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短編集(その他)

清水の池の、お主さま

作者: 卯花ゆき



 見なかったふりをした。

 男の正体には目を瞑って、娘はまた会いたいと縋った。男は、どうしてか嫌がる素振り一つ見せず、その言葉に頷いた。

 男が娘を見つめる、少し吊り気味の瞳。そこに籠る熱。

 娘はそれを、恋しいと思う。



*****



 清水池(しみずいけ)は、村の子供たちの間では格好の遊び場とされていた。大人たちは神のお使いが住む池だと崇めていたが、そんな彼らの目を盗んで、子供たちはやれ釣りだ、水遊びだと、夏場になれば毎日のように通った。

 お梅もそのうちの一人だ。

 あるとき、友人のお鈴と二人で釣りをすることになった。男児たちがやっているのを見よう見まねで、釣り糸を垂らして、おしゃべりに花を咲かせながら過ごす。だが、いっかな釣れない魚に飽いたお鈴は、さっさと帰ろうと言い出した。お梅は、少し迷った末に、残ることにした。近頃、母がよく咳をこぼしていたので、何か精のつくものを食べさせてやりたかった。

 辛抱強く待って、待ち続けて、とうとう日が暮れ始めた。夕日を映した池を見つめてため息を吐いたお梅は、釣り糸を引き上げる。その先に括り付けておいた餌が無いのを目にして、思わず苛立ちに任せて竿を放り投げた。地面に手足を投げ出す。偶には一日中遊んできなさいと、気を利かせて送り出してくれた両親は、こんな仏頂面で帰ればきっと心配するだろう。

 分かってはいても頬をふくらますことを止められないお梅は、池で飛沫が上がる音にさえイラついた。魚が跳ねた音だと思ったからだ。

――どうせなら、あたしに釣られてくれればよかったのに。

 恨めしくて、赤い空を睨み付けていると、大量の水が飛んできた。まともに水をかぶったお梅は、何事かと池を覗く。

 一匹の(ふな)がいた。

 お梅が知っている鮒より一回りは大きい。右目が真っ白の、片目の魚だった。口に木の枝をくわえている。しきりにその枝を差し出す仕草をするので、何かと思えば、お梅が放り投げた竿だった。恐る恐る鮒の口から木の枝を取り出すと、鮒はぱくんと口を閉じ、お梅に背を向けた。


「あの……ありがとう……?」


 お梅は、戸惑いながらお礼を述べた。相手が魚というのが、妙な気分にさせた。


「これくらい、どうということはない」


 よかった、と笑顔になったお梅は、その声の正体に思い至って表情を凍りつかせた。

 固まる幼子を尻目に、片目の鮒はいかにも鷹揚に、体を揺らめかせる。


 お梅がまだ、九つの時分の話だった。



*****



 空がようやく白んできた。早朝の空気は、身を切るように冷たい。連綿とつづく山々が、青々とした緑を露わにしはじめていた。夏の間に成長した草が、朝露を弾いて背を伸ばす。

 お梅は、大きく深呼吸した。新鮮な朝の空気が身体中に染み渡り、心なしか気分もシャキッとする。村に一つしかない井戸まで桶を運んでいくと、既に五人ほど女たちが集まって、姦しくお喋りをしていた。

 真っ先にお梅を見つけて声をかけてきたのは、四つ年上のお(けい)だった。


「あら!おはよう、お梅」

「おはよう。いい天気ね」


 お梅も挨拶を返し、娘たちの輪に入っていった。昨日までの曇天が嘘のように、今日は素晴らしい秋晴れだ。

 一八のお恵は、村でも評判の器量よしで、娘たちの憧れを一身に集めていた。今朝も、お恵を中心に噂話に花が咲いている。


「お文さんのところの慶太、とうとうお嫁さんをもらうんですって」

「あの男もついに年貢の納め時ってわけ。お式はこちらで行うのかしら」

「式っていえば、半年前のお静の式は素敵だったわね」

「でもあの子ったら、嫁ぎ先で上手くやれてないって聞いたわよ。ほら、あそこのお姑さん、いかにも厳しそう……」

「でも、その分いい物を着せてもらってるじゃない。この間着ていた小紋、江戸で流行ってるんですって」

「今度商人が来た時、私も買おうかしら」


 次から次へとめまぐるしく話題が変わる。朝一番の井戸端は、女たちの笑い声に溢れていた。お梅は、相手の話に「へえ」「そうなの」と相槌は打つものの、自分から話題を振りまくことはしない。皆でわいわいとおしゃべりに興じるのは嫌いではないが、どうにものんびりとした性分で、付いていくのが精一杯なのだ。


