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純粋な学園モノです。BLなどは全く意識していません。
空を見上げて
作:薫谷風子


     一 

「こっから落ちたら…やっぱ死ぬよな…」
そう呟いた自分の声が、思ったよりも現実味を帯びていて、蓮は一瞬驚いて目を見開き、しかしニヒルに笑った。
 一週間前に入学したばかりの高校の屋上で、フェンスをつかんでじっとグランドをにらむ。野球部の昼休みの練習の声が、蓮を不愉快にさせる。
「あんなことやったって…無駄だっつうの」
 奴らはどうしてあんなに熱くなれるんだろう。そう思ったところで、屋上のドアが鈍い金属音をたてて開いた。
「よぅ、レン。メシ食った? 焼きそばパン、カツア…いただいてきたぜ」
オレンジ色の短髪で、にかっと笑ってコンビニの袋を掲げてみせる、シンジだ。学ランの下に赤いTシャツを着ている。
「正直に言えよ、上級生から奪ったってよ」
そう言って後ろからシンジをドンと押したのは、長めの茶髪を後ろで束ねた、完全に私服のケースケだ。
 蓮は小さくため息をつき、面倒くさそうに聞いた。
「なに、お前また俺の名前使って先輩からカツアゲしたの」
するとシンジはやけにムキになって怒鳴った。
「ち、ちげーよ! 先輩がくれたんだよ!」
と、そこで三人目が登場する。浅野だ。
「あーはいはい、ところでレン、お前、こんなとこでぼーっとしてていーの?」
前髪だけ少し長くした黒髪の間から蓮をチラッと見、マルボロに火をつける。自覚のないキザ、浅野貴史。
「こんなとこって?」
蓮は面倒くさそうに聞き返す。
「お前、進学クラスだろ? 今頃みんな教室でベンキョーしてんじゃねぇの?」
「いーんだよ、あんなことやったって無駄だし」
…蓮たちの、いつもの会話だ。
嘲笑的に言った蓮のセリフを、シンジが屈託なく笑って引き継ぐ。
「そーそ、それに一般クラスの俺たちはともかく、お前のそのカッコじゃ、教室にいたって浮くだけだもんな」
「はは、ちげーねぇ」
蓮は浅野からもらったタバコをふかして、花曇の重苦しい空を見上げた。
 金に染めた髪と、右耳の三連ピアスが、風になびく。ボタンを外したカッターが風をはらんだせいで、髑髏のプリントが施された黒のTシャツが、あらわになる。腰にはチェーン。中学のころから穿いている、裾がボロボロの制服のズボンには、安全ピンがいくつも刺してある。北原蓮の、二年前からの、お決まりのスタイルだ。
 この格好と、だるそうな態度のせいで、先輩には常に目をつけられていた。その上進学クラスだというのに、屋上を一人占拠する蓮が気に入らなかったのだろう。中学のころから、蓮は先輩に呼び出されることが少なくなかった。そしてまた、先輩との喧嘩に圧勝してしまうことも常だった。別に屋上という戦利品がほしかったわけではない。しかけてこられて面倒臭かったから、その面倒ごとを片付けただけだ。
 くだらねぇ、蓮は思った。だが、そんな蓮をボス扱いして、サルのように群がる連中が出てきた。その中で特に喧嘩が強く、先輩相手に生き残ることができたのが、山下啓介、蔵本慎司、浅野貴史の、三人だけだった。
 別に社会からはみ出した者同士の熱い友情なんてものはない。なんとなく、つるんでいるだけだった。
 「あー! ケースケお前、それ俺の焼きそばパンだぞ!?」
シンジが二個目の焼きそばパンをほおばったケースケに、殴りかかっている。
「まーいーじゃねぇか、俺のやるよ」
…そう、ただなんとなく。
「お! いいの? レン太っ腹♪」
 だけど、それでもよかった。ガキの頃は、一人ぼっちだったから…
 別に無理して死にたくもないけれど、頑張って生きていたくもない蓮にとって、彼らは、なんとなく、レンの居場所みたいなものになっていた。失くした居場所の代わり…
(アカネ…)
 蓮は、焼きそばパンひとつで争える仲間を理解し難く思った。
(どーせ死んじまうのにな…)
 このくだらない世界で必死に生きたって、いつかはみんな死んでしまう。死んでしまったら積み重ねた努力も終わりだ。
 蓮はシンジたちに同情の目を向けた。だが、その寂しそうな眼差しに、羨望とも憧れともつかない感情が含まれていることに、金髪の少年は気付かなかった。
 と、チャイムが鳴る。
「お、もうそんな時間かよー」
シンジがパンを鞄に放り込み、いかにもつまらなそうに伸びをする。
「じゃ、行くか」
ケースケがかったるそうに言って歩き出した。浅野もそれを合図に、もたれていたフェンスから離れ、蓮に目で合図する。
「俺ら、いつものゲーセン行くけど、レンどーする? 五限出んの?」
「俺はここにいる」
レンは無機質に答えた。
 するとシンジが驚いたように、
「へ? ここってココか? 先輩に絡まれるぜ?」
蓮の肩に手をかけたが、蓮はそれを振り払って、
「いーからさっさと行けよ。俺を誰だと思ってやがる」
そう、少々苛立ちながら答えた。こう言えば、大体の奴等は立ち去る。
(俺なんかといつまでもつるむなよ。いいことねぇよ)
「おお怖ぇー♪ さっすが月夜叉」
シンジは歌うように言って背を向けた。他の二人もそれに従う。
「うるせぇ、早く行け!」
低く、ドスの利いた声で呟くと、歩き出した浅野が、振り向かずに手をひらひらと振った。
 そしてしばらくの後、屋上に静寂が戻った。練習をしていた野球部は既にいない。
 「つき、やしゃ…か…」
蓮はひとりごち、再び頼りないフェンスを握る。
 金髪がそよ風に弄ばれる。
 月夜叉。それはいつしか付けられた、蓮の異名だった。
 闇に浮かぶ月のように静かで、聡明。だがその金の輝きに抗うようなことがあれば、たちまちにルナのごとき視線と、静寂ともいえる拳で殺されてしまう。闇夜に独り佇む金の月は、一瞬にして赤く染まる。
 ただの不良なら、こんなばかげた異名などをとって、注目されることもなかっただろう。だが、蓮は天才児だった。
誰から習うともなく、小学四年生で既に微分積分が理解できた。小六のとき、暇つぶしにインターネットでアメリカのサイトを見ていたら、英語をマスターしてしまった。今ならきっと、有名な国文学者の論文だって何の抵抗もなく読むことができるだろう。
蓮は先天的に異様にIQが高い。だから、常に周囲の嫉妬と憎悪に耐えなければならなかった。小学校のクラスメイトは賢すぎる彼を気味悪がって、誰も近づこうとしなかった。だから、蓮には友達がいなかった。
