そのきゅう 頑張り屋さんのくたびれもうけ
水族館につくと、乙葉さんが三人分の料金を払って早速入館した。薄暗い部屋に小さな灯りが様々な水槽を照らしている。中には浅い水槽に直接手を入れて触れ合うなんてモノまであった。
中に居る人は親子連れが多く、カップルはほとんどいない。男一人、女二人という特殊なケースは僕らくらいなもんだ。
「私、水族館なんて久しぶりだよ」
「そうだね〜、わたしも最後に行ったのは小学生の頃だったと思うよ〜」
姉妹による微笑ましい会話も今の僕には良いBGMだ。だって僕、水族館来るの初めてなんだもん。
田舎には水族館なんてなかったし、幼少の頃にも行った記憶もない。多分初めててであろう水族館にほとんどおのぼりさんだ。いや、実際そうなのだが……。
「凪さんはいつぶり?」
「う、うん。僕は多分初めてだと思う」
「凪くんは初めてか〜。じゃあ初体験だね〜」
なんで言い直したの?
「あ、タツノオトシゴだよ〜」
てててっと駆け出す乙葉さんを追いかけると、他の水槽より少しだけ小さめの水槽があった。中にはフワフワと浮遊する小さな生き物がいる。
「可愛いねっ」
キャッキャッとはしゃぐ葉月ちゃんの方が可愛いと思ってしまうのは僕だけではないだろう。
ごめん、水族館に居る海の生物達よ。僕は男として葉月ちゃんと乙葉さんを観察する事にする。中には居るであろうオスくんならわかってくれるはずだ。
――可愛い事は正義だと。
「凪さん? いくら可愛いからって顔が緩み過ぎだよ」
「やっぱり? でも可愛いんだからしかたないよ」
「えへへ、それは同感だけどねっ」
ぴゅあぴゅあな葉月ちゃんが言ってるのは確実にタツノオトシゴの事だろう。だが、108どころではない僕の煩悩は完全に葉月ちゃんを見ていた。
ここならどんなに顔が緩んでも平気、という観念が僕の煩悩を更にパワーアップさせているのだろう。
「あ〜、サメがいるよ〜!」
二度駆け出した乙葉さんの後を追った。乙葉さんは一面ガラス張りの水槽にピタッと両手をついて、ほえ〜、などと言いながら興味津々に眺めていた。
「おっきいなあ……」
「これって水槽なのかな?」
中に居るサメよりも、この巨大な水槽? に驚きを隠せない。僕の横に佇む葉月ちゃんも、どうやら同意見らしい。少しだけ口をあけて、目を丸くしてる葉月ちゃんもぷりちーだ。
「ん? どうかした?」
僕の邪な視線に気付いたのか、不意に葉月ちゃんと視線が交わった。最初はきょとんとしていたが、段々頬がピンクに染まっていき、最後には目をそらしてしまう。
「な、凪さん? そんなに見られたら……恥ずかしい、かも」
「……う、あっ、ちちち違うよ! 葉月ちゃんを見てたんじゃなくてっ――」
ああ、今の僕って痴漢して言い訳してる人みたいじゃん! まあ、あれだけじっと見てたら半セクハラみたいなものだったけど……。いくら僕が煩悩にまみれてるからって流石にお触りは――って何考えてんだ僕はッ!!?
