【#23 春の長雨】
【#23 春の長雨】
王都マグメルドは天上の星々がもっとも明るく見える土地に建っている。故にこの街には夜中に出歩く時にランプを持つことは少ない。煌々と明るい月や星々の光のお陰で夜道でも十分に明るいからだ。
しかしそれでも曇天時や雨天時には街は暗くなる。そのため貴族の邸宅が建ち並ぶ“貴人街”には、空気中の魔力を吸い上げて光を放つ“魔灯”が設置されていた。
今がまさにそれらが必要な時なのだろう。マティアスが貴人街を訪れると、等間隔に設置された魔灯はランプの火とはまた違う、透き通った白光を放って怜悧に輝いている。
マティアスは持っていたランプの火を吹き消すと、苦々しい面持ちで溜め息を吐いた。
コルトが≪ストライダー≫の隊員寮に独断で潜入していた頃、彼は依頼主の屋敷に向かっていた。今朝の作戦が失敗したことを報告しなければならなかったからだ。
これから自分の失態を自らの口で語ると思うと、マティアスは己のプライドがギリギリと軋みを上げて、背中の辺りがムズムズとざわつくのを感じた。
落ち着かない気分を落ち着かせようとして、自分の胸元になにげなく目を落とす。服と身体の間にある僅かな膨らみ。冷たく堅い金属の感触を首に与えて来るそれは、貴族の証たる“御印のペンダント”だった。
レンスターの貴族は平民との差別化を図るために、家柄と階級を示すペンダントをもっている。これは出生時に王国から支給される特別な物で、金属板の家紋を一目見ただけでどこの家の出身かわかるようになっている。また材質の金属は金、銀、銅の三種があり、どの金属でできているかによって、家柄の格が示されている。
マティアスもまた貴族の端くれだった。しかし彼のペンダントは普通の貴族のものとは異質なもので、材質が三種のうちどれにも当てはまらない“黒鉄”でできていた。通常では考えられない“黒鉄”の御印。それは誇りであると同時に、決して断ち切れない縛鎖であった。
ペンダントに目を落として物思いに耽っている内に、マティアスは目的地に到着していた。
彼には一生縁が無さそうな“まっとうな貴族”の邸宅。こういうものを見ると、依頼主の貴族と自分の間にある決定的な隔たりを嫌になるほど感じさせられるのだった。
「失敗しただと!」
マティアスの報告を聞いた依頼主の“ドナート卿”は激昂し、唾を飛ばしながら大声で怒鳴った。怒りに駆られて立ち上がった拍子に、革張りの立派な執務椅子が後ろに倒れた。
「役立たずが!! 貴様それでも≪ミレニアム≫の一員か? なんのためにあの組織がある!?」
怒り狂うドナート卿に罵られ、マティアスは胸中がざわつくのを感じた。卿の反応は想定の内だったが、それでも自分の根本を揺るがすような罵りにはプライドが軋んだ。
胸の内に芽生えた微かな反発を悟られないよう、マティアスは申し訳なさそうな顔を作った。
「わかっている。≪ミレニアム≫は王国の汚れ仕事を請け負う王国の暗部。繁栄を闇より支える必要悪……」
「そうだ! しかしそれが薄汚い平民の小娘一人相手に全滅しただと!? 貴様には闇の貴族として恥ずかしくはないのか!!?」
怒鳴るうちに怒りが頂点に達したらしいドナート卿が、机を殴った。それでも怒りが収まらないのか、歯軋りをしながら机の表面に爪を立てて掻き毟る。高貴な雰囲気の執務室に、がりがりと不愉快な音が響く。
憤怒と妄執に駆られ、あまりにも醜い様を曝け出す貴人を見て、マティアスの中の反発は侮蔑へと変わっていった。
(あんたの言う通り、王国の必要悪を担うのが俺たち“猟犬”の使命だ。だが今回のあんたの……いや、昨今の貴族の依頼は果たして本当に王国に必要なものなのか?)
