〈回想〉灰色の星が生まれたとき〈過去編〉
廊下を行き交う侍女が、ふと中庭に目を止めた。
両手は洗濯籠でふさがっていたので、隣を歩く同僚を肘でつつく。
「ね、見て。ルーベント殿下とクラーギン公爵令嬢よ」
「本当にいつ見てもお似合いのお二人よねぇ。うっとりしちゃうわ」
次期国王と呼び声が高い第二王子と、王太子妃最有力候補者であるクラーギン公爵令嬢は、広く皆に認められる仲睦まじさだ。
二人でこうして、中庭で散歩している姿をよく見かける。
互いを慈しむように見つめる二人の姿は、一枚の絵画のように完成されていた。
「ふふ。ルーベント、何を怒っているの」
クラーギン公爵令嬢が微笑みながらルーベントの手に触れた。瞳は艶やかに濡れ、愛しげにルーベントを見つめている。
対するルーベントは眉間にしわを寄せ、不機嫌さを隠さない。
「わかるだろう。僕の気持ちなんてきかなくても」
「ええ。先程わたくしが話していた殿方への嫉妬ね?心配しなくても、わたくしが愛しているのは一人だけよ」
「…わかっているよ」
ルーベントが眉間のしわをほどいて微笑んだ。
手を握りあった二人は、密やかに“心”を通じあわせる。
ことばがなくても、これだけで十分だった。
互いに“心”を送り、視線を交わす。
その日も長い時間、手を握りあい二人は“心”を交わしあった。
「王太子は第一王子レオニートに決まった。王太子妃はクラーギン公爵令嬢とする」
王のその宣言が議会でなされたとき、誰より驚いたのはレオニートその人だった。
弟の方が自分よりも王者たる資質を備えていると思っていたし、クラーギン公爵令嬢と思い合っているのも知っていた。
自分は王兄として、ルーベントを補佐していく生活を望んでいたのに。
「父上、なぜ…!」
公の場では国王陛下と呼びかけなければならないのを忘れるほど、レオニートは動揺していた。
議会に参加している貴族の多くも動揺を隠せない。疑問を呈する声も少なからずきこえる。
「決めたことだ。ルーベントもクラーギン公爵令嬢も了承している」
対して王は素っ気なく答え、これ以上は話すことはないとばかり議会の終了を告げた。
二人が了承している?
ルーベントがこの場にいないのはそのためだったのか?
マントを翻し出ていった国王をレオニートは追った。
「父上!王者たる資質は、私よりルーベントの方があります!どうか考え直して下さい」
レオニートが叫ぶように言うと、国王が足を止める。
「ルーベントには、王者たる資質は確かにあろう。だが、同時にあれは闇に親しすぎる。人の上に立ち、導くものとしては適さない」
「おっしゃる意味がわかりません」
かぶりを振る息子に、父はため息をつく。
「資質があるなしに関わらず、向き不向きというものはあろう。ルーベントは国王には向かないというだけだ」
それきり父は会話を切り上げ、何も話してくれなかった。
じりじりとした焦りにかられたレオニートは、その足でルーベントの元へ向かう。
だが、ルーベントの自室の前までたどり着いたところで足が止まってしまう。
ルーベントに会って何を言う?
お前も父上に逆らえと?
クラーギン公爵令嬢のことは諦められるのかと?
