【#6 ≪フェアリーサークル≫】
孤児院の庭に子供達の楽しそうな笑い声が響いている。
子供達にじゃれ付かれているシルヴィアは時折困った顔をしながらも、楽しそうに子供達と遊んでいた。
シドニーの一件以来、シルヴィアとジルはカレンの切り盛りする孤児院に頻繁に出入りしていた。無邪気な子供たちの相手をして過ごす時間は、冒険者ギルドの隊員という殺伐とした稼業の中で、いつの間にかささくれ立っていたシルヴィアの心に安らぎを与えてくれた。
しかし――――――
「ふふふ、本当にそんなことがあったの?」
「ああ」
孤児院の庭のベンチに座ってジルとカレンが話している。特にカレンが本当に楽しそうにしていて、時折笑い声をあげることさえあった。
シルヴィアは庭で子供たちの相手をしながら、ちらちらと横目で二人を見ていた。
(何故かはわからぬが、なんとなく気に食わん)
親しげなジルとカレンを見ていると、シルヴィアはなぜか落ち着かなかった。わけのわからない焦燥感すら感じて心穏やかではいられない。無意識のうちに歯軋りまでしてしまっていて、奥歯がキリキリと音を立てていた。
「シルヴ……ひぃっ!!」
よほど恐ろしい顔をしていたのだろう、寄って来た女の子がシルヴィアの顔を見て引き攣った悲鳴を上げた。
女の子の悲鳴を聞いて我に返ったシルヴィアは、咄嗟に表情を和らげた。
「失礼した。なにか用かアン?」
「こ、これ……」
アンと呼ばれた八歳くらいの女の子は、おずおずと手作りの花の冠を差し出した。それは庭の隅に咲いている野花から作ったものだった。アンの頭にも同じものが乗っかっていて、なかなか可愛らしい。
白い花から漂ってくる甘い香りにシルヴィアは目を細める。
「これを私に?」
「うん」
「嬉しいな。喜んで受け取らせていただこう」
アンが背伸びして自分を見上げているので、シルヴィアは膝を付いて屈んだ。
手の届く高さまで降りてきた頭に、アンが冠を載せてくれる。
「ありがとう、アン」
「おそろいだね!」
「うむ。お揃いだ」
アンの花のような笑顔を見て、シルヴィアの頬が自然と緩んだ。
無邪気な子供を前にすると、思わず顔がにやけてしまう。とても心地の良い気分だった。
「シルヴィアー、シルヴィアー」
「お話してよ!」
気が付くとシルヴィアはいつの間にか子供たちに囲まれていた。子供たちは腕やスカートに纏わり付いて、お話をねだってくる。
「よかろう。では中に入ろうか、今日は日差しが強いからな」
子供たちを孤児院の方へ引率しながら、シルヴィアは豊富な騎士物語の知識の中から何を話して聞かせるか思案しだした。
中に入る直前、ジルとカレンの姿が視界に隅に引っ掛かった。
「大人気ね。シルヴィア」
カレンは子供たちと孤児院の中に入っていくシルヴィアを微笑ましそうに眺めていた。
「子供に好かれるタイプなんだろうな」
言いながら、ジルはプリシッラもシルヴィアにやたら懐いていたことを思い出していた。プリシッラがそれを知ったら、彼女は絶対に怒り狂って頭に齧りついてくるだろう。
「ああしてると、とても貴族には見えないわ」
「やっぱり気付いてたのか?」
「無意識にあれだけ優雅な所作ができるのは貴族だけよ」
スラムで暮らす者たちには、鋭い観察眼が自然と身についてくる。相手を瞬時に敵か味方か判断しないと、無法のスラムでは生きていけないのだ。カレンもまたスラム育ち。シルヴィアの変装を見抜くのは容易なことだったのだろう。
しかしカレンの場合それだけが理由ではないとジルは思う。
カレンは貴族を嫌っている。スラムに暮らしている者のほとんどがそうであるのだが、カレンは特に貴族を憎んでいる。ヴァゴンにいた頃、強盗に遭って身包み剥がされた貴族の男を、嘲笑いながら見ていた彼女をジルは覚えていた。
だからシルヴィアが貴族であることも敏感に感じ取ったのだろう。
「今も貴族が嫌いなんだな」
「当たり前でしょう。王都に来てからはますます嫌いになったわ」
王都の一部の貴族の悪辣さはヴァゴンのような田舎貴族の非ではない。役人どもに横領されている孤児院の寄付金だってそういった貴族の懐に入っている。これでは嫌うなと言う方が無理な話だ。
