第三話/八月二十七日
八月に入ってからは、夫の親類との旅行や帰省、お盆の墓参り等で色々と忙しくしていたせいで、その内段々と新聞配達の男の事を忘れていった。
『先月のは、多分ちょっとした気の迷いだったんだろうなぁ』
私は一人納得して、夏の暑さにやられながらも何とか生活を続けていた。
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今日は地元の友達が夏フェスの帰りにこの近所まで寄ってくれるというので、私は早起きして支度をしていた。
夫にも今日の事はちゃんと知らせてあるし友達の事も知っているので、まさか不倫だ浮気だと勘違いしたりしないだろう。
夫は朝の見送りと夕食の準備が間に合ってさえいれば、他の事に対してはかなり寛容の様だ。
いつもの様に夫を見送って、急いで後片付けと洗濯を済ます。
今日は久しぶりにきちんと化粧をして、お気に入りのミュールを履こう。
そう考えると、まるで独身の頃に戻った様でとてもワクワクしてきた。
私はキャミソールに、薄手のふわっとした、裾にレースが付いたキャミワンピースを重ねた。そして例のお気に入りの華奢なミュールを履く。
化粧も下地からしっかりして、更に髪もコテで巻いた。
さながらどこかのお嬢様の様な格好だ。多分人妻に見える事は無いだろう。
私は玄関の姿見の前に立ち、一言『よしっ』と言って、家を出た。
外に出ると一転、真夏の直射日光はとても厳しい。
私は日傘を深目にさした。
すぐ横をスクーターが通り過ぎたが、私は目も遣らず歩き始めた。
友達に予定が入ってしまい新幹線を三本繰り上げて帰らなければならなくなったので、予定より大分早く切り上げて私は帰宅した。
凄く残念だったが、それでもとても楽しく充実した時間を過ごす事が出来た。
友達と合流した後はイタリアンレストランに入り、昼間だけど二人でワインを呑みながらランチ。その後は百貨店で夕飯のおかずをワイワイ一緒に選びながら買った。
まだ少しワインが残っている様で何だかとてもうきうきする。
時計を見るとまだ四時を少し回った所なので、夫が帰るまでにはきっと抜けているだろう。
マンションへ入ろうとすると、何だか見覚えのあるスクーターが停まっている。
『………誰のだっけな』
そう思いながら自動ドアの前に立った。
すると、同じタイミングで中から人が出て来た。
例の新聞配達の男だった。
『あっ……!』
先月私を襲った感情が、再び首をもたげる。
「ねぇ……ちょっと!」
今から考えると何て大胆な事をしたのだろうと顔が熱くなるのだが、昼間の酔いが手伝ったのか、私はその男を大声で呼び止めた。
『は?…俺っすか?』
若い男は大儀そうに振り向く。間違いなくいつも眺めていた男だ。
「そう、貴方。えーっと……この辺りの新聞を配ってるみたいだけど、貴方、大学生?」
何も言いたい事なんか無かったのだが、声を掛けてしまったのだから話を続けなければならない。私は適当な事を聞いた。
『はぁ、まぁ、そうっす。』
男は怪訝そうに答える。
「この暑い中ご苦労様。…あっそうだ、貴方、今時間有る?暑いでしょ、お茶でもいかが?」
いったい何て事を言っているんだ、私は。
だけど、考えるより早く言葉が口を突いて出てしまう。
『時間はありますけど……そんな、悪いですし良いです。』
当たり前だ、不審な行動にも程が有る。よもや下心が有るとすら思われているのではないか?
