【#27 ハインツとイザベッラ】
ストン、と乾いた音を立てて、矢は的の中央を射抜いた。
その結果を当然のように淡々と受け止め、射手たる少女は次の矢を番える。その様子を、師である青年は厳しい表情で見守る。
再び弓を構えた少女は弦を引き絞り、的の中央に狙いを付けていく。山の空気がぴんと張詰め、全ての音が止んだ。
「っ!」
矢から指が離れたのは唐突の出来事だった。何千回と繰り返された動作は知覚よりも速い。少女が矢を放ったことを知覚したのは、指が離れてから刹那の間を置いた後のことだっただろう。
弓が撥ね、弦が空気を切り裂く。放たれた矢はまた的の中央を射抜いた。
少女は弓を下ろし、深く息を吐く。張詰めていた山の空気が緩み、絶えていた音が戻った。
「よし、そこまで」
満足のいく結果に相好を崩しながら、ハインツは声を掛けた。
少女の射は十五本連続で的中だった。的の中央には十五本の矢がひしめき合って、もう刺さるスペースが無い。固定標的が相手とはいえ、確かな実力が感じられた。
「これで合宿のすべて課題は修了だ」
「はいっ、ありがとうございます先生!」
「よく頑張ったな、イザベッラ」
ハインツは少女の栗色の髪を優しく撫でた。“イザベッラ”と呼ばれた少女は気持ち良さそうに目を細め、頬を緩ませる。
「ありがとうございます。ところで先生……」
「ん?」
返事をすると、イザベッラは上目遣いにハインツを見て、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「えへへ、それ!」
「どわ!」
いきなり抱き着かれて、ハインツは危うくバランスを崩しかけた。
「こ、こら!」
「先生……ご褒美を下さい」
叱ろうとしたハインツを遮って、イザベッラは甘えるような声を出した。わざと低くしたトーンが妙に艶っぽい。
胸元でそんな声を出されたハインツは、心臓が一際高く撥ねるのを感じた。悪寒と快感を足して割ったようなぞわぞわとした感覚が背筋を駆け抜ける。顔も急に熱くなった。
恐る恐る視線を落として目を合わせると、イザベッラの濡れた瞳にハインツの姿が映りこんだ。
見上げてくる少女の顔は、思春期特有の大人になりきれていないあどけなさが残っていた。しかしそれとは裏腹に、抱きつく身体には女性らしいメリハリが感じられた。少女と女が半々。女性として完成する直前のアンバランスさが、妖しい魅力を少女に与えていた。
滑らかな栗色の髪からは汗臭い臭いが漂ってくる。それは連日の山篭りのせいだったが、ハインツは不快には感じなかった。むしろ濃厚な体臭に、脳を揺らされた。
「キス、してください」
イザベッラは顎を上向けて、目を瞑った。
それは抗い難い誘惑だった。僅かに開いた桜色の唇にハインツの視線は釘付けになる。このまま抱きしめてしまいたい衝動が湧き上がって腕が震えた。少しでも気が抜けば、すぐさま目の前の果実を貪ってしまいそうだ。
ハインツは全力で誘惑に抗った。拳を握り締めて堪え抜いた。そしてなるべく平静を装いながら、口を開いた。
「アホか。そういう事はあと二つ、三つ歳をとってから言え」
ややぶっきらぼうに言って身体を離す。ついでに軽くでこピンをお見舞いしてやると、イザベッラは小さく悲鳴を上げて、額を押さえた。先程とは打って変わって恨めしそうな目で睨んできた。
「痛いです。子供扱いしないで下さい」
「実際子供だろうが?」
「むぅ……」
ハインツがきっぱり言い捨てると、イザベッラは顔を顰めて唸った。
そう、実際子供なのだ。たった今、抱きついてきてハインツを狂わせた愛弟子は、まだ十四歳になりたてだった。
「遊んでないで、さっさと夕餉の支度に取り掛かるぞ。明日早くに王都に発つからな」
ひらひらと手を振りながら、キャンプの方へと踵を返す。
背中の後ろで、深い溜め息の音が聴こえた。
「もういいです。勝手にやりますから」
「は?」
何を、と問う暇も無かった。
イザベッラはあっという間にハインツの前に回り込み、飛び掛かるように彼の唇を塞いだ。
驚きのあまり、ハインツは硬直した。
唇を離したイザベッラは、上目遣いにハインツを見て微笑んだ。まるで練熟した娼婦のような、妖艶な笑みだった。
「うふふ、ご馳走様でした」
艶然と微笑んで捨て台詞を残すと、イザベッラはハインツを置き去りにして去っていった。
その後ろ姿が木立に紛れて見えなくなってから、漸くハインツは我に返った。