彼は次第に非行に走るようになった。自分でばかげたことだとは思ったが、 まだ幼かった彼にとって、自分に貼られた天才というレッテルを剥がす方法は、それがベストに思えたのだ。
当然、風当たりはますます悪くなった。今まで蓮に媚を売っていた教師たちさえ、彼の担任をするのを嫌がるようになった。大人たちは、結局子供の外側しか見ていない。蓮の心の深いところは、誰も見てはいないのだ。過去の、たった一人を除いては。
 蓮は、曇天を仰いだ。
「アカネ…なんで死んじまったんだよ…」
 あんなに、あんなに頑張っていたのに。こんなにくだらない世界でも、彼女が頑張れば輝いて見えたのに。
 世の中捨てたもんじゃない、努力して泣いて笑って生きることは素晴らしいことだと蓮に態度で教えた、たった一人の女性。蓮が心から信頼できた、たった一人の人間だったのに。
「姉貴…」
(シスコンか俺は)
自嘲的に笑い飛ばそうと試みたが、胸の内が虚しくなって、言葉には出せなかった。
 空っぽになった胸を満たそうと、ズボンのポケットからダビドフを取り出す。浅野が吸っていたマルボロより、癖のあるタバコだ。
 百円ライターで火を点ける。と、その時。
 ギィ、バーンッッ!!
背後でけたたましい金属音をたてて屋上の扉が開いた。
恐らくは、畏れ多い先輩様方だろう。
「ちッ」
蓮は舌打ちをしてタバコを足でもみ消した。そして、
「シンジの言うとおりだぜ…」
ため息をつくように言って振り返ると、
「き、北原っ! はぁ、はぁ、だっ、な、何やってるんだっ!! ぜぇ、ぜぇ、早く、教室に、戻、りなさい…ふー、はー、はー」
多分見覚えのある、男の教師だった。かなり全速力で階段を上ってきたらしい、息も絶え絶えの様子で、蓮を注意した。
「授業中だぞっ! 英語の先生が、お前を、探、してたぞ!」
「はー…」
蓮は説教を受けるなり、わざとらしいため息をついた。
「んだよ、先公かよ。英語なんてやんなくたって解るよ」
すると男性教諭は、処置なしといったふうに額に手を置いて、首を振りながら言った。否、嘆いた。
「どうやらそうらしいがな。その格好で入試トップ合格したところを見ると。だけどな、北原、高校ってところは、出席日数も成績に入るんだぞ? 今から留年予備軍になってどうする」
蓮は彼に背を向け、水分をたっぷりと含んだ灰色の空を見上げた。
「別に、高校なんていつ辞めたっていいよ」
言霊はやけに空っぽで、仰いだ空とは対照的に、乾いていた。
「北原?」
「ところでさ、」
蓮はタバコに火をつけなおし、振り返る。
「あんた、誰?」
「んなっ…」
蓮の軽蔑的な視線に憤慨したのか、或いは名前を知られていなかったという事実にショックを受けたのか、目の前の教師は、大きく目を見開いた。
「お、お前、僕は、いや、先生はちゃんと自己紹介したぞ!?美術の時間に!」
「はぁん?」
蓮は普段喧嘩を仕掛けてきた相手を見るように、本当に面倒くさそうに彼を下から上へ順に見た。
 ナイキの白いスニーカー。黄土色のズボン。白いカッターシャツに緑のチェックのベスト。その上に羽織っている白衣には、絵の具がついている。社会人らしくすっきりと散髪された栗毛は、前髪がでこを隠し、童顔の顔が余計に幼く見えた。
「…………あぁ」
思い出したのか、蓮は無感動に感動詞を漏らした。
「りょーたか」
言ってタバコをふかす。すると、間髪いれずに怒鳴り声が返ってきた。
「上杉先生と呼びなさいっ!!」
それは、悲痛な叫び声といったほうが正しいかもしれない。上杉亮太。彼は今年で二十八になるが、持ち合わせた童顔と、いつも焦っている(少なくとも生徒たちにはそう見える)性格の所為で、なぜか毎年決まって「りょうた」とあだ名が付いてしまうのだ。この前の蓮のクラスの授業とて例外ではなかった。自己紹介をしたとたん、クラスのムードメーカー的存在の女子に、「りょうた君」と呼ばれてしまったのだった。
 そういうわけで、悲しいことに彼は、「上杉先生と呼びなさい」が口癖になってしまっているようだった。
 蓮はくわえていたダビドフを地面に落とし、足でもみ消しながら言った。
「へいへい、てかりょーた、なんで注意、呼び方だけなの」
「うえす…え?」
いつもの口癖を言いかけて止まる。
「俺、今、タバコ吸ってたの、分からなかった?」
蓮は挑発的に上杉を見た。
「え! うそ、てか、あ――っ!!」
上杉は蓮の上靴に踏みにじられたタバコにやっと気付き、ようやくのように注意しようとした。
「おまっ、タバっ、教師の、目の前で、そん、ど、な・・・はぁ!?」
出来なかった。
 (平和だな。…生きてるって…感じだな)
混乱している上杉を無感動に見つめ、蓮は茜を思い出した。
 上杉は後の祭りだというように短くため息をつき、蓮に背を向けた。入り口に向かって歩き出しながら告げる。
「まぁいい。……北原、」 
彼が“北原”と言ったとき、まるでその音を発音するのが苦しいんだとでもいうように、ほんの少しだけ顔をしかめたことを、蓮は知らない。
「あ?」
上杉は一瞬足を止めて呟くように言った。
「死ぬなよ」
心の中を勝手にまさぐられた気がして、蓮はドキッとした。
「あん? どーゆー意味だよ」
だが、上杉は、
「いや? ただ…ううん、何でもない」
そう言って鉄の扉を開きざま、蓮に切なげな笑みを返しただけだった。
「りょーた?」
 蓮は閉まりゆく扉に、訝しげに問うてみたが、返ってきたのは鈍い開閉音だけだった。
 桜の花びらが風に巻き上げられて屋上に舞い落ちる。
 彼はその場にドスンと腰を下ろし、俯いた。
「死ぬなよって…じゃあどうやって生きてけっつうんだよ…」
 月色の前髪をくしゃっと握り、
「くだらねぇんだ、何もかも…」
そして苦しそうに言の葉を吐いた。
「俺のイノチ、やりてぇよ、アカネ…」
人と違うだけで憎まれたり、疎まれたり。自分だって望んで得た能力ではないのに、その能力のせいで、人間の醜い部分をたくさん知ってしまった。こんなつまらない感情しか持たない奴らの中で努力して褒められて尻尾を振ってみたところで、いったい何の得になるだろう。いつかはみんな死んでしまうのに、どうして人を妬んでまで努力をしなければいけないのか。俺は姉のようには生きられない。姉の描く絵のような世界は、俺は見ることができない。こんな俺が生きているのに、どうして姉が死ななければいけなかったのか。
「もっと、頑張りたかったんだろ…?」
厚い雲を仰ぐ。受け取り手のない言の葉は、湿気を含んだ風に絡めとられ、虚しく宙を舞った。



