第六話/十月二十八日
『それじゃあ行ってくる。』
靴箱の鏡で服装を整えると、夫は言った。
「行ってらっしゃい。今日もいつも通り?」
私はハンカチを渡しながら言う。
『うーん、今日はちょっと遅れるかも。あれだったら先に食べてて良いよ。』
夫は眉をひそめ少し考えてからそう答えると、サンキュ、と言ってそれを受け取り鞄に入れた。
「うん、解った。…行ってらっしゃい。」
笑顔で手を振ると、夫は照れた様に少しはにかんで外へ出た。
バタン、とドアが閉まる。
私は振っていた手を下ろし、パタパタとスリッパを鳴らしながらリビングへと戻った。
ソファーに座ると急いでテレビのチャンネルを変え、朝の星占いをぼうっと眺める。
夫はたいていいつも同じ時間に出勤するので、見送った後にチャンネルを変えるとちょうど星占いになるのだ。特に占いを信じている訳では無いのだが、何となく気になって見てしまう。
占いの存在理由なんて、どうせそんなもんだろう。
「……射手座は五位、かぁ…。………微っ妙ー。」
私は一人くすくす笑う。中の上。満足するにはには低く、悔しがるには高い、そんな順位。
「何なに?ラッキーアイテムはベイエリア…?…うーん残念、今日は一日家に居る日なんだよなぁ。山ならまだ近くにあるのに。」
誰に言う訳でもなく、一人テレビに応答する。
住んでいるマンションはいわゆる住宅街という所に有るのだが、夫の要望でその中でも山に一番近いマンションを借りたのだ。車で五分も掛からない内に麓へは着く。
休日に何度か二人で登山をしたり、ロープウェイで登って山頂の小さなレストランでディナーをしたり、その山にはちょっとだけ思い入れが有るのだ。
「……ベイエリア、か……。」
私は海に面したアウトレットモールを想像する。
60年代や70年代のアメリカ風にデザインされた、煉瓦や木で作られた店がズラッと並び、色とりどりにディスプレイされたお洒落な服屋や雑貨屋についつい目を奪われる。
天気は秋晴れ。海面はきらきらとダイアモンドダストの様に輝き、独特の湿っぽさと匂いを含んだ海風が髪をばさばさと弄ぶ。
私はそこで人を待っている。
誰を?
………あの彼だ。
私はいつもの様に想像を始めた。ここ最近、回数が朝、夕方、夜の三回に増えている。
前までは夜だけで事足りていたのだが、最近ではそれで物足りなさを感じてしまう様になってしまったのだ。
先週までは夕方と夜の二回。しかし今週になってからは、ついつい朝も耽ってしまい三回になってしまった。
内容は前と異なり様々。家事を終え休んでいる時にふと目に映った事が鍵刺激となって、彼との逢瀬を引き起こす。
今回はベイエリアでの逢瀬だ。
……………………………………
相変わらず、海風が髪を弄ぶ。十月も末になると、海辺なのも手伝ってもうすっかり寒い。
「気合い入れてスカートなんか履いてくんじゃなかったなぁ…。」
顔に掛かる髪を直しながらボソッと呟く。
ロングブーツを履いているが、風のせいで足元がとても寒い。待ち合わせ時間の五分前に着く様に出て来てしまった自分の性格を少し恨む。
時間はちょうど待ち合わせ時間になる。
辺りを見渡すが、まだ彼らしい人は居ない。
……彼はたまに遅刻してくるので、もしかしたら今日も遅刻するのだろうか。私はちょっと苛々する。
《ぽんっ》
いきなり肩を叩かれて、私は飛び上がる。
慌てて振り向くと、彼がにこにこ笑いながら立っている。いつもと同じ、相変わらずくたびれて色の落ちたジーンズに汚れたハイカットのスニーカー、上着はロングTシャツに茶色いジャージを着ている。
何だか流行を取り入れているのか、着回しているのか解らない格好である。
『すんません、驚かせちゃいました?』
彼はへらへらと笑って言う。
…何だかその表情を見るだけで、こちらも知らない内に笑顔になってしまう。
これが恋なんだろう。
「いいえ、大丈夫よ。」
私は笑って答える。
「それより………」
私は彼をじろじろと上から下まで眺める。
「………その格好って、流行を取り入れてるの?」
単刀直入に尋ねると、彼はへへっと笑って
『いやぁ、こんな所に着てくるモンが無くて…。箪笥引っ掻き回してようやく見つけたんすよ、これ。』
と、恥ずかしそうに答える。
私は何だか彼のお母さんにでもなった様な気がして、そんな彼に何かしてあげたいと思う。
「………ね、ちょうど洋服屋さんがあるし、新しい服、買いましょうよ。」
と言うと、
『いや、いいっすよ、全然!第一そんな金無いし、俺の買うより優香さんの服買った方が服もきっと喜ぶし!』
彼は手をぶんぶん振って遠慮する。
