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ビター・ダーク

母は狂って死んだ。

作者: 花しみこ




 母は狂って死んだ。



 辺境の貧乏貴族の三女。快活で派手な長女と理知的で怜悧な次女に次いで生まれた彼女は、大人しく地味で、しかしよく見ると整った顔。そして年に似合わぬ落ち着きと包容力を持っていた。


 あるとき、彼女は招かれた夜会で有力貴族の男に見初められた。わたしも行ったことがある、広くてきれいなホールだ。深紅のカーテンと宝石のふんだんに使われたシャンデリアが美しかった。しかし、これは婚後に父がお礼として援助したお金で改装されたものらしく、昔は貧乏貴族が古びたドレスで招きに応じられる程度で、むしろ父のほうが浮いていたらしい。

 もちろん招きに応じられるといっても、時代遅れのドレスを着た母もじゅうぶん浮いていたはずだ。もとは綺麗なのだけれど、あの人は壊滅的にセンスがなかった。

 父は顔よし、頭よし、家柄よしで役職持ちという超優良物件だったが、真面目で堅物。女っ気がなく、男色なのではと真しやかに囁かれていた。それがなんの因果か一目惚れし、なんやかんやあって周りにも認められ、見事ゴールイン。

 なんやかんやの詳細は知りたくないけれど、乳母の話なんかによれば父を愛していた女による暗殺未遂とか、他国と密通していた大臣のあれこれとか、短い間にいろいろあったらしい。しかし禍根を残すこともなく片づけて、幸せに暮らしていた。


 一転したのは婚後八年、わたしが五歳のある日のこと。



 父が死んだのだ。



 我が家は混乱に包まれた。嫡男が居なかったため、遠縁から養子がとられる手続きも進んだ。しかしそれよりも大変だったのは、泣き暮らす母だった。

 すぐに領主を勤められる遠縁の男は、わたしにとっても顔見知りだった。父の部下である。顔立ちが少し父と似ていて、母とは十も離れていないので再婚になるのかと思ったが、彼はわたしの義兄となった。とはいえ、わたしは母につききりになったので今でもそう話したことはない。

 父を失った母は、泣いて泣いて、友人や伯母たちのおかげでどうにか立ち直ったものの、少しずつ狂い始めた。

 夜、わたしと二人きりでベッドに横になると、母は私を撫でながら言う。星のさざめきにも負けそうに小さく、楽しげに、内緒話を打ち明けるように。


『お母さんね、別の世界の記憶があるの。』

『死んじゃって、生まれ変わったのよ。』

『だからきっとあの人も生まれ変わってるわ』

『あの人にはいっぱい待って貰わなきゃあね。』


 うふふ、と、ありもしない前世と来世の夢物語。まだ五歳ながら、ありえないなんて言ってはいけないと察せられた。母は同調を求めていた。わたしはうんうんそうなの、と、興味ありげに頷いて、そして母の妄想をすべて肯定した。

 それはいけないことだったのかもしれない。

 夜語りの妄想は、止まるところを知らなかった。


『お母さんの前世暮らしていたのはね、ニホンって国で、戦争もなければ貴族も居ないの。世界のしくみから全然違うのね。ふふ、アリーには想像できないでしょう?』


 貧乏貴族だった母は、陰謀と策略入り交じる貴族社会を嫌っていただろう。父を奪った戦争も、憎んでいて当然だ。

 安全で平等で、とてつもなく広い世界は、まるで母の願望の具現化だった。


 現実味のない突飛な世界を、母の今までの経験が確かに支え、重みを伴い形作る。

 こういう突飛な妄想をする人間を、一度、本でみたことがある。戦争で家族を失い、ひどい生活を送らざるを得なくなった子供の話。

 絶望をひたかくしにして、輝かしい世界で暮らした過去を創ってしまうのだ。

 母と寄り添って入るベッドは、いつもどこか冷たかった。揺れるろうそくの火を、母はよく目を細めて見ていた。父との過去は、ちっとも語られなかった。





 病気で死ぬ前のひと月ほどは、もう、昼にも前世とカミサマの話しかしなくなった。わたしは十二になっていた。ベッドに横になったまま、窪んだ眼窩で目を細め、穏やかに笑う。この世界のことを否定し続け、あるべきはニホン国だと言ってはばからない。