      二

 灰色の校舎を出ても、蓮の気分は晴れなかった。最も、蓮の気分が晴れたことなど、茜が死んでからあったかどうか怪しいのだが。
 今夜も街は、無意味なネオンに満たされて空元気だった。みんな嘘の塊。しんどいなら、休めばいいのに。どぎついイルミネーションに照らされた疲れた笑顔は、醜いだけだ。そんなにくたくたになるまで制服やビジネススーツに縛られていたって、いくら努力をして地位や富を得たって、最後に待つのは、終焉だ。ジ、エンド。
 「…い、おい! レン!」
 と、聞き覚えのある声が、苛立ち気味に蓮を現実に引き戻す。
「え? あ、浅野。何?」
すると、
「画面」
浅野とは反対側にいたケースケが、あごでゲーセンのディスプレイを示しながら短く応えた。
 プレーヤー席にいた蓮は、『GAME OVER』の文字を認める。
 「…そっか」
そういえばいつもの溜まり場に暇つぶしに来てたんだっけ。
「何が『そっか』だ! 本気出せよてめぇ! それともマジでやるか!?」
向かい側で、対戦相手のシンジが立ち上がってガンを飛ばしている。蓮はぼーっとしていた自分が悪いとはいえ、いきなり喧嘩を売られ、怒りが頂点に達した。もとい、ぼーっとしていたのではなく、苛立っていたのかもしれない。全てに。
「あん!? てめ俺に勝てると思ってんのかよ。来いや、殺ってやっからよぉ!!」
蓮はゲーム機を蹴って立ち上がり、シンジのパーカーの胸倉を掴んだ。シンジもそれに応じる。
「ざけんな、誰が勝てねぇって? あぁん!?」
「てめぇだよ!」
蓮はシンジの顔を殴ろうとした。が、刹那。
『死ぬなよ』
(え?)
不意に上杉の声が頭に響いた。
 その瞬間、蓮はシンジの胸倉を離していた。
「おい、どうしたんだよ」
浅野が二人の間に割って入り、長い前髪の間から蓮を覗き見る。
(りょーたの声…やけに感情押し殺してるみてぇだったな…もしかしたらまだ言いてぇこと、あんのかもしんねぇな)
蓮はふぅと長いため息をつき、一度頷いてから言った。
「わり、俺帰るわ」
「は!? ちょっと待てよ、逃げんのかよ!」
シンジは自動ドアに向かって歩き出す蓮の腕を掴んだ。が、蓮はいきり立つ友人の手を振りほどき、無表情で返しただけだった。
「気分じゃなくなった。また今度な」
そしてそそくさとゲーセンを後にする。
「って、おいレン! レンって!」
「放っといてやれよ、シンジ」
「離せよケースケ!」
そんなやりとりが遠ざかってゆく。生ぬるい春の風が、蓮に絡みついた。それを振りほどきたくて、家路を行く足を速める。
(どーせ帰ったって、誰もいやしねぇのにな)
嘲笑的に思ったはずだったが、なんだか腹が立ってきた。
 朧月が蓮を照らす。
 蓮の家庭は、共働きだった。父は貿易関係の仕事をしていて、外国で暮らしている。ここ数年、会っていないし声も聞いていない。彼は茜の葬式の日にも、姿を見せなかった。喪主は母が務めた。その母は、とあるインテリアの大企業で働いているため、出張や会社に缶詰めすることが少なくなかった。蓮が幼いころからそんな状態だったため、蓮は本当に小さいころ、母を『ときどき家に来る人』として認識していた。父に至っては面影すらない。おそらく、今出会っても知らない人だ。
 その代わり、家にはいつも四つ上の姉がいた。彼女は、蓮のいちばんの理解者だった。周囲が遠巻きにする蓮を、彼女は優しい言葉で包み込んだ。それはまるで、蓮の心の深いところが見えているかのようだった。決して彼女は蓮を教え諭したりはしなかったけれど、蓮には彼女の存在が救いだった。彼女の描く、瑞々しくやわらかな風景画に、ずいぶんと救われていた。
 家に着き、靴を脱いで自室に向かう。と、ちょうどそこで雨が降り出した。濡れずに済んだと思いつつ、気分は最悪だった。こんな日は早く寝てしまうに限る。そう思ってドアノブをひねる。
「あ…」
 十六年この家に住んでいながら、こんなことってありえるだろうか。そこは、自室ではない、二年前からそのままにしてある、茜の部屋だった。
「俺、今日どうかしてる…」
一笑に付そうとしたが、その努力は空しく、声は震え、表情は凍りついて笑うことができなかった。
ドアを閉めようとした。しかし、なんとなく、蓮は入ってみる気になった。二年間、入れなかった部屋に。
 電気をつけると、壁一面に、茜の描いたたくさんの風景画が飾ってあった。どれも近所を描いた水彩画である。蓮には灰色にしか見えない風景が、まるで別世界のように、深呼吸したくなるような新鮮な色に彩られている。そのどれもが埃を被っていたが、画用紙一枚一枚から、茜の幸せな気持ちが、生き生きとした感情が、今も溢れ出ていた。
(こんな世界なら、住んでみたいって、思ったっけ)
そう思って改めて感じる。
(そうなんだ、俺が絵を見てそう思うんだから、実際に世界をこういう風に見て、その中で過ごしてたアカネは、俺なんかよりもっと、生きていたかったはずなんだ)
 それなのに。
 一台の大型トラックが、彼女の命を奪った。
 蓮が茜というフィルターを通して、やっと直視できていた世界は、理不尽だった。
 二年前の三月の、よく晴れた日。学校をサボって公園でスケボーをしていた蓮の携帯に、茜から電話があった。

