手が、彼女の体を擦り抜けた。
「私の方も、時間切れ……みたいですね」
「苑美……」
「そんな泣きそうな顔をしないでください。できるはずのなかったお別れを、きちんとすることができるんですよ? 最後くらい……笑って……ね?」
――何言ってるんだよ。……泣いているのは、君の方じゃないか……。
「最後だなんて言わないでくれよ! また、また会えるよ。僕らが望めば、必ず……」
口を開いてみれば、しょっぱいものが中に入ってきた。
「確かに……そうかもしれません」
そう言って、苑美は悲しげに目を伏せた。
「でも……あなたはもう、ここに来るべきではないと思います。だって、だってここは……私たちの、死者の領域だから……」
苑美の声は震えていた。
「そんな……そんなはず……。だって、君は、現実だって……」
信じられないというよりも、僕はただ信じたくなかった。
彼女の声が震えていたということは、嘘じゃないと思う。
「私にとってはそうですよ。あなたは……ただ、迷い込んでしまっただけです。このままここにいれば、紅耶さんまで死んでしまいます」
「構うものか!! それなら僕も死ぬ。あの世だろうが冥土だろうが、どんなにそこが広大な場所であっても僕は必ず苑美を見つけ出す……だから……」
「お気持はとっても嬉しいです。でも、あまり私を困らせないでください。私はこちらがわから、いつまでも紅耶さんを見守っていますから。だから……どうか精一杯今を生きて下さい。それが……私の最後のお願いです」
「……ずるいよ。僕が断れないのを知ってて……」
「それじゃあ……信じ続けて、くれますか? ――再会の時を」
「……信じ、続ける?」
苑美の言った言葉を繰り返し呟く。
「言いましたよね? ここは導きの園。時が来れば……それまでずっと信じ続けていればきっとまたここで……会え、ます、から……っ」
もはや触れること叶わぬと知っていながら、僕は彼女に口付けた。
もう……なんの感触もない。さっきまでの温もりは、どこへ行ってしまったのだろう。
「……私、幸せ者ですね……」
苑美が瞼を下ろすと、大粒の涙が押し出されて……その雫は地面に到達する前に――消えた。
この世界に残っているのは、僕と、夕日と、かなり薄くなってしまった苑美の姿と、真っ白で平坦な大地だった。
苑美が一歩身を引いた。
「それじゃあ……お別れ、です」
苑美の体が、足先から光の粒子となって消えてゆく。
「苑美! 信じるから。ずっと、信じ続けるから! またいつか君に会うために、僕は……僕は!!」
「……り……とう……」
――――紅耶さん……。
「……………」
苑美の姿は、消えてしまった。
最後のその瞬間、とびきりの笑顔という花を咲かせて。
彼女の口は「ありがとう」と告げていた。
消える間際に、名前を呼ばれた気がした……。
「――っ。ううっ……くっ。苑美―――――――――――――――!!」
僕は、その場で慟哭した。
しかし、いつまでもそうしているわけにはいかない。
すぐそこまで消滅は近づいてきていた。
「必ず……。約束だよ……」
僕は夕焼けの中へと、駈け出した……。
―――――好きだよ、苑美。
そして、視界が暗転した。
―――――私もです。紅耶さん。
駆けてゆく彼の後姿を見守りながら、光の粒子となってあるべき場所へと運ばれてゆく苑美は、彼の残していった心の呟きに、声にならない声を上げて泣いていた……。
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