「でも勘違いしないで。シルヴィアのことは嫌いじゃないわ」
「そう言ってくれると、嬉しい気がするな」
ジルは心からそう言った。
どうやらカレンはシルヴィアを貴族の娘としてではなく、一人の人間として見てくれているらしい。そして好きでいてくれているらしい。それが少し嬉しくて、なぜか誇らしかった。
しかし礼を言うと、カレンは唇を鳥の嘴みたいに尖らせて面白くなさそうな顔をした。
「変なの。どうしてあなたがお礼を言うわけ?」
「なんとなく。嬉しかったから言っただけだ」
「本当にそれだけ?」
カレンの口調は質問というよりも追及のようだった。
ジルはなぜそこまで突っ込んで聞かれるのかわからず、眉間に皺を寄せて困惑する。
「それ以外にあるわけ無いだろ。なにを拗ねてるんだ?」
「別に……」
カレンはそっぽを向く。どう見ても拗ねていた。
なぜ拗ねられているのかが全くわからず、シルは首を傾げた。
それきりカレンは機嫌を直さず、シルヴィアが戻って来るまで会話は途切れたままだった。
翌日、シルヴィアとジルは任務を受けにギルドに行った。
行ったのだが、
「本当か?」
ギルドの受付でジルは低い声で言った。
正直かなり恐い顔をしているのだが、いつも強面の傭兵達の相手をして慣れっこなアマンダは全然恐がっていない。
「本当よ。今日も仕事は無いわ」
「なんとか、なりませんか?」
シルヴィアが引きつった顔で必死に問う。しかしアマンダは首を横に振った。
「気の毒だけどなんともならないわね。ここのところ依頼が少ないのは知ってるでしょう? ただでさえセレクションが近づいてギルド員が増えてるから、仕事が無くなっちゃうのは仕方の無いことなのよ。最近仕事ができていないのは知ってるけど、無いものは回せないわ。本当にごめんなさいね」
そこまで言われてさらに謝られてしまっては何も言えない。シルヴィアは目に見えて落胆して項垂れ、深いため息を吐いた。
「どうするジル?」
困り顔でジルを見上げる。
アマンダがさっき言ったようにここ数日依頼が少なく、シルヴィアとジルは思うように仕事にありつけていなかった。
そのせいで今までの任務で溜めた金も底をついている。明日からの生活費はもちろん、今夜の夕食すらままならない。このままでは数日後には飢え死にしてしまうかもしれなかった。
訊かれたジルは宙を睨んで言った。
「仕方ないな。用心棒でもやって食い繋ぐか」
「用心棒? しかしそういった仕事があるのならばギルドに来ているのでは?」
「それは隊商とか貴族が依頼主の場合だな。俺が言ってるのは街の酒場の用心棒だ。そっちはわざわざギルドなんかには頼まない」
酒場には酔客によるトラブルが付き物だ。殴り合いの喧嘩はもちろん、店におかしな言いがかりをつけたり、ウエイターに絡んだりといった迷惑行為が日々絶えない。
そういう者たちに対処するために酒場は常に日雇いの用心棒を置いているが、ギルドに依頼すれば紹介料などの余計な経費が掛かってしまう。そのため、用心棒の依頼は店で直接行っていることが多いのだ
「酒場の用心棒は一晩限りで給金も安いのが常なんだが、賄い食くらいは出して貰える」
「ふむ。蓄えることは出来ぬが、食えぬよりずっといいか……」
「酒場を回ってみよう。まだ昼前だ、どこかの店で用心棒を探してるかもしれない」
「だったら紹介してあげられるお店があるわよ」
二人の立ち話を聞いていたアマンダが言った。
「私の紹介なら優遇してもらえると思うけど?」
シルヴィアとジルは顔を見合わせた。
探す事無く雇ってもらえて優遇されるなら言う事無しだ。ギルド員のアマンダの紹介だから怪しい店ということもないだろう。どうするか相談するまでも無かった。
「では、お願いします」
「オーケー。ちょっと待ってて、紹介状を書いてあげるわ」
「ウエイトレスッ! 私が!?」
更衣室を兼ねた店の事務室でシルヴィアは素っ頓狂な声を上げた。
「そうに決まっているじゃない。ジル君にやらせるわけにはいかないでしょぉ?」
向かいに座る女性、エメリナが朗らかに答えた。
