旅立ち ~胸に秘めた決意~ Ⅱ
エリオットの病室の前で、クリスはドアを背にそこへ寄りかかった。
肺の中の空気がなくなるまで、息を静かに吐き続ける。
……言えなかった。
エリオットに、姉をもう助けられないかも知れないことを伝えることが出来なかった。
彼のことだからある程度は予測しているかも知れない。
剣を手放せばどうにかなると聞いていたものが、どうにもならなかったのだから。
でも現段階では剣を折るという選択肢も残っており、きっと彼は半信半疑でもそれに賭けているのだと思う。
けれど、それは無駄なのだ、と。
言えない、言ってしまったらどうなるのか……怖くて言えない。
いや別に言わなくてもいいのだ。
もし救うのが無理だったのなら、クリス自身が姉に死という『解放』を与えればいいのだから。
エリオットにそこまでの決断をさせる必要など無い。
その後自分が散々恨まれてやればいい。
ずるり、とドアに寄りかかったまま体が下がっていき、やがてお尻が床にぺたんと着いた。
不思議そうな顔でクリスを見ながら通り過ぎる、城に従事する者達。
王子の病室の前でこんなことをしていてはさぞかし不審人物だろう。
だが誰も声をかけてこないのは、既にクリスの事が城内に広まっているからだろうか。
この城はそこらかしこに吹き抜けになっている中庭があって、城内だというのに肌に感じるくらいの風が常に流れている。
今も頬をくすぐるように撫でて、心地よい。
――もう少し、ここに座っていよう。
彼の前に居ては、いつボロを出してしまうか分からない自分だ。
室内にいつまでも残っているわけにはいかなかった。
でも、
一人だと心が折れてしまいそうなので、少しでも近くに居させてください――
そう、心の中で呟いた。
次の日の朝早く、朝食と共にそれはクリスの元へ届けられた。
持つのも苦労しそうな麻袋が、二つ。
エリオットは普段こんなにお金を持ち歩いていなかったような気がするが、
「王子からの餞別と、それに余る分は国からの謝礼です」
一袋で一体何枚入っているのか、ざっと五百枚程度だろうか。
あくまで目測でしかないが硬貨一千枚を目の前にクリスは頭がくらくらした。
いつもはメイドが食事を運んでくるのに今日は何故執事が、と思ったらこういうことらしい。
「こんなに頂いて良いのですか?」
「えぇ、勿論です。ただ、今回の事はどうかご内密に……」
白髪まじりな赤茶の髪の紳士は、深々と頭を下げる。
口止め料も入っている、ということか。
「分かりました」
クリスの返事にほっとした表情の執事は、部屋の入り口で最後にまたお辞儀をして、出て行った。
残された朝食と麻の袋。
とりあえず温い朝食に手をつける。
綺麗に焼かれたパンはまだ温かかったが、添えられたウインナーは食べる頃にはもう冷えてしまっていた。
あまり好きではないサラダも仕方なく平らげて、ミルクで流し込む。
蜜でも入っているのだろうか、ミルクは上品にほんのりと甘かった。
「エリオットさんと旅するようになってから、食生活が豊かになった気がします……」
クリスの独り言に、ニールがわざわざ答えてくれた。
『クリス様はそんなに貧乏だったのか』
「雀や蜥蜴も蛙も捕まえたその場で食べる程度に、お金はありませんでしたね。肉は大体平気なのですが、草や茸は間違えると酷いので苦手です」
『……大変だったのだな』
ずっと着ていた法衣や衣服は全て教会で貰ったものだった。
法衣は街のどこで手に入るのか。
普通の衣料品店には在庫がある気がしないため、エリオットが戻ってくるまでの課題は、法衣を探す事になりそうな気がするクリス。
食事を終えた後、ついつい麻袋に手が伸びてしまう。
その丈夫な袋でなければすぐに破けてしまいそうな重量。
開けてみるとやはり中身は金貨だった。
普段そもそも金貨など手にもしたことが無いのでその目映い輝きに口元が緩むのが分かる。
クリスの感覚なら一ヶ月の生活費など、贅沢をしてもこの金貨一枚でもお釣りがきてしまう。
一家の大黒柱が懸命に働いても、月給は金貨一枚には届かない……それくらいの価値なのだ。
持ち運びながら旅は出来ないので、初めて銀行というものを使うことになるかも知れないなぁ、と何だかドキドキしてきたクリス。
この中のどれくらいがエリオットの持っていたお金なのかは分からないが、とりあえず全部自分名義で貯金することに決めた。
貰う物を貰ったクリスは、さっさと城を後にする。
出来ることなら最後にもう一度レイアと会ってルフィーナ達の行方を聞きたかったのだが、忙しそうな彼女に会うことは叶わなかった。
大金を持って、エリオットの回復を待たずに城を出たクリスは、きっとメイド達から陰口を叩かれているに違いない。
