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奇跡の子
作:夏のラジオ



第十話


 キッチンから、包丁がまな板を叩く音が聞こえてくる。ようやく葉子が夕食の準備に取り掛かったようである。トントンという軽快なリズムを聞きながら『何を作ってるんだろう』とぼんやり考えていた。
 背筋を伸ばした状態で椅子に座り続け、約十分が経過した。斜め前方のソファではもみじちゃんが黙々とスケッチブックにコンテを走らせている。時折横顔に彼女の視線を感じ、少し緊張する。

「お父さん」

 もみじちゃんが口を開いた。彼女はいつしか俺のことをそう呼んでくれるようになっていた。「別にそんなに硬くならなくてもいいんだよ。自然体で」

 冷房が効いているにもかかわらず、俺の額には汗が滲んでいた。また、三分ほど前から腰に痛みを感じている。

「そんなこと言ったって……。自然体って意識したら余計硬くなっちまうんだよ」

「ふふ」

 彼女は悪戯な笑顔を浮かべる。「お父さんはモデルに向いてないかもね」


 夕方七時に会社から帰り着くと、突然もみじちゃんが「お父さんの似顔絵を描いてあげる」と言ってきた。正直疲れていたものの、以前葉子の似顔絵を描いていた時『俺も描いて欲しい』と言ったのは、この俺自身だったし、実際もみじちゃんからそう言い出してくれたことが嬉しかった。結局、着替えもしないまま、彼女の絵のモデルを引き受けたのだった。

 更に五分ほどが経過する。

「あと、どれぐらいで完成?」

 だんだんと腰に限界を感じ始めていた為、彼女に訊いてみた。

「うーん、あと三十分ぐらいかな」

「三十分!?」

 思わず声を上げてしまった。すると彼女はテーブルの上に敷いたティッシュの上にコンテをそっと置いた。

「それじゃあ、ご飯食べてから再開ね」

 俺はホッと安心し、椅子からソファに身を移した。そして「どれどれ?」と彼女のスケッチブックを覗き込もうとした。しかし、彼女はサッとスケッチブックを背中に隠す。

「駄目。完成してからじゃないと見せない」

「なっ? ケチだなー。ちょっとぐらいいいだろ?」

「駄目」

 そう言って彼女は大きく首を振った。
 しばらくしてから葉子が夕食をリビングに運び入れ始める。もみじちゃんが立ち上がり、葉子の手伝いを始めた。味噌汁、焼き魚とオーソドックスなメニューである。
 葉子が一息吐き、テーブルの前に座るのを見て、俺は言った。

「葉子は凄いな」

「何が?」

 彼女はキョトンとした顔を見せる。

「絵のモデルだよ。こんな疲れることを毎日のようにやってるんだろ? 俺なんか腰はガクガクで、肩もパンパンだよ」

 俺のいない平日の昼間に、葉子は何度ももみじちゃんの絵のモデルを引き受けている。現時点で五点以上、彼女をモチーフに描かれたデッサンが存在していた。

「あなた、硬くなりすぎなのよ」

 もみじちゃんと同じことを言う。「テレビでも見ながら、楽な姿勢でやればいいじゃない。別に微動だにするなって言ってるわけじゃないんだから」 

「そうなんだけどさぁ」

 俺もテーブルの前に移動し、箸を手に取った。

「そのまま食べるの?」

「え?」

 葉子に言われ、ハッと自分の姿を見る。上はカッターシャツ、下はスラックスのままであった。俺はテーブルの端で食事をするもみじちゃんに顔を向けた。

「着替えてもいい?」

「うーん……駄目!」

 そう言って彼女は一人で笑う。


 結局、夕食後十分ほどで絵は完成した。もみじちゃんは完成した絵をスケッチブックから切り取り、「はい」と俺に手渡した。

「おお! 凄いなやっぱ」

 正直な感想だった。そこには難しい顔で前を見据える俺の横顔が、相変わらずの繊細で優しいタッチで描かれていた。

「見せて見せて」

 葉子が覗き込む。「本当、写真みたいだね。あなたの緊張感がこっちにも伝わってくる」

「ほっとけ」

 俺たちのやりとりを見ながら、もみじちゃんが頭をポリポリと掻いた。

「だってお父さん、ずっと顔に力入れているんだもん」

 彼女にまで言われて、少し赤面する。

「よーし」

 俺は絵を持って立ち上がった。「次までには自然な表情が出来るよう練習しとくから……また描いてくれよ」

「うん」

 彼女の返事を聞きながら、デッサンをどこに保管しようか、と部屋を徘徊する。何気なくキッチンまで歩いた時、ふと見慣れない雑誌がキッチンのテーブルに置かれていることに気付いた。
 これは……アルバイト情報誌?
 葉子に目を向ける。彼女は俺の視線に気付くこともなく、もみじちゃんと何やら言葉を交わしながら、テレビを見ていた。
 パートでも探すつもりなのだろうか? しかし、何もこんな時期に。
 少し疑問に思ったので、もみじちゃんが眠った後にでも聞いてみよう、と考えた。



「敢えてこう言いましょう。『審判の日』まで残り十日弱に迫っていました。既に、紅葉のいる生活が当たり前となっていた私達夫婦は、『その日』を難なく通過できるだろうと考えて始めていたのです。しかし、目の前には意外な落とし穴が潜んでいました」












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