幽霊のくれたいのち
生温い粘度をもった液体が、彼女の身体を抱きかかえる俺の腕をつたう。
俺と彼女の周りを野次馬が取り囲み、スマホで写真を撮ったり、どこかに電話をしているらしい。とても遠いところから、そいつらのざわめきが聞こえるようだった。まるで俺と彼女だけが隔離された世界にいるような、浮ついた感覚だった。
俺は何度も彼女に声をかける。
まだ意識はあったが、もう言葉を発する力さえまともに残っていないらしかった。なにか話そうとその小さな唇をかすかに動かすばかりで、それから彼女の意志を読み取ることは俺にはできなかった。
ただ、彼女は震える手を俺に伸ばしてきた。だから俺は、ほとんど反射的にその手をとった。
すべすべしていて小さな、俺の手とはまるで正反対の懐かしい感触だ。小さな頃には何度も握ったけれど、彼女に異性を意識し始めたくらいからそういうこともなくなった。
心臓の鼓動が早まっているのは、手を握って緊張しているからではない。彼女のいのちがもうまもなく尽きるということがわかっているからこその焦燥感。まだなにも、俺は彼女に与えられていないのに。
ああ、そうだ。俺は彼女が好きだった。
ずっとそばにいたから、誰よりも彼女のことを知っているつもりだった。いつも見せる笑顔がまぶしかった。はにかむ表情がいとおしかった。怒った表情も泣き顔も、俺にとっては彼女のすべてが永遠に心のうちに刻んでおきたい大切なものだった。
できることなら、いのち尽きるそのときまで彼女のそばにいたいと思っていた。
でも、こういう終わりは望んでいない。
だめだ、逝くな。
声に出したくても、それが叶わないことだとわかっているから声にすることができない。
彼女の唇が動く。
意味のある言葉が紡がれる前に、彼女はその目を閉じた。
***
「暑いな」
ワンルームアパートのせまっくるしい部屋の中でベッドに寝転がり、うちわを扇ぎながら俺は呟いた。俺以外にこの部屋に人はいないのだけれど、そう言わずにはいられない暑さだった。
「暑いね」
相槌を打つように、同じ言葉を繰り返す声が聞こえる。繰り返すが、この部屋の中には俺以外の人間はいない。
人間以外ならば、いるけれど。
「お前、幽霊なんだから暑さなんてわかんねーだろ」
仰向けに寝ている俺の真正面に浮かんでいるハルの顔を見る。彼女は悪戯っぽく微笑んで、
「でもほら、こーちゃんは私にうなずいて欲しくて暑いなーって言ったんでしょ?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「ええーっ!?」
幽霊とは思えない大げさなリアクションだ。どういう原理かわからないけれど、彼女の声は俺だけにしか聞こえない。
「別にそんな驚くことじゃねーだろ。もう十年以上一緒にいるんだからわかるだろが」
「でもこーちゃん寂しがりやだから……」
「お前、追い出すぞ」
「できるもんならやってみろー!」
ハルがこんなに強気で俺に言い返せるのは、俺が彼女に触ることができないからだ。というか、そもそハルモは物に触ることができない。壁をすり抜けることだってできてしまう。ただそれを彼女は「幽霊っぽくていやだ」といってあまり好んではいなけれど。
「……はあ、余計暑くなった」
うんざりして俺が呟くと、ハルは申し訳なさそうな表情を見せた。
「……ごめん」
「別にいいよ」
暑いのを彼女のせいにしても仕方ない。今日は雨で湿度が高いぶん余計に暑さを感じるのだ。
ふと、腕時計を見る。ちょうどいい時刻だった。
「……そろそろ出るか」
***
バイト先までは、いつも川沿いを歩いていく。それほど大きくはないけれど一級河川だから河川敷にはグラウンドがあったりして、休みの日は少年野球やサッカーをしている。自転車はあるけれど、のどかなこの風景をゆったりと眺めていくのが俺は好きだ。
ただ、今日はあいにくの雨で川は増水していてあまりいい景色ではなかった。
「雨の日くらい、バスで行けばいいのに」
ハルが唇を尖らせる。
「ハルは濡れないんだからいいだろ」
「でも、こーちゃんが濡れちゃうじゃん」
「傘差してるから大丈夫だって」
「むぅ」
拗ねたように頬を膨らませて、ハルはそれ以降なにも言わなかった。
ハルは俺の幼馴染だった。いや、彼女はいまも俺の前にいるのだから、だったという表現はおかしいか。