                 *                  
―――蓮、聞いて! 市の展覧会に出した絵、入賞してね、全国への出品が決まったの!
 そう報告する茜の声は、弾んでいた。きっと相当な努力をして描き上げたに違いない。蓮は顔をほころばせ、正直に返した。
―――マジで? よかったじゃん。
―――うん! ありがとう。ところで蓮、中学校って今授業中でしょう?
―――げ。てかアカ…姉貴こそ高校授業中じゃねぇの?
―――私は美大に進路が決まったから自由登校なの!
―――そうだっけ?
―――いいから早く戻りなさい!
―――へいへい、わーったよ。
 本当に戻らないと面倒になるだろう。茜が蓮の担任に電話をするのだ。そして双方から説教をくらう羽目になる。そうなる前に戻ろう。
 そう思って電話を切り、蓮はスケボーを転がしながら学校へ戻った。そして教室の一歩手前まで来たときだった。担任が蓮の肩を乱暴に掴んで振り向かせ、冗談にもならない残酷な言葉を、告げた。
―――北原、落ち着いてよく聞けよ? お前のお姉さんがな、美術展覧会会場からの帰宅途中、事故にあってな…
―――…は? …で、どうなったんだよ…早く言えよ!!
―――今病院から連絡があってな…お姉さん、トラックに轢かれて…即死だそうだ…
―――…う、嘘だ…嘘だ! だって俺、さっきあいつとケータイで話したんだぜ? …死ぬわけねぇだろ? なぁおい、どうせまたアカネのいたずらだろ? 先生グルなんだろ? 何とか言えよ!
―――北原、これ、病院の住所と連絡先だ。
 そう言って担任が差し出した一枚のプリントの裏紙。蓮はそれをしばらく見つめていた。だってそれ以外、彼にどうすることができただろう。見つめているしかなかったのだ。理不尽な理由で視力を奪われた画家のように、全く急に声が出なくなった歌手のように、姉を失った証明書のような藁半紙を渡された蓮は、自分の身に降りかかった出来事を、理解するのに手間取った。
 そして一瞬の後。蓮は担任の手から紙を奪って駆け出していた。
 (姉ちゃん!!)
全く何年ぶりか分からない姉の呼び名を、蓮は心で何度も叫びながらスケボーをこいだ。
 病院の地下室に着いたとき、茜は制服を真っ赤に染めて、無残な姿で眠っていた。蓮とそっくりの端正な顔立ち――女性らしい大きな瞳や、いつも微笑んでいた口元も、当時の蓮と同じ黒色の、長い髪も、世界に瑠璃色の躍動を注ぎ込む魔法の右手も、醜い姿に変えられて、そこに横たわっていた。
 ―――おい、ふざけんなよ…起きろアカネ。こんなとこで何やってんだよ。なぁ、てめぇの描いた絵、全国に出品すんだろ? 東京行くんだろ? そんで賞状もらって、担任に報告して、美術部で打ち上げやって、卒業式出て、美大の入学式に…姉貴…まだてめぇは夢叶えてねぇだろ? あんなに真剣にキャンバスに向かって、毎日帰りも遅くて、部屋でも一生懸命勉強してたじゃねぇか…俺には出来ない努力、ずっとしてきたじゃねぇか!! てめぇが積み重ねてきた笑いや涙は、何のためだったんだよ! 答えろよアカネ! まだ死ねないだろうがよ!!
 死ぬ、という言霊を口に出してしまった蓮は、はっと目を見開いて息を呑んだ。そこで、本能的に自分が茜の死を理解してしまったことを理解する。
 絶望、という言葉が、蓮の脳裏をかすめた。
―――…違う…アカネ…ほんとは、俺のために生きてほしいんだ…俺一人では、見えすぎてしまう…社会の暗黙の仕組みってやつが…怖いんだ、現実が…お前の筆で、もっと綺麗な世界を見せてくれよ…じゃないと生きていけない…こんな、こんな灰色の世界の中に、俺一人残して逝くんじゃねぇよ…姉ちゃん…ちくしょおぉぉぉぉっ!!
 蓮は吼えた。狼のごとく。逆立てた短めの黒髪を両手で掴んで。
一度も泣いたことのない蓮の目から、涙がこぼれた。