ちなみに優香とは私の名前だ。彼の名前は亮太という。私達は名前で呼び合っているのだ。
………まぁ、実の所、私は彼の名前を知らないので、仮に夫の名前を付けているのだが。
何故夫の名前にしたのかは自分でも解らないけど、多分どこか夫に対して後ろめたさを感じているのだろう。
「何その理論!」
私は笑って言う。
「お金なら大丈夫、ブランド物とかじゃ無ければ買ってあげられるくらいは持ってるわよ。」
ちょっと偉そうに言って、自分の胸をぽんっと叩く。
『いや、でも………』
と渋る彼を引っ張って、私はめぼしいお店へと突入する。
まるでマネキンや着せ替え人形の様にあれやこれやと試着させ、彼を少しずつ完成させていく。
彼は意外とおちゃらけた性格の様で、私がうろうろとかごを持ちながら服を探していると、変なおっさんが描かれたTシャツをこっそり紛れ込ませたり、ギラギラした帽子を被っては
『俺、アイドルに見えますか?』
等と尋ねたりする。
いきなりで気を悪くしたかと少し心配していたので、そうやっておどけてくれるのが凄く嬉しい。
何軒も服屋をはしごして、ようやく彼が完成する。私の好みで申し訳ないが、少し大人な、かっちりした格好をして貰う。
見込んだ通り、服装を整えた彼は別人の様に見えた。
私達はカフェへ入り、一息つく。
『………疲れました!』
アイスコーヒーを一気にごくごくと飲み干すと、ぷはぁっと息を吐きながら彼は言う。
「ごめんね、引きずり回しちゃって。」
私は目線を落として言う。
『や、良いっすよ、全然。むしろ俺の方こそすんません、何から何までして貰った上に全部買って貰っちゃって。』
彼は上着を触りながら言う。
アウターには黒の、コーデュロイのジャケット。中には縦に細いストライプが入った襟付きシャツ。
ズボンはあのジーンズでも良かったのだけど、ついでに一本新しく、黒に近い濃いめの色をした少し細身のジーンズを。
靴は少しくすんだ光沢を持つ革の黒い靴。先が尖り過ぎると場末のホストみたいになるので、四角いめのいわゆる普通のデザインの物にした。
一番注意した点は【それぞれ別々に着回せる様に】という所だ。全部合わせるとかなり痛い出費になってしまったが、彼の為なのでしょうがない。
仕上げに薬局のワックスで髪を整える。すると彼は見違えた様に大人っぽく、そして格好良く見えた。
私はそんな彼を前にして、頬杖を付き、微笑みながら満足気に言う。
「良いのよ、ほんとに。……でも、本当に格好良くなったわね。」
『そ、そうっすか?…嬉しいっすね、優香さんにそう言って貰えると。』
彼は少し赤くなる。
「本当よ、見違えた。」
私はテーブルに置かれた彼の手を軽く包む様に握った。
『………有難う。』
彼は私の目を見てそう言うと、手を握り返す。
……………………………………
そこでハッと我に帰った。
星占いはとうの昔に終わり、続くニュースもいつの間にかエンターテイメント情報を流している。
「しまったっ……!」
私は大急ぎで朝食の片付けを始める。すっかり想像に耽ってしまった様だ。テレビから考えて、多分一時間近く耽っていたのだろう。
がちゃがちゃと泡まみれの茶碗がぶつかり合う。
最近こんな風に家事を忘れて耽ってしまう事が多い。
いけないと思いつつ、また夕方には性懲りもなく想像するのだ。
「やばいなぁ、私……。」
茶碗を洗いながら呟く。
まだ想像の余韻が残っている様で何だかふわふわする。
「………その内、四六時中考えてたりして。」
苦笑しながら一人ごちるが、冗談じゃなく本当になってしまいそうで、背筋がすっと寒くなる。
「…痛っつっ!?」
水仕事のせいで左中指の先がひび割れてしまったみたいだ。
その痛さでようやく意識がしっかりする。
手を良く拭き、薬を塗ってから防水の絆創膏を張った。
絆創膏の屑をごみ箱に捨てながら、私は大きな溜息をつく。
「このまま想像の虜になってしまったらどうしよう。」
段々と、自分で自分が恐ろしくなってくる。
前までは
「そんな馬鹿な」と笑い飛ばせていたのだが、こんな状態を目の当たりにすると、もう笑ってはいられない。
「………やっぱり減らそう。」
私は、よしっ、と気合いを入れて断言する。
その傍らでは、ニュースが新しく出来た海辺のアウトレットを紹介している。
私は迷いを断ち切る様にテレビの電源を消し、洗濯へと取り掛かった。
さっき確かにごみ箱に捨てたはずの絆創膏の屑が、一つ、ごみ箱の横に落ちたまま置き去りにされていた。
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