彼女が命を落としたのは高校二年生のときだった。暴走したトラックに俺の目の前で轢かれて、ほとんど即死だった。
その後を俺は抜け殻のように過ごした。ハルとの思い出が残っている町から飛び出したくて、遠くの大学に進学した。
俺は大学卒業後、そのままフリーターになった。就活に精を出す気力もなければ、進学をする気もなかった。そうして大学を卒業して半年ほど経ったときに、突然ハルは幽霊として俺の前に現れた。あのときの姿のままで。
ハルの身体は、高校生のときの――いや、死んだときのまま止まってしまっている。当たり前だ。彼女にはそもそも身体がないのだから。幽霊は成長なんてしない。
俺はいまでも、あのときのことを後悔している。
飛び出してきたトラックがハルを轢くまでには猶予があったのに、俺の身体は動かなかった。
もし俺があのとき行動していれば、彼女はいまも生身の身体をもって俺の隣で笑っていたはずで、俺が彼女の残りの人生を奪ってしまったも同然だ。別に、いまの幽霊の身体をもった彼女を否定しているわけではないけれど、やっぱり、もっと幸せな現在があったのだと思うと、割り切れない思いが俺のなかで渦巻いている。
***
「マジかよ……」
バイトが終わって店から出ると、外はバケツをひっくり返したような大雨になっていた。
「うわぁ、すごい雨だね」
少し遅れて店から出てきたハルが外の様子を見てのんきに呟く。困るのは俺だけだ。
「こーちゃん、さすがにバスで帰るよね?」
「まあ、これだとな」
店のすぐそばにあるバス停まで行って、バスが次に来る時間を確認する。あと二〇分後に次のバスが来るはずだが、この大雨だから遅れてくることも考えられる。徒歩でアパートまで一五分だということを考えると、歩いて帰ったほうが賢明な気がする。
「ハル、歩いて帰るぞ」
そう言って、俺はバス停をあとにした。
「え、大丈夫なの?」
「川は避けるからな」
来るときでも増水していたのだ。こんな大雨の中川沿いをあるいて帰るのは危険極まりない。ただ、一度どこかで橋は渡らないといけないのだけれど、それは仕方のないことだ。
「うーん、それならいいかなあ」
ハルは渋々納得して、ぷかぷかと俺についてきた。
橋のそばに差し掛かると、その上で数人ではあるが人だかりができていることに気づいた。
「なんだろうね」
ハルがその人だかりに興味をもった。実際、俺も少し気になっていた。こんな雨の中、流れの速くなった川のそばでこうして集まっているのだから、余程のことが起きたのだろう。
俺はその人だかりの一番後ろに歩み寄って、手近にいた紺色の傘を持ったおばさんに声を掛ける。
「どうかしたんですか?」
「それが、女の子が流されちゃったみたいで……、ほらあそこ」
おばさんが橋の下を指差す。欄干から身を乗り出して橋げたを覗いてみると、小学生くらいの女の子がコンクリートの角に手を掛けて流されないように必死に堪えているのが目に映った。
押し寄せてくる濁流に息をするのもやっとなようで、このままでは水に飲み込まれて流されるのも時間の問題だ。そうなってはあの女の子は助からない。
俺は一度人だかりから離れて、ハルに話しかける。
「ハル、あの女の子助けられないか?」
「えっ、無理だよ……私、物に触れないし」
「だよな」
その答えを聞いて、俺は即座に着ていたシャツを脱ぎ捨てた。
「ちょっと、こーちゃん!? なにする気!?」
ハルが俺の突然の行動に困惑した声をあげる。
「決まってるだろ、助けに行くんだよ」
そう言って、俺は欄干の柵を越えて増水した川に飛び降りた。橋の上から悲鳴が聞こえた。
水の中に頭から滑り込む――というよりは、揉みくちゃにされた。いつも通っているから、これだけ増水していればこの川に飛び込んでも大丈夫なことはわかっていた。俺はすぐに水の上に顔を出し、橋げたに掴まっている女の子を視界に捉えた。距離は近い、少し泳げば手が届く。
水の勢いは想像していたよりもずっと激しく、一瞬でも気を抜けばすぐにこの奔流に飲み込まれてしまいそうだ。こんな中で、よくあの女の子は堪えられている。でも、もういくばくももたないだろう。早く助けてやらないといけない。
泳ぎには自信がある。そうでないとこんな濁流の中に飛び込みはしない。
橋げたに泳ぎ寄って、女の子が掴んでいるコンクリートの角を俺も同じように左手で掴む。
「大丈夫だ、すぐ助ける」
