ムギワラギク
「あなた、結婚するの?」
突然かけられた声に、小太郎は飛び上がった心臓を慌てて抑えつけた。悲鳴をあげなかったことが不思議なぐらいだ。
すっかり加速してしまった血の巡りに逆らうかのように、ゆっくりゆっくりふり返る。
黄の着物の、小さな少女が立っていた。
こんな野原の真ん中に。人間など、めったに来やしないのに。
「お、オイラは……その、ええと」
小太郎は懸命に言葉を探した。なにしろ、隠密行動の真っ最中だったのだ。
変に思われたに決まってる。いったい、どうやってごまかそうか──そんなことは無理な話だという結論に行き着くことができないほどに、混乱していた。
隠しようがないのだ。
このあたりの人間にはない黄金色の髪と、同じ色の瞳。それだけなら、どうにかなったかもしれないけれど。
決定的に、人間にはないものが、あった。
同族内からも羨望の眼差しを向けられるほどの、立派な尾。髪や目と同様、やはり黄金色に輝くそれは、野生とは思えないほどの整った毛並みを惜しげもなくさらしている。
狐──人間の言葉でいうのならば、妖狐ということになるのだろうか。
「ねえ、結婚するの?」
しかし、目の前の少女は、そんなことにはまるで頓着していないようだった。大きな瞳をまたたかせることもしないで、問いをくり返す。
小太郎は面食らいながらも、馬鹿正直に答えた。
「し、しないけど」
「しないの? でもあなたのそれ、モンツキハカマってやつよね?」
聞き慣れない言葉に、小太郎はせわしなく目をまたたかせる。ああ、狐たるもの、人間のことを熟知しておくべきだと、族長がいっていたのに。勉強不足がこんなところで祟るなんて──
確かに小太郎は袴姿ではあったが、紋がついているわけではなかった。とはいえ、小太郎はそこまで人間の文化に明るくない。少女の言葉に、うろたえるばかりだ。
「これよ、これ。これって、花婿様の衣装でしょう」
埒があかないと判断したのだろう、いらついた表情を隠そうともせずに、少女は小太郎の着物を引っ張った。
やっと、小太郎は理解した。この着物が、結婚という誤解を与えてしまっているようだ。
「ちがうんだ、これは……そのう、通りを歩いていた人間の行列の、その先頭の旦那が、あんまり幸せそうだったから。同じ格好をすれば、オイラも、おんなじになれるんじゃないかと思ったんだ」
ちがう、だけにとどめておけばよいものを、小太郎はいらないことまで白状してしまっていた。いってしまってから、口を押さえる。自分はいま、いったい、なにを口走ってしまったのだろう?
「ふうん、そうなの……。うん、でも、ちょうどいいわ。結婚って、ちょっと素敵な思いつきだわ」
しかしそれでも、小太郎の動揺など、少女には関係ないことのようだった。
両手をうしろで組んで、少女は値踏みするように小太郎をねめ回す。きっかり一周、あらゆる角度からぐるりと見て回り、元の位置に戻ってくると、満足そうに微笑んだ。
「あなた、あたしと結婚しましょう。それがいいわ」
文字通り面食らって、小太郎は絶句した。
結婚。
何からどう考えればいいのかすらわからない。種族が。いや、歳の差が。そもそも、出会ったばかりで。いや、それ以前の何かがあるような気がする。
「どうして、結婚なの」
まず質問から始めた。少女は誇らしげに胸を張った。
「永遠だからよ。結婚って、永遠を誓い合うものなんでしょう? あたしは、永遠でありたいの。だから、結婚するのよ」
これ以上ないぐらいの、完璧な解答だといわんばかりに、少女は満足そうな顔をしている。
小太郎の疑問は、増えていくばかりだ。永遠だから、といわれても、どういうことなのかわからない。
「ええと……オイラ、くわしいことは、わかんないけど。キミが、もし本当に永遠に憧れていて、結婚したいと思っているなら、したい相手としたほうがいいよ」