叱責に項垂れているような見た目とは裏腹に、マティアスは冷めた心でドナート卿を見つめた。
闇の貴族はどんなに大きな働きをしても、それが日の目を見る日は来ない。名誉も名声も富も手に入らない。
しかしそれでもマティアスはいいと思っている。闇の貴族の働きが公に出せないものであればあるほど、王国にとっては重要な任務であるということになる。だからこそマティアスは、どんなに下劣な任務であっても王国を支える任務をこなすことに誇りを持っていた。
逆に言えば、マティアスは個人的な理由で自分たちを利用しようとする昨今の貴族は侮蔑に値する、と考えていた。だが、侮蔑に値するからと言って仕事を突っぱねるわけにもいかない。
「失敗に言い訳はしない。次こそは上手くやる」
「当たり前だ! 奴はこの私の命を狙っているのだ! 私が殺されれば王国の一大事。故にそうなる前に始末をつけなければならん!!」
(なるほど、そういう理屈か……)
とんだ屁理屈だが、≪ミレニアム≫が動くには十分だろう。昨今の貴族と同じで、組織も腐っているのだから。
「それに、汚らわしい平民の娘が“聖弓アヴァリス”に触れているというのが、私は我慢ならんのだ!」
その時、ドナート卿の瞳に凶暴な意思の光が宿るのをマティアスは見た。
机を引っ掻く手はいつしか爪が剥れ、血が出ている。しかしドナート卿は痛みを感じていないかのように引っ掻くのを止めようとしない。
例の稀少品だという弓の事を言い出した途端に顔を出した狂態に、マティアスは好奇心が湧くのを感じた。それに、気になることもある。
「聖弓アヴァリスか。どこかで聞いた名だな……」
ドナート卿が今まで明かさなかった品の名を、マティアスは知っていた。遠い昔にどこかで聞いた覚えがあるが思い出せない。
するとそんなマティアスを見たドナート卿が嘲笑うような表情で言った。
「ふん、そんなことも知らんのか? 聖弓アヴァリスとは簒奪の女王エオウィンが“神聖エリン帝国”から奪った至宝だ!」
「……なるほど、そういうことか」
ともすれば反逆罪に問われかねないようなドナート卿の物言いを聞いて、マティアスは聖弓アヴァリスの正体を思い出し、依頼主がそれを求める理由を把握した。
近年、レンスター王国では一部の貴族が“亡国主義”という思想に傾倒している。これは前王朝の神聖エリン帝国こそ至上の国家であり、レンスター王国など簒奪者が作った偽りの国家に過ぎない、という反王国的な考え方である。そしてこれに傾倒している者の殆どが、レンスター建国以前から貴族の身分であった家柄の者たちであった。そのため彼等は建国時や建国後に貴族の身分を得た者たちを蔑視する傾向がある。ドナート卿はその典型だった。
だとすればドナート卿が聖弓アヴァリスを求めるのは当然と言えた。帝国再興を悲願とする亡国主義者には、エリンの至宝であった聖弓は喉から手が出るほど欲しいはずだった。
(王国を支える≪ミレニアム≫の俺が、反王国主義者の手助けをする羽目になるとはな)
マティアスは己の不幸を心底呪った。
己の存在意義を守るために、己の信念に背を向ける任務に従事しなければならない。それは身を引き裂かれそうなほどの、苦痛と屈辱だった。
「あれは薄汚い平民などが触れてよいものではない! なんとしてでも刈り獲れ! 命を投げ打ってでもだ!!」
喚くように命令したドナート卿の目にはもはや狂気以外のなにものも映っていない。
こうなったらもはや会話は不可能、と判断したマティアスは、鼻息荒く睨み据えて来るドナート卿に恭しく礼をして、足早に執務室を立ち去った。
マティアスの誇りはボロボロだった。闇の貴族と言う己の在り方を肯定すればするほど、誇りが傷ついていく。しかしそんなマティアスを慰めるものは、その誇りを傷つける任務しかなかった。プリシッラ・ヴァレンタインがより無残で陰惨な最期を向かえることが、彼にとっての慰めだった。