               *

 「これ…母さん、結局残したんだ…」
蓮は額に入った一枚の賞状が目に入り、その前に立った。
『全国美術展覧会 総合三位 北原茜 「望郷」』
この賞状が届いたのは、ちょうど四十九日の法要の日だった。蓮はせっかく茜が努力して貰ったものだから一緒に埋めようと言った。母は茜の生きていた証を見たくないから埋めようと言った。それを聞いた蓮は、そんな理由なら残せと言ったのだ。それがここにあるということは、普段めったに会話などしない息子がめずらしくした意見を聞いたらしい。
 その賞状の横に、全国三位をとった「望郷」は飾られていた。その作品を、蓮は茜の死んだ日に初めて見た。見に行って後悔した。もっと早くに見に行って、直接感想を言えばよかった。それは、風景画ではなかった。茜が描いた最初で最後の、人物画だった。蓮の絵だったのだ。
 まだ髪の黒い頃の蓮が、自室の出窓に腰掛けて月を眺めている。まるで彼が月の使徒のようだ。
 「アカネ、こんなの、いつ見て描いたんだよ」
当然、返事は返ってこない。分かっていながら、しかし蓮は、後ろに蓮を見つめる優しい視線を感じた。いや、感じたかっただけかもしれない。
 とても幻想的な水彩画。聡明で冷徹な月の光が、蓮を残酷なまでに浮世離れさせている。だがしかし、見る人に不思議と愛情を感じさせる。きっとこの絵の作者は、この月を想う少年を、とても愛しく思っているのだろう、そう思わずにはいられない作品だ。
 ―――俺が月ならアカネは太陽だ。
蓮はこの「望郷」という絵を初めて見たとき、そう思った。
月は太陽に照らされなければ輝けない。太陽がなければ、地上の万物に存在を知らしめることさえ出来なくなる。無力な存在。聡明であるがゆえに孤独なムーンチャイルド。
 「そういや俺、あの日から金髪にしたんだっけ…」
前髪を軽く掴み、思わず呟いてしまう。
 あの日、それは二年前の、茜の葬儀の日。蓮は髪を脱色することによって、自らの存在を皆に知らしめた。「望郷」が太陽の残した最後の光なら、月は永遠にその光を受け止めていよう。北原蓮は月の使徒。それがアイデンティティでかまわない。光がある限り、月は生きてゆける。この世に存在してゆける。
 『死ぬなよ』
上杉の言葉が再び脳裏で蘇る。この言葉はきっともっと意味を持っているはずだ。蓮は「望郷」を見つめ、そんなことを、考え始めていた。

      三

 翌日、一限目終了のチャイムが鳴り響く廊下を、蓮は美術室に向かって歩いていた。ちょうど進学クラスの美術の授業が終わった時刻だ。いつもの蓮なら、こんな早い時刻に登校していることはまずありえない。
 南舎一階の一番奥、美術室のプレートを見つけ、彼はぶっきらぼうにドアを開く。ガラス戸が、存外に大きな音で騒いだ。
 中に入ると、生徒のいなくなった教室で、上杉が提出されたラフ画をまとめているところだった。
ひとつのことに熱中すると他のことは目に入らなさそうなタチなので、とりあえず声をかけてみる。
「…おっす、りょーた」
すると、予想通りの言葉が返ってきた。
「だから上杉先生と呼びなさいって何度も言ってるだろう。って、北原?」
上杉はラフ画から顔を上げ、金髪ピアスその上半分私服の少年を、さも意外そうに眺めた。
「どうしたんだ、今頃。もう授業終わったぞ」
「んなこと知ってるよ」
「は!?」
生徒の爆弾発言に、上杉は一瞬フリーズする。それを横目で見ながら、蓮はばつが悪そうに言った。
「だから来たんだ。…ちっとな、訊きてぇことがあんだよ。りょーたに」
「聞きたいこと? なんだ、授業のことなら答えないぞ? ていうかもうすぐ二限始まるだろ。放課後また来いよ」
「…………」
「それとも、今聞かなきゃならないことか?」
「…この前の、『死ぬなよ』って、屋上で…あれ、何?」
「なんだ、それか。気になってたんだ」
上杉は微笑んで、筆を片付けながら言った。
「お前があんなとこで『世の中つまんねぇ』って顔してたからだよ。そんなの見たら誰だって死ぬんじゃないかって…」
「誤魔化すなよ!!」
蓮は気がついたら叫んでしまっていた。自分の声の大きさに、自分で驚く。
「あ、と…そんなんじゃ、ねぇだろ? もっと深い意味で言ったんじゃねぇの? てか、なんか知ってるだろ、お前、俺のこと。それとも、俺の思い過ごし?」
上杉はまだ微笑んでいた。しかし片付けの作業は中断している。
 彼は穏やかに蓮を諭した。
「北原、人に質問するときはまず人の話を聞いてからにすべきだよ」
 蓮が少しふて腐れた表情をするのを見取って、上杉は続けた。
「つまり、授業に出ろってこと。今月の課題は『思い出』。来週までに提出だ」
「…ったく、教師っぽいこと言いやがって…やだね、美術には、絶対出ねぇ」
蓮はイライラを言葉に託して吐き捨てた。
 上杉は蓮をじっと見つめて聞き返す。
「どうして」
「決まってんだろ? 嫌いだからだよ」
上杉はまだ蓮をじっと見ている。蓮は仕方なく白状した。
「…やなことを、思い出すんだ。美術は。……悪りぃかよ」
すると、上杉からは予想外の言葉が返ってきた。
「お姉さんの、ことかい?」
「え…?」
予想外といっても、全く予想しなかったわけではない。だがこのタイミングは、少々敏感すぎやしないか。この美術教師は、いったい何を知っているのだろう。
蓮の反応で何かを察知したのか、上杉はちょっと下を向いて、諦めたように何度も軽く頷き、生徒用の椅子に腰を下ろした。
「分かったよ、北原。話すよ。“月夜叉”には話しておく必要があるのかもしれないな」
蓮は、皮肉や憎しみのこもらない『月夜叉』という発音を、初めて聞いた。けれど、
「そんなんじゃねぇよ…」
蓮の胸は、ちくりと痛んだ。
 頭上のスピーカーからは、二限開始のチャイムが降り注いでいた。