「それはそうですが、アレを私が……?」
ブツブツと言いながら、シルヴィアは顔を赤らめて傍らの衣装を見る。
それは妖精をイメージさせる可愛い衣装である。だが胸元やスカートの裾があまりにも際どい。スカートの裾は膝からかなり上にあり、上は肩丸出しで胸元ギリギリ。かっちりとした服を好むシルヴィアには破廉恥極まりない服に見えた。
「ええ、そうよぉ。きっと似合うでしょうねぇ」
エメリナはシルヴィアが躊躇しているのに気づいていないのか、それとも敢えて無視しているのか、暢気にうふふと笑っている。
ちなみにジルはここにはいない。彼は男子なので更衣室をかねた事務所には入れてもらえず、ホールの掃除を手伝っていた。
アマンダに紹介された店は、なんと先日ニコが話していた≪フェアリーサークル≫だった。この店を経営しているエメリナはアマンダの姉なのだそうだ。
その縁で紹介状を持っていったジルとシルヴィアは歓迎され、無事仕事にありつくことが出来たのだが、エメリナがシルヴィアに割り当てた仕事は店のウエイトレスだった。用心棒は一人で十分と言うことである。
ウエイトレスをするならばまだいい。問題は≪フェアリーサークル≫名物の妖精の衣装だった。
下着の一歩手前みたいな衣装で接客をしなければならないなんて、恥ずかしくて死んでしまいそうだ。
「しかし私はウエイトレスの経験なんてやったことが……」
「大丈夫、ちゃ〜んと一から教えてあげるわぁ。貴女器用そうだから、すぐに仕事を覚えられるわよぉ」
「うぅ、そういうことではなくて……」
逃げるための言い訳も通じない。明らかにエメリナが一枚上手だった。
「じゃあ、さっさとお着替えしてお仕事始めましょぉ〜」
「え、いや……」
「みんなぁ〜シルヴィアちゃんのお着替え手伝ってあげてぇ〜」
『は〜い。オーナー!』
「なっ……!」
いつの間に入ってきたのか、きわどい妖精の衣装を着た店の女の子たち十数人が一斉に返事をした。
エメリナによって徹底的に教育されているのだろう。返事が揃っていてとても綺麗だ。
女の子たちは可愛らしくニコニコ笑いながら、にじり寄って来る。
出口は彼女たちを挟んで反対側にあるのでシルヴィアは逃げられない。後ずさりするが、すぐに背中が壁にぶつかってしまう。
逃げ道無し。
『よろしくね! シルヴィアちゃん♪』
「ははは……よろしく……あはははははははは」
抗いようの無くなったシルヴィアは乾いた笑いを漏らすことしか出来なかった。
≪フェアリーサークル≫は午後七時から営業を開始する。
今夜も時間通りに店を開けると、待っていましたと云わんばかりの勢いで客が雪崩れ込んで来た。もちろん全員が男性客だった。
そしてまた一人、妖精の舞いに誘われて一人の男が姿を現す。
「いらっしゃいませぇ〜」
店員の女の子が“しな”を作って挨拶をすると、来店した男の表情がだらしなく緩んだ。
「ドーラちゃん、今夜も可愛いねー」
「ホントですか!? ドーラとっても嬉しいです! エルガーさんも素敵ですよ!」
ドーラと呼ばれた店員が満面の微笑で褒め返すと、エルガーと呼ばれた客は、くらりとバランスを崩した。それをすかさずドーラが支え、肩を貸したまま席に案内する。女の子に密着されたエルガーは、今すぐにでも衝天してしまいそうな恍惚とした表情を浮かべていた。
もちろん素敵というのはお世辞で、支えたのもサービスである。しかし男とは愚かなもので、お世辞やサービスとわかっていても骨抜きにされてしまうのだ。
だがエルガーのような客はまだおとなしい方だ。席に付いた客の中には妖精に扮した店員たちをギラギラした目で眺めて荒い息を吐いている者や、わざと物を落として大げさに屈んでスカートの中を覗こうとする者までいた。
そんな男の客ばかりのせいか、内装や衣装の可愛らしさに反して、店内には悶々とした異様な雰囲気が漂っている。
ジルは厨房の入り口の横に陣取って、そんな異様な店の中の様子を監視していた。
その腰には店から借りたショートソードが差してある。狭い店内で両手持ちの大剣を振り回すわけにはいかなかったため、仕方なく借りた武器だった。