屋敷の外に出たマティアスは曇天の空を見上げた。湿った風が頬を撫で、湿気のにおいが鼻につく。
(嫌な空だ)
マティアスは特に理由も無いのに、直感的にそう感じた。見てくれはただの曇り空のはずなのに、見ていると漠然とした予感が広がってくる。なにか悪いことが起こる予兆のような気さえした。
マティアスは知らないが、結果的にそれは当たっていた。同じ夜、コルトが暴走して始末され、ドナート卿の狂気はマティアスにも矛先を向けはじめていた。
途切れることのない雨音が、分厚い鎧戸を通して伝わってくる。
外はバケツをひっくり返したような土砂降りの雨。丸三日降り続いているそれは春の長雨。これが降り止んだ頃、王都マグメルドは急激に気温が上がって、初夏を迎えることになる。
寮のロビーで書物に目を落としていたシルヴィアは、玄関の扉が開く音を聞いて顔を上げた。
強風の音とともに大粒の雨が中まで吹き込んでくる。帰って来たのはやたら身長差のある女傭兵の二人組、凸凹コンビとして名高いグレースとジャネットのペアだった。
「あ、シルヴィアただいま」
ソファに座るシルヴィアに気づいたグレースが豪快に微笑んで寄ってくる。濡れた身体を拭かないままロビーを横切ったために床のあちこちに雫が垂れ、ジャネットが渋い顔をした。
「お疲れさま」
「うん、マジで疲れたわ。全身濡れて寒いったらありゃしない」
シルヴィアはジャネットに向けて言ったのだが、グレースはそれを勘違いしてうんうんと大きく頷いた。空気の読めない相棒にジャネットは深い溜息を吐き、シルヴィアは苦笑した。
「シルヴィアは本を読んでたのかい?」
「うむ。ここにいる間、暇だったのでな……」
「なになに“ルーカンとロビンの冒険”? レンスター建国伝説の一つだっけ?」
“ルーカンとロビンの冒険”。それはレンスター王国を建国した聖女王エオウィンの家臣であるルーカンとロビンが数々の冒険を繰り広げる物語で、身分を問わず最も多くの人に愛され、シルヴィアがもっとも好んでいる騎士物語だった。また、シルヴィアにとっては好みにかかわらず縁の深い物語であった。
「あたしもこれ好きだよ。豪快なルーカンと賢いロビンの友情がまた好くってさー。それに……」
「グレース」
捲し立てるグレースをジャネットが遮った。
「お風呂に行きましょう。濡れたまま話していたら風邪を引いてしまうわ」
「大丈夫大丈夫。あたし風邪なんて引いたことないから!」
「……馬鹿とは本当に風邪をひかないものなのね」
ジャネットが小声でとんでもない毒舌を口にしたのを聞いて、シルヴィアはぎょっとしてグレースを見上げた。しかしグレースは怒っていない。身長差がありすぎて聞こえていなかったようだ。
「とにかく、貴女が大丈夫でも私はそうではないわ。ほら、早く着替えを取りに行って」
「ちぇっ。しょうがないなぁ」
渋々といった様子で階段を上っていくグレース。その背中が見えなくなると、ジャネットは済まなそうな顔でシルヴィアに振りかえった。
「ごめんなさいね、邪魔をしてしまって」
「いや、ちょうど気が滅入ってきていた所でな。グレースが騒いでくれたおかげで幾分気が紛れた」
「まだ戻っていないの?」
主語を省略した問いに、シルヴィアは苦々しい顔で頷いた。
プリシッラが寮から姿を消してから、三日が経とうとしていた。不可解な侵入者騒ぎのあったあの夜に姿を消したきり、彼女からの連絡は無い。寮に帰ってきた様子も無ければ、誰かが見たということも無かった。
理由は判然としない。判っている事と言えば、彼女が自ら出て行ったという事だけだった。