顔面がまるで火がついたかのように、一瞬で熱くなった。きっと今自分は間抜けな表情で顔を赤くしていることだろう。こんな恥ずかしい顔をしていてはキャンプに戻ることなどできない。
ハインツは脱力してその場に座り込んだ。
「また、やられた……」
突然キスされたのはこれで何度目だろうか。
いけないとわかりつつも、結局それを許してしまう自分がいるのが情けない。
「俺、ロリコンだったのか?」
できればその考えは否定したい所だが、二十二歳にもなって十四歳の少女に調子を狂わされているという事実が苦しい。そもそも誘ってくるイザベッラが一枚も二枚も上手だった。十四歳であの甘えぶり、末恐ろしいにもほどがある。
「周囲が止めないのも問題だよな……」
父親のテオドロも、執事のアルバンも、他の使用人たちも、イザベッラがハインツにくっ付く事を完全に黙認している。没落しているとはいえ貴族の令嬢、普通は平民の男との必要以上の接触は避けるべきだというのに。
おそらく彼らはイザベッラを止める気が無いのだろうと思う。少なくとも父親のテオドロは娘の好きにさせるはず。彼がハインツを雇った経緯を考えれば、きっとそうだろうと思った。
イザベッラと出会ったあの日。ハインツは屋敷の応接間でクレメンティ父娘と向き合った。
中庭での衝撃的な出会いのせいか、娘のイザベッラはばつが悪そうに俯いている。ハインツにしても顔面で尻の感触を味わったことで、まともにイザベッラの方を見られなかった。
テオドロは微妙に気まずい雰囲気を漂わす二人に首を傾げながら、話を切り出した。ハインツもひとまずイザベッラのことを頭の隅に追いやって話を聞く体勢になった。
「そもそもクレメンティの没落は実力の零落によるものだ。恥ずかしい話、近頃のクレメンティ家は武功も立てられず、ただ居るだけの存在と化してしまっている。私はこの状況を打破して、クレメンティ家の名誉を取り戻したい。それには確かな力をつける必要があるのだよ」
「何処かの家と良縁を結ぶとかですか?」
没落したとはいえクレメンティの権威は未だに健在だ。その気になれば婿の一人や二人探して来られるだろう。力のある家と縁を結ぶことが出来れば、繁栄を取り戻すことは難しくないだろう。
しかしテオドロは困ったような顔で首を横に振った。
「娘をお家再興の道具にすることに、どうも私は乗り気になれない」
言いながら、テオドロは苦笑する。その顔は穏やかで嫌味が無い。家の再興の話をしているというのに偉ぶったところもまるで無く、つくづく貴族らしくない男だとハインツは思った。
「だから私は別の方法をとりたいと思うんだ」
「まぁ、言いたいことはわかりますけど。でも具体的にどうやって家を再興するつもりなんです」
「私は娘を鍛えて出世させるつもりだ。幸い、この国には出世するのにうってつけの騎士団があるからね」
「……帝威騎士団か!」
「そう。帝威騎士団の名はこの国では大きい。セレクションに合格して入団資格を得るだけでも価値はある」
セレクションとは、帝威騎士団の入団試験のことだ。二年に一度行われるセレクションでは、受験者約三千人のうち百人に満たない合格者しか出さない。時には一人も合格者が出ないことがあるというから、その過酷さは想像を絶する。
つまり、この試験に合格することは、ただそれだけで学力、武術における実力の証明になる。その優れた実力を狙った貴族達から、団員に縁談が雪崩れ込むのは実に有名だ。
「イザベッラが帝威騎士団に入団すれば、ただそれだけでクレメンティの評判は上がる。実績を上げれば出世も遅くないだろう。なにより、うちには聖女王エオウィン様より賜った“聖弓”がある」
「聖弓って……本当に存在したんすか!?」
驚くハインツに、テオドロは頷いて見せた。
“聖弓・アヴァリス”はレンスターの初代女王・エオウィンが今は亡き旧帝国、神聖エリン帝国を打倒する際に、クレメンティ家初代のロビン・クレメンティに与えた伝説の武具だった。
一説によればそれはマジックアイテムの最高クラスに当たる神器級の武具で、弓であるにもかかわらず敵を射抜くのに矢を必要としないという、耳を疑うような出鱈目な品だそうだ。
「代々受け継がれてきた聖弓の力を十二分に発揮できれば、戦場で武功を上げることは決して難しくありません。それは現在の所有者である私が一番よくわかっています」
それまで黙っていたイザベッラが口を開いた。話しながら左手に目を落とし、指を開いたり閉じたりしている。まるでその手になにかが隠されているかのような動作だった。