「そういえば、お恵ちゃん」中年の女性が寄ってきて、お恵に話しかけた。「お見合いの話が出てるって?しかも地主の息子さんと」


 場が一気に静まり返ったかと思うと、次の瞬間一層の悲鳴と熱気に包まれた。お梅を除く娘たちは、皆お恵に詰め寄って、事の真相を問いただしている。


「まだ、決まったわけじゃないよ。それに私は一介の村娘だし、相手の方から取り下げてくるかもしれない」


 曖昧に笑ってごまかすお恵に不満の声が上がるが、お恵が何も答えずにいれば、そのうち熱気も収まってきた。中年の女性たちは昔を懐かしんで、若い娘たちは玉の輿を羨んで話し込んでいる。その女たちも、辺りがすっかり明るくなるころには、井戸端から去りはじめる。最後に残ったお梅に声をかけてから、お恵は家へと戻っていった。彼女たちはこれから、川へ洗濯に行く。

 お梅は、去っていくお恵の横顔にどこか浮かないものを感じて、少し心配になった。いつもの溌剌とした様子が陰ってしまっているようだ。


(お恵ったら、結婚が嫌なのかしら)と思う。


 華やかなお恵には、どれだけ豪奢な衣装でも難なく似合いそうなのに。自分と比べたお梅は、少し落ち込んだ。




 洗い場は、村を出て東に歩いたところにある。山の頂から流れてくる水を使っているのだが、お梅たちの村から近い山は険しく、山中に住む人はほとんどいないため、村人はきれいな水を使うことができた。その川は、洗い場より少し上流で二つに分かれている。片方は、村の東側を通ってずっと下の村まで流れていくが、もう一方は村の北西にある池に流れ着く。小さな池だったが、その昔偉い高僧が水をせき止めて作ったところだそうで、たいそう清らかな水で満ちていた。

 朝、井戸水を汲み終わった後にその池に通うことが、ここ五年間のお梅の日課である。


(ぬし)さま、お梅です」


 清水池の淵に立ち、お梅は尋ね人を呼んだ。澄みきった水底では、一見藻がゆらゆらと揺れているだけだ。小魚が二匹連れ添って、視界を横切った。お梅がいるのとは反対側で、亀が一匹甲羅干しをしている。しばらくの間何事も起こらないかのように思えたが、辛抱してじっと目を凝らしていると、手前の藻が忙しなくゆらぎ、幕府のお偉方を迎えるかのごとく一斉に左右に分かれた。


(主さまって、本当に偉ぶるのが好きなんだな)


 呆れる心をからだの奥底に隠しながら、つくづくとそう思った。

 最初の一月は感動していたが、五年も見ればこの光景も呆れる対象にしかならなかった。自分に張る意地など今更ないだろうに。

 左右に割れた藻の群生の間を悠々と泳いでくる魚、ここ清水池の主、片目の鮒である。彼(お梅は男だと思っている)は、お梅のいる淵のそばでぴたりと動きを止めた。お梅はしゃがみこみ、なるたけ主と近づこうと努力する。


「おはようございます」とお梅。

「お早う、お梅」と池の主。


 彼は尾ひれを振った。これが彼なりの挨拶の仕方だ。


「昨日は何事もなかったか」

「はい。曇ってましたけど、雨は夜に降っただけですし。明け方には晴れていたから」

「川も増水しておらぬし、ここしばらくは特に変わったこともないな」

「はい。今日はいい天気ですしね」

「まこと、秋風が心地よい」


 同意しながらも、お梅は考えていた。そもそも池の主と会話している時点で、お梅の毎日は変わったことに溢れているといっていい。九歳の頃に、ひょんなことから彼と出会って早五年。池の主だと名乗る鮒は、初対面から今と変わらぬ態度で、なぜか地上の生活に興味津々な変わった魚である。村の大人たちは、片目の魚は神の御使いだと言っていたが、お梅の前にひょいひょい現れる姿を見ていると、疑いたくなるのも無理はなかった。


「つまらぬ」池の主が、器用に大きな水泡を吐き出した。「お梅、何か面白いことはないか。川で河童を見たとか、墓で人魂が飛んでいたとか」


 鮒の大きな目がきらめいた。お梅は日の光が反射したのだと考えることにする。この鮒の酔狂にいちいち付き合っていたらきりがない。


「主さま、ここは辺鄙な村ですよ。そりゃあ、一年と二月前には幽鬼が出たと騒ぎがありましたけど……。滅多に面白いことなんてありませんよ。色恋沙汰なら、皆が噂してますけど」