俺がそう言うと、女の子は震える手で俺の服にしがみついた。
そのとき、俺はあのときのことを思い出した。同じように、震える手を掴んだことを。
俺は彼女の身体を右腕で抱きかかえ、コンクリートから左手を離した。
片腕が使えないのだから満足に泳ぐことはできない。流れに身を任せながら、川岸に少しでも近づくように脚を動かす。それでも身体はちっとも進んでいる気がしない。あともう二、三メートルの距離だというのに、それが果てしなく遠い。もう何メートル橋から流されたかわからない。
もし俺が助からなかったとしても、この女の子だけは助けなくてはならない。それが俺の、ハルに対する贖罪だ。
俺はハルを助けられなかった。だからかわりに、俺は誰かを助けなくてはならない。そして、できることなら俺もこのままいのちを落としてしまえたらいいとも。
そういう理由で誰かに手を差し伸べるのは間違っているかもしれない。でも、俺の命と引き換えに誰かを助けることができるのだからいい。
ふっと、ハルの姿がほとんど泥水ばかりの視界に映った。たぶん、ずっと俺のそばを飛んでいるのだろう。だけど、彼女は物に触れられないのだから俺の助けにはならない。何かを叫んでいるようだったが、濁流の音でなにも聞こえない。
少し先の川岸から手を伸ばしている人がいる。俺はそれを目指して脚に力を込める。近づいた一瞬のうちに、女の子をその手に押し付ける。力のありそうな男性だ。女の子をぐいっと川岸に持ち上げてくれたのを確認して安心すると、俺の身体からふっと力が抜けた。
駄目だ、もう水の流れに抗えない。それだけの力が残っていなかったし、抗う気もなかった。俺は、溺死は苦しいのだろうかということを考えていた。
そのとき、俺の目の前にハルが現れた。
「こーちゃん、しっかり!」
さっきと違って至近距離だったから、今度ははっきりと聞こえた。
「頑張って、こーちゃん!」
そうは言うけれど、俺はもうこのまま死んでしまいたいのだ。だからもう、この奔流に身を任せてしまいたかった。
「駄目だよ死ぬなんて! 生きてよ!」
そう叫んで、ハルは水の中に飛び込んだ。
「モ……モ……」
水で冷え切った肌に、彼女の手の温もりを感じる。幽霊とはこんなに温かみのあるものだとは思わなかった。
いやそもそも、どうして彼女は俺に触れられている?
俺の腕を掴んだハルの手に力がこもる。ぐいっと、俺の身体を川岸に向かって引っ張るように、彼女が動き始めた。
ハルはこんなに力強かったのか、と思いながら、俺はそれに身を任せていた。
水を多く飲みすぎたのか、次第に意識が遠ざかっていく。
ハルの声だけが、微かに頭の中に残った。
***
俺が目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
どうやらあのあと、女の子と一緒に病院に担ぎ込まれたらしかった。記憶はないが、救急車に乗るのははじめての経験だったと思う。
看護師と医師が慌ただしく走り回っているなか、俺はハルの姿を探した。
けれど、ハルの姿はどこにもない。偶然どこかに行っているだけということはないだろう。もしかして俺のかわりに水に流されたのでは、とも思ったが、幽霊が溺れるなんて、そんな馬鹿な話があるはずもない。
だからたぶん、ハルは消えてしまったのだ。
あのとき、俺の腕を掴んだ彼女の手の感触を思い出す。他の感覚がほとんど水に押し流されていたなかで唯一はっきりとそれだけが思い出される。
あれが奇跡なのだとしたら、ハルはきっとその代償として消えてしまったのかもしれない。
俺に触れることで、自分が消えることをハルが知っていたかどうかはわからない。けれど、彼女は俺を助けてくれた。俺は彼女を助けられなかったのに。
意識を失う直前、ハルが俺に言ってくれた。
好きだ、と。
俺だってそうだ。結局、それを彼女に伝えることは一度だってできはしなかった。彼女は俺の態度で察してはいたのだろうけど、それでもきちんと一度、伝えなくてはならなかった。
でももう、その機会は訪れないだろう。
だから俺は、死んでから彼女に伝えようと思う。願わくば、最期は彼女が悲しまない死に方で。
ハルが好きでいてくれたこのいのちを、少しでも長く生きようと、そう思った。
すっかり雨の止んだ窓の外では、雲間から光が差し込んでいた。
締め切りに追い詰められてとりあえず書いた駄作。