 死んだら、ニホンに戻るのだそうだ。

 そこには父も居るはずと言う。たくさん人が居るから見つかるかしら、きっとへいきね、だってあんなに広い夜会で出会えたのだもの。

 わたしの記憶にある母は、ニホンの話しかしない狂った女だ。

 しかし完全に狂いきってはいなかった。理解できない理論で理解できない言葉を使って、しかし現実に対応もしていた。

 義兄はニホンの話を受け入れられずに、ほとんど足を運ぶことはなかった。八歳からの四年間で彼は父の善政を継ぎ、わたしたちにも不自由なく支援してくれた。あとははやく結婚するだけだ、じき父が死んだ年齢になる。わたしの息子を後継にするにも、まだいましばらく時間が必要だろう。

 母は、死んだ後にわたしを伯母に任せる算段を立てたり、親しい友人と会ったり、とても理性的だった。

 しかしこの家の存続に関して、心を砕くことはもうなかった。

 心はもうこの世界から離れて、ニホンとその次の生だけに向いていた。

 死ぬ間際、その目にはもうこの世界は映っていなかった。妄想に囚われ、完全にそちらの世界に狂って死んだのだった。




***




 ここまでが昔語り。


 母が死んですぐ、わたしは伯母の家に住み淑女教育の続きを受け、今は王宮で働いている。有力貴族の娘なので、多くのメイドとは違い、行儀見習いの客室掃除だ。客室掃除だった。

 ほんの少し前から仕事が変わったのである。

 客室付きはそのまま、掃除係からとある少女の世話係の一人に。

 王宮の良い客室を与えられる位なので、貴族ではあるのだろう。悪い人間ではない、負けん気が強くて身分意識は少々薄いが。わたしには恐れ多くてできないような言動を、王太子らに投げかけているのを何度か見かけた。それがかえって彼らにはうけ、変わり種として愛されている。

 どうでもいいことだ。

 彼女が誰かの気に障って罰則を受けることになろうと、命令で従っているだけの世話係に害は及ばない。


 しかし、不安がひとつ。


 彼女、たまに呟くのだ。

 母と同じ目をして。

 遠く、心の中にしかない場所を探していたときのあの目、それで耳慣れない音便の名前を小さく。

 狂った母との共通点はつまり、彼女の狂気を疑うのに充分だった。口にはしない。態度にも出さない。現実からの逃避ならば、きっとひどい目に遭ったのだろう。同情すべき、哀しくつらい、なにか。

 しかし、この世界を見ていないというだけで、わたしには恐ろしかった。虚ろな目で微笑む母の顔がどうしても過ぎる。


 彼女の見つめる窓の先に、母がいつか語った空を覆う四角い建物やぎらぎら光る無数のランプが見えるような気がしていた。











おかあさんは幸せでした。旦那さんは若くして死んでしまいましたが、かわいい娘も優しい友人もたくさん。

なにより、旦那さんにしか言っていなかった前世の話を、幼い娘は信じてくれたのです。

たったひとり、信じてくれた旦那さん。彼が居なくなったあと、彼の遺したかわいい娘がその役割を果たしてくれました。

娘はそんなこと考えてもいなかったでしょう。ただ、母を信じ、認めてくれたのです。

あの素敵な世界のことを、娘にももっと教えてあげよう。前世のせいで苦労もしたけれど、あの価値観は得難いものだと信じています。

そうして、夜な夜な語り伝えました。平和で安全なユートピア。そこにあの人がいるならば、なんて素晴らしいことだろう。


おかあさんは、幸せでした。

死ぬまで、ずっと。





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