ルーベントなら、すでに父上に言っているはずだ。
クラーギン公爵令嬢を想っていることを。
王位よりも、王弟としてクラーギン公爵令嬢をめとりたいということを。
その上での父上の判断なのだ。
凍りついたように、レオニートは立ち尽くした。
クラーギン公爵令嬢は早くから王太子妃の最有力候補者だったので、元からレオニートとも会う機会は多かった。
今まで親しく接してきたとはいえ、レオニートとしては、弟の想い人を奪った罪悪感があり、彼女にどう接したら良いか戸惑った。
「レオニート殿下、行き届かないところも多いでしょうが、精一杯お仕えいたします」
儚げに微笑んだ令嬢は、丁寧に淑女の礼をとった。葛藤がなかったはずはないが、彼女はこの運命を受け入れる覚悟を決めたようだった。
レオニートとて、どう接したら良いかわからないなどと言っている場合ではないのだ。
次の春には父が退位すると宣言してしまった。
そのときにレオニートの婚礼と即位式を同時に行うことも決まった。
あと半年もないのだ。
一連の発表から、ルーベントとはほとんど会っていない。弟は何も言わずに別邸に移ってしまったのだ。
ルーベントと会って話したかった。
だが、同時に怖かった。
大切な弟に、憎まれることが。罵倒され憎しみの眼差しを向けられることが。
自分はこんなことを望んでいない、と今更言うつもりはない。
だが、ルーベントとこんな関係にはなりたくなかった。
レオニートが痛む胃を抱えていると、クラーギン公爵令嬢がいつも寄り添ってくれた。
彼女はことば通りレオニートを支え、愛そうとしてくれた。そこには熱情はないものの、親愛や慈しみに溢れた温かさがあった。
ルーベントへの罪悪感はなくなりはしなかったが、いつも自分を気遣ってくれる美しい令嬢に心を動かすのにさほど時間はかからなかった。
結婚式でも即位式でも、ルーベントとことばを交わすことはほとんどなかった。
ルーベントの姿を見かけても、彼女はなにも言わない。ルーベントもレオニートもなにも言わない。
言えない、というのが正しかったのかもしれない。
「おめでとうございます。ご懐妊されております」
王宮のお抱え医療師が告げたことばに、レオニートは手放しで喜んだ。即位から一年が経ち、国政も落ち着いてきたところに喜ばしい報せだ。
「よくやった!身体を大切に過ごしてくれ」
妻を抱き寄せて額に唇を落とすと、どこか寂しげに微笑んだ。
「顔色が悪いが…。悪阻か?」
妻の艶やかな黒髪をかきあげてきくと、彼女は俯いた。
「…はい。少し休ませていただきたいと思います」
かすかな声は、震えているようだった。
その日から、妻の様子が日に日におかしくなることなど、誰にも予想ができなかった。
初めての妊娠からくる不安や不調だと思って、周囲が気づくまでに時間がかかったのもいけなかったかもしれない。
気づいたときには、すべてが遅かった。
「いや…!ごめんなさい!許して!」
闇を裂くような悲鳴がきこえる。
医療師の勧めもあり、夫婦の寝室を分けてから随分経つ。
臨月を迎えた妻はひどくやつれ、ほとんど一日中部屋にこもっている。レオニートが訪ねていっても会えないことも多かった。
夜はこうして悪夢にうなされ、涙ながらに贖罪のことばを口にする。
妻は一体、何に許しを乞うているのだろう。
ルーベントを裏切ったことに対して?
レオニートのことを愛せないことに対して?
暗闇の中、レオニートもいつまでも眠ることはできなかった。
「男の御子でございます。…ですが、王妃様は…」
妻の部屋から出てきた医療師が抱いているのは妻と同じ、黒髪に灰色の瞳の赤ん坊だった。
医療師の途切れたことばに嫌な予感を覚え、妻の部屋へ駆け込む。
ベッドに力なく横たわる妻。その脇には医療師や妻の侍女がいた。
皆、絶望や悲しみの色しか浮かべていないのは、なぜだ。
「ナスターシャ!」
ベッドの脇に跪き、妻の手を握る。
妻の美しい灰色の瞳は、生気を抜かれ硝子玉のよう。手は温かく、ゆっくりと呼吸もしているのに。
「王妃様は、心を喪われました。お命には別状はございません。ですが、ことばを交わされたり、身体を動かされたり、何かをお考えになることはできません」
上滑りしていった医療師のことばに、レオニートは顔を上げた。
「心を喪ったとはどういうことだ。治療方法はないのか!」
「“心”の魔力を浴び、精神を壊してしまわれたのです。…治療は行いますが、“心”を扱える者が絶対的に少ないので、難しいでしょう」
“心”の魔力を浴びた?一体誰が?
そもそも医療師の言う通り“心”を扱える星持ちはごくわずかだ。
レオニートがよく知っている人の中には、たった一人しかいなかった。
「…ナスターシャ…」
振り返れば、呆然と立ち尽くすルーベントがいた。
そのままふらふらとベッドへ歩み寄ろうとするのを、レオニートが遮った。
「兄上、何を…」
「お前が、ナスターシャを…!」
胸ぐらを掴みあげると、ルーベントが叫んだ。
「違う!僕は何もしていない!」
「では誰がナターシャに“心”を送り込んだというのだ!!」
レオニートが叫ぶと、ルーベントは絶句した。
「…それは…」
睨み合ううちに、レオニートの胸に真っ黒なことばが浮かんできた。
賢く謹み深い彼なら、普段は堪えただろう下世話なことば。
「…あの赤ん坊も、お前の子なのではないか」
「っ!兄上!」
ルーベントを離し、扉の外にいた衛兵に叫ぶ。
「この男を捕らえよ!沙汰があるまで自室に閉じ込めておけ」
躊躇う衛兵の声も、ルーベントの懇願もレオニートにはきこえなかった。
ただ、赤ん坊の泣き声がいつまでも責め立てるように耳について離れなかった。
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