いずれ何事も無かったかのように帰ってくるのではないかと思い、シルヴィアはこの三日間こうしてロビーで帰りを待っているのだが、プリシッラが帰ってくる様子は一向に無い。先ほどジャネットに言ったとおり、そろそろ気が滅入ってきたところだった。
「こちらもまだ?」
再び来た簡潔な問いに、シルヴィアは隣の席に目を落とした。
誰もいない空席。シルヴィアの隣にいる筈のパートナーはそこにはいない。
ジルは雨が降り出してから自室で塞ぎ込んでいる。部屋からはあまり出て来ず、ほとんど人とも話そうとしない。食事や入浴に出て来た時にシルヴィアは何度か顔を合わせたが、幽霊のように青白い顔色をしていて足元も覚束ない様子だった。
雨が嫌いで雨上がりは気分が優れないとは以前聞いたことがある。だが今のジルの状態はただ単に雨が嫌いと言うだけでは済まないように思えた。
「着替えとって来たぞー」
「ありがとうグレース。ではシルヴィア、私はこれで」
ジャネットは深々と頭を下げると、グレースとともに浴場に向かっていった。
それを見送ったシルヴィアは、書物をソファに投げ出して大きく溜め息を吐いた。
ジルの事を考えていない時はプリシッラの事を考えて、プリシッラの事を考えていない時はジルの事を考えて悩んでいる。
悩みはそれだけではない。プリシッラがいなくなってからのニコの態度にもシルヴィアは悩まされていた。
パートナーが突然いなくなったというのにニコは動揺した様子も無く、探しにいく様子も無い。今日も仕事があるとかで“薔薇騎士の館”に出かけていってしまっている。
(私はなにをやっているのだろうな……)
一度にいろいろなことを悩んで、なに一つ解決できないでいる。なにも出来ないまま疲れと苛立ちばかりが募っていく。
「どうすればいいのだ……」
ポツリとそんな呟きが漏れたその時、再び玄関の扉が開いた。
「ああもう、最悪!」
苛立たしげな悪態を吐きながら、びしょ濡れになった女性がロビーに入ってくる。シルヴィアも知っている顔だった。
「カレン」
「あ、シルヴィア。こんばんは」
「こんばんは?」
首を傾げるシルヴィアに、カレンは呆れたように溜め息を吐いた。
「もう夕方よ」
「む、そうだったか」
悩んでいるうちに夕方になってしまっていたらしい。グレースとジャネットが帰ってきてから軽く二時間は経過していた。
「色々悩んでいるうちに、時間を忘れてしまったようだ」
「ジルのこと?」
「あと、プリシッラのことやニコのこともな」
「……呆れた。あんた悩みすぎよ。あれもこれもって欲張っていたら、全部ダメになるに決まっているじゃない」
「そう、なのか?」
疑問を返しながらも、シルヴィアはそうかもしれないと漠然と思った。
「そうに決まっているわ。ひとまずどれか一つに絞ったらどうなの?」
「しかしジルもプリシッラもニコもこのままにしておくことなど」
「だから!」
カレンは苛立たしげに唸った。そして人差し指を立ててシルヴィアの胸を突く。
「せめてどれか一つだけでも先送りにしなさいよ。今のままじゃあんたなにも出来ないまま倒れるわよ。それでもいいの?」
「いい筈が、無い」
「よろしい。じゃあこれからあんたはどうするべきなの?」
シルヴィアはカレンに言われるがまま考え始めた。なにを先送りするべきか、これから堂行動するべきなのか。その答えは、意外にすんなりと出てきた。
「カレン。ジルのことをお前に任せてもよいか?」
「……あんたはどうするの?」
「少し出かけてくる」
「わかったわ、ジルのことは任せて。付き合いは短くないから」
カレンの発したその言葉は、シルヴィアの胸に鋭い痛みを齎した。まるで自分がジルのことをまるで理解していないと言われているような気がしたのだ。