「人間の色恋などに興味はない。どうせならお梅、お前がお江戸にでも行って、一つ目小僧とでも大恋愛してきたら大笑いして聞いてやるぞ」

「いやです!」


 お梅は立ち上がって、声を張り上げた。そして、ハッと口を押える。見られても白を切りとおせばいい話だが、お梅が大声で独り言をいう変わり者と呼ばれてしまう。


「やはり、江戸のような面白おかしい話は転がっておらんのだな」


 片目の鮒はしょぼくれた。その様子に鼻を鳴らすと、お梅は別れの挨拶を告げて池を去った。これから大急ぎで洗濯をして、機織りの仕事を手伝わなければならない。



 次の日も、雲の少ない晴れた天気だった。

 お梅は小走りに清水池に急いでいた。もう太陽は西に傾きつつある。村人たちは、畑仕事に一息いれる時分だ。

 今朝は、父から隣村への使い走りを頼まれ、主に会いに行くことができなかった。さぞかし機嫌が悪いだろうと冷や汗をかきながら、お梅は林に踏み入っていく。

 池が見えたところで、お梅は、池の淵の人影に気が付いた――――お恵だ。手を合わせて、真剣に何かを願っているようだった。お梅は様子をうかがっていたが、去り際に見せたお恵の憂いを帯びた顔が、妙に気にかかった。

 彼女が立っていたところまで行くと、足元に何かが落ちていた。拾い上げると、大きな葉っぱだ。あちこちにひっかき傷があり、端に赤い汚れがついていて、どう見てもお恵の落し物ではなかったが、一応懐にしまった。


「主様」呼びかけると、間をおかずに片目の鮒が顔を出した。「一体何を頼まれていたんです?」


 池の主は、片目を眇めた。つくづく器用な鮒だ。


「その前に言うことがあるのではないか」

「え……あっ。今朝は来れなくてすみません。急用があったので」

「まあ、よい。それぐらいで怒る私ではない」


 お梅は苦笑した。主さまってこういうところが憎めないのよね。


「あの娘……お恵と言ったか。ここ一月ほど頻繁に訪れておるよ。大抵は夕方に来るから、お前は気付かなかっただろうが」

「何をお願いしているんです?」お梅の問いに、主は尾ひれを振った。「分からん。何も言わずにただ手を合わせていくだけだからな」


(お見合いのことかしら)


 お梅は見当をつけた。良いお話だと思うのだけど……。

 村での噂を伝えると、主は、「ふむ」と黙考した。細かい気泡が水面に上がってぱちんと弾ける。


「人の色恋沙汰に興味はないと言ったが、私に助けを求めているなら話は違う。縁結びの力はないが、何か手はあるだろう。お梅、調べて参れ」

「ええ?!」


 非難の声を上げたものの、お恵の思いつめた表情が気にかかる。主の提案に従う形になるのは不服だったが、お梅は翌日からお恵の近辺を探ってみることにした。




 友人の憂いの原因を知る機会は、思いの外早くにやって来た。

 お梅は茂みに隠れて様子を伺っている。日が暮れて間もない頃なので、辺りは大分暗かった。チクチクと頬をくすぐる枝葉の隙間から、向こう側を覗き見た。

 村の外れで、お恵は人と会っていた。すらりと背の高い青年だ。無口な性質なのか、お恵が何か話して、それに頷いたり微笑みを返したりするだけだった。それにも関わらず、お恵の頬には朱がさし、笑顔は見とれるほどだった。

 噂の見合い相手ではない。地主の息子は、お梅も以前に見かけたことがあったが、背の低い人好きのする顔だった。お恵の話し相手は、吊り目の、どこか冷たい顔立ちをしている。


(お恵、恋人がいたんだわ)


 しかし、不思議なことが一つあった。その青年を、お梅はどこかで見たことがある気がする。村の人間ではないし、他の村でも会ったことはないが、あの顔は……。

 ハッとして、お梅は声を上げそうになった。思い出したのだ。

――背はすらりとしていてね、冷たい性格だと誤解されがちだけど、そんなことはないのよ。とても優しいの。そうだ、似顔絵があるわ。私が描いたものだけど、結構似ているのよ――

 もう何年も前に、お恵が嬉しげに話していたではないか。そう、あれは……。

 死んだはずの、お恵の許嫁だった。




 男がお恵に手紙らしきものを渡したのを最後に、二人が別れたのを見届けた後、お梅は池まで全力で疾走した。荒い息で事の次第を一気にまくしたてると、池の主は黙り込んだ。お梅は焦れたように叫ぶ。


「主さま、どうしよう!あの幽鬼、きっとお恵を連れていくつもりなんだわ」


 男の正体を思い出した瞬間から思っていたことだが、口に出した途端お梅はぞっとした。お恵が彼岸へ連れて行かれそうになっているなんて!