とりあえず手持ちの九割は銀行に預けて、残りは少し小さい袋に入れてしっかりと持った。
これから金銭などの荷物を入れるバッグや、衣服を買わなくてはいけない。
今のクリスは旅をするには少し軽装過ぎる。
何軒か衣料品店を回ったが、法衣は置いていなかった。
仕方ないので最後に回った魔術系の服飾店でそのまま品を揃える。
狭い店内では所狭しと魔術用品が並んでいた。
無論、衣類も。
「火鼠の皮のポーチに、魔月の呪のピアスに……」
何だか明らかに違う物が混じっている気がするが、魔術用品であるため、ただの装飾品と違って役に立たないわけではない。
ただ、明らかにそれはクリスの可愛い物好きな趣味が八割くらい反映されている品だったが。
本来の目的は服だ。
しかしクリスは法衣以外に何を着ていいのか自分で選べるほどお金を持ったことが無いので、店員に自分の得意な属性やメインで使用している術式を伝えて大まかに選んで貰うことにした。
「聖職系なら、これで増幅が効くよ」
紅絹色の鮮やかなドレッドヘアーの女性店員は、そのゴテゴテとした魔術装飾だらけの袖を捲くりながら目的の品を取り出す。
薄いピンクが基調の、両脇の太腿の付け根の位置からは深いスリットが入ったロングローブ。
だが聖職系の魔術紋様が刻まれており、セットになっている外套は以前クリスが着ていた法衣に近いデザインだった。
とりあえず試着して店員と共に鏡を見てみたが、体型には合うものの、
「足がスースーします」
「下も何か合わせようか」
この状態では、スリットが少し捲れれば全力で下着がチラリズムだ。
それを受けて店員が紫のショートパンツを持って来る。
「この絹はハティの毛と呼ばれる糸も織り込んであるんだよ。そこで選んでいたピアスと相性がいいからオススメ」
とはいえ、クリスとしてはこのように足が露出している状態はあまり好ましくなかった。
可愛い服は好きだが、またエリオットが難癖を付けかねない。
結局そこに長めの靴下も持ってきて貰い、次に、
「靴はどうする? そのサンダルでは旅しないよね」
「あ、はい」
親切な店員は、買い物に慣れてないクリスを察して話を進めてくれる。
靴が並んでいる棚の前でぬぬぬ、と唸った後、唐撫子に染まったショートブーツを選んで持ってきた。
靴のラインに沿ってスタッズが留められていて、その上には綺麗な真紅の石が全てに乗せられている。
間違いなく魔法石。
絶対高い。
今日の買い物の中で一番高い。
「一応聞くけど、これ結構高いかも。手持ち大丈夫?」
「だ、大丈夫です……」
「だよねぇ、こんな上等な身なりしてる子だもの!」
そう、クリスは元々お城で貰ったチュニックを着ていたのだ。
子供相手にガンガンと物を持って来るのもそれで納得が出来る。
クリスの水色の髪色にはピッタリというわけにはいかないが、色違いは無いとのことなのでコレで妥協することにした。
「髪に合わせて寒色系もいいと思うけど、この方が雰囲気和らいでるしイイんじゃない!」
バシバシと肩を叩いて、会計口で笑う店員。
「ありがとう、ございます……」
金貨は、一枚と半分、とんだ。
いつもの法衣なら破けても縫えばいい思って来たけれど、高い買い物をしてしまうとなるべくなら破きたくない。
でもいちいち服を脱いでから変化ってのもおかしな話だし、とクリスは一人で今後の変化事情を考え込みながら王都を歩く。
旅人は珍しく無いが、クリスのような子供が大きな得物を背負って歩いていると、通りすがりの者達がちらほらと振り返る。
それはこの王都でも同じようだった。
賑やかな人波と、高く並んだ派手な建物。
周辺の街で大きな被害が起きているにも関わらず、ここはそんなことなど関係無いかのように騒がしい。
ライトの家に向かっているクリスは自然と人波から外れて行き、その喧騒から離れることが出来た。
もはやいつもこのままなんじゃないかと思ってしまう休診の看板を無視して、ドアを叩く。
「こんにちは、クリスですー」
少し待つとカラン、と開かれる扉。
扉にかかった鐘の音が、ついこの間聞いたばかりのはずなのに懐かしく感じられた。
「まぁいらっしゃい、クリス様」
相変わらずのほのぼのさせてくれる、のんびり笑顔でのお出迎えをするレフト。
顔も特徴も兄と似ているはずなのに、この表情のおかげで良い意味で全く似ていない。
「早速なんですけど、着替えさせて貰っていいですか?」
そう、クリスは今、さっき買った店で魔術軽装の服を試着したまま購入してしまったのだ。
正直普段着にはし辛いので早く着替えたいというのが本音だった。
「あらあら、どうぞ」
いつもの白衣をひらりと翻して、クリスを一室に案内してくれる。