思考を巡らせながら、どうにか絞り出した答えだったのだが、いっているうちに、それでまちがいないという気になった。そうだ、結婚は、したい相手とすべきだ。その点は、種族が違ったって、変わらないはずだ。
「そもそも、キミは、どうして永遠でありたいだなんて」
きっと、彼女が結婚などといいだすのには、わけがあるのだろう。そう思い、そっと問う。
「あたし、家出してきたの」
「家出?」
突拍子のないことの連続で、小太郎は今度こそ飛び上がった。
「どうして、家出なんか」
少女は、不機嫌そうに頬を膨らませた。触れてはいけない部分だったのかと小太郎はたじろぐが、そもそも家出といいだしたのは少女の方だ。辛抱強く、彼女の言葉を待つ。
少女は、長く息を吐き出した。
「……永遠なんてないって、知ってるわ。人間がね、父さんや母さん、ともだちもみんな、連れて行ってしまったの。人間に連れて行かれると、いまよりも長い時間が与えられるのよ。けど、そんなことしたって、せいぜい一年か二年、命が延びるだけ。自分ではない自分になって、その姿で少しだけ、長らえるだけ。だったらあたしは、自分らしく、自分のままで、最後まで生きていたい」
小太郎は、少女の言葉に注意深く耳を傾けた。それでも、いっていることの半分も理解できなかった。
わかったことは、一つ。彼女が、人間という言葉を口にしたということだ。ならばこの少女は、人間ではないということになる。
小太郎は、何もいえないでいた。返答を求めているわけではないのだろう、少女は続けた。
「永遠なんてないって知ってるけど……ううん、知ってるから、だからね、永遠が欲しいの。こころのなかの永遠でいいの。あなたを見つけて、話しかけたのはただの興味。でも、これって運命だわ」
そういって、少女は歯を見せて笑った。
花が咲いたみたいだ、と小太郎は思った。
なんて無邪気に笑うのだろう。いっていることは、わからない。わからないけれど。
「ねえ、キミはたぶん、もう永遠を手に入れているんじゃないかな」
少女は、大きな瞳をさらに大きくした。
小太郎を見上げ、ただ不思議そうに、どうして、と聞き返す。
「少なくとも、オイラのなかに一つ。もう、キミの永遠があるよ。オイラはもう、キミのことを忘れない。こんなに輝いている笑顔を見たのは、初めてなんだ」
少女は答えなかった。
ひどくゆっくりと、目をまたたかせ、それから身体中の力を解放するかのような、柔らかい笑顔を見せた。
「それって、素敵ね」
泣きそうなほどの笑みだった。小太郎は思わずどきりとして、なんだかうしろめたいような気持ちで、慌てて頭を掻く。
少女の笑みに、何かの形で応えたいと思った。そうだ、気の利いた贈り物でもあれば。
小太郎は周囲を見わたした。一面に続く野原。ほんの少し向こう側で、たくさんの黄の花が、こちらを向いて微笑んでいる。
ムギワラギクだ。人間が観賞用にと、乾燥させて保存するのだと聞く。そんな技術はないけれども、あの花を贈れば、少女はもっと笑ってくれるだろうか。
「ねえ、キミ──」
弾む気持ちで、少女に向き直る。
しかし、小太郎の声は、風にさらわれただけだった。
少女は、もうそこにはいなかった。
広がる野原。まさか、走り去ったとも思えない。
「…………?」
何か、おかしな術にかかってしまったのだろうか。白昼夢でも見たのだろうか。
目を閉じずとも、すぐに思い浮かべることのできるあの笑顔を、懸命に探す。
そうして、気づいた。
少女の立っていた場所に、一輪のムギワラギク。
黄の着物を着たそれは、静かに小太郎を見上げている。
「ああ──」
腰を屈め、愛おしそうに目を細める。
「キミだったんだね」
つぶやいて、小さな少女を拾い上げた。
彼女の笑顔は、永遠に、ここに。
読んでいただき、ありがとうございました。
これは、青蛙さま主催の「異形の物フェスタ」に参加したものです。青蛙さまのはからいで、黒雛さまにイラストを描いていただき、そこに物語を加えるというコラボが実現しました。両先生に改めてお礼申し上げます。