    四

 上杉はそのまま前を向き、話し始めた。蓮はその横の机に立膝で座っている。
 「先生…いや、僕は、四年前新任教師としてこの学校に来た。そのとき初めて受け持ったクラスの生徒の一人が、北原茜。君のお姉さんだ」
上杉の話す口調は穏やかで、言の葉を紡ぐ毎に自分で傷ついているような、そんな微笑で話し続けた。
「担任で、美術部顧問だった。お姉さんは放課後よくこの美術室に来てね…友達と楽しそうに絵について喋ったりしていたよ。夕刻が過ぎて他の部員が帰っても、お姉さんは熱心に絵を描き続けていた。そうやって僕と二人っきりになると、彼女はよく君の話をしていた」
「俺の話?」
「ああ。だから君のことはよく知っている。先天的に異常に高いIQを持っているが故に、努力を知らない可哀想な子だ、ってね。彼女が言っていた。私は天才じゃないし、友達もたくさんいるから、あの子の気持ちを判ってやれない。だからせめて蓮の好きな絵を描き続けるんだ、って。・・・なぁ北原、これだけ彼女に想われていながら、どうして前向きにならない。どうして周囲から目を逸らし続けるんだ」
それは、教師としての質問ではなかった。
 蓮は吐き捨てるように呟いた。
「周りの奴らから拒絶したんだろ。そんな奴ら、見てやる義理もねぇよ。あとの奴らは偽善者かバカかどっちかだ」
 蓮はシンジたちを思い出して苦笑した。
「ま、バカとつるむほうが気は楽だな」
「それが、君の、北原蓮のホントの気持ちなのか?」
「はっ、何真面目んなってんの? マジだよ」
「ホントに? 君は、逃げてるだけじゃないのか?」
 ニゲテイル。蓮は嘲られた気がして、しかし怒りを抑えて言った。
「逃げてんじゃねぇ、諦めたんだ。積極的に生きることを。アカネが死んでからは特にな。だって、まともに見れるわけねぇだろ、こんな薄汚れた世の中なんて。嘘つきの巣窟じゃねぇか。…俺は、アカネが照らす世界なら、まともに見ることができた。一生懸命勉強も部活もやって、夢叶える努力して、輝きながら生きてたあいつが絵に描いた風景だから、輝いても見えた。なのに…って、俺なんでりょーたにこんな話」
してんだ、と言いかけ、それは上杉の言葉に遮られた。
「北原、お前が美術を遠ざけてる理由はそれか?」
今度は教師の質問だった。
「ああ。勘いいのな。やな思い出、って言ったよな。あいつ、最後の作品で俺の絵描いたんだ。あいつが死んで四十九日の法要の日、その絵の賞状が届いたよ。なんで今更、って思った。もうあいつは生きて入賞を喜ぶことはないのにってな。死んじまったら努力もおわりさ」
「『望郷』か…懐かしいな」
「タイトルまで覚えてんだ」
「ああ。お姉さん、よくその絵を描きながら言ってたよ。あの子は賢すぎるから、小さなころから人間の汚いところとか分かってしまってたけど、あの子にはあの子なりの努力の仕方があるはずだって。君は、それを見つけようとはしないのか?」
「んなことできっかよ! なんでも分かっちまうのに!」
蓮の叫びは痛切だった。
「姉貴が生きてたころは頑張ってもみたさ。姉貴の風景画っていう幻想見ながらな。けど…憧れてたもんが急に理不尽なかたちで壊れてみろよ! 俺のやってきたことはなんだったんだって、それよりももっと、姉貴のやってきたことはなんだったんだって、思うじゃねぇか…急に夢から覚めたみてぇに、全部がアホらしいんだよ!!」
蓮は自分でも驚くほど、激昂していた。だがこれは上杉に対する怒りではない。
 上杉は立ち上がった蓮を冷静に見つめ、静かに反論した。
「違う。お前は逃げたんだ。夢から覚めたんじゃなくて、夢の中へ。それも、自ら悪夢の中へ」
「…んだと?」
蓮は上杉を睨んだ。しかし。
「僕も、そうなんだ。夢の中へ…現実が重くて、逃げたんだ。僕が君のお姉…いや、茜を、殺したんだ」
上杉はよほど気持ちを振り絞る必要があったのか、片手はネクタイの結び目を握り締めていた。
「てめ…何言ってんだよ…あれはただの交通事故…」
「そう、交通事故だ。僕があのとき彼女を一人で帰したりしなければ、彼女は死なずに済んだ…僕がこの手で守ってやれたのにな…」
「りょーた?」
呼びかける声は震えていた。
上杉は生徒用の机に肘をつき、うなだれた。
「好きだったんだ。茜のこと。彼女も僕のことが好きだった。これは偶然彼女の日記を盗み見て知ってしまったんだが、だけどそれには気付かないふりをしていた。だって僕は彼女の担任で、顧問だから。けど…こんなことになるなら、くだらない常識なんて無視して、一度くらい、恋人らしいこと、してやればよかったなって、後悔している。僕は担任としても男としても失格だ…」
上杉は力なく、だが嘲笑的に呟いて蛍光灯を仰いだ。蓮はそのとき、自分を嘲笑するということがどんなに格好の悪いことかということに気付いた。
(俺はいつもこうやって逃げてきたのか…?)
 と、そこで二限終了のチャイムが鳴る。
「さ、北原、もう行きなさい。そろそろ国際クラスが授業に来る。先生が生徒をサボらせたなんて知れたら、職員会議じゃ終わらないからね」
上杉亮太は、いつもの美術教師に戻っていた。
蓮は複雑な面持ちで、一度だけ上杉のほうを向き、
「…話してくれて、さんきゅうな」
じゃ、と言って、グランドに面する窓から飛び出した。
 蓮が歩き出そうとすると、背中から声をかけられた。
「北原!」
「あん?」
「感謝されついでに言っとくけど、茜の日記、お前のことも書いてあったぞ。そこは彼女が見せてくれたんだ。残してあるなら読んでみるといい。もう、お姉さんを悲しませるようなことはするな」
「…おぅ、さんきゅう、りょーた」
「上杉先生と呼びなさい! それから、三限に出なさい!」
もう、普通の日常だった。ただひとつ違うのは、童顔美術教師の叫びを背に、自然と笑みがこぼれていたこと。
(お前の好きそうなタイプだ、アカネ)
家に帰ったら茜の日記を見よう。苦しかったのは一人じゃなかった。彼が前向きに生きようとしているのなら、自分だってもう一度青い空を見ることが出来るはずだ。そのための、ヒントが欲しい。もう、諦めることは諦めよう。
 帰宅途中、登校してきた浅野と校門ですれ違った。
「あれ?レン、早ぇな。で、もう帰り? 今シンジとケースケがピザパンとコーラ持ってきてくれる予定だぜ?」
(こいつら、相変わらずくだらねぇ遊びしてんのな)
邪気無くそう思って、なんだか心があったかくなる。
「悪りぃな、浅野。また遊ぼうぜ」
蓮は浅野に背を向け、ひらひらと手を振る。
こいつら、バカだけど、心まではバカじゃねぇよな。最高だぜ。
「おい、レン! お前このごろ付き合い悪りぃんじゃねぇの!?」
「まぁな♪」
仲間の苦情を背に蓮は、青空を自分の目で見るための道のりを歩いた。