「この部屋は自由に使って構いませんわ~」
「ありがとうございます」
中に入ると少し薬品の臭いが鼻についた。
病室のようなベッドメイクぶりなのだが、部屋の窓の無い側の壁に置かれている棚には沢山の瓶が並んでいて、何に使われている部屋なのかいまいちクリスには想像出来ない。
もしかすると特に使っていなくて物置状態なのかも知れなかった。
ベッドに腰掛けて服を脱いで肌着のみになる。
その格好のまま、城で貰ったチュニックを荷物から取り出していると、ギィ、と部屋の戸が開いた。
特にベッドとドアの間に障害となる物は無いので、入ってきたライトと目がぱっちり合う。
「何だ着替え中か」
「あ、すぐ終わるんでそのまま用件を言って貰っていいですよ」
「分かった」
クリスはすぐにライトから視線を外し、チュニックを広げて頭から被った。
「渡す物があるだけだったんだ」
そう言うライトの声と、机からコトリ、と何かが置かれる音が聞こえる。
クリスがチュニックから首を出して見ると、机に置かれたそれはとても大きな琥珀の填め込まれた煌びやかなネックレス。
その琥珀は通常よりも少し色が濃く赤みがかっており、金のチェーンには他にも小さな宝石がいくつもついていた。
「多分ローズが忘れて置いて行った物だ。盗品だと思うがお前に預けておこう」
「とっ、盗品……」
「これだけ大きい琥珀がついていれば、買ったというよりはそうだろう」
子どもの握り拳より少し小さいくらいの石。
そう言って、ライトはすぐに部屋を出ようとする。
チュニックだけ着た状態で、クリスは机の上に置かれたそのネックレスを手に取った。
「……最近部屋で見つけた物なんだが、正直変な感じがするんだ」
「それ言っちゃいますか!?」
ローズの私物。
盗品かも知れないならいつか元の場所へ返さなくてはいけない。
赤皮のポーチにネックレスを仕舞ってクリスは、部屋の戸を閉めて出て行くライトに会釈だけした。
それから十日ほど経った、深夜。
いつものようにクリスが借り部屋のベッドで寝ていると、急に揺すり起こされる。
「う、ん……」
寝惚け眼を擦ってぼやけた視界を元に戻すと、目の前にはレフトと、白いふわふわした寝巻きのエリオットが居た。
「さっさと準備しろ、出るぞ」
言い方はいつものぶっきら棒で投げやりだったが、その表情は幾許か柔らかい。
あと、その緑の髪は微妙に寝癖がついていて、普段にも増してぴょこぴょこと髪が刎ねていた。
状況把握に数秒かかったが、とりあえず起き上がって薬品棚の隣にハンガーで掛けてあった旅用の衣服を手に取る。
クリスが着替えを終えようとした頃に、ライトが部屋に入ってきてエリオットに衣類と荷物を手渡した。
「まさか寝巻きで来るとは思わなかったから、こんなのしか無いぞ」
「いやー着替えはいつもメイドが持ち帰っちまっててさー。徹底してるよなー!」
カラカラと笑いながらそれを受け取り、彼も素早く着替えを始める。
レフトはソレから視線を外しながら、着替え終えたクリスに紙袋に入ったお握りを渡した。
「気をつけてくださいまし~」
多分彼女としては少量なのだろうが、紙袋はずっしりと重く、有り難く頂戴するもその重さに内心びっくりしてしまう。
レフトはそんなクリスに全く気付いていないようでただニコニコと見つめていた。
「さ、抜け出したのに気付かれる前に王都から出ないとなぁ」
確かに包囲網を張られる前に王都を出ないと大変だ。
しかし……エリオットの言葉にクリスはまず最初に浮かんだ疑問をそのまま投げかける。
「今度はどこへ向かうんですか?」
「ツィバルドより更に北、ミーミルの森に行くぞ。昨日からツィバルドまでの列車は運行復旧している、んであと三十分もすれば深夜のが出るから今はとにかく時間との勝負だな」
「流石ですねぇ」
全て段取りをつけた上で城を抜け出してきたのだろう。
当たり前といえば当たり前だが、十日間ぼーっと過ごしていたクリスとしてはただ感嘆の声を漏らすばかりだ。
エリオットは白いワイシャツに茶色のベストとズボンを着て、最後に白い毛と鉄紺に染まった皮を繋ぎ合わせたマントを羽織る。
ベストより少し薄い色のズボンは膝丈の胡桃色の編み込みロングブーツに華麗にイン。
「俺は何でも似合うな!」
そして、自画自賛。
「鏡も見ずに言えるその根性が素晴らしい」
呆れ顔のライト。
似合ってなくはないのだが、多分ライトの服なのだろう。
イメージが随分と変わる。
エリオットが荷物の入った焦茶色のウエストポーチに手を伸ばしたのを見て、クリスも慌てて荷物を手に取った。
「行ってきます」
新たな門出のような気分で、クリス達は王都を後にする。
【第一部第七章 旅立ち ~胸に秘めた決意~ 完】