「落ち着け、そうと決まったわけではない。その許嫁が亡くなっているのは確かなのか?」と、冷静な声で主が言う。

「間違いないです。三年前…お相手は江戸に奉公に出ていて、その先で事故にあったと聞きました。お恵の嘆き様はすごくて、私、彼女がお葬式に行くのを見送ったもの」

「事故だったのだろう?顔をきちんと確認しなかったのではないか?」

「お恵は死に顔を見たと言っていました。夜中に堀に落ちたんだから、体は綺麗だったはずです」

「とすると」「だから、あれは幽鬼に違いありません!」


 しん、と沈黙が下りた。夜風が着物の裾から入り込み、中を通り抜けて行く。身を震わせたのは、寒風のせいだろうか、それとも先に待つものへの恐怖からだろうか。

 片目の鮒は、そんなお梅を丸い瞳で見つめた。鱗が、秋月にきらめく。


「まあ待て。あの子は何かを悩んでいるようだった。許嫁を信じているなら、とうについて行っているはず。次にあの子がやって来る時を待ってみよう」


 それじゃあ遅いかもしれない。そう強く思いつつも、主の目を見ると言葉が喉元でつっかえる。お梅は渋々頷いた。

 

 だが、それ以降お恵が池に現れることは、二度となかった。





「お恵」


 背後からおずおずとかけられた声に、お恵は笑顔で振りむいた。


「なあに、お梅。今日は雨が降りそうな天気ね」

「ええと、そうかしら。あの……」


 お梅は言いよどむ。あの晩以降、お恵が池を訪れることはぱったりと止んだ。男と会っている様子もない。お恵はいつも通りの元気を取り戻していたので、お梅としては戸惑うばかりだった。


「その……」言いよどんでいると、お恵の方から話しかけてきた。「そうだ!お梅、あんたよく池に行ってるわね」


 お梅はぎくりと体をこわばらせたが、お恵が気にした様子はない。「こないだ落し物をしてしまったんだけど、見かけなかったかしら」


「落し物?」


 お梅は「あっ」と叫ぶと、慌てて家に戻り取って返した。思い当たるものがあるではないか。

 躊躇いがちに萎れてしまった葉を差し出すと、お恵が顔をほころばせた。


「ありがとう、これのことよ。探していたの」


 お梅は好奇心を抑えることができなかった。これを逃したら、きっと真相を聞きだす機会はなくなってしまう。


「それ、何なのか聞いてもいい?」


 お恵は少し逡巡してから、お梅の手を引いて村のはずれまで行った。お恵と男が密会をしていた場所だ。


「お梅、あの日見ていたでしょう?」


 ぎょっとして、お恵を見上げた。彼女は可笑しそうに笑っている。


「着物の端が見えていたわ。それに、最近私を探っていたでしょう。隠れるならもっと上手くやりなさいな」


 恥ずかしさのあまり、穴があったら入りたいと思った。まさかばれていたなんて……。そんなお梅の様子が可笑しかったのか、お恵は笑い声を高くする。


「お梅ったら……まあ、いいわ。葉っぱを拾ってくれたお礼に、少しだけ話してあげる――――あの日はね、あの人から結婚の報告を聞かされたの」

「結婚?!」お梅は目を白黒させた。「でも、お恵の許嫁は、もう……」その言葉に、お恵は本気で驚いた様子を見せた。

「気づいていたの?それなら話は早いわね」お恵の細い指が、そっと葉っぱの表面を撫ぜた。萎れてしまっていたが、表面についた傷跡と赤い汚れははっきりとしている。

「この葉っぱは手紙、詫び状よ。今までのことを謝りますっていう内容の」


 さっぱりわけが分からない。混乱するお梅を置き去りにして、お恵は村へと戻ろうとする。去り際に、背を向けたままこう言った。


「あのね、お梅。私、お見合いしようと思うの。きっと結婚するわ。そしたら、お祝いしてね」


 そして最後に、小さな呟きを残していった。

 その時のお恵は、どんな表情をしていたのだろう。

 振り向かせることもできずに、半ば呆然としながらお恵を見送った。

 不意に、お梅は頬を打つものを感じた。見上げる間もなく、ぽつりぽつりと雨粒が降ってくる。瞬く間に地面が黒く染まった。村人たちが慌てた様子で軒下に入る。日は照り、空は晴れていた。