    五

茜の日記は、美術の教科書と並んで、勉強机の本棚に立てかけてあった。オレンジ色のチェック柄の表紙。きっと名前の『茜』に由来しているのだろう。
「あいつらしいや」
蓮は、持ち主を無くした日記帳を慎重に開いた。
 そこには、絵に関する事柄や上杉との思い出(といっても部活での些細な出来事だが)などが、一日も抜けることなく書き綴られていた。それに混じってときどき、蓮に向けて書いたであろう詩があった。
  きみはまだ知らないけれど、世の中って素晴らしい。
  自分から追いかけてごらんよ。きっと捕まえられる。
  この文をきみが読むことはないだろうけど、
  この気持ち、届いて欲しい。だから私は描き続ける。
  私たちが生まれ育った、私の大好きなこの町を。
さらにページをめくる。と、急に絵が描かれたページに往きついた。満月のデッサンだった。横には『望郷』というタイトルの詩が書かれていた。
「これって…」
  月のように、賢者であれ
  月のように、闇を照らす勇者であれ
  茜雲に陽が沈んでも、強く輝く皆の希望であれ
  君ならきっと大丈夫
  私が決して届かない遠くへも、君は歩いてゆける
 (そうか)
蓮は思った。
「はは、なんだ、そうか、月って、そういうことかよ」
自分がバカらしくなる。あまりにバカらしくて、笑えてくる。
(俺は勘違いしてたんだ…)
 いつしか付けられた月夜叉という異名。聡明で冷徹な月光。孤独な闇の覇者。けれど、太陽に照らされなければ輝けない…今までそんな風に思っていた。そして周りから畏怖の目で見られ遠ざけられ、それを自分でも納得していた。姉亡き後、髪を金に染めることで、自ら異名を受け入れ、強がった。だが、間違いだった。
 (アカネはそんなこと思ってあの絵を描いたんじゃない)
 どんなに暗い夜も、その授けられた聡明さと勇敢さで切り開け。蓮ならそれが出来るはずだ。そう、彼女は言っているのだ。蓮の天才という能力を羨望することも忌み嫌うこともなく、蓮の背中を優しく押している。
「闇を照らす勇者であれ、か…」
なんだかメルヘンじみて恥ずかしいよ。そう思いながらも、蓮の頬には暖かいものがつたう。二年前の悲しみと悔しさとは全く違う、生まれて始めて経験する、涙だった。
「もっと早く言えよな…」
そう呟いて次のページをめくる。すると…
「あ…これ…」
彼はそのページを読んで、あることを思いつく。
「りょーた、俺の姉貴はてめぇを恨んでねぇと思うぜ」
蓮は含み笑いをし、そのページに付箋を付けた。