「かかかか肩に、ほこりが……」
死ねよ僕……。
「ほこり?」
「う、うん。でももう落ちたよ」
「そっか」
頬はまだほんのりと染まっているものの、葉月ちゃんは目を細めた。
――はあ、こんなベタベタなウソも信じてくれるなんて……。ホント、僕は人類のクズだな。
「あ、凪さんの肩にも髪の毛ついてるよ」
葉月ちゃんは手をのばして、僕の右肩をサッサッと払った。
「はい。取れました」
は、葉月ちゃん。君はなんて良い子なんだ……。これだけ純粋だと僕の醜さが倍増したような気がするよ。
「あ、ありがとう……」
「いいえっ。お互い様だよ」
チャチャチャチャーン!! 僕のランクが『人類のクズ』から『生物のゴミ』にランクアップしました。
――フフッ。葉月ちゃんが澄んでいればいるほど、僕は濁っていくのさ。
「あ、あれ? お姉ちゃんが居ない……」
葉月ちゃんにつられて僕も辺りを見回すが、確かに乙葉さんの姿が見当たらなかった。さっきからうろちょろしていたので、また何処かへ行ってしまったんだろう。
「……のんびり捜そうか。乙葉さんだって大学生なんだしさ」
「うん。そうだね」
葉月ちゃんと微笑みを交わし、散歩をするかのようにゆっくりと歩き出した。
「あの、凪さん……」
「ん? なに?」
僕のやや後ろを歩く葉月ちゃんが不意に歩みを止めた。顔を伏せたまま、消えそうなほど小さな声で呟く。
「私で……、私達で良かったのかな?」
「へ? 何が?」
顔を上げた葉月ちゃんの瞳は、涙が溢れそうなほどに潤んでいる。ドキッ、と一瞬心臓が跳ねるのを感じながらも、続きを促す。
「私とお姉ちゃんは、もう凪さんのお父さんに会いました」
「……そうなんだ。変な人だったでしょ?」
「いいえ、そんな事はありませんよ。思った通りの素敵な人でした」
ふっ、と微笑むと水槽を指先でトントンッと叩いた。いや、父さんの事なんてどうでも良いんだ。折角最近砕けた話し方になって来たのに、また敬語になってる事の方が気になる。
――僕はもう、家族だと思ってるのに。
「そこで初めて聞かされたんです。再婚の事、そして凪さんの事」
「ははっ、僕は全く知らなかったけど」
父さんともう会っていたとは予想外だったが、父さんは女の人には無駄に優しいからあり得ない話でない。
セクハラレベルに優しい……ウザイくらいに優しい……、もはや優しいとは言えないかもしれない。
「私は凪さんがお兄ちゃんになると知って嬉しかったです。……凪さんはどうですか?」
「はい?」
「凪さんは私達と家族になれて嬉しかったですか? 迷惑じゃありませんでしたか?」
――そっか。そんな事気にしてたんだ。
やっぱり葉月ちゃんはいい子だなあ、と改めて実感した。こんなにも人の事を考えて、それを言葉に出来る人は少ない。
ニヤケそうになる口をグッと我慢して、葉月ちゃんの不安気な目を真っ直ぐに見返した。
「迷惑な訳ないよ。葉月ちゃんは良い子だし、乙葉さんは優しいし」
「……そ、そんなっ」
耳まで真っ赤にして照れる葉月ちゃんをギュッとしたくなる欲望を、なんとかおさえつけて話を続ける。
「前にも言ったけどさ。僕達はもう家族なんだから」
初めて朝比奈家に来てからずっと思ってた。葉月ちゃんはどこか遠慮してるって。顔を合わせるとが当たり前になって、会話を交わすのが当たり前になって……。
乙葉さんは僕を家族として、姉弟として弱味を見せてくれたのに。いや、無理して見せてほしいとは思わない。でも、葉月ちゃんは全く『手が掛からない』のだ。
「そんなに気にしなくて良いよ。楽にいこう?」
「は、はい……」
「敬語」
「ああ! うんっ」
慌てて言葉遣いを直し、無理矢理笑顔を作った。まあ、乙葉さんはあんなだし、今まで頑張り続けた人に突然肩の力を抜けと言われても無理な話だろう。
――でも、少しずつ……。
「さて、探しに行こうか?」
「うんっ」
少しずつ、変わっていけば良いんだ。
「でも乙葉さんどこ行ったんだろ?」
「さあ? お姉ちゃん子供みたいだから」
結局、乙葉さんを発見したのはお土産屋さんで、イルカのヌイグルミを抱いていた所だった。乙葉さんがそれを買ったのは言うまでもない。
|