 お梅は家から笠を取ってくると、清水池への道を歩いて行った。




「葉っぱの隅に、赤い印がなかったか。ぐるりと渦のような」


 思い返してお梅が頷くと、池の主は得心したとばかりにえらを大きく開いた。

「それは千葉山の狐だな。ここから三つ隣の山だ、化けるのが得意な一族だと聞く」


 水面にいくつもの波紋が広がる。雨が降り続けていた。お梅は、ふつふつと湧き上がってくる怒りを感じていた。


「それじゃあお恵は騙されていたんですね」と、語気も荒く言い放つ。

「果たしてそうかの」鮒はそぼ降る雨をものともせずに、池をぐるりと周回する。泳ぐ姿は錦鯉のように優雅だ。「お恵は気付いておったはずだ。お前も勘付いてはいるだろう。お恵が私の所に来ていたのは、その男にだまされていたわけでも疑ったわけでもなければ、結婚を心底迷っていたわけでもない。死んだ許嫁にそっくりな人物と、少しでも長く会っていたかったのだろう」

「どうしてあの狐は、お恵の許嫁に化けたのでしょう」


 お梅は不機嫌な顔をした。許嫁にそっくりな人物を見て、お恵が期待したはずだ。もしかしたら彼は生きていたのではないかと。それが裏切られた時の辛さを思うと、お梅は苦い気持ちにならざるを得ない。


「知らんな。江戸で男の顔を見かけたことがあったのか、適当に化けたら偶然よく似た顔になったのか。それは私たちの与り知らぬところだ」

「でも……!」


 言い募ろうとするお梅を、鮒はその片目で制した。次いで、頭を上にもたげるようにする。


「他人の事情にあまり首を突っ込むものではないよ。馬に蹴られる」

「主さまに言われたくない……」

「お梅」たしなめられても、お梅はぶすくれたままだった。

「そう不景気な顔をするでない。今日はめでたい日だ。狐の嫁入りだぞ」


 促されて、お梅はぼんやりと空を見上げた。雨雲は見当たらず、晴れ間が広がっている。そこから透明な水滴が次々と落ちてくるのは、なんとも不思議な光景だ。

 晴れ間が見えているのに雨が降るのは、狐の嫁入りが行われているからだという。


「千葉山では花嫁行列の最中か。今夜はあちらが騒がしくなるだろうな」


 ぽつりぽつりと、雨粒がお梅の爪先に当たり、草履を濡らした。池の水面が絶え間なく揺れていた。

 あたたかい雨だ。

 許嫁に化けた狐は、なぜお恵と会い続けていたのだろう。お恵は、なぜ正体に気付いても何も言わなかったのだろう。それは確かに、お梅の与り知らぬことだ。

 耳元に、お恵の最後の呟きがよみがえる。

――あの人ね、おかしいのよ。私に呼び止められて余程驚いたんでしょうね。自分では気づいていなかったみたいだけど、一瞬、耳と髭が飛び出したの――

 お恵は、幻でも会いたかったのだろうか、失われた恋人に。

 それも、お梅には分からないことだった。


「千葉山のお嫁さんは、綺麗かしら」


 池の主は、確信ありげに答える。


「花嫁は皆、綺麗なものだよ」

「そうね。お恵はとても綺麗だろうな」


 お梅の脳裏に、雲一つない快晴の下で微笑む、友人の花嫁姿が閃いた。

 穏やかな雨はやがておさまり、村人たちが農作業に戻ってゆく。お梅も笠を取り払って、少しぬかるんだ道を戻りはじめた。

 主が隠れた清水池は雨で濁ることもなく、水底ではいつものように藻がゆらゆらと揺らいでいた。




SF=清水池の、鮒

あなたのSFコンテストさまに応募した作品となります。

(片目の鮒については、柳田国男『日本の伝説』を参考にしております。)


※皆様にいただいた感想を参考にちょこちょこ年齢を変えました。何度も変更して申し訳ありません。ご意見を下さった方々、この場を借りてお礼申し上げます。

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― 新着の感想 ―
[一言] こういう雰囲気のお話が好きです。 特にドラマティックに何かあるわけではないですが、 人の心の奥深いところにある、いつもは閉じ込めている思いが日常の中にふと出てくるような感じ。 お恵さんの気持…
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