   エピローグ

 「はぁ!? 留学ぅ!?」
新緑の美しい、よく晴れた午後。屋上にシンジの声が響き渡る。
「るっせぇな。…ま、違うけどそんなようなもん」
蓮は肩をすくめて答えた。髪を黒く染め直し、少し長めだった襟足も切っている。制服も、カッターまできちんと着込んでいた。
「またどーしてそんな急に…」
浅野が信じられないといった風に訊く。
「あぁ、まぁな。留学っていうか、アメリカの医学研究の盛んな大学に編入するんだ。で、こっちの高校は、やめる」
「やめるぅ!?」
「大学っておま…俺らまだ十六だぞ!?」
普段黙って会話を聞いているケースケが、驚いて立ち上がる。 が、蓮は、それがどうしたというように飄々としていた。
「ま、受かんだろ。あの程度の問題なら。親父がさ、今仕事でロスの別荘にいるんだけど、空き部屋使わねぇかって。だから、来週の月曜、ロスに行く」
 最後に会ったのはいつだったかも思い出せない父親。自分の娘の葬儀にも来なかった父親。その父親が、蓮が留学すると電話を入れたとたん、親子で住もうと言い出した。魂胆は判っている。日本人である蓮がこの年で大学に留学して、世界的に有名になれば、彼の株も上がる。彼にかかれば息子だってビジネスの道具なのだ。以前の蓮なら、それは憎むべき手段であり、彼は憎むべき人物だった。だが、今は違う。
 (そっちがそういう魂胆なら、こっちだって利用するまでだ)
父親が仕事で得た名声と待遇を、フルに活用してやる。
「来週の月曜って、あと三日じゃん!?」
「ずいぶん早ぇのな」
シンジとケースケが反応する。
「なんでまた急に?」
浅野が訊く。
 蓮は五月晴れの空を見上げ、ポーカーフェイスで答えた。
「うん、まぁ、俺なりの努力ってやつ?」
「げー、イヤミなヤロー」
シンジは親指を下に向けて顔をしかめる。
「あーあ、わっかんねぇよなー。俺たちタダの不良にはよー」
「だったらてめぇらも勉強しろ」
明晰すぎる頭脳に対して嫌味や悪口を言われたって、今なら冗談で終わらせることが出来る。受け流してしまったほうが楽なんだと、やっと気がついた。
 今まで力に逆らいすぎた。あまりに多くのものを拒否し続けて、あまりに多くのものの本当の姿を見ようとしなかった。自らの手で自らを、月夜叉の名の下に闇に葬ってしまっていた。だが、月は夜叉なんて畏ろしいものではない。月は、闇を照らす賢者だ。たとえ世界が闇に支配されても己の剣を振りかざすことの出来る勇者なのだ。
 茜は蓮がそうなることを願った。そしてあの絵を描いた。それが太陽の遺した最後の光なら、自分はそれを受け継がなければならない。今度こそ、自分自身で立って生きていくために。そして、茜が愛した彼に、敬意を持って感謝するために。
 グランドでは、野球部がバッティング練習をしている。彼らは甲子園まで行けるだろうか。
 蓮は仲間に背を向け、グランドを見つめながら呟いた。
「…元気でな。死ぬんじゃねぇぞ…」
浅野が、ふ、と笑って蓮と肩を組んでくる。
「また遊ぼうや」
「いつでも帰って来いよ」
「俺ら、ダチだろ?」
後ろでケースケとシンジの声もした。
 嗚呼、五月の風が、吹き抜けていく。いい天気だ。
「ああ」
蓮は彼らに初めて、自信に満ちた、嘲笑的でない笑みを返した。

               *

一週間後。
「ふー…。とうとう北原は一度も美術の授業に出ずに行っちまったか。課題も一度も提出せずに、って、もう関係ないか」
茜色の夕焼けに染まった美術準備室で、上杉がさも残念そうに呟く。と。
「あれ?」
普段大事な資料しまっておくための引き出しを開けた上杉は、裏返しにしまってある絵と、見慣れないメモ、それと見慣れすぎたノートを発見した。
「これ、茜の…」
メモと一緒にノートを手にする。
 メモには、こう記してあった。
『りょーたへ。提出遅くなったけど、これ、課題の『思い出』の絵。俺の思い出じゃないけどな。姉貴の、思い出になるはずだった景色。俺には、これくらいしか綺麗な思い出なんて描けねぇよ。ずっと灰色の空を見てきたから……じゃな、りょーた。いろいろさんきゅう。その日記、りょーたが持ってなよ。そうそう、付箋したとこ読んどいてな。北原』
 上杉はメモ書きのとおり、付箋のページを開いた。茜が亡くなる前日の日付の日記だった。
『ねぇ先生、もしも私の絵が全国に行くようなことがあったら、そのときは二人で東京に行こうね。まぁ、部費で遠征ってことになるんだろうけど(笑)。東京に行ったら、言いたいことがあるんだ。きっと先生はいい返事をくれるって確信してる。もうすぐ私は卒業するしね。そしたら、先生のこと、亮太って呼んでいいかな?みんなが呼んでるような意味じゃなくてさ……好きだよ、先生。何度も書いて、まだ言えないけれど。』
 上杉は黙って日記を閉じた。
「ごめんな、茜…」
彼女を守れなかった罪悪感と悔しさとで、胸がちくりと小さな悲鳴を上げた。
 上杉は唇を噛みしめて、「一-七 北原蓮」と書かれた画用紙を裏返した。
「あ…」
 上杉と茜が、美術館のとある絵の前で、手をつないで笑っている。幸せそうな恋人のように。床や壁は、夕焼けに染まっている。茜色だ。見つめている絵のタイトルは、『望郷』。
 思い出になるはずだった、過去。だがその空想の過去は、上杉に未来を見ているような錯覚を起こさせた。まるで、茜の声が聞こえてくるようだ。
「もういいよ。そんなに苦しまないで、私は充分幸せだったよ」と。
「あいつ…さすが、弟だな…上手いじゃないか…」
そう呟いた上杉の頬には、夕陽を受けて輝く涙があった。
 彼はここにきて初めて、北原茜の死を、素直に悲しむことができたのだった。
 太陽が沈み、空が闇のヴェールをまとっても、それを嘆いてはいけない。歩き続けよう。決して道の暗さに目を逸らさず。朝が来るのを待ってはいけない。自分の手で火を灯すんだ。そうすれば、世界は自ずと回転するから。陽はまた昇るから。明日を生きる勇気を持つんだ。賢者であれ。

                               完


大学のサークル第一作目として書いたものです。
今思えば、全く論理性のない論を展開してしまったのでは、という反省があります。
しかしながら、高校を卒業したてで書いたものですので、三年経った今より断然学校の描写がリアルに描けています。そんな過去の自分にビックリです。早く何でも書けるようになって、自分の思いが上手く形に出来るようになりたいと思います。













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