「ですが私には聖弓の力を引き出す実力が不足しているんです」
悔しそうな顔で俯いたイザベッラの後を、テオドロが引き継いだ。
「実力が伴わなければ優れた武具も宝の持ち腐れと言うものだ。だから君には娘のイザベッラの弓の師匠になってもらいたいのだよ」
「はい?」
いきなり自分の話になったせいか、ハインツは一瞬言われたことが理解できなかった。そしてやや遅れて理解して慌てた。
「俺がっすか!? いや、ムリ! 無理ですよ! 今まで誰にも教えたことなんて無いんすから!」
「そうか。無理なら仕方が無いね」
思いのほかアッサリとテオドロは引き差がる。しかしその異常な引きの良さに、ハインツは何か嫌な予感がした。
「しかし君は最近碌に仕事が出来ていないと聞いたが? この平和なご時勢だ。次の仕事にありつくには大変じゃないのかな?」
「う……」
見事に図星を突かれて、ハインツは押し黙った。
確かに最近この国は平和そのもので碌な仕事が来ない。しかも金にならない仕事ですら傭兵達で取り合いになる。
その上更に、東の国境で溜めた貯えもそろそろ尽きてきている。ハインツの未来はお世辞にも明るいものとは言えなかった。
「私は娘の師匠になってくれる人物には住み込みで働いていただいて、給金も払うつもりなんだ。しかし無理なら仕方が無いかな?」
「う、う……」
寝床に食事に給金。今のハインツには喉から手が出るほど欲しいものだ。
「私は一応子爵だから、半年後のセレクションに推薦する権利も持っているんだけれどね。実に残念だなぁ」
「……」
帝威騎士団に入団できれば、その日暮らしの傭兵稼業から足を洗うことも出来る。これ以上の条件はほかに無い。
その上、テオドロの隣のイザベッラがさっきからこちらを見ていて、その視線が痛かった。心なしか微かに目が潤んでいて、拒否する勇気を著しく削いでくる。
ハインツが陥落したのはその一分後のことだった。
(で、現在に至るというわけか……)
ハインツは半年前の回想から現在に意識を戻した。
修行を終えて下山する途中だった。イザベッラが先行して山道を駆け、ハインツがその後を追っていた。
木々の生い茂った山の中、木の根や石がそこらに張り出した不安定な足場だと言うのに、二人のスピードは平原を走るよりも速い。まるで狼か狐のような獣じみた疾走だった。
ハインツは走りながら、前を行くイザベッラの背中を見つめる。
この半年間の彼女の成長は目覚しかった。初めは他人よりそこそこ上手い程度しかなかった弓の腕も、今では一流の腕前となりつつある。この半年間の恐るべき成長は、クレメンティの血を感じさせた。
「ねえ、先生」
「ん?」
「お尻に視線を感じるのですけど……もしかして抱きたくなりました?」
「ぶはっ!」
突然とんでもない事を言われ、ハインツは危うく躓きそうになった。顔が熱くなるのを感じながら、何とか体勢を立て直す。
「アホか! おかしな事言ってないでキリキリ走れ!」
「あだ!」
ハインツが蹴り上げた小石が、イザベッラの後頭部にこつんと当たった。
(まったく……)
ハインツは深い溜め息を吐いた。走るのは苦ではないのに、会話をすると精神がどっと疲れた。
思えば、この半年間こんな溜め息を吐いてばかりのような気がする。
いきなり始まった師弟関係に衝撃的な出会いもあって、最初はギクシャクしていたイザベッラとの関係も、言葉を交わすうちに打ち解けていった。
そしていつしか、イザベッラはハインツに強い好意を向けてくるようになっていた。弟子としてではなく一人の少女として、彼女はハインツに恋をしていた。
その気持ちをイザベッラは懸命に伝ええてくる。時に可愛く、時に少女らしからぬ艶っぽさで。最近ではいきなり抱きつかれたりキスされたりすることも珍しくない。
一番問題なのは、ハインツ自身もそれを受け入れつつあるということだった。信じられないことだが、八歳も年下の少女に惹かれつつある。
もうすぐ行われるセレクションで帝威騎士団に入団できれば、一代限りとはいえ、ハインツは貴族になることが出来る。イザベッラと結ばれることも、決して不可能ではない。そのためかセレクションが近づくほど、自分の中に緊張感の高揚感が溜まっていくのをハインツは感じていた。
数日後にはセレクション。山を下りたらハインツもイザベッラの師匠ではなく、彼女と同じ受験者ということになる。
だが彼女との関係の変化は、決してそれだけでは止まらないような気がした。
To be continued |