「そう…。ごめんなさいね、こないだたまたまお見掛けして、それ以来ずっと大変だなって思ってたの。あの、どうか変に思わないでね。気を悪くなさらないで。」
私は慌ててまくし立てる。更に変に思われたかもしれない。
私は気まずくなって、俯いてしまった。
するとスクーターのエンジンを切る音が聞こえ、それに続いて思いがけない台詞が聞こえた。
『…や、良いっすよ全然。むしろ、気遣って貰えて嬉しかったっす。』
若い男は照れ臭そうに、はははは、と笑う。
……この笑顔。
何故か真剣にその笑顔を見つめてしまった。
「………そう?それなら良かった。」
我に帰り私もつられて微笑む。
「アルバイト、大変ね。今何年生?」
気を良くした私はそのまま尋ねた。
『一応三年っす。……まぁ、一回ダブってんので今二十ニなんすけど。』
男はばつが悪そうに笑いながら答える。
「あら、一年多く勉強なんて大変ね。」
調子に乗ってからかってみた。
『そう、ほんと大変っすよ。親にめちゃめちゃ怒られるわ、仕送り減らされるわで。だからこうやって新聞配達のバイトも始めたんす。』
男は流れる汗を拭きながら答える。
この季節、日が完全に暮れるまでは充分暑い。
「あはははは、それは自業自得って言うんでしょ?」
私は笑いながら時計を見た。今は四時半、そろそろ配達に戻らないといけない時間だろう。
「ごめんなさい、すっかり話込んでしまって。もう四時半だけど、時間大丈夫?」
『あっ、それはちょっとヤバいっすね。じゃあそろそろ配達戻ります。それじゃあ。』
男はスクーターのエンジンを入れた。
「それじゃあ配達頑張ってね、ダブりの大学生さん。」
私が言うと、男は苦笑しながらスクーターに跨がった。
私が手を振ると、ダブりの大学生は『有難うございました』と言いながら軽く会釈して、そのまま走り去った。
スクーターが角を曲がるまで見送った私は、何とも言えない温かな気持ちで新聞を取ると、鼻歌を歌いながらエレベーターへ向かった。
その晩、えらく上機嫌な私を見て夫が『えらく楽しかったんだな!』と笑いながら言った。
「凄く楽しかった。あの子も全然変わってなかったし、昼間っからワインがぶがぶ呑んで。」
私は刺身を皿に盛りながら答える。
「後ね、今日は新聞配達の大学生と話しちゃった。」
夫が新聞から顔を離し、私を見る。
『…新聞配達の大学生?』
怪訝そうに尋ねた。
「先月かな、何度か見掛けてたんだけど、今日たまたまマンションの入口で出くわしてね。……あ、ご飯出来たよ。」
私は夫を呼んだ。
夫は『おう』と返事をして、新聞を畳んで食卓へついた。
《いただきます》
と二人で声を揃えて言う。
「ごめんね、今日は出掛けたから買ったお惣菜ばっかになっちゃった。」
と私が言うと、夫は
『良いよ、別に。…ところで、その大学生とはどうなったんだ?』
と聞いた。
「あ、そうそう。それでね、今日暑かったじゃない?その子凄くしんどそうだったから声掛けたのよ。近頃の子ってもっと無愛想だと思ってたんだけど、意外とちゃんと話の出来る良い子だった。」
私は刺身に手を伸ばしながら言う。
『……もしかして、惚れたんじゃない?その大学生にさ。』
夫はニヤニヤしながら言ってきた。
「あはははは、違うよ大丈夫。私の好きな人は貴方だけですから!」
私が茶化してそう言うと、夫は
『相変わらず、口が上手いよなぁ。』
と笑いながら返した。
その夜布団に入りながら、私は今日の事を思い返してみた。いきなり
「お茶でもどう?」
なんて、やっぱり不審だったなと猛反省する。
だけど、まさかスクーターのエンジンを切ってまで答えてくれるなんて思ってもみなかった。
ふと、夫が言った『惚れたんじゃないの?』という言葉が頭をよぎる。
私は何故かドキドキしてしまって『無い無い、そんなまさか!』と一人自問自答しながら勢い良く布団を被った。
私はドキドキを静めようと目を閉じる。
もやもやした暗闇の中に浮かんできたのは、眩しい太陽の下で照れ臭そうに笑う、一人の若い男の顔だった。
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