そうでなくともカレンはジルの幼馴染で、シルヴィアの知らないジルを知っている。シルヴィアにはそれが羨ましくて、同時に恨めしかった。
“薔薇騎士の館”は“フェアリーサークル”と同じ歓楽街の一角にある。見目麗しく着飾った青年達を目当てに、多くの女性たちが詰め掛ける人気店である。
そのため外が土砂降りの雨であるにもかかわらず、“薔薇騎士の館”は今日も繁盛していた。まだ夕刻もいいところだが、席は大分埋まっている。日頃の鬱憤を吐き出すようにお喋りに興じ、酒を呷る女たちの嬌声がそこかしこから聞こえてくる。
「ニコラス!」
同僚達に混じって接客していたニコは自分を呼ぶ声に振り向いた。店の奥、隅の方の席で先輩が手招きしている。
ニコは接客していたお客に一言断って立ち上がると、近くで手が空いていた同僚にその客を任せて先輩に駆け寄った。
「こちらの席のお客様からご指名だぞ」
「あ」
先輩が指したテーブルに着いている客を見て、ニコは少し驚いた。
機嫌の良さそうな他の客とは違って、ムスッとした顔でそこに座っていたのは、シルヴィアだった。相当強い雨が降っていたのか、傍らに置いてある雨合羽はびしょ濡れで、髪や服も雨水に濡れて光っている。
「まことに申し訳ないが、二人きりにしてもらえるか?」
「かしこまりました。ごゆっくりお楽しみください」
シルヴィアの要請に頷いた先輩は、恭しく礼をして立ち去った。
ニコはひとまず彼女の隣に腰を下ろし、氷を入れたグラスに蜂蜜酒を注いだ。受け取った酒を一口飲んで喉を湿らし、シルヴィアは冷たい声で話を切り出す。
「お前に話がある」
「話?」
「プリシッラのことだ」
「やっぱりね」
何でもなさそうに振る舞うニコの態度が癇に障ったのか、シルヴィアは刃のような眼光でニコを睨んだ。
「なぜそんなに冷静でいられる?」
問うたシルヴィアの口調は目つきと同じように斬り付ける様に鋭い。
「そうでもないよ。十分動揺している」
「私にはそうは見えない」
「そう言われてもなぁ」
話が微妙に噛み合わないことに困って、ニコは曖昧に苦笑した。
しかしその態度のどこかが気に入らなかったのだろう、シルヴィアは歯を剥いて怒りを露わにし、ニコの胸倉を掴んだ。
「お前達は親友なのだろう? ならばなぜ探しに行かない! お前にとってプリシッラは探すにも値しない軽い存在だとでも言うのか!!?」
激したシルヴィアは胸倉を掴んだまま、怒りに任せて立ち上がった。勢いよく引っ張られたニコは息が詰まり、蛙が踏み潰された時のようなおかしな声を上げた。
「し、シルヴィア! 苦しい!」
絞り出すように悲鳴を上げると、シルヴィアはハッとなって店内を見回した。
店内にいたほとんどの人間が、シルヴィアの怒声に驚いてこちらを見ていた。痴情の縺れで始まった喧嘩かなにかだと勘違いしたのだろう、半分以上がニヤニヤと下世話な笑みを浮かべていた。
注目を浴びてしまったことを恥じたシルヴィアは顔を耳まで真っ赤に染め、軽く咳払いをしながら座り直した。
「済まない。少々取り乱した」
「構わないよ。シルヴィアここ最近ずっと辛そうにしていたから、ストレスが溜まっていたんだよ」
「そのストレスの原因の一つがぬけぬけと……」
低く唸るように言いながら恨めしそうに睨んでくるシルヴィアに、ニコはまた苦笑した。そしてすぐに笑みを引っ込めて、真面目な面持ちで言う。
「本当のことを言うとさ、僕も心配していないわけじゃないよ。けれどプリシッラはなにも言わずに自分で出て行ったんだ。プリシッラが自分の事情に僕らを巻き込むまいとした証拠だよ」
「その言い方……お前はプリシッラの事情を知っているのだな、ニコ?」
こちらの動きを何一つ見逃すまいとするかのように、目を細めて問うてくるシルヴィアに、ニコは頷いた。
「知っているよ。けれどこれは僕が語るべきことじゃない」