店の中を油断無く見据えながら、さり気無く一人の店員の方に目をやる。そちらでは妖精の衣装を着込んだシルヴィアが、ぎこちない動作で四苦八苦していた。
「ご、注文はお決まりでしょうか?」
「これと、これと……これで」
「かしこまりました。少々々お待ちください」
経験が無いと言っていたわりに、シルヴィアはよく働いていた。もとが真面目で物覚えがいいから、すぐに仕事を覚えられたようだ。
しなを作るのは下手糞な上に緊張してガチガチだが、そこが初々しくて良いのか客の目も好意的である。もとが美人なのもかなり大きいだろう。
しかし慣れれば問題なく仕事をこなせるだろうとジルが思い始めた矢先、シルヴィアが一人の客に捉まった。冒険者らしき中年の男の客だ。
「あんたかなりの別嬪さんじゃネェか。名前は?」
「し、シルヴィアです……」
問題なく仕事をこなしていたシルヴィアだが、マニュアルに無い想定外の事態に戸惑って男の手を振り払うことすら出来ない。
「見たとこあんた新人だな? どれ俺がチップの稼ぎ方を教えてやろう」
「は、はぁ……?」
男は下卑た笑いを浮かべてシルヴィアの手を引っ張り、自分の方に引っ張り寄せる。そしておもむろに手を動かし、
「ひっ……!」
スカート越しに尻を撫でた。実に厭らしい手つきで。
いきなり身体を触られたシルヴィアは肩を震わせ、気持ち悪そうに背筋を強張らせる。
遠くから見ていたジルは背中にヒヤリとしたものが流れるのを感じた。
それはシルヴィアが先日の様に激昂するのではないかという危機感だった。先日は路上だったが店の中で暴れられたらいいわけがきかない。
「やだ、あの人。ギャムジーさんじゃない」
「拙い奴なのか?」
そばを通りかかった店員が呟いたのを聞きつけて、ジルは訊ねた。
訊かれた店員は振り向いたが、次の瞬間ギョッとした顔になった。ジルの眉間に深いは皺が刻まれており、とても怖い顔になっていたのだ。
たじろぎながらも店員の女の子は答える。
「え、ええ。女の子にちょっかい出すからあちこちのお店で出入り禁止になってるの。この界隈じゃ有名よ」
「なるほど。じゃあ追っ払っていいんだな?」
それは確認ではなくて事実上の宣言であった。
ジルは返事も聞かずに走り出し、一息でギャムジーに接近すると、その腕を掴んでシルヴィアから引き剥がした。
「な、なんだテメエ!」
「お客様、そのような手で店員に触れられては困ります」
どっかで見た覚えのあるリアクションをするギャムジーに、ジルは冷静に言い放った。エメリナから教わったマニュアル通りの対応である。
だが丁寧な口調とは腕を握る力は骨が折れんばかりに強い。眉間の皺も限界まで寄っていた。
「てめ……!」
ギャムジーは素早く椅子から立ち上がり、掴まれていない方の腕を素早く動かして腰のナイフを掴む。
しかしその動きを予め先読みしていたジルの方が速い。刃が鞘から出てくる頃には、ジルのショートソードがギャムジーの首元に当てられていた。
「お客様。種も仕掛けも無い人体解体マジックを披露したくなければ、どうかお引取りください」
いつの間にか寄ってきていたエメリナが、女神のような微笑と裏腹な非常に物騒なダメ押しをした。しかも目が笑っていない。間違い無く本気で言っていた。
ギャムジーはジルとシルヴィアそしてエメリナに視線を巡らし、低く唸った後ナイフを納めた。
舌打ちしつつ無言で店を出て行く。
扉が閉まりきると、ジルはホッとため息を吐いた。シルヴィアが暴れだす前にどうにか事を納めることが出来たらしい。
「よく我慢したな。シル……!!」
シルヴィアの方を振り向いたジルは、自分の胸の高さにある彼女の顔を見て固まった。
信じられないことに、シルヴィアは目じりに涙を溜めていた。
「お……」
「お?」
「遅すぎるのだ! このばか者!」
強い衝撃が顎を突き上げる。
気がついた時には、ジルは天井を向いて倒れていた。
「あらあら怖かったのね。もう大丈夫よ、怖い人はもう居ないから」
エメリナがアッパーを喰らって倒れたジルを爽やかに無視して、シルヴィアの肩を抱いた。
