そのじゅうなな ぬくぬく〜だねっ
結局、弓道場に行く事は出来なかった。やっぱり僕には許せなかったんだ。彼女の考えが……、弓をする理由が――。
下手だと言われるのはまだ良い。努力すればいくらでも上達するのだから。でも、努力自体をバカにするのは僕には許せないんだ。
部屋のベッドから起き上がり、部屋を後にした。
リビングは静けさに包まれ、窓から差し込む太陽の光が部屋を照らしている。ソファやテレビに当たった光が長い影を作りだし、神秘的な雰囲気が漂っている。
僕はソファに深く座り、倒れ込むように寝そべった。酷い脱力感に襲われ、頭がぼーっとしてくる。
「僕は、どうしたら良いんだろう……」
川澄さんを許せないのに――、なのにこんなにも胸が苦しい。それはきっと、最後に見たあの寂しそうな表情のせいなのだろう。
「ただいま〜」
おっとりとした、この柔らかな声。聞き間違いなど有り得ない優しい声の持ち主は、乙葉さんだ。ふと時計に目を移すと、結構な時間になっていた。それだけ考え込んでいたのだろう。
「凪くんただいま〜」
「おかえりなさい」
僕は至って平然を装った。この家の人達は優しい、心配するのは目に見えていた。
これは……僕の問題だ。乙葉さん達には関係ない。
「あれ〜? 今日は早いね〜」
「う、うん、ちょっとね……」
乙葉さんは突然ズイッと顔を寄せて、僕の顔を覗きこんだ。眉間にシワを寄せ、む〜っ、と唸っている。
「学校で何かあった〜?」
うぐっ、鋭いっ。
いつもはおっとりしているが、乙葉さんは乙葉さん成りにちゃんと考えている事を僕は知ってる。葉月ちゃんの前では絶対涙を見せないと誓った強さを持ってる。
僕なんかより、よっぽと強い……。
「ううん、何もないですよ」
ちょっと強ばってるかもしれないが、極力笑顔を作って見せた。嘘と意地で固められた仮面だが、僕にはこうするしかなかったのだ。
「……お姉ちゃんに何時でも言ってね?」
それだけ言い残して、乙葉さんはリビングを出て行った。
「ふう、バレてるね」
嘘が下手なのは重々承知してる。ここまであっさりバレるとは思ってなかったけど、それも仕方たない。
だって、嘘と意地で作られた仮面ほど脆いモノはないのだから。それがわかっててやる自分もどうかという話だが……。
「明後日かあ」
川澄さんに残された時間は少ない。試合がどんなルールで行われるかは知らないが、今のままでは確実に負ける。
いや、負けた方が彼女にとっては良いのかもしれないな。
でもその一方で、負けてほしくないという僕も居て――。
ここでまた思考が元に戻った。さっきからこの繰り返し、無限ループなのだ。
「相談、してみようかな……」
うっし、と立ち上がった所に葉月ちゃんの元気な声がリビングに響く渡った。
「で、僕は何してるんだ……?」
今、僕はお風呂に入っている。はっきり言うと、夕食も食べ終わっていてお風呂から出れば寝るだけなのだ。ヘタレな僕はそれまで話しを切り出す事が出来なかったんだけど。
神の思し召しというか、悪魔の囁きというか、今は相談する大大大チャンスなのだ。
「ごっしごっしあっらえっば〜ピッカピカ〜」
何故なら、僕の背中を謎の鼻唄混じりに流してくれている乙葉さんが居るからだ。
バスタオル一枚で入って来た時は心臓が止まるかと思った。ううん、絶対止まった。
我に返った僕は偶然とたまたまが重なった奇跡によって、タオルを持ってきており、それを『僕』に掛けたんだ。
「あの、乙葉さんは何でお風呂に?」
「何でって、凪くんが入ってるからだよ〜」
わかってて入ったのか、この天然ちゃんめ!!
「僕に何か――?」
「んふふ〜、裸のお付き合いは大切なんだよ〜」
わけわかんねえ理屈に僕は混乱するばかりだ。最近は乙葉さんの奇行にもなれてきたが、ここまでポケポケだとは思っていなかった。
ザバッ、とお湯が掛けられて、僕の肩にタオルが置かれた。
「今度は凪くんの番だね〜」
「へっ? 僕の番……?」
向いちゃいけない、向いちゃいけないとわかっていても振り向いてしまうのは僕の好奇心がそうさせるのか、はたまた影に潜む狼さんがさせるのかはわからない。
「………」
僕の目に映ったのは、きめ細かい肌をした真っ白な背中。髪の毛はタオルでまかれているので完全に露になっている。熱いせいか、ほんのりと赤みがさした肌はなんとも色っぽい。
ちょっと視線を落とせば……おし、もとい桃の一部が見える。
「早く早く〜」
甘ったるい声で、背中を丸出しにしてそんな事を言われる日がくるとは思ってもみなかった。
――早く早く〜って……誘われてる? 誘われてますか僕!?
さっきから僕のヘタレ狼さんがヘタレらしく、キャンキャン吠えてるけど、従って良いのだろうかいや、良い訳がない!! なんせ彼女は天然ちゃんなのだから!!