以前酒に酔った勢いでプリシッラが話してくれたことがある。それは彼女の出生に関わる重大な秘密であり、彼女の重い宿命そのものだった。知っているからといって、他人の口から語られるべきことではない。
「それに、誰かの事情に他人が関わったことでかえって状況を悪くすることもあるんだよ。場合によっては取り返しの付かないことにもなりうる。君にその覚悟はある?」
「それは……」
シルヴィアは言い淀んだ。
ニコはずるい言い方をしたとは思うが、間違ったことは言ったとは思わなかった。善き人が常に良い結果を齎すとは限らない。時には破滅を運ぶことすらありうる。
だからニコは動かない。プリシッラから頼ってこない限り、動くつもりは無い。関わり方を間違えて破滅を招かないように、ニコは常に誰かに追随して力を揮うことにしていた。ラチル事件の時も、この一件でも。
しかしそのニコの生き方を真っ向から否定する存在が目の前にいた。他ならぬシルヴィアだった。
「それでも私は納得できない。少なくともプリシッラ本人の口から事情を訊くまではな」
なにかを決意した目で、シルヴィアは立ち上がった。傍らに置いてあった雨合羽を手に店の出口に向かって歩き出す。
「プリシッラを探しにいくの?」
「そのつもりだ。ニコは来ないのか?」
「僕は……」
ニコは俯いた。
プリシッラに求められるまで動かないことに変わりは無い。しかしニコの脳裏に先程のシルヴィアの言葉が思い出された。「プリシッラは探すにも値しない軽い存在なのか」と。
それは絶対に違った。プリシッラはニコにとってかけがえの無い親友だった。
顔を上げる。「お前も当然来るだろう?」とでも言いたそうなシルヴィアの顔がそこにあった。それがニコの背中を押した。
「手伝うよ。ひとまずプリシッラを探すところまでは」
「そうか」
ニコの答えを聞いたシルヴィアは不敵な笑みを浮かべた。
「では明日から動くことにしよう。今日は帰る。残してきたジルが心配なのでな」
「あ、シルヴィアお会計!」
決定するや否や、さっさと出て行こうとするシルヴィアを、ニコは慌てて呼び止めた。するとシルヴィアはなにかを思い出したように、店内の一角を指差した。
「あの人持ちだ」
「うわ……」
その席で繰り広げられている地獄絵図を見て、ニコは唖然とした。
「来る途中で偶然会ってな。奢ってくれるというから連れてきた」
シルヴィアの指差した席では、ストライダーの副長ミラがテーブルの上に仁王立ちして、酒を瓶から直接ラッパ飲みしていた。いつも怜悧な光を湛えている筈の瞳は濁って霞がかり、口の端からはダラダラと酒が零れている。しかも店員の青年に絡んでは、自分と同じラッパ飲みを強要するという性質の悪い飲み方をしていた。
その迷惑極まりない酔っ払いに、普段の触れれば斬られてしまいそうな恐ろしさは微塵も無かった。
「また出禁の店が増えたそうだ」
「ははは……」
ミラは怜悧冷徹な戦闘狂の鬼副長として知られている一方で、酒が入ると人が変わってしまうことでも有名である。酔った時の珍プレーの数々はもはや歓楽街の伝説であり、彼女の絡み酒で痛い目にあった人や泣かされた店は数知れなかった。
金の払いはいいが、店への被害はそれ以上に大きい。店側としては疫病神も同然の存在であり、応対している店員達の笑顔もどこか引き攣って見えた。
「というわけで、私は帰る」
「え、ちょっと……シルヴィア!」
とんでもない置き土産を残してシルヴィアはそそくさと帰ってしまった。
残されたニコは正直頭を抱えたい気分になる。おそらく他の店員も同じ気持ちだろう。
だが当の本人はそんなこととは露知らず、気の向くままに酒やつまみをかっ喰らって、店員達にくだを巻いていたのだった。
To be continued |