そのごじゅういち 牛さんと猫さんと変態さんと...
「ただいま〜」
疲労しきった身体を引きずるように僕は帰宅した。あの後、微妙な時間だからという理由で活動は特になし。縁先輩の愚痴を延々と聞かされたのだ。
あまりに壮絶な愚痴だったため、僕の口から告げる事は決してないだろう。まさか一二年の女子から告白されまくり……いやいや、忘れよう忘れよう。
「ふう……」
靴を脱ぐため、視線を落としていると、そこに影がかかった。威圧と殺気と迫力を兼ね備えた、世界最強の影に冷や汗が垂れる。
まてまて、僕なんかした?
顔をあげなくても、誰が居るかなんてすぐに理解した。この鋭い刄のような雰囲気の持ち主は、川澄さん以外には有り得ない。
――も、もしかして学校に行った事怒ってるとか? 乙葉さんがフォロー失敗したとか?
「凪……」
掠れそうなほどの小さな声に、恐る恐る顔をあげる。足元はパンダのスリッパ。脚には白い生地に大きめの黒い斑点があるパジャマ。
もう少し顔をあげると、上着はズボンと同じ斑点があり、胸元には妙にリアルな牛に吹き出しが『乳牛じゃありません』と、女の人が着るにはなんとも微妙なコメントがついていた。
確実に乙葉さん趣味の物だろう。
更に顔をあげると、肩にかかった鮮やかな髪。そしてほんのりと染まった頬。極めつけは、じんわりと涙を浮かべた綺麗な瞳……って涙!?
「な、なななななんで!?」
「凪、わたしを置いて行きましたね……」
大粒の雫が溜まる目が、キッと僕を睨む。
「いや、だって乙葉さんが学校に行けって」
「あなたは人に言われたくらいで、わたしを置いて行くのですか?」
「え、や、ご……ごめブッ!?」
視界の外から襲ってきた、柔らかな腕が僕の後頭部の背中に回され、胸に抱き締められる。玄関で一段低いせいか、背中に回された柔らかい感触よりめ更に柔らかいナニかがダイレクトに顔面にヒットしてますです……。
ああ、なんて幸せな温もり。やっぱり川澄さん大きいなあ――ってバカ!! なに親父みたいな事考えてんだバカ。
「はばびべぼばばぶびば〜!!」
モガモガともがくが、ヘッドロックばりの力でユートピアへといざなう。これは拒んだ方が良いのか受け入れた方が良いのか悩み所だが、取り敢えず恥ずかしいので拒む事にした。
「は? 何を言ってるのですか?」
「ばばぶばばびべぼばばぶびばぶ〜」
必死の抵抗が伝わったのか、なんとか顔を離す事に成功した。
うっすらと目を開けると、むやみやたらにリアルな牛が……つか怖っ! 近くで見ると牛怖っ!?
「ご、ごめん……。大丈夫かなあって思って」
「かな、で行かないでぐたさい。あなたはずっとわたしの側に居ればよいのです。身の回りの事は全てわたしがやりますから」
無駄にこっぱずかしいセリフと共に、何やら聞き捨てならないセリフを聞いたような気がした。
――身の回りの事全て……、夢のヒモ生活!?
よ、よし、想像してみようっ。
「………」
…………死んだ方がマシだね。
「あ、あのさ? 川澄さんの気持ちはわかったから離してくれない?」
見上げた川澄さんの顔は、唇を尖らせて不満そうだった。
「あ、あのブッ!!」
再び天国へダイブさせられた。このまま眠ってしまいそうな安心感に打ち勝つべく、素数を思い浮かべる。
……無駄だった。コンマ0.1で無意味だと理解した。
この包み込むような、かつやんわりと弾く感触がなんとも……って変態だああああっ!!
――いや、そんなの重々承知してましたけどね。
もう堕ちきったと思ってたけど、奥が深いんだね、変態さんは。いやあ、色んな意味で奥が深いよ。
「凪、わ……わたし達は好き合っている。つまりこ、恋人ですよね?」
こ、恋人――なんて良い響きなんだっ。
文字通り胸の中でコクコクと頷く。くすぐったいのか、一瞬川澄さんが身体を捩ったのは気にしないでおこう。
「な、ならば棗と……」
「……ふが?」
「棗と、呼んでください」
ゆっくりと腕の力が弱まり、さっきよりも更にスペースが空く。名残惜しいのは黙っておこう。
彼女は首まで真っ赤にして、潤んだ瞳で僕を見つめていた。少しだけ開いた唇が色っぽい。
「あ、う……なっ」
ジーッと期待のこもった視線が僕の口元に集中する。
無理だ、この期待を裏切る事は僕には出来ない。
ならばどうする?
――頑張れよ、僕。
「な、なつ……なつ」
僕が中々言い出せずにいると、彼女が耳元に顔を寄せて静かに囁いた。
「じゅ、純潔は奪われてしましましたが、あの男はわたし自身には興味がなかった。だから、その……ファーストキスはあなたです」
「うえっ?」
鼻先が触れそうなくらい顔を近づけ、ぴたっと額を合わせる。彼女は薄くはにかんで、目尻を赤く染め上げた。相当恥ずかしかったんだろう。
で、でも川澄さんが頑張ったんだから僕だって……。
川澄さんの腕の中で、大きく深呼吸する。
「あ、ありがとう……、棗さん――」
ぐおおおおおっ、ごっさ恥ずかし〜〜〜!!! 友達を見つけて「お〜いっ」て手を降りながら駆け寄るも、いざ近付くと別人だったから、誤魔化すためにそのまま通り過ぎるくらい恥ずかしい〜!!
「いいえ、わたしが、えと……したかっただけですよ」
棗さんは嬉しそうに口を笑みの形に曲げて、そっと目を閉じ……。
「ん――」
――口付けを交わした。
二度目のや〜らかい感触を感じながら、僕は『玄関で何やってんだ』なんてドキドキしつつ考えていた。
「らぶらぶですにゃ〜」
なぜか猫パジャマ、猫語な乙葉さんにばっちり目撃されたのは記憶から抹消しておこう。
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