鼻息が荒くなりそうなのをなんとか抑え、タオルにボディーソープをつけ泡立てる。
「良いですか?」
「……良いよ〜」
何その間は!? なんで自分から言い出したのにそんなに恥ずかしそうなんですか?!
「で、では失礼して」
タオルで傷付けないようにそっと触れてみた。
「ひゃんっ! 凪くんくすぐったいよ〜」
「ごごご、ごめんなさいっ!!」
乙葉さんの、多分驚いたのであろう高いソプラノに脳髄が刺激され、鼻からたら〜っと赤ワインが溢れ出す。
手で拭ってみると、それが鼻血だという事に初めて気が付いた。決して興奮したからではない、のぼせただけだ。
たらたらと尋常じゃない出血に、もはや拭う意味がない事に気付き、無視する事にした。
今は鼻血を拭っている時ではない!! 神が与えたこの試練を全神経、全ての理性を総動員して乗り越えるのだっ。
ごし、ごしと上下に擦り、丁寧に丁寧に洗っていった。時々もれる「んっ、んっ……」という声は気にしてはいけない。
キニ、キニシテハ……。
「――って無理だよ!!」
持っていたタオルを思いっきり地面に叩きつける。
「凪くん〜、どうしたの〜?」
「い、いえ……なんでも」
タオルを拾い上げてお湯を掛ける。乙葉さんの泡だらけでエロチックな背中も流し、ほっと一息吐いた。
初めてかもしれない、勝利にこんなにも充実感を覚えるのは。
――とにかく、僕はこの勝負に勝利したのだ。
そうだなあ、うん、これを泡泡誘惑事件とでも名付ける事にしよう、うん。
「ありが――?」
二度バスタオルを身体に巻いた乙葉さんは振り向くと、僕を不思議そうに見ていた。
「? なんですか?」
「凪くん〜、鼻血が〜」
はっ、と手で覆うと乙葉さんは顔を赤らめて自分の身体を抱き締めた。
「いやん、凪くんのエッチ〜」
あんた、自分から入ってきたんじゃん!!?
恨めしそうな視線が、僕のある一点へと注がれていた。それは『僕』だ。右手で鼻を隠し、左手でタオル越しの僕を隠すと、恐る恐る乙葉さんの表情を伺った。
「………」
何も言わなかった。でもわかるんだ、乙葉さんの目が語る言葉が……。
乙葉さんの目は絶対に『どこ見てんだよこの変態めが!! セクハラか? そうなんだろこのクソガキ!! てめえみたいなカスはピーをピーしてピーすればいいんだよ!!!』と言ってるに違いない。
「凪くん、寒いの〜?」
「はい?」
「だって身体が震えてるよ〜?」
こ、これは寒いからじゃない。あなたが怖いからなんです。とは言えずに頷いてしまった。
「じゃあ早く湯船につからないと風邪ひいちゃうよ〜」
僕のセクハラ紛いの視線をものともせずに、天使のような笑みを浮かべて僕に勧めた。いや、ような、なんて失礼だ。まさに天使そのもの……それだけに裏に潜む悪魔が恐ろしくもあるのだが。
「そ、そうですね」
僕はさっと湯船に浸かる。乙葉さんは相変わらず胸の前で手を組んでニコニコしていたが、何を思ったか、突然立ち上がった。
健康的な太ももが視界いっぱいに広がり、せっかくお風呂のぬくぬく感で落ち着いてきた能が、再びピンクに染まった。
「わたしも入ろ〜っと」
呆然とする僕を余所に、乙葉さんはじゃぶじゃぶと水音をたてながら、高校生と大学生には狭い湯船につかった。
ふにっ、と華奢な肩が僕の肩に触れ、少し顔を動かせば赤みの入った乙葉さんの顔が見える。視線を斜め下にずらせば……わざわざ試すまでもないだろう。
僕は狼じゃない、人間なんだっ!!
キャンキャンと吠えていた狼さんが、ワォオオオンにパワーアップしてるけど、僕は負けない。負ける訳にはいかないんだ!!
――でも、涙が出ちゃう。だって男の子だもん。
……なんてやってる場合ではない事は確かだ。
「ぬくぬくだね〜」
「そ、そうですね……」
この狭い空間に二人きりで居る事を、全くきにしていないようだ。僕を男として見てない……っていうか素で自分が何をしてるのかわかって無いのだろう。
暫くぼーっと二人で湯船に浸かっていると、乙葉さんが耳元で熱い吐息をもらした。
「ふい〜、もう出るね〜」
ちゃぷちゃぷと水音をたてながら、水をたっぷり含んだバスタオルを重そうにしながら立ち上がる。
「あっ――」
――はらり。
「はらり……?」
「いやん、エッチ」
ばっと自分の身体を隠すが隠しきれてない。ていうか、今僕が見たモノを信じられないヨ〜。
「ぶはっ――」
頭の中で何が起きたか理解した瞬間、毛細血管がぶち切れて目の前が真っ暗になった。
――ほう、これが噂のブラックアウトってヤツですか。
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