取り乱して興奮が収まらないシルヴィアを、そのまま事務所のほうへ引っ張っていく。
ジルは眉間に皺を寄せて、呆然とそれを見送った。そして起き上がって溜め息を吐く。
情けない話、今になってシルヴィアが女性であることに気付かされた。普通女性なら、いきなり身体を触られれば怖くもなるだろう。
また先日のような暴力沙汰になるのではないかと一瞬でも心配した自分が恥ずかしい。まあ、結局暴力沙汰にはなったが。
「ジルさん」
硬い声に呼ばれて振り向く。店の女の子たちが厳しい目でジルを見ていた。
先頭に立ったリーダー格らしき女の子が首を動かして事務室の方を示す。フォローして来い、という意味だろう。
よく見ると店員たちに混じって男性客まで同じような目でジルを見ていた。
逃げることなんて出来るわけが無い。もとよりこのまま放っておくつもりなど無かった。
ジルは無言で頷き、事務室に入っていった。
「ヌッフフフフフ……見事な腕でしたな」
ジルが事務室に消えてしまうと、騒ぎを見ていた男の一人が呟いた。
商人風の、でっぷりと太った男である。
見に纏う服は絹製であらゆる所が金糸で装飾され、指には大きな宝石をはめた金の指輪が輝いている。悪趣味で胡散臭い出で立ちであったが凄い金持ちであることが一目でわかった。
「そこの君、あの剣士はどこの誰だね?」
商人は手近にいた店員をつかまえると、ジルの正体について質問した。
聞かれた女の子は男の胡散臭さに内心で引きつつも、質問には丁寧に答える。
「どこかのギルドの隊員さんだって聞きました。ジルさんっていうらしいです」
「なるほど。どうもありがとう」
男は懐から何かを取り出すと、それを女の子の手に握らせた。
脂ぎった手の感触に女の子は一瞬嫌悪を感じたが、手の中に落とされたものを見てその感情はたちまち霧散した。大きな赤い宝石が手の中で輝いていた。
恐ろしいくらい高額のチップに女の子は狂喜乱舞しながら去っていく。その背中を満足そうに眺めながら、男は呟いた。
「あの腕前、どうにかして手に入れたいものです。ヌフフフフフ……」
午前四時。
≪フェアリーサークル≫での仕事を終えた二人は寮への帰り道に付いた。
明け方も近い深夜、人通りはまったく無いと言っていい。
眠りに付いた寂しい通りを、二人は無言で歩いた。お互いなにも話そうとせず沈黙している。
シルヴィアもジルもその沈黙には息苦しさを感じていたが、何か話そうとすると言葉が出なかった。二人とも≪フェアリーサークル≫での出来事のせいで沈んでいたのである。
仕事自体は上手くいった。気を好くしたエメリナが給金を多めにくれたほどだ。
しかしやはり痴漢騒ぎのことが尾を引いていた。
シルヴィアは少し後悔していた。
いきなり身体を触られて動揺していたとはいえ、なにも悪くないジルを責めてしまったことを。後で謝りはしたものの、ジルの顔が落ち込んでいるように見えてシルヴィアも落ち込んでしまった。
ジルも後悔していた、そして自分を恥じていた。
女性にしては非常識なほどの剣の腕前を持ち、少年のように勇敢な性格をしているとはいえ、シルヴィアも一人の女性であることを忘れて配慮を欠いてしまった自分が恥ずかしい。後で謝ったが、シルヴィアがまだ動揺しているように見えてさらに反省した。
相手の落ち込んでいる理由がお互いの沈んだ表情にあることを知らず、二人はひたすら今夜の自分を反省していた。互いを思い気遣うあまり、すれ違っていた。
やがて寮の近所に差し掛かる。すると道の向こうから誰かが走って近づいてきた。
「ジル! シルヴィア!」
「カレンか?」
道の向こうから息を切らして走ってきたのは、スラムの孤児院のカレンであった。
全速力で走ってきた彼女は、ほとんど体当たりするみたいな勢いでジルの胸に飛び込む。ソレを見たシルヴィアのこめかみが、無意識のうちにピクリと動いた。
「どうしたんだ。そんなに慌てて?」
「シドニーが……」
カレンは顔を上げる。憔悴しきった表情だった。
「シドニーが、こんな時間になっても帰ってこないのよ!」
To be continued |