【#24 雨と泥に塗れて】
叩きつけるような雨は冷たく、凍える身体は強張っていた。
思うように動かない自分の身体をもどかしく思いながら、プリシッラは水溜りだらけの裏道を駆けていた。
一歩踏み出すごとに泥水が跳ね、靴や脚を汚していく。
背後には追跡者たちの気配。しかし気配はあれど姿は見えず、足音ひとつ聞こえない。それは追跡者たちの多くが、手練れの暗殺者であるせいだった。彼らはこの大雨の中でも足音一つ立てず、泥水を跳ね上げる事も無く、ただ静かに追いかけてくる。おまけに今宵のような雨の降る夜では、人の姿など簡単に闇に紛れてしまう。常人よりもはるかに感覚が鋭く夜目が利くプリシッラでも、こんな状況では暗殺者の姿を確認することは不可能だった。
大粒の雨は額を流れて目に入りこもうとしてくる。それを泥だらけの腕で拭おうとしたその時、プリシッラは上方からの視線を感じて頭上を仰いだ。
暗殺者が二人、左右の住宅の屋根からプリシッラを挟み込むようにして飛び降りてくる。
左右からほぼ同時に突き下ろされる、二本の短刀。
雨粒に濡れ光る白刃が、急所を目掛けて襲い掛かる。
「この……っ!」
プリシッラは背の矢筒から矢を一本引き抜くと、ぬかるんだ地面を蹴って高く跳躍。宙返りして左の短刀を躱し、空中で逆さになった体勢のまま弓を構える。
「がふっ!」
放たれた矢は右から来た暗殺者の首を抉った。
プリシッラは泥を跳ね上げながら着地した。短刀の先が僅かに掠めていたのか、リボンが千切れ落ちて豊かな髪がバサリと広がった。しかし今は髪のことを気にしている暇など、プリシッラには無い。
着地とほぼ同時に次の矢を引き抜き、弓に番えながら、もう一人の暗殺者に振り向く。
「ぎゃ!」
眉間を貫かれた暗殺者の手から短刀が滑り落ちた。
その直後、プリシッラは反射的にぬかるんだ地面に身を投げ出した。
泥の上を転がる少女を追いかけるように、上から飛んできた何かが、次々と地面に突き刺さる。それは先日隊員寮に侵入した男を始末したのと同じ、毒が仕込まれた飛び爪だった。
プリシッラは泥塗れになりながらも、なんとかそれをやり過ごすと、すぐそばにあった廃屋の入り口に頭から飛び込んだ。
「追え!」
向かいの家の屋根から三人の暗殺者が飛び降りて、少女が逃げ込んだ廃屋に突入していった。
そんな光景を一人屋根の上に残った小柄な影が見下ろしていた。フードの下からギラギラと鋭い目を覗かせて、眼下の廃屋を俯瞰する。
突如、廃屋の中から暖かなオレンジ色の光が溢れ出した。その直後、絹を裂くような悲鳴が廃屋の中から轟いた。
屋根に残った小柄な暗殺者は、微かに感嘆の溜め息を吐いて呟いた。
「なかなかやるな」
その声は細くしわがれた老人のものだった。
再び男の悲鳴が轟いた。これで二人目、中に入ったのは三人だから残るは一人。
そう思って十秒もしないうちに残る一人が慌ただしい足取りで廃屋から飛び出してきた。そしてその後を追うように飛んできた矢が、首の後ろに突き刺さった。
「あっさりと全滅か。不甲斐無いことだ」
「同感ですな、グイード老」
「お前さんか、ローターよ」
平坦な声で呟く老人の隣に、いつの間にか男が立っていた。背が低く線の細い老人とは対照的に、長身でがっちりとした馬面の男だった。
“ローター”と呼ばれたその男は傍らの老人、“グイード”と同じように廃屋を俯瞰しながら感情を含まない声で吐き捨てた。
「コルトの奴といい今の連中といい、我ら猟犬もレベルが下がりましたな」
「仕方がない。前隊長の無能さ十年前の叛乱で多くの有能な同志を殺してしまったのだ。死んだコルトとて、今まで生き残ってきただけでも頑張った方と言えよう」
「お優しいですな、グイード老は」
そうは言ったがローターは心にも無いことを言った自分に苦笑した。
彼の知るグイードという老人は優しくもなければ甘くもない。なにしろ暴走したコルトを独断で始末したのは他ならぬこの老人自身なのだ。
「それに相手が悪かった」
「ですな。あの娘はなかなかできる。あの程度の連中には荷が重いでしょう」
グイードの言葉にローターは大げさなほど大きく頷いた。
レベルが下がったとはいえ、倒された者たちは彼らの隊長が認めた一人前の猟犬。そこらの傭兵一人に全滅させられるほど弱くはない。それにも拘らず全滅させたということは、プリシッラの実力は彼らをはるかに凌駕するということだった。
「あの“ハインツ・ティーク”の娘と言うだけの事はありますな」
「そうだな。久しぶりに追い詰め甲斐のある獲物だ」
「ふ……まったくですな」
ローターの眼光が燃えるような熱さを帯びる。それはかつて無い難敵の登場に昂ぶる狩猟者の目だった。
「さて、わたしは隊長のところに報告に戻る。お前さんは……」
「自分は引き続きプリシッラ・ヴァレンタインの監視を行います」
「倒された連中の死体の始末もしておけ」
「いつも通り、山中に運ばせて酸の中に漬け込んでおきます」
グイードはひとつ頷くと、ローターをその場に残して屋根から飛び降りた。
暗い迷路のような裏通りに降り立ったグイードは北西区へと走った。
文字通り王都の北西部に位置する“北西区”は、巨大な倉庫の立ち並ぶ倉庫街だった。王都マグメルドに運ばれた物や馬は全てここに集められ、やがて各商店へと散らばって行く。いわばここは王都及びレンスター王国における物流の心臓部と言えた。
静まり返る倉庫街に着いたグイードは、ある倉庫に足を踏み入れた。そこは二週間ほど前から使われなくなった廃倉庫だった。
「隊長」
「グイード老か」
暗闇の中に小さな赤い火が浮かんでいる。それは木箱の上に座っているマティアスの燻らせている紙巻き煙草の火だった。
倉庫に入ってきたグイード老は、木箱に座るマティアスの前に跪いて頭を垂れた。
「今夜の作戦、終了いたしました」
「そうか。首尾はどうだ?」
「隊員は私とローターを残して全滅。ですがかなり疲弊させたかと思います」
「なるほど。そろそろ罠に掛かる頃合いだな」
マティアスは紫煙を吐き出しながら嗤った。
プリシッラをギルドの寮から出るように仕向け、断続的に襲撃を加えることで追い詰めて、神弓を持ち出させる。それがマティアスの計画だった。
コルトが暴走した時は正直焦ったが、彼が起こした騒ぎのおかげで、結果的に計画の第一段階は達成された。暴走の咎でグイードによって始末されたコルトだったが、最後の最後で役に立ってくれたと言えるだろう。
「引き続き監視を続けろ」
「承知いたしました」
グイードは深々と頭を下げて暗闇の中に消えていった。十秒もしないうちに気配も完全に消え去り、マティアスはいつもの事ながら感心した。
現役として活動できるのは四十までと、言われる暗殺者の世界。その中で七十を越えても現役を貫き通しているグイード老は、もはや生きた伝説だった。昼は人混みに紛れ、夜は闇に隠れ、音も無く忍び寄って、一瞬にして殺す。そんな暗殺者としての理想の在り方を、誰よりも忠実に体現している人物だった。
マティアスは短くなったタバコを吐き捨て、新しいものを取り出して火をつける。
「そろそろお前の出番だ」
紫煙を吐きながら暗闇の向こうに声を掛けると、そこに控えていた人物がびくりと肩を震わせた。
緊張して固くなっているのが闇を通じて伝わってくる。素人だから仕方が無いと言えば仕方が無いが、かといって失敗されては堪らない。
ここは一つ、しっかりと役割を理解させておかなければならないと思い、マティアスはダメ押しの一言を口にした。
「お前が計画の要だ。頼りにしているぞ」
放ったのは自覚を促す言葉だ。下手に励ます事はしない。意味の無い慰めや励ましは油断を生む。そしてそれが失敗を生み出す。だからそうなるくらいならばプレッシャーを掛けて腹を括らせた方がいい。そうして躊躇いが無くなれば計画の成功率はむしろ上がってくれる、とマティアスは考えたのだった。
どうやらその目論見は上手くいったらしい。闇の向こうの人物は唾を飲み込むと、全身を震わせながら頷いた。
マティアスは満足そうに嗤い、再び紫煙を吐き出した。
獲物は既に罠のうちに囚われている。猟犬の狩りは最終段階に入ろうとしていた。
「んく、はぁ……」
愛らしい唇の間から漏れた吐息は、炎のように熱かった。泥だらけの身体は疲労しきっていて、鉛のように重い。
裏通りの一角で力尽きたプリシッラは、その場にへたり込んで壁に身体を預けた。
「っけほ、げほこほっ!」
喉の奥がいがらっぽくて痛み、堰が出るのを我慢することが出来ない。身体は雨で冷え切っているはずなのにとても熱くて、頭に回った熱のせいで意識が朦朧としてくる。
寮を出てからの三日。雨にうたれながら夜を明かし、ろくな食事も摂らないで過ごしたせいで、プリシッラは風邪をひいてしまったようだった。
その上で先程の戦闘を行ってしまったがために、なけなしの体力を使い果たしてしまって、もう一歩も動けない。だというのに、胡乱な意識の中では気ばかりが急いていた。
(早く……どこかに。ゆっくりと休めるところに……行か、なくちゃ)
敵の追撃を受けないためにも、プリシッラは一刻も早くどこか休める場所に移動しなくてはならなかった。このままここでへたり込んでいても、独りで仲間のもとを去った彼女を助ける者はいない。
(風邪なんかに負けて堪るもんか……こんな所であんな奴らに殺されて堪るもんか!)
プリシッラはずりずりと地面を這って進んだ。
進めば進むほど泥で汚れ、熱は酷くなって意識が朦朧となってくる。荒く呼吸をするごとに水溜りの泥水が口に流れ込み、きつく食い縛った奥歯が砂粒を噛み砕く音がした。
(奪われたまま、何も取り返せないまま終わらせないんだから……!)
薄汚い泥を飲んで這い進むのは辛くて屈辱的だった。なぜこんなことをしているのかと悲しくなってきた。しかし、使命への激しい執着が彼女を突き動かした。
失われた名誉、踏みにじられた誇り、果たされなかった無念。
プリシッラはそれらを全て取り戻さねばならなかった。どんなに苦汁や辛酸を嘗めようとも、絶対にやり遂げられなければならなかった。それが彼女に課せられた宿命であり、彼女が自身に課した運命だから。
(あたしの手で、やり遂げなくちゃ……絶対に……やり遂げて、みせるんだから!)
けれど歯を食い縛って耐えてもいずれ限界は来る。最初にへたり込んだ位置から十メートルほど進んだところでプリシッラはついに力尽き、彼女の意識は唐突に闇に閉ざされた。
レンスター南部、ゴリアスの街のメインストリート。
碧玉騎士団の駐屯地で行われていた会議を終えて宿屋に戻る道すがら、ウィルが平坦な声で切り出した。
「厄介な事になりましたね」
「……ん、ああ」
曖昧な返事をする上司に、ウィルは微妙な顔になる。
正午過ぎにこの街に着いた時からクライドはどこか上の空だった。会議の時は一見しゃんとしていた様に見えたが、今思い返して見ると極端に口数が少なかったような気がする。いつものクライドならば、このような会議の時は騎士や他のギルド代表の意見の間違いを、率先して指摘する立場を取っていたはずだった。
(やはり、この街は特別だということか。この人にとっては特に)
レンスター王国は十年前の内乱から、南部地方の一部が分裂状態にある。そしてここゴリアスの南に位置するクゥエン山脈は、王国の支配域と反乱勢力の支配域を分ける境界線だった。そしてその境界線を抜ける数少ない道のうちでもっとも王都に近いラインアルト峡谷も、ゴリアスのすぐ南にある。
そのため、十年前の内乱ではこのゴリアスの街は戦場となった。騎士達で構成された王国軍と、平民を中心とする共和主義者の反乱軍が市街で衝突したのだ。その結果、戦いに巻き込まれた何百人もの罪も無い市民が犠牲となった。これが現在“ゴリアスの悲劇”と呼ばれる事件だった。
この事件で王国軍の指揮を取り、反乱軍をクゥエン山脈以南に押し戻したのが、クライドだった。
(人々はこの人を救国の英雄と呼ぶが、それが重荷になったのだろう)
人々は知らない。クライドがこの戦いで同じ帝威騎士団の同僚にして、最愛の恋人だった女性を亡くしていることを。
それが彼が騎士団を辞めた理由だということを、ウィルはミラから聞いて知っていた。
(本当は剣を執ることさえ辛いだろう。しかし、俺たち≪ストライダー≫はこの人を必要としている)
知られざる事実を知らされた今、クライドを戦わせてしまうのはウィルとしても心苦しい。しかし≪ストライダー≫はもちろんのこと、王国もクライドの剣を必要としている。
だからこの人の負担が少しでも減るように助けとなろう。それこそウィルが≪ストライダー≫にいる理由だった。
ウィルは物思いを打ち切って、再び事件の話をクライドに振った。
「機密とは聞いていましたが、まさか宝具クラスのマジックアイテムとは……」
「そうだな」
「単体では意味が無い能力のようですが、然るべき要素が揃えば恐ろしいことになります」
それがウィルの今回の事件に対する見解だった。
南部の戦線から盗まれた機密と言うのは、ゴリアスから程近い古代遺跡で発見されたマジックアイテムだった。魔道士たちによって解析が進められていたそれが、何者かによって盗み出されてしまったらしい。
なによりも驚いたのはそれが一月も前の出来事だったということだ。
盗まれたマジックアイテムの階級は上から二番目の宝具級。悪用されれば国の一つや二つが、簡単に倒れかねないような危険な品だ。にもかかわらず各ギルドへの救援要請までに一ヶ月も要したのはいくらなんでも対応が遅すぎだった。
その原因は解析を監督していた管理者が盗難の事実が上役に伝わる前に内密に処理しようと、その場凌ぎの対応と情報の隠蔽を繰り返したことだった。
「まだ被害は出ていませんが、悪用されれば被害は国中に及ぶかもしれません」
「そんなことはさせねえよ」
先程とは打って変わって強い口調に、ウィルは目を見張ってクライドを見た。
「イグレーヌが命を懸けて守り抜いた国なんだ。絶対に壊させねえ!」
“イグレーヌ”、十年前にクライドが亡くした恋人の名を聞いて、ウィルは悟った。
クライドはゴリアスの街を見て悲しみに浸っていただけでない。彼が剣を執るのは≪ストライダー≫たちが彼を必要としていることだけが理由ではない。
全てはイグレーヌのために。イグレーヌの守ったレンスター王国のために。
クライドはこの国を守ることで、イグレーヌへの想いを貫こうとしている。ゴリアスの街を見て上の空だったのは、その決意を新たにするためだったのだ。
瞳に決意を露にするクライドは、英雄の風格を持っていた。彼がどれだけ重荷に感じようと、クライドはやはり英雄なのだと、ウィルは思った。
それは腹の底に轟く、大きな鼾を掻いていた。
鼾を掻く度に顎の間からオレンジ色の炎が漏れ、ずらりと生え揃ったナイフのような牙がギラギラと光る。人が寝返りをうつ時のように僅かに身じろぎすると、鉄よりも硬い鱗が擦れ合ってジャラジャラと音を立てた。
夢に中で安らぎながらも、その迫力は少しも鈍らない。横たわる巨体の内に、他の生物を遥かに凌駕する圧倒的なエネルギーが秘められているのが、ひしひしと伝わって来た。
「思えば最初からこれを使えばよかったのだ。そうすれば猟犬どもに足を引っ張られることも無かった」
ドナート卿は狂気に血走った目でそれを見上げ、溢れる喜悦に身を震わせた。
「素晴らしい力だ! 如何な強者であろうとも、これを前にしては蟻に等しい!」
彼の手に握られた“指揮棒”が、音叉のような唸りを響かせた。横たわる巨体はそれを聴いたせいか、不愉快そうに身を捩った。
「下賎な平民の娘も! 役立たずの猟犬どもも! 忌々しい簒奪の女王も! すべてこの炎で焼き尽くしてくれる! そしてこの私が! 再びこの地に栄光の帝国を築く!! 私が皇帝となり、永遠に輝き続ける大帝国を築くのだ!!」
哄笑が闇に響き渡る。
それに反応したのか、指揮棒は一際大きく唸る。
闇に横たわる巨体が目を醒まし、眼窩に不気味な赤い光を宿した。
To be continued |