そのよんじゅうよん pure and innocent love
黒のベンツの後部座席に乗り込み、背筋をのばす。多分、振り向けば今にも泣きそうな三枝の顔が見えるはずだと思う。
不敵に笑う当主様を視界のすみに入れながら、ゆっくりと動き出す景色を眺めた。
――後ろを見てはいけない。見てしまったら、またこの男に弱みをみせる事になるっ。
下唇を噛み締めて、目を伏せた。たらっと零れる血をハンカチで拭い、ポケットの中にしまう。
「良い夢見れたか? 彼は人が良さそうだったからな。暇つぶしにはなったのだろ?」
「………」
夢、確かにそうかもしれない。わたしには、居心地が良すぎた……。きっと、この車の行き着く先こそが夢の終点。夢は所詮夢、目覚めてしまえば途方もない脱力感に蝕まれる。
そうよ、良い夢だろうと悪い夢だろうと……夢なんだから。
――幻、だったのだ。
静かなエンジン音が、精神的に疲労したわたしを眠りに誘った。車特有の気分が悪くなる匂いが、微塵も感じられないよく掃除された車内で、わたしは窓に手を這わせた。
「……冷たい」
今向かっているのは川澄家ではなく、本家。当主様はわたしをお許しにならないだろう。人のことを人形だのなんだのって言うけど、独占欲が強い方だから。
何をされるかなんて、考えるまでもない。ないが、心苦しい。吐き気がする。頭の中が空っぽになったみたいにぼーっとするし、指先が震える。
「降りろ」
いつの間にか運転手がわたし側のドアを開けていた。どうやら本家についたようだ。
「……はい」
服を乱さないよう注意を払いつつ、車からおりる。背後で当主様も降りる気配と、バタンとドアが閉まる音が響いた。
眼前には、わたしの家よりも一回りほど大きな屋敷があった。古さも相当なもので、湿った木の匂いがする。
「来いっ」
腕を掴まれ、強引に引かれた。抵抗はしない。そんなのに、意味なんてないもの。
これからされる事だって、わたしには無に等しいこと。意味なんてない、無かったのに……。
敷居を跨ぎ、ズンズンと一直線にある場所へと向かう。途中で哀れみの込められた視線で、家政婦や執事がわたしを見ているが、誰一人として声をかけようとはしなかった。
進めば進むにつれ、動悸が激しくなっていく。決して気持ちのよいものではない、折り重なるような吐き気に襲われる。
――大丈夫よ。関係ない、もう馴れてるじゃないの。いつだってそうだった。いつもわたしは一人で、川澄家の為にこの身を捧げ続けて来たじゃない。
同じよ、今までと何も変わらない。ずっとそうだったんだから。
一つの部屋で立ち止まると、押しこまれるように部屋へ連れ込まれる。
何もかもわかっていたかのように、五畳ほどの部屋には、ぽつんと布団が敷かれていた。
「うっ、くっ……」
薄暗い部屋でわたしは自らを抱きしめ、この異様な雰囲気に耐える。
「ふんっ」
そんなわたしを見てか、当主様はわたしの心境など興味なさげに笑った。
気持ちが悪い、この部屋の何もかもが。匂いも、感触も、目に映る何もかもが……。
でも、一番気持ち悪いのが――この男だ。
刹那、わたしは布団に押し倒され、首筋を甘噛みされる。ゾッと沸き上がる不快感に耐えながら、何とか引きはなそうと男の服を掴んだ。
「はあ、はあ……」
気持ち悪い、今にも吐いてしまいそうだ。苦しい、息が詰まる。頭の先から足の指先まで、全て泥沼に浸かっているみたいに。
「ほう、今日は抵抗するか。前はあんなに無表情で抵抗らしい抵抗をしなかったと言うのに」
口を歪ませた男が、何かぶつぶつと呟いていた。
「……やめて、ください」
カラカラに乾いた喉からなんとか拒否の言葉を吐き出す。無意味だとわかっていても、言わずにはいられなかった。
とにかく、この不快感から脱したい。助けてほしい……。誰でも良いから、ここから出してほしい。
「やめて、か。あっははははは!! 今更何を言う? くくっ、お前は……オレに従っていれば良いんだよッ!!」
「きゃっ?!」
力任せにブラウスとスカートを破られ、男の目に下着を晒す。ねっとりと粘りつくような視線に、嫌な汗が流れた。
……やだ、嫌だっ。もう、こんなのは嫌ッ。わたしはもう、以前までのわたしじゃないの! されるがままのわたしじゃないの!!
「やめ、てっ!!」
頭の上で押さえつけられた腕に力を入れるが、びくともしなかった。お腹の上で馬乗りになった男が、カカッと邪な笑みを浮かべる。
汗ばんだ手が肌に吸い付き、身体中を凌辱される。
「や、やめっ――!! うう、いやあ、こんなのいやあああッ!!」
「はっ、黙れ人形が。ギャアギャア喚くなッ」
「ぐうっ!!」
頬を拳で殴られ、口の中が鉄の味で一杯になる。
男はわたしを押さえつけたまま、片手で器用に服を脱ぎ出す。ぽろぽろと溢れる涙を拭う事も出来ずに、ただぼんやりと眺めていた。
わたしをすっぽり覆えるほどの上着を脱ぎ捨て、意外なほど引き締まった身体を披露する。
「……ああ」
どうして、どうしてこうなってしまったんだろう? 悔やんでも悔やんでも悔やみきれないっ。
人生なんて言える生き方してこなかった。わたしはわたしと生きる事を許してほしかっただけだっのに。
普通の人には許される、そんな当たり前の事だけで、わたしは満足に生きられたのに……。
川澄家の牲として育てられ、人形として飼われてきた。それが当たり前だった。それがわたしだと思ってた。
――でも違ったんだ。これは、すりこまれた感情。
「ふん、ようやく大人しくなったか」
お腹に何か熱いものが押し付けられ、不快感がぐっと増す。
――三枝と出逢ったことでわたしは変わり、やっと生きている意味を見つけたんだ。やっと……この生が無駄じゃなかったと気付けたんだ。
抵抗を止めたと思ったのか、拘束されていた手がほどかれた。
「そうだよ、お前はそれで良いんだ。お前はオレの『物』なんだよっ!!」
「……さい」
夢なんかじゃなかった。一緒に居るって言葉も、触れていた場所から流れてくれる温もりも、全部紛れもない本物だった。
「ごめ、ん……なさい」
なのにわたしは振り払ったんだ。彼のためだと、彼の家族の為だと自分を偽って、知られてしまうのが怖かったから現実を見れていなかった。
彼は、三枝凪はあんなにもわたしを愛してくれていたのに……。
「許して、ほしい」
――また、甘えてしまう事を。
「ああ? 何を言ってるのだ?」
許してほしい。こんな時でも……あなたに助けてほしいと思ってしまうのを。
「三枝、凪、凪……」
もし、もし許されるなら全部言ってしまおう。包み隠さず、全てを正直に話そう。
裏切った事を謝罪して、黙っていたのを謝罪して、好きだと言ってくれた事にお礼を言って、愛していると囁きたい。
「……凪」
――神様、凪は許してくれるでしょうか? もしも許してくれるなら、最後に……もう一度だけチャンスください。
「そろそろ終わらせるか」
馬乗りになっていた男が、上からおりてギュッと腰を掴んだ。
「……るな」
「ん?」
――凪は優しいから、きっと許してくれるよね?
「触るなッ!! 凪に許してもらえるまで、この身体は凪のものだッ!!」
わたしは、持てる限りの力を振り絞